Track.5 サボテン

 ヘッドフォンを外すと、穏やかに継続する雨音が耳に響いた。ここ数日は天気がぐずついて、私はほとんど家に籠りきりになっている。ときおり聞こえてくる遠雷をロンはひどく怖がり、大好きなはずの散歩にもなかなか行きたがらない。

 一方で北海道は快晴らしい。兄はいまごろ、サークルの仲間と網走まで観光に出掛けているはずだ。刑務所で土産を買ってきてやると言われたが、果たしてなにを買う気なのかは判然としない。

 兄が所属しているのは、むろん軽音サークルだ。ブルースやハードロックを愛好するメンバーでバンドを結成し、ライヴ活動に勤しんでいるという。

 身内贔屓のようだが、兄のギターの腕前には一方ならぬものがある。蜂巣穣は、この地ではそれなりに有名なギタリストだった。大学で出会った新しい友人たちにも、その実力は認められているようである。

 棚からノートを取り出して見返す。広げた頁には、かつて私と杏子が実施した会議の記録が残されていた。「蜂巣と駒場でハチコマ」だとか「六コマの授業が終わったあと、七コマ目、八コマ目に練習していることにも由来」などと書かれている。私の字だ。

 その下方のスペースには、曲のタイトルがいくつか羅列してある。初舞台のセットリストを決めるべく、ふたりであれこれ意見を出し合ったのだ。オリジナル曲を作る能力はどちらにもなかったので、いわゆるコピーバンドとしての出演だった。

 兄に頼めば、曲は作ってもらえたかもしれない。私との共作名義にしてもいい、と言ってくれた可能性さえある。しかし私はそうしなかった。

 ハチコマでは私がギターヴォーカル、杏子がドラム兼コーラスを担当した。ふたり組なのは単に他のメンバーを見つけられなかったからである。ホワイト・ストライプスだってふたりなんだから大丈夫、などと言い合って互いを鼓舞した覚えがあるのだが、同じ構成だからといって同等の演奏ができるわけではむろんない。ハチコマの初陣は、端的に言ってかなり酷かったと思う。杏子のドラムはともかく、私は散々だった。

 しかし本当に後悔しているのは演奏ではない。私が悲しかったのは、あのとき――。

「来夏、来夏」と母の声が私を呼ぶ。「ちょっと下りてきてくれる?」

 ノートを仕舞い、リビングへと向かった。眼鏡をかけた母がソファに身を沈めている。珈琲の香りがほのかに部屋に満ちていた。

「どうしたの」

「いや、あのね、ちょっと一緒に観てほしいなと思って」

 声がやたら熱っぽい。こうも興奮しているとなると、理由はひとつしか思い至らない。

 私はテレビに視線をやって、「モニグロ出るの?」

「径がソロデビューするんだよ。今日のうたプレ十時間スペシャルが初お披露目で、いまからなんだけど、一緒にその雄姿を見守ってほしいなあ、と」

 母はこのごろ、男性アイドルの美墨径くんに夢中でいる。モーニング・グローリーという五人組グループのリーダーで、イメージカラーは青。特技は弓道。あまりにも頻繁に聞かされるので覚えてしまった。

 音楽番組への出演となると、持ち時間は五分程度だろう。とくべつ用事があるわけでもないので、鑑賞に付き合うことにした。着席すると、母がすぐさま私のぶんの珈琲を淹れてくれる。

「仕事は落ち着いたの?」

「落ち着けた。今日のために無理やりね。砂糖とかミルクはいる? お母さんの特製ブレンドだから、入れないほうがお勧めだけど」

「じゃあブラックでいい。ねえお母さん、美墨くんってさあ――」

「どこがいいか? まず歌が巧いし、踊っても凄いし、演技も巧いし、芸術的センスも抜群だし、努力家で謙虚で誠実で、顔がいいし声もいいし、スタイルもよくて骨格までかっこいい。筋肉の付き方も美しくて――」

