Track.3 M(US)IC
私たちに気付いてくれたらしく、彼女は小さく手を振って寄越した。私は片腕を大きく頭上で動かしながら、
「アルセさん、助けてください。お願いします、助けて」
「なに、どうしたの」
「鍵が壊れて、家に入れなくなっちゃって」
アルセさんは真剣な声音で、「分かった。行くから待ってて」
彼女の姿がヴェランダから消える。私たちはツバメ館に向けて疾走し、その入口でアルセさんを待ち構えた。私たちの到着から一瞬ののち、ドアが開いた。
「うわ、びっくりした。待っててって言ったじゃん」
すみません、と小さく頭を下げる。短い笑い声が返ってきた。
「よっぽど慌ててたんだね。鍵が壊れたっていうのは? ドアが開かないの?」
先端がなくなった鍵を、突き立てた状態にして見せた。彼女は私の手許に顔を寄せ、はは、と溜息とも呟きともつかない声を発した。
「こっちが壊れるって初めて見たな。家を出たときは普通だった?」
「ぜんぜん意識しませんでした」
「折れた先っぽは?」
「分かりません。鍵穴の中に残ってるのかもしれませんし、とにかくいま手許にはないです」
応じながら私は、アルセさんの纏う気配がまたも変化していることに驚いていた。我が家に挨拶に訪れてからまだ僅か数時間だというのに、あのときの堅苦しさが完全に消失してしまっている。ざっくりとした格好も、話し方も、初めて会ったときのものに近い。
「お母さんは? 出掛けてる?」
「杠葉のお祖母ちゃんちに行きました。連絡しようにも、スマホを部屋に忘れちゃって」
頷きが返ってきた。「杠葉じゃあどっちにしろ、すぐには戻ってこられないね。とりあえず入りな。中でお茶でも出すよ」
「いいんですか。でもロンはどうしましょう」
「一緒でいいよ、足だけ拭いてもらえれば。タオルかなんか持ってくる」
いったん奥へと引っ込んでいったアルセさんを、私たちは沓脱で待った。目の前に大きな空間が開けている。越してきたばかりだからか、未開封の荷物がいくらか積まれているが、その気になればかなり贅沢に使えそうなスペースである。そういえばここは、少し前まで猫カフェだったのだ。
ツバメ館に足を踏み入れるのはこれが初めてだった。私は物心ついてからずっと、この建物をただ自室の窓や道端から観察しつづけてきたのだ。
アルセさんが戻ってきた。タオルを受け取り、ロンの足を綺麗にしてやってから、お邪魔します、と言って私も靴を脱いだ。
「あの――アルセさんは双子なんですか」
彼女は不思議そうに首を傾げて、「違うよ。なんで?」
「さっきとぜんぜん雰囲気が違うからです。うちに挨拶に来たとき、まるで別人かと」
ああ、とアルセさんは愉快そうに、「あれはなんだろ、余所行きの姿かな? いくつもの形態を使い分けてるんだよ。家でだらっとする自分、ご近所に挨拶しに行く自分、舞台でスポットライトを浴びる自分、みたいなさ」
本音とも冗談ともつかない、飄然とした物言いだった。私は彼女を見やりながら、
「どれが本当のアルセさんなんですか」
「さあ。本当の自分なんて、そう簡単に見つかるものじゃないんじゃない? マッターホルンの頂上に落ちてるかもしれないし、ルーブル美術館に展示してあるかもしれない」
普段の居室は二階だという。アルセさんに追従し、ロンとともに階段を上がった。
通された部屋の光景に驚嘆する。机には大きなスピーカーに挟まれたパソコンのディスプレイがあり、その手前には鍵盤が置かれている。椅子の傍らにはギター用らしいアンプ、色とりどりのエフェクターが並んだボードがある。そして壁際のスタンドには、何本もの楽器が立て掛けられている。
そこはまさに、小規模な音楽スタジオだった。反対側の壁に寄せて設置されたベッドや本棚の存在がなければ、人の生活空間とは認識できなかったかもしれない。
「この部屋を整理しただけで気が抜けちゃって、下はほとんど手付かずなんだよ」
私は慌ててロンを引き寄せた。万が一にも悪戯をされたのでは大変である。「音楽関係のお仕事なんですか」
「そうといえばそうだけど――いまは半分ぐらい趣味かな。ちゃんと防音だよ。蜂巣家に迷惑はかけないから、安心して。ああそうだ、飲み物。持ってくるから、ちょい座って待ってて」
促され、ソファに腰掛けた。膝の上で静かにしているロンの背を撫でながら、改めて部屋のあちこちに視線を巡らせる。新しい隣人がいったい何者なのか、ますます分からなくなっていた。
「すぐ出せる冷たいの、水かコーラしかなかった。炭酸大丈夫?」
赤いパッケージの缶をふたつ携えて、アルセさんが部屋に入ってきた。大丈夫です、と答えて受け取る。事実、コーラは好物だった。
泡を零さないように慎重にプルタブを起こす。一口付けてから、自分が自宅から締め出された間抜けな存在であることを思い出した。「申し訳ないんですが、母に連絡を入れさせてください」
