Track.4 You've Got a Friend in Me

 小振りな練習用アンプにギターを繋ぐ。ハニーバーストのレスポール、厳密にいうとそのコピーモデルだ。色の名前をそう呼ぶのだと、アルセさんが教えてくれた。

 音はヘッドフォンを介して聴く。蜂巣家はアルセさんの部屋と違って防音でもなんでもないからだ。

 現状、ギターを含めたすべてが兄のお下がりである。弾いていてもいいか、と遠慮がちに尋ねたところ、一式使っていて構わない、と気前のいい返事が来た。

〈というかお前にやろうと思って、わざわざ実家に置いといたんだよ。初心者向けのやつだけど、それなりにしっかりしてるはず。もっといいのが欲しければ、独自にお母さんと交渉してくれ〉

 アルセさんに教わったフレーズのひとつを辿ってみる。ヘッドフォン越しに響いてくる音は艶や伸びやかさを欠いていて、どうにも味気ない。機材のせいというよりも、セッティングが誤っていると考えたほうがいいだろう。

 アンプの上方に並んだつまみを、そのままスマートフォンで撮影した。どれがどの位置を指しているか視認できることを確かめ、画像を兄に送り付ける。

〈俺も音作りってまだぜんぜん分からんのよ〉

 この反応に私はいささか落胆し、〈頼りないなあ〉

〈そもそもお前が出したい音って、俺の音じゃないだろ。俺はきわめて偉大なギタリストだが、お前は別に俺に憧れてるわけでもなんでもない。これが正解、と俺からは言えないわけだよ〉

〈まあそうだね〉

〈むしろお前いま、誰か憧れのギタリストがいる?〉

〈うん〉

〈じゃあその人の真似をしたほうがいい。仮にまったく同じ機材を買ってまったく同じセッティングにしたとしても同じ音にはならないけど、なんかの指針にはなるだろ〉

 兄の意見はもっともだという気がしたので、それ以上のアドヴァイスは求めなかった。ややあって、じゃあ頑張れよ、俺はレポート、と締め括りのフレーズが送られてくる。

 アルセさんに同じ画像を送って教えを請おうかと考え、なんとなく逡巡する。やはり彼女は彼女で忙しいのではないかという、当たり前の疑念が生じていた。

 思い付いて、インターネットで著名なミュージシャンのサウンドメイクについて検索してみることにした。要塞のごとき大仰なシステムを組んでいる人から、きわめてシンプルに纏めている人までさまざまである。

 ここにこういう拘りが、といった調子のインタビュー記事や、無数の機材の画像を眺めているうちに、なんだか自分まで専門家であるような感覚をおぼえはじめた。かぶりを振ってパソコンの前から離れる。実際にはなにひとつ体験していないというのに、インターネットの情報だけで分かった気になるのは望ましくないことだ。

 練習に戻った。しばらく試行錯誤を繰り返してみよう。

 午後、通学に使っている自転車を駆って外出した。音楽教室に併設された小さな楽器店が駅前にある。いくらか替えの弦を調達しておこうと思ったのである。

 夏休み中とはいえ平日だからだろう、日暮ミュージックセンターはそう混雑していなかった。教室の生徒は主に、ピアノやエレクトーンの習得を目指す子供たちである。客層を意識してか、鍵盤楽器が目立つようレイアウトしてある。弦楽器はその奥だ。

 まずは替え弦を三パック、籠に入れる。私の好きなキャラクターの〈コタンこ〉と〈名犬ましろ〉がプリントされたピックがあったので、ついでにそれも買うことにした。

 CD売り場でピアニストの稲澤夏凛の新譜を発見し、いま買ってしまおうか、あるいは来月まで我慢しようかと考えていたとき、

「来夏」

 振り向くと、クラスメイトの駒場杏子の姿があった。音楽雑誌を手にしている。ドラムキットの中央に陣取った黒人男性のモノクロ写真が、その表紙を飾っていた。

「あ、稲澤夏凛だ。新作のサポートドラム、ステイシー・ニコルなんだよね」

「そうなの?」

「うん。まじで凄腕。曲にしっかり寄り添うんだけど、しなやかでグルーヴ感も抜群で、聴いててすごく気持ちいいんだ」

 背筋を伸ばして私を見上げながら、にこやかに笑っている。この姿勢のよさと笑顔は、彼女の大いなる美点だ。新入生歓迎祭の写真を見返すと、それがよく分かる。手許ばかりを気にしていた私とは違い、杏子は常に顔を上げて、観客のほうを向いていた――。