「まだなにも訊いてないじゃん」

「――それにファン思い。他になにが知りたいの」

 私は溜息を洩らした。「ソロだとどういう曲やるのかなって訊きたかった」

「これから初お披露目なんだってば。でも新境地のロックナンバーって確か書いてあったかな。バックバンドもいるみたいだし」

 へえ意外だね、とだけ応じて、あとは黙っていた。普段の彼が得意としているのは、大人っぽいダンスナンバーだ。

 母は他のミュージシャンにあまり興味がないらしく、番組の途中にもかかわらず美墨くん主演のドラマの話などを私に聞かせたがった。私は画面を眺めながら適当に頷いたり、相槌を打ったりして応答した。なかなかに凄絶な役どころのようだ。

「あ、ほらほらほら、始まるよ」

 急に母が姿勢を正す。特に理由もなく、私もそれに倣った。

 ピアノとギターが入り交じった、清冽なイントロが耳に飛び込んでくる。引き締まった、それでいてしなやかなリズム。硬質なベースの音色。

 青い光に染め上げられた舞台に、シルエットのみが浮かび上がった。同時にテロップが生じる。

 タイトルは〈風の名前〉。作詞作曲、峯島藍里。

 画面が明るくなった。細身のダークスーツを纏った美墨くんが、優雅な仕種でスタンドマイクを掴む。

 透明感を湛えた、涼しげな歌声がリビングに満ちた。一瞬だけ伴奏が遠ざかったように聴こえたのは、歌が始まった途端に母がヴォリュームを上げたせいらしい。

 モーニング・グローリーでもメインヴォーカルを担っているだけあり、さすがに巧い。一流のミュージシャンを揃えたのだろう、演奏も抜群の安定感だ。

「初めてロックに挑戦しました」といった、生半可な調子ではまったくなかった。美墨くんは力強く、そしてのびのびと歌っていた。部分的にはモーニング・グローリーでのパフォーマンスを上回ってさえいたかもしれない。

「――どうだった?」

 メンバーが舞台袖に引っ込んだあと、母が感想を求めてきた。私は正直に、

「想像してたよりずっといい感じだった。曲が美墨くんに合ってた気がする」

 深い頷きが返ってきた。「いい曲を貰えたね。径のソロが成功して本当に安心した。さて、満足したからお風呂掃除でもするかな」

 母がリビングを去ったあと、私はソファに居残って美墨くんとそのバックバンドの様子を思い返していた。全員が揃いの衣装だったが、確かベーシストだけが女性だった。鮮やかな金のショートヘアで、画面越しにもぞくりとさせられるほどの眼光の持ち主。

 念のため戻ってきた母に尋ねてみたが、美墨くんしか目に入らなかったという予想通りの答えが返ってきたのみだった。兄はこの種の歌番組を観てはいないだろうから、訊いても仕方があるまい。

 そのあとは自室でぼんやりと、先日買った稲澤夏凛の新作を聴いて過ごした。杏子のアドヴァイスは真実で、アルバムは私のもっとも好きな〈古生代〉に勝るとも劣らない出来栄えだった。

 感想を書き送ろうと文面を練っていると、不意にスマートフォンが震えはじめた。兄から網走監獄の記念写真でも届いたのかと思ったら、画面に表示されていたのは意外な名前だった。有瀬馨。

〈サボテンに巨大な花が咲いた〉とメッセージが入っていた。添付された画像を一目見て、つい笑ってしまう。なるほど巨大としか形容しえない。斜めに伸びた茎の先端に、本体を遥かに凌駕するサイズの大輪が広がっているのである。