「ん、いいけど。番号分かる?」
「母のは覚えてます」
「それは偉い」
アルセさんのスマートフォンを借り、母に事情を伝えた。ともかくもすぐに帰る、と言われた。
「お祖母ちゃんちの手伝いはいいの?」
「よくないけど、来夏が家に入れないんじゃどうしようもないでしょう。有瀬さんにもご迷惑だし」
ちょっと代わって、とアルセさんが椅子から腰を浮かせて呼びかけてきた。端末を手渡す。
「来夏ちゃんたちなら、うちにいていただいても大丈夫ですから。もしそちらでご用事があるなら、ええ、ええ――」
形態を〈余所行き〉に切り替えたのだろう。滑らかかつ丁寧な口調で、母とやり取りを始める。ややあって大人どうしで話が纏まったのか、再びスマートフォンが戻ってきた。母が神妙に、
「鍵屋さん、夜七時頃になるんだって。それまで有瀬さんのお世話になる?」
「即帰ってくるんじゃなかったの」
「こっちに着いたばっかりでなにもできてないし、有瀬さんもいいって言ってくださってるから。正直、そうしてもらえると助かるんだよ」
うん、じゃあ、などと応じて通話を終えた。アルセさんが笑顔でこちらを見返し、
「そういうことだから、ね」
どうやらもうしばらく、ツバメ館に滞在できるらしい。私はすっかり嬉しくなり、ありがとうございます、お世話になります、と連呼して体の横で握り拳を作った。私が浮かれているのを鋭敏に察知したロンが、おおん、と咽を鳴らす。
「でもアルセさん、お忙しいんじゃないですか」
「お母さんにも同じこと訊かれたよ。夏休みの最中ですって言っておいた。いまは人生のうちでも、かなり暇な部類に入る時期かな。宿題、もう手を付けた?」
「今日のぶんは朝のうちにやりました」
わお、と本気で感心したような反応が返ってきた。「立派すぎるな。初めて会ったときから思ってたけど、君はかなり徳が高いね」
「生まれて初めて言われました。アルセさんに対しても、駄目な面ばかり見せてるような気がします。ロンに逃げられたり、家に入れなくなったり」
彼女は唇を湾曲させ、「そんなのは失敗のうちに入らないよ。慰めようとして言ってるわけじゃない。賭けてもいいけど、何年か後に自分の人生を振り返ったとき、笑いながら思い出せるレベルの事柄。隣に越してきた奴に助けてもらったっけ、懐かしいなあって、それで済む程度の話」
そうなのかもしれないと思った。二度の窮地を救ってくれたのが彼女だったからこそ、トラブルをよい思い出に上書きできる。どんなことでもこうして跳ね除け、周りにも明るさをもたらしてきた人なのだろう。
「愚痴っぽくなっちゃうんですけど私、いろんなことが上手く噛み合わないタイプの人間だと思うんです。間が悪いっていうか、テンポが微妙っていうか」
「そう感じることもあるよね。私もある。世の中はみんなすいすい流れていってるのに、自分だけが停滞してるような。でもそれはもう、仕方がないんだと思ってるよ。できることなら、体にブースターを内蔵したいくらい」
その表現が面白く、私は少し笑った。「アルセさんでもそんなふうになるんですね」
「もちろん。でも私より来夏のほうが前向きだと思うよ。だって自分なりに、計画的に宿題をこなしたり、ピンチのとき人に助けを求めたり、置かれてる状況を説明したり、いろんなことができてるわけでしょう。自分の速度をどうにか保ちながら、世の中と折り合いを付ける努力ができるのは、きっと立派なことだよ。私の言う徳が高いってのは、そういう意味合い」
初めて言われました、と私は繰り返し、気恥ずかしくなって視線を動かした。
「話は変わるんですけど、感傷的なハードコアパンクって、どんなのですか」
この問い掛けにアルセさんは目を瞬かせ、「興味ある?」
「ネットで少し調べました。でもアルセさんが言ってたのと同じジャンルなのかは分からなくて」
私は記憶していたバンドの名前をいくつか挙げた。彼女はこくこくと頷いて、
「なるほど。そのへん、私も好きだよ。高校生のときぐらいかな――初めて知ったの。けっこうコピーしたよ」
「今更ですけど、ギター、弾かれるんですか」
「多少ね。来夏のお兄さん、ブルースのギタリストなんだっけ?」
「それとハードロックとプログレが専門だって、自分では言ってました。大学でも軽音サークルに入ったみたいです」
「じゃあ私より巧いな。私、そんなのろくに弾けないもん」
笑いながらスタンドに手を伸べ、ギターを一本掴み上げて抱える。褪色した赤にも、濃密なオレンジ色にも見えるテレキャスターだった。
じゃらん、と掻き鳴らしてから、足許のエフェクターを順番に踏んで作動させていく。いくつかのコードを鳴らしたのち、つまみを動かして音を微調整した。