 私は腕組みして、

「迷ってるんだよね。これ買っちゃうと今月のお小遣い、微妙にピンチで」

「行っちゃえって。〈顕生代三部作〉だったらどれがお気に入り?」

「〈古生代〉かなあ。カンブリア大爆発の曲が壮大で好き」

「じゃあ間違いないよ」

 そういった次第でCDも買うことに決め、レジへと向かった。会計を終えたのち、杏子に誘われて近場のショッピングモールに移動する。一階のフードコートに入り、ふたり並んで看板を眺め渡した。

「ラーメン食べていい? 私、お昼まだなんだ」と杏子。「セット、なに付けるのがいいと思う? やっぱり安定の半炒飯かな」

 こういうとき、太るよ、などと野暮なことを言って残念がらせるのが私は苦手だ。「あとは餃子か唐揚げか。どれも捨てがたいね」

「唐揚げにしようかな。そしたら来夏にも一個あげる」

 杏子は醤油ラーメンのセット、すでに食事を済ませていた私はクレープをそれぞれに注文した。窓際の座席で向かい合う。友人がどんぶりの中身をするすると胃袋に収めていくさまを、私は眺めた。

 名前の正式な読みはキョウコなのだが、アンズと呼ばれることが圧倒的に多い。綽名が広まったというよりも、単に間違って覚えられているだけの気がすると、彼女自身は言う。真偽のほどは定かではない。しかし生真面目で知られる数学教師が「駒場アンズさん」と発音したのを聞いたことはあった。

 ちなみに私はずっとキョウコで通している。深い理由があるわけではない。彼女が私をハッチでもハッチ妹でもマーヤでもなく来夏と呼ぶので、それに合わせただけである。

「そういえばさっき買ってた雑誌、誰かの特集があったの?」

「スチュアート・ブレイクのインタビューが載ってる。なんでも叩けるから、いろんなバンドに呼ばれる人なんだ。追ってると、え、こんなところでも叩いてるんだって発見がよくあるの。でも実際に聴いてみるとすぐに、やっぱりこの人の音だって分かる」

 ドラムに関して、彼女は本当に勉強熱心だ。自分の好きなドラマーがいかに魅力的か、どこに憧れているかを、いつも楽しげに語る。だからこちらも熱心に耳を傾ける。

 私たちの出会いは中学一年生のときだ。私がクラシックロックの知識を多少持っていると知ると大喜びして、頻繁に話しかけてくれるようになった。彼女の影響で聴きはじめた音楽もけっこうある。稲澤夏凛もそうだ。

「スチュアート・ブレイクってジャズとかフュージョン畑の人?」

「基本はそうだね。でもロックバンドにも参加してるよ。ゾズマの新作にもいたし」

「聴いたことないや。どんな感じ?」

「説明が難しいなあ。曲は四、五分くらいでコンパクトなんだけど、すっごいテクニカルで密度が高くて、でもポップなところもあって、ちょっと捻くれてる」

「プログレとハードロックを掛け合わせた感じかな、私が知ってるバンドだとカンサスみたいな」

「そうかも。音はわりとヘヴィだよ。ヴォーカルとギターとベースはメタルとかそっち界隈の人らしいし」

 顔を合わせると、こういう話ばかりを延々とする。授業や宿題の話題がときおり出ることもあるが、基本的に長続きしない。クラスメイトの噂であるとか、誰が誰を好きらしい、告白したらしいといったゴシップ的なテーマも、私たちのあいだではまったくと言っていいほど扱われない。ふたりともその種の話が不得手なのだ。

「ねえ来夏、ヘヴィメタルの始まりっていつなんだろうね」

「お兄ちゃんはブラック・サバスが元祖説を唱えてたよ」

「いつデビュー?」

「一九七〇年頃だと思うけど、ちょっと調べるね。ええと、ファーストが七〇年の二月十三日、金曜日だって」

「十三日の金曜日なんだ」

 醤油ラーメン大盛りと唐揚げ二個が杏子の、クレープと唐揚げ一個が私のお腹に入ってしまうと、私たちはやむを得ず席を立った。フードコートは談笑に便利だが、食事が終わった後にまでお冷で居座るというのはあまりよくない。

「――場所が欲しいよね、場所が」お菓子売り場で購入したガムの包みを広げながら、杏子がぼやいた。「周りを気にしないでお喋りしたい。思いっきりドラムを叩きたい。中学生には自由がなさすぎるよ。来夏もそう思うでしょ」

「思う」飴玉を転がしながら頷く。お小遣いがピンチと言ったばかりなのに、私もつい買ってしまったのである。「大人の都合や視線を気にするの、ちょっと窮屈だよね」

「そうそうそう、窮屈。子供でいることを放棄したいわけじゃないし、一から十まで自立するのは無理って分かってるんだけど、もうちょっと快適さを追求したい」

 私たちは再び場所を移して、河原の乾いた石の上に腰掛けている。いまは幸いにしてひと気がないが、ここもときおり酒盛りの会場として活用されるから、あまり油断はできない。

