Track.6 A Warm Place

 雛守の駅は非常に小さく、ただ「何時に駅に集合」とだけ指定すれば待ち合わせが成立する。窓口と古びたベンチがいくつかあるのみの駅舎内はなんとなく狭苦しいので、私はたいがい外の自動販売機の傍らで待つことにしている。相手を待たせることはまずない。私は変に几帳面な性格で、約束の十五分前には到着しているからだ。

 杏子と漣市にある〈アクトさざなみ〉に出掛ける日だった。県内最大級の楽器店が入った複合商業施設である。

 駅周辺の案内図が描かれた看板の前で立ち止まり、あたりを確かめた。杏子はまだ来ていない。なにげなくスマートフォンを弄ろうとしたとき、未読のメッセージが溜まっていることに気付いた。

〈朝起きたら熱あった……。今日は行けなそうです。私から誘ったのにごめんね〉

〈もう家出ちゃった?〉

〈熱出てて今日行けないです! 本当にごめん〉

 自分の粗忽さを呪った。最初の投稿は朝八時ごろである。私に無駄足を踏ませないよう気遣ってくれていたというのに――確認を怠ったこちらの不手際だ。

 私は大慌てで、〈いま確認した! 了解です。お大事にね〉

〈ごめん。後でラーメン奢る〉

 すぐに返信があった。やはりずっと気にしてくれていたのだ。

〈連絡遅くなってこっちこそごめん。とにかく今日はゆっくりして、早く治してね〉

 やり取りを終了して端末をバッグに仕舞う。丸一日、予定がぽっかり空いてしまった。

「どうするかな」

 と独り言つ。独りで漣市まで行くのは気が進まないし、かといってただまっすぐ帰宅するのも面白みに欠ける。せっかく駅前まで出てきたので、少し寄り道をしようと考えた。いつものショッピングモール、日暮ミュージックセンター、書店、図書館。動物園や水族館、博物館、美術館といった施設は雛守にはない。あるのは郷土資料館くらいだ。

 特にあてもなく、私は細い路地へと入っていった。ふだん歩いたことがないから、というだけの理由だった。適当に散歩をし、適当に引き返して自転車を回収し、適当に先述したどこかに立ち寄って帰るつもりでいた。

 古めかしい建物の、板チョコレートを思わせる形状のドアの前で、クリーム色をしたフレンチブルドッグが寝そべっていた。七福神の恵比寿さまのように丸々とした体躯だ。幸福そのもの、といった顔でうつらうつらしている。

 私はすっかり素敵な気分になり、足音を忍ばせて犬に接近していった。そっと屈み込み、間近にその様子を観察する。なにか夢を見ているのか、ときおり耳や尻尾がぴくぴくと動いていた。

「なにか御用ですか」

 と後方から唐突に声をかけられた。完全に犬に同調して油断しきっていた私はたいへんに驚き、

「すみません、なんでもないです」

「そうですか。知っていました」

 立っていたのは、私より幾分か年下に見える少女だった。口調こそ落ち着いているが、顔立ちはあどけない。そして小柄だ。クラスでもっとも背が低い部類である杏子と比較しても、はっきりと小さい。

 少女は私のすぐ隣にしゃがむと、両手で犬の体をわしわしと撫でまわしはじめた。単に撫でているというより、全身を隈なく揉み解しているような調子だ。犬のほうも気持ちがいいらしく、寝入ったまま恍惚とした表情を浮かべている。

「あの、この子、あなたの犬ですか」

 尋ねると、少女は頷いたのちにかぶりを振るという不思議な動作を見せ、「厳密に言うとこの店の犬です」

「店? ここ、お店なんですか」

「表向きには喫茶店で、営業自体は可能なのですが、ご覧の通りお客を呼び込める外観をしていないので、普段は誰も訪れないのです」

「はあ」

 と私は間の抜けた応答をした。訊きたいことがいくつか浮かんでいたが、どう質問してよいものか決めかねていた。

「ええと、表向きには、というのは」

「本当は探偵事務所なのです。対外的には喫茶店を装うことで、諸々の面倒ごとを回避しています。喫茶店のマスターとして雇われた人物も存在するのですが、なにしろ開店休業状態なので、滅多にここに現れません。雇い主もそれで文句を言わないから困ったもので、仕方なく私がときどき様子を見に来ているのです」

