Track.7 僕はきっと旅に出る
杏子の夏風邪は存外に長引いて、〈アクトさざなみ〉行きは八月以降に延期された。以前から楽しみにしていた計画が当日に頓挫したことを母は気の毒がって、その日の夕食にはお寿司を取ってくれた。今回の仕事はなかなか上手く行っているらしく、彼女はずっと上機嫌だった。
「駅前に喫茶店あるの、お母さん知ってた?」
好物の穴子を自分の皿へと運びながら尋ねると、案の定、
「喫茶店? 知らない」
「ケーキ屋の横に小さい路地があるじゃない? あの奥なんだけど」
「さあ――なんて店?」
そういえば店名さえ確認していなかったと、この段になって気付いた。ますます記憶が疑わしくなってくる。やはり自分は狐か狸の類に化かされたのではないかと思ったほどだ。
さほど興味のない事柄だったのか、母はそれきり追及してこようとはせず、例によって美墨くんの話を始めた。バラエティ番組でこのように理知的な発言をした、共演者に紳士的な対応を見せた、などと褒めそやしていたので、適当に頷きながら聞いていたら、
「来夏もさ、径のソロデビュー曲は気に入ってくれたんでしょ? 新境地のロックだっていうからどうかなと思ったけど、やっぱり期待を裏切らなかったね。ああいうのってロックバンドの人が作るものなの?」
「専業の作曲家に依頼する場合もあるだろうし、なにかのバンドのメンバーが提供する場合もあるんじゃないの。詳しくは知らないけど」
「〈風の名前〉の人はどうなのかな。有名なの?」
私は小さくかぶりを振って、「まだ有名ってほどではないんじゃない? 凄く若かったでしょう、ほら、後ろでベース弾いてた女の人」
母は記憶を手繰るように空中を眺めていたが、ややあって、「――女の人だっけ?」
それすら覚えていないのか。私が大袈裟に吐息を聞かせると、
「じゃあもう一回観てみよう。録画してあるから」
返事を待たず、リモコンを持ち出して操作しはじめる。まもなく画面に美墨くんの姿が生じた。演奏の直前、司会者と言葉を交わしている場面だ。
「はあ格好いい」
「美墨くんさあ、喋り方はけっこう朴訥としてるよね」
「気取らないところがいいんでしょうよ。歌い出すとオーラが一変するってのがまた魅力なわけで。あ、始まる」
曲のタイトルを示すテロップが表示されたタイミングで私は母を振り返り、
「作詞作曲、峯島藍里って書いてあったでしょ? それがベースの人」
「ベースってどんな楽器? ギターとはなにが違うの?」
「弦の本数――なんてのは見ても分かんないね。とにかく金髪の女性」
曲の中盤、カメラがうまい具合にバンドメンバー全員を捉えたが、それも一瞬のことだった。すぐさま美墨くんのアップに切り替わり、ベーシストは外部に追いやられてしまう。
「いま見えた?」
「うん、確かに若い女の子だね。穣よりはさすがに上っぽいけど――お隣の有瀬さんと同じくらいじゃない?」
何気ない感想だったには違いないが、私はどきりとした。単なる偶然ではやはりありえないという気がしてきた。
犬が大好きで温和なアルセさんと、蒼白い火花を散らしているかのような峯島さんとでは、纏っている空気感がまるで異なる。しかしふたりはどこか似ている――そう思えてならなかったのだ。
翌々日、私は独りでツバメ館を訪ねた。真相を確かめに行ったわけではむろんなく、兄から届いた網走土産をお裾分けしようと思ったのである。
呼び鈴を鳴らすと、アルセさんはすぐに玄関を開けて出迎えてくれた。二階の部屋へと移動し、提げてきた袋から中身を取り出す。
お土産は意外と普通な感じのクッキーの詰め合わせだった。やや先行して「仮釈放中」と書かれたTシャツを着た彼と友人たちが蝋人形の隣で満面の笑みを浮かべている写真が送られてきた際には大変な不安を覚えたものだったが、家族向けに無難なお土産を選ぶ程度のセンスは保持していたらしい。
「冬の網走だったら流氷ってイメージがあるけど、さすがに今の時期は見られないよね」とアルセさんがお茶を淹れながら言う。私は頷いて、
「夏は鯨や海豚が見られるんです。クルーザーに乗って海に出てきたって」
「そういう企画があるんだ」
「鯨は背中しか見えなかったって残念がってました。でもわりと船の近くまで来たらしいですよ。いちばん驚いたのは意外と海鳥だったそうです」