「杏子はどういう生活が理想?」

「防音マンション、欲を言えば防音ハウスで独り暮らししたい。それで好きなだけドラムを叩いて、呼びたいときに友達を呼んで、時間を気にしないで過ごしたい」

 脳裡にぼんやりと、ツバメ館とアルセさんが浮かんでいた。雛守での新生活は、事前に思い描いた通りになっているだろうか。こんなはずじゃなかった、と後悔してはいないか。

「ドラムも叩ける防音ハウスって、どれくらいかかるんだろうね」

「分かんないけど。高かったらシェアハウスしてもいいや。そしたら来夏も一緒に暮らそうよ。歌いたい放題、騒ぎたい放題だよ。どれだけうるさくしても私は怒らない」

「そうなったらいいね」

「他人事みたいに。ふたりで暮らしたら来夏も当事者なんだよ。料理当番も掃除当番もゴミ出し当番もあるんだから」

 いまでもあるからたぶん平気だよ、と私は応じた。兄がいたときは三人で、現在は母とふたりで、家事はローテーションを組んでこなしている。試験前、締切前など事情があるときは、できる範囲でカバーしあう。疲れたら潔く諦めてコンビニ弁当や即席物に頼る。部屋の荒廃はしばし見て見ぬふりをする。そういう生活だ。

「ガムと飴ってさ、一緒に食べると対消滅するんだっけ」ふと思い付いたように、杏子が私に訊く。

「ガムとチョコじゃなかった? それと消えるのはガムだけだったような」

「そうか」杏子が口許を銀紙で覆う。「じゃあ危なかった。余計な実験をして貴重なおやつを無駄にするところだった」

「何味がいい?」

 袋を差し出すと、彼女は目を瞑って手を突っ込んだ。「桃だった。ガム一枚と交換」

「お昼の唐揚げのぶんがあるからいいよ」

「だったら飴もうひとつ。お、今度は葡萄だ」

 私はガムを受け取りながら、「で、防音ハウスはどこに建てるの? 雛守?」

「まだ決めてない。でも地球でいちばん素敵なところ」

 あれこれ話し込んでいるうちに黄昏が迫ってきたので、私たちは河原から腰を浮かせた。停めた自転車を回収し、押しながら杏子の隣を歩く。風が起き、夏の夕刻の気配が私たちを包んだ。

「休み中、どこか遠出の予定ある?」

 問い掛けにかぶりを振る。「いまのところない。お兄ちゃんが帰省してくるかもしれないのと、あと杠葉のお祖母ちゃんちに顔を出すかもしれないくらい」

「じゃあ近いうちに、また遊ぼうよ。一緒に大きな楽器屋を巡ったりできたら楽しそうじゃない?」

「いいね。買えるかどうかは別にしても、私もちょっと気になるギターあるんだ」

「え、なに?」

 私は短く息を吸い上げて、「テレキャスター。色はちょっと褪せた赤っていうか、すごく濃いオレンジがいい」

「テレかあ」と杏子が私を見返す。「来夏はギブソン派なんだと思ってた。いま使ってるのもレスポールだよね?」

「あれはお兄ちゃんのだよ。ギブソン系のギターも好きなんだけど、いまはテレキャスが欲しいんだ」

「なるほど。私も新しい電子ドラム見たいな。やっぱ叩き心地がリアルなほうがいいし。もちろんすぐには買ってもらえないと思うけど――お父さんに土下座でお祈りしてみようかな」

 その言い方が面白く、私は口許を片手で覆った。

「土下座でお祈りされたら、お父さんはどういう反応すると思う? バイトできるようになるまで待って自分で買いなさいとか?」

「いや、可能性はあるんだよ。いまのドラム、通販で本当にいちばん安かったやつでさ。お父さんもお母さんも、私がここまで真面目に続けると思ってなかったみたいなんだよね。勉強を疎かにしないって約束もちゃんと守ってるから、最近私を見る目が変わってきたのを感じるの」

「杏子は徳が高いね」

 なにそれ、と彼女は笑った。「ここで一押しすれば落とせるんじゃないかと思うけど、焦りは禁物。下手に強請ったりしないほうが心証がよくなるだろうから。お前があまりにいい子だから買ってやりたくなったって言ってくるまで根競べかな」

 駅の手前で、私たちは左右に別れた。杏子の家は、ここから五分とかからない住宅地の一角にある。

 自転車に跨って漕ぎ出そうとすると、後方から、「あ、来夏待って」

 慌ててブレーキをかけ、肩越しに振り返った。勢いよく駆け寄ってきた杏子が、私の肩を掴む。

「ずっと言おうと思ってた。ハチコマ、また演りたい」

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