 説明は滞りなかったが、私の中ではかえって著しく疑念が膨れ上がっていた。そんな怪しげなものが、自宅から自転車で十分程度の場所に存在していたとは。

「どういった繋がりで? つまりその、なぜあなたが店番をしているのかって意味」

 少女はすぐさま、「親子なので」

 はあ、とまた私は発して、「訊いておいてなんですけど、そういうことは話して大丈夫なんですか」

「嘘を吐くのが苦手なのです。それにこんな話、誰もまともに取り合いはしないでしょう」

 ますます混乱してきた。からかわれているのではないかという気がする。

 いっぽうの少女はまるきり表情を変えなかった。ただ私を見やったまま、犬のマッサージを継続している。

 あまりにも入念なので、思わず、

「手伝いましょうか」

「手伝いなら不要です。ただこうしているとお互いに幸せなのです。遅くなりましたが、シェリルです」

「外国籍?」

「犬の名前です、蜂巣来夏さん」

 どきりとし、目を瞬かせて少女の顔を見返した。なぜ私の名前を知っているのか。そういえば先ほど、ここは探偵事務所だなどと話していた。まさかこの子が――。

 雛守中学二年二組所属、ロックバンド〈ハチコマ〉のギターヴォーカル……と平然たる調子で少女が続けたので、私はますます驚愕して、「どういう推理?」

「推理ではありません。新入生歓迎祭のライヴで、ご自身で仰っていたでしょう。私はあのとき、歓迎される側として客席にいたのです」

 肩の力が抜けた。「つまり同じ中学の後輩ってことか」

「そうです」と少女は頷いた。「澁澤深月といいます。名前は深い月、苗字の澁澤は両方難しいほうです」

「画数の多いやつだね。一年何組?」

「一組です」

「私も一年のときは一組だったよ。担任、いまも星野先生だっけ」

 深月は真剣な面持ちで、「そうです。会いに来てくださるんですか」

「うん、まあ機会があれば」

「それは大変ありがたいのですが、おそらく夏休み中に蜂巣さんは私のことを忘れてしまうと思います。ですから折を見て、私から出向きます。今更なのですけれど、今日はご予定があったりはしないのですか」

「友達――ハチコマの駒場杏子と一緒に〈アクトさざなみ〉に行くはずだったんだけど、風邪でダウンしちゃって、一日暇になった」

 昼寝から目覚めたらしいシェリルが、むくりと頭を起こした。寝ぼけ眼で私を見上げている。どちら様ですか、といった顔つきだ。

「シェリルが蜂巣さんとお付き合いしたいと言ってます」

「告白?」

「ではなくて、時間潰しのお付き合いです。よろしければ店を開けますので、どうぞ。凝ったものは出せませんが、簡単なお飲み物くらいなら」

 断る理由は特になかった。少なくとも、何度となく訪れたモールを独りでぶらつくよりは楽しげに思える。「分かった。じゃあちょっとお邪魔します」

 深月が頷いて扉を開けた。私を先導するように、シェリルが中に入り込んでいく。ふわりと木の匂いがした。

 建物の内部は想像したより手狭で、テーブル席は三つのみだった。四人掛けのカウンター席の奥には、大型の珈琲メーカーや器の並んだ棚などがある。いかにも喫茶店だ。探偵事務所が併設されているとはとても思えない。より正確にいえば、スペースの都合上併設は不可能なように見えた。

 深月はいつの間にか、カウンターの向こう側に立っていた。まだなにも注文していないのに、壜入りのサイダーが出てくる。

「豆を挽くには店主の許可がいるのです」と本当なのか嘘なのかよく分からない言い訳をする。「それに外は暑いですから、冷たいものがいいかと」

 これで構わないと答えると、深月が手馴れた動作で蓋を開け、アンティーク風のグラスに注いでくれた。ごく普通のサイダーには違いないのだが、こうして見事な器に移されると、不思議なほど美味しそうに見える。