「海鳥?」とアルセさんが鸚鵡返しにする。「カモメとか?」
私は送られてきた解説交じりのメッセージを見返しながら、
「ミズナギドリっていう鳥が、かなり大きな群れを作るんです。黒っぽくて、外観はそんなに派手じゃないんですけど――世界でもいちばん長距離を移動する渡り鳥なんだそうです。兄が撮ったやつがありますけど、見てみますか」
「見せて」
アルセさんが私の隣に移ってきて、手許を覗き込んだ。スマートフォンを操作し、送られてきた動画を再生する。
手振れの多い、お世辞にも洗練されているとはいえない映像だ。風音とも波音ともつかないノイズに混じり、甲高い鳴き声が響いてくる。
一定の速度を保って進む船から映した海面。その表層付近を動き回る黒い塊が、ゆっくりとズームアップされる。あれぜんぶ鳥か、という誰かの声。
より高い位置を旋回する個体もいくらか見られるが、大半は海面に集中している。最初に視認できたのはごく一部で、実際はずっと数が多いことがこの段になって知れる。あたかも黒い絨毯が波間を漂っているかのようだ。
船が近づくと、鳥たちはいっせいに羽ばたいて逃げていこうとする。高く飛び上がるものはやはり少ない。意思を疎通しあっているのかもしれない。
無数の海鳥がひたすらに波を掻き分け、水面を駆けていくさまは、私の語彙ではただ凄まじいとしか表現しようがなかった。群れ全体がなにか別種の、巨大な生物に変身してしまったかに見えた。
「やばいね」アルセさんが少女のように呟く。「これがぜんぶ渡り鳥なんだ。どのくらい旅するのかな」
「三万キロだそうです。オーストラリアの南で繁殖して、ずっとずっと北上してカムチャッカ半島とか、さらに超えて北極海まで行くこともあるみたい」
「じゃあ帰りはカナダ、アメリカ経由とか――ほんとにワールドツアーだね」
私も想像上の世界地図を指で辿りながら、「ですね。渡り鳥はそういう生き物だって言われればそれまでですけど、私たちじゃ想像もできないくらい長い旅のあとでも、ちゃんと自分の帰るべき場所に帰りつけるのって、すごく不思議だなって思うんです」
「不思議だよね。どうして道を見失わないんだろう? 月や太陽や星を目印にしてるから? 生来の旅人としての器官が、体に備わってるのかな」
生まれながらにして旅人である生き物について、私たちはしばし議論を交わした。海上を休まずに飛びつづけるのか、あるいはどこかで眠るのか、曇りや雨の日はどうするのか、頭の中で地図を作るのか、未知なる景色に心震わせるのか――。
「ちょっとレッスンしようか」話が一段落したころ、アルセさんがそう私を誘った。「このあいだの続きから。ギター、どれがいい? ふだん家ではなにを弾いてるんだっけ」
「兄のレスポールです。でももし選ばせてもらえるのであれば、前回と同じテレキャスターがいいです」
「了解」
私はテレキャスターを受け取り、できる限り慎重に抱えた。アルセさんは琥珀色をしたポール・リード・スミスのチューニングを合わせながら、
「それ、私も気に入ってるギターなんだ。重さもちょうどいいし、元気な音が出る気がしてさ。なにより色がいい。同じ褪色した赤でもピンク寄りのとオレンジ寄りのがあって、探すのにけっこう苦労したの」
「これはオレンジ寄りですよね。お好きなんですね、オレンジ。車もそうですし」
「うん、昔からね。だから似たような色ばっかり集まっちゃう。車もさ、けっこう目立つ色なんだけど、一目見て絶対これがいいと思って買ったの」
「あの車が停まってるのを窓から見て、新しいお隣さんが来たんだって気付いたんです。夏休みの最初の日でした。どんな人なんだろうって想像してたら、近所では見かけない人に公園でロンを掴まえてもらえて。それがお隣さんだって知って、すごく驚いたんです」
「私も驚いたよ。珍しいなあ、独りでジャックラッセルテリアがいるなあと思ってたら、汗だくの子が駆けてきたんだもん。でももっと驚いたのは、犬や音楽の話を通じて仲良くなれたことかな。さあて、始めようか」
その日はリズム感を鍛える訓練を集中的に行った。アルセさんの演奏はあたかも音の波を巧みに乗りこなしているようなのに、同じフレーズを私が弾くと非常にぎこちない。曲に合ったグルーヴを発揮できないと、なかなか格好良くは聴こえないものである。
「ギターはお兄さんに習ったの?」