〈めちゃくちゃ大きいですね〉

 見えたままのことを書いた。すぐに返信が来る。

〈濃いオレンジで綺麗だよ。サボテンはいくつも育てたけど、ここまででかい花は初めてかもしれない〉

〈アルセさんのギターと同じ色ですね〉

〈そうだね、見比べると似てる。なんでカタカナ?〉

 指摘にはっとした。胸のうちで勝手にそう表記していることを、アルセさん本人は知らないのだ。

〈変換ミスじゃないです。私の中ではそうなってて。なんていうか、響きが素敵だなと思ってカタカナで書いてます〉

〈それは光栄。正しく読んでもらえることが滅多にないからね。たいがいアリセって言われる〉

〈アリセのほうが多いってお母さんも言ってました。杏子って名前の友達がいます。正しくはキョウコなんですけど〉

〈アンズ?〉

〈ずっとそう呼ばれてます。話は変わるんですけど、アルセさんって音楽関係のお仕事をされてるんですよね〉

 少し間が空いた。

〈まあ、いちおうは。半分趣味みたいなものだけど〉

〈今日のうたプレ、観ました?〉

〈まだやってる。いまちょうど流してるよ〉

〈モニグロの美墨くんが出てましたよね〉

〈ファンなの?〉

〈母が。かなり入れ込んでるみたいです。径って名前で呼ぶし〉

〈今日はソロだったから、お母さん喜んだでしょう〉

〈もう大騒ぎでした。ちょっと泣いてたと思います、冗談じゃなく〉

〈さすがスターだね。同じ音楽業界って言っても、私とじゃ距離がありすぎる〉

 彼女ほどの人にしてそうなのかと思う。〈私はアルセさんの音楽が好きです〉

〈それは嬉しいな。別に大スターにならなくたって、音楽と一緒に生きていく道はあるわけだからね。私の音楽を好きって言ってくれる人が身近にいたら、もう満足かも〉

 謙虚な言葉だった。しかし真実なのだろうという気がした。業界になんらかの野心を抱いているならば、こんな片田舎を選んで移住してくるはずがない。

〈私でも〉

〈私でも?〉

〈途中で送っちゃいました。間違いです〉

〈そんな思わせ振りな〉

 満足ですか、という文字列を見返し、一息に消去した。代わり、〈今日の美墨くんの曲って、モニグロの作曲家とは違う人でしたよね〉

〈そうだね〉

〈美墨くんの声に合ってたって、母が絶賛してました。バンドも凄く上手で、私、ベースの女性が特に印象的でした〉

 またしばらく間があった。お手洗いにでも立ったのかと思いかけたころ、

〈同じ奴だよ〉

 その短い文面に、私は小さく首を傾げた。〈同じ?〉

〈作詞作曲とベース。峯島藍里〉

 俯きがちに黒のサンダーバードを奏でていた人物の姿が、再び脳裡に浮かんだ。ベテランらしいドラマーやギタリストよりも圧倒的に若かった。おそらくはアルセさんと同世代くらいだったろう。

 あの人があの曲を、という驚きと同時に、小さな違和感が生じていた。アルセさんの言葉遣い。あたかも知り合いであるかのような――。

〈何者なんですか〉

 送信釦を押してからしばらく待ってみたが、今度こそ返事はなかった。諦めて英語のテキストを広げる。文法と英作文の問題をこなし、採点を行っていると、新たなメッセージの到着を告げるヴァイブレーションが起きた。

〈いま家にいるの?〉

〈自分の部屋で勉強してました〉

〈徳が高いね。部屋は二階?〉

〈二階です〉

〈うちの二階の窓、見える?〉

 スマートフォンを持ったまま、兄の部屋へと移動した。〈よく見えます〉

 ややあって、ほぼ真正面に見えている窓のカーテンが揺れた。アルセさんが動かしているらしい。私は少しずつ頭部の位置を変えて、その様子を見守った。

 雨粒に濡れた窓硝子に顔を寄せて眺めるうち、あ、と声が出た。つい頬が緩んだ。

 窓際に、大輪をつけたサボテンの鉢が置かれたのである。写真から想像していたよりもずっと茎が長く、花弁もまた鮮やかだった。緑の小人が、オレンジ色をした特大の喇叭を掲げ持っているように見えた。

〈明日になったら萎れちゃうかもしれないから〉とアルセさんは書き送ってきていた。〈だから今のうちに、立派に花を咲かせてるうちに、ちゃんと見せておこうと思って〉

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