なにが始まるの、といった調子で、ロンが不思議そうに鼻先を寄せてくる。静かにしてなさい、と私は視線だけで答えた。
アルセさんの掌が、不意に指板の上を踊りはじめる。煌めくような音色が空中に放たれ、ふわりと残響を伴って、消えていく。その一瞬で、私は鳥肌を立てた。
間髪を入れず、メロディが生じた。初めて聴く曲だった。しかしどうでもよかった。私の意識は確実に、アルセさんの音楽に吸い込まれていたから。
完全に澄んだトーンではなく、ほんの僅かに歪みが加えられているらしく、私の耳にそれは、温かく懐かしい響きとして届いた。囁きのようでも、歌声のようでも、古びたオルゴールのようでもある、きらきらした、それでいてどこか生々しい音の波が広がって、部屋じゅうを満たしていく。
ピックは使わず、右手の指先で弦を弾く奏法だった。親指で低音を、残りの――主に人差指から薬指までの三本で高音をまかなっている。左手は左手で、自在に形を変えながら滑るように激しく動き回っている。私などには魔法としか思えない演奏だ。
おそらく一分にも満たない、短い曲だった。最後の一音が完全に失せてしまってからも、私は時の流れから切り離れてしまったかのように、茫然と佇んでいた。
アルセさんが少し照れたように笑いかけてきて、私はようやく現実へと立ち返った。かつて自分が所属していた世界とはなにか別種の、柔らかな輝きに満ちた場所に瞬間移動してきたような心地だった。
「その――」必死の思いで言葉を探した。「――凄いです。聴いたことのない曲だったのに、なんだかずっと前から知ってたみたいで、胸がぎゅっと苦しくて、でも優しくて、すみません、上手く感想になってないですよね」
「それだけ言ってもらえたら充分。勇気を出して披露してよかったよ」
私は繰り返し頷いた。この場に立ち会い、たったひとりの観客となれた幸運を噛みしめていた。
余韻に浸って呆けている私に、アルセさんは悪戯っぽく、
「お兄さんは分かったけどさ、来夏自身は? ギター弾かないの?」
ええと、と私は口籠り、「触ったことはあります。でもそれだけです」
「あるんじゃん。ちょっと弾いてみる?」
慌ててかぶりを振った。「そんな貴重な楽器――私にはとても」
「別にそうでもないよ。そこいらの楽器屋でちょい、いやそれなりにかな、とにかく気張ったら買える。持ってみ? この色、来夏にけっこう似合うと思うよ」
確かにその深みある果実のような色に惹かれていたので、内心を言い当てられたようで私は驚いてしまった。むろんアルセさんにはお見通しだったのだろう。ソファにいる私のすぐ隣にやってきて、ほら、と楽器を差し出してくる。
「私いま、手にロンの涎が付いてるかもしれませんけど」
「そんなの拭いたらいいじゃん。どうしても気になるなら洗ってくれば。洗面所、廊下出て左にあるから」
私は言われた通り洗面所に向かい、時間をかけて両手を洗浄した。これで断るすべがなくなってしまったと気付いたが、もはや遅かった。心臓が早鐘を打ちはじめる。
アルセさんの楽器に触れられる。彼女はもちろんのこと、兄にも遠く及ばない技術しか持ち合わせない私だが――そんなことはいま気にしても仕方があるまい。
部屋に戻った私は元通りの位置に腰を下ろし、恭しい動作でテレキャスターを受け取った。ストラップに身をくぐらせる。
楽器は想像したよりずっと軽く、誂物のように抱え心地がよかった。手渡されたピックを慎重に握り、控えめなヴォリュームでじゃりん、と鳴らしてみる。アルセさんと同じ音はむろん出なかったが、それでも上等な品だとは感覚的に理解できた。
アルセさんが肩を寄せるように私に近づき、手許を覗き下ろしながら、「じゃあ、どういう曲やる?」
レッスンのあいだ、私はまさしく夢うつつで、どのような言葉を交わしたのか、なにをどんなふうに教わったのか、実のところあまりよく思い出せない。どうやら頭ではなく両腕が、記憶のいっさいを担っていたようである。なぜならあの夏の一日を期に、ストローク時の手首の動かし方、ピックの操り方、リズムの感覚、すなわちギターに関する技術の大半が、目覚ましい変化を遂げたという実感があるからだ。
鍵の業者が訪れるまで、私は心底夢中でギターに向き合っていた。練習を重ねるたび、自分の指先に少しずつアルセさんが宿っていくような気がしていた。
あう、おう、と来客を告げる鳴き声をロンが発する。窓際に近づくと、機材を積みこんでいるらしい大型のバンが、庭先に駐車したところだった。
「今日はこれまで」
とアルセさんが宣言した。私はオレンジ色のテレキャスターを置き、ロンを抱き上げると、慎重と迅速を混ぜ合わせた足取りでツバメ館の階段を降りていった。
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