と休憩中に問われた。私は記憶を手繰りながら、
「最初の最初、いちばん基本的な部分だけは教わったと思います。でもそれ以降はほぼ独学です」
「そっか。独りでそれだけ弾けるようになったんだから凄いよ。偉い」
「徳が高いですか」
「高い。大袈裟に聞こえる?」
私は正直に、「少し。私、ぜんぜん巧くはないですし」
「もっと巧い人はいくらでもいるんだし他人と比べても仕方ない、昨日の自分より前に進んでたらいいとか、よく言うじゃない? でも実際問題、私ってそこまで聖人じゃないからさ、やっぱり周りが気になるんだよね」
「落ち込んだりも?」
「当然。いくらギターが好きでも、疲れることもあるし厭になることもある。必死にやっても思うようにいかないのは、まあ仕方ないよ。音楽それ自体に文句は言えないからね。でも正直な気持ちとして、どこかで誰かに見ててほしいじゃん。言葉が欲しい。応援してほしい。必要とされたい。愛してほしい。そういう思いを全部閉じ込めるのは、かえって不健全だと思うんだ。だって頑張ってるんだもん。なにもせずに口先だけで騒いでるわけじゃないんだもん」
「アルセさんみたいな人でも――そう感じるんですね」
彼女は深く頷き、「感じるよ。いつも感じてる。一皮剥いたら来夏と同じ、もしかしたら大人のくせして来夏より未熟な、当たり前の人間なんだから。だから私の目に入った頑張りは、できるだけ誠実に評価したい。私自身の言葉、私自身のやり方でね」
偉いぞ、と肩を揉まれ、私はつい頬が緩んだ。にやけた、というほうが正確だったかもしれない。憧れのギタリストに称賛された私は、ただただ有頂天だった。
「アルセさんから見て、いまの私の課題点はなんだと思いますか」
彼女の手が離れたのち、どうにか平静を装って訊いた。こういうとき、あまり調子に乗ってはいけないのである。少し気を引き締めておきたかった。
「そうだなあ」と彼女は少し考えてから、「明確な目的意識を持つことかな」
「この練習でこれを達成するぞって事前に決めておく、ということですか」
「小さな視点で言えば。より大きな視点で言うと、来夏自身がどういうギタリストになりたいのか、その理想像をきっちり掴んでおくこと」
「私はアルセさんみたいになりたいです」
反射的にそう告げていた。多少の気恥ずかしさはあったが、もうどうでもよかった。いまこの瞬間、私は私の言葉で、自分の思いを伝えねばならないと思った。
アルセさんは驚いたように自分の顔を指差し、「まじ?」
「はい。出会って間もないですけど、でも私にとってはいちばん大きな目標です」
彼女はぽかんと私を見返していたが、やがて照れたように鼻の横を掻いて、
「私ね、夢があるんだよ。夢をどうにか実現したくて、この街に来たの。私、自分の音楽教室を作りたいんだ。規模は小さくてもいいから、子供たちを集めてさ、音楽と一緒に生きていく楽しさとか苦しさとか喜びとか、いろんなことを分け合いたい。だからね、いま来夏にそう言ってもらえて――なんだろ、一歩目を踏み出せたような気がする」
後半、いつも穏やかなアルセさんが少しだけ声を震わせていたのが、私には感じ取れた。彼女は指先で目許を拭い、
「嬉しいよ、ほんとに嬉しい。その言葉だけで、ここに来てよかったって思える」
静かな、しかし確かな熱を宿した昂揚が、溶岩のように体の底から湧き上がってきた。胸元あたりまではゆっくりとしていたそれが、咽の奥で急激に爆発する。
「アルセさんの教室、絶対に上手くいきます。だって私、始まったら絶対通いたい。お母さんに土下座でお祈りしてでも、生徒第一号になります。教室を代表する偉大なギタリストにはなれないかもしれませんけど、でも、自慢の生徒だって思ってもらえるくらい頑張りたいです」
「よし」アルセさんがこちらに握り拳を突き出した。「教室を開くには、まだまだ課題がたくさんある。でもずっと夢だったから、考えに考えて選んだ道だから、きっと実現したい。隣でいつも見ててもらえるって思ったら勇気が湧いてくるよ。だから私も来夏のことを見てる。一緒に進もう。音楽の冒険に出掛けよう」
私たちは拳どうしを突き合わせた。人生を賭した、新しい旅の始まりを祝して。
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