「最初の一杯はこの店の奢りです。二杯目以降は――」深月が視線をさまよわせる。ややあって、「――百円です」

「絶対いま適当に決めたでしょ。メニューとかあるんじゃないの?」

「あるはずですが、どこに片付けたか忘れてしまいました。壁に大々的に掲示しておくよう、あとで店主に進言しておきます。他にはかき氷がお勧めです。こちらは七七七円」

 分かりやすい数字だ。「何味がある?」

「正式な名称は覚えていませんが、レモンとチーズが乗ったもの、小豆クリームとナッツのもの、あとは苺を山盛りにしたのがあります。値段なりに少し本格的です」

「とりあえずサイダーでいいよ。ありがとう」

 ふご、ほご、と下方から異音が響いてきたので何事かと思えば、私の足許でシェリルが居眠りを再開していた。鼻梁が短い犬はこうして鼾をかくことがあるのだ。

「ハチコマは盛況なのですか」と深月が私に訊く。「次の活動予定があったりは」

「盛況かと言われると――分かんないけど。でも解散はしてないし、なにかしら演れたらいいな、とは思ってるよ」

 かた、と音を立てて深月が自分のグラスを置き、「学校祭。クリスマス。年越し。バンドが活躍できそうな機会はいくらでもありますよね。参加の意思表明はされたんですか」

 私は少し気圧されつつ、「まだだけど」

「なぜです? お話を伺っていると、蜂巣さんはどうにもハチコマに消極的なように思えてならないのですが。音楽性の違いや、アルコール依存や、恋愛絡みのトラブルが存在するわけではないですよね」

「ないよ、そんな分かりやすい理由」

「では分かりにくい理由があるのですか」

 私は即答できず、「――注文いいですか。かき氷をお願いします」

「七七七円もして決して安くはありませんが、後悔されませんか」

「しません。かき氷ひとつで」

「同じ値段を出すなら、相応の専門店に行かれたほうがいいと思いますが」

「お勧めじゃなかったの?」

「あくまでこの店の次元での話です。南青山あたりにある店の、真のプロフェッショナルが作るかき氷を前にしたら、ぼったくり価格と感じるかも」

「食べてみたいだけだよ。なんだっけ、苺特盛? それをお願いします」

 ようやく観念したのか、苺特盛一丁、と店の雰囲気にそぐわないことを言いながら、深月はカウンターの奥に引っ込んでいった。私は吐息し、残ったサイダーを一息に飲み干した。

 会話が途切れたので店内は静かになり、シェリルの小さな鼾だけが私の耳に届いた。相変わらず暢気に眠っている。ロンもかなり幸せそうに昼寝をする犬だが、このシェリルには負けるかもしれないと思った。あまりにもいい顔である。

「お待たせしました」

 登場したかき氷を一目見て、私は思わず笑い出してしまった。硝子の器こそ立派なのだが、盛りつけられているのは明らかに、ただ削った氷にシロップをかけただけの代物だったからである。

「仰りたいことは分かります」と深月。「これで七七七円取る気はありません。こちらも私からの奢りです。出しゃばってすみませんでした」

「別にそういうつもりじゃなくて――ただちょっと考えてただけだよ。確かにいまの私、煮え切らない感じに見えると思う。きっと杏子もそう思ってる」

「お会いする予定だったんですよね。一緒に〈アクトさざなみ〉まで行かれるつもりだったのなら、おふたりは仲がいいはずですよね」

「仲はいいよ、本当に。会ってきちんと相談するはずだったの。今後のハチコマのこと」

 深月は口を開きかけたが、すぐに思いなおした素振りで、「かき氷、溶けちゃいますから召し上がってください。正式なメニューの盛り付け方が分からなかったのです。まさか本気で注文されるとは想像していなくて」

 私は器とスプーンを受け取った。ざくざくと粗めに削りだされた氷。苺の匂い。どこの屋台でも売っていそうな、ごく普通のかき氷だった。

「こういうかき氷、久しぶりかも。お祭りで買ったりしない限り、あんまり食べないからさ」

 私が食べ終えてしまうまで、深月は話しかけてはこなかった。ずっとこちらに背中を向け、洗い物か片付けらしき作業を継続していた。容器が空になったタイミングで振り返り、

「頭、きーんとなりませんでした? 珈琲は――」店主の許可なしには豆を挽けないとの設定を思い出したのか、そこで言葉を切り、「――すみません、紅茶か緑茶なら」

「ゆっくり食べたから大丈夫。奢ってくれるって言ったけど、本当にいいの?」

「構いません。本業がきわめて繁盛しているので、あえて喫茶店で儲けを出す必要はないのです」

 淡々と告げてくる。どこまでが本気なのか、その表情や口調からはまったく読み取れなかった。最初から最後まで嘘を貫き通されたのではないか、名前や年齢からして出鱈目だったのではないかという疑惑がまたぞろ込み上げていた。

 席を立って出口に向かう途中、

「一年一組の澁澤さん、だったよね」

「そうです、あ」頷きかけたのち、思い直したように首を振ってみせる。「すみません、ひとつ間違いが」

「なに?」

「担任の名前は星野ではなく朝比奈でした。単にうろ覚えだっただけで、嘘を吐いたのではありません。それと新学期まで待たずとも、火曜日と金曜日と日曜日は私はここに顔を出しますので」

「じゃあ、また来るよ」私は頷き、笑いながらドアを押した。

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