Track.2 Panic Switch
目が覚めたとき、昨日の出来事のいっさいは夢だったのではないかという気がし、私は自分でも奇妙なほど慌てて薄い毛布を跳ね除けた。本当はまだ夏休みも始まっておらず、これから身支度を整えて学校に向かわねばならないのではないかとさえ思った。
枕元のデジタル時計で日付と時刻を確かめ、吐息を洩らす。大丈夫。昨日も休みだったし、明日も明後日も休みだ。そしてまだ朝の六時二十分。起き出すには早すぎる。
毛布を引き上げる前にふと思い立ち、カーテンの隙間から外を覗いた。窓の外はとうに明るい。
アルセさんの所在を示すオレンジ色の車は、まだ同じ場所に停まっていた。それだけで私は安心し、再びベッドに潜り込んで八時過ぎまで眠った。夏休みなのだから何時に起きようと自由なのだが、あまり劇的に生活習慣を破壊してしまうのはよろしくないと、私は知っているのだ。
「おはよう」
リビングには珍しく母の姿があって、そう声をかけてきた。私は茶化すように、
「こんばんはじゃなくて?」
「めでたいことにね。朝食くらい毎日一緒にって思うかもだけど――ごめんね」
見立て通り〈修羅場〉は終わったらしい。半日以上連続して眠りつづけることで無理やり生活リズムを修正する荒業を使用し、この時間に起きてきた、といったところだろう。
「別に気にしないでいいよ。簡単なのなら私も作れるし。それよりお母さんさ、もう少しこう、計画的にっていうか」
「どう足掻いても計画的にやるのが無理だから、こういうスタイルで仕事してんの。来夏は毎日ちゃんと決められた時間に起きて、学校行ってて偉いと思うよ。起きて偉い。家を出られて偉い」
社会に適応するのが本質的に不可能だと十歳の時点で悟った、と母はよく言う。いまはデザイン関係の仕事をしているらしく、家から出ることはあまりない。
基本的に夜型の人で、仕事が立て込むとすぐさま昼夜逆転生活に突入する。より切羽詰まった状況、通称〈修羅場〉に入ると、ほとんど部屋に閉じ籠ったきりになる。母と娘、ふたり同じ屋根の下で暮らしているのに滅多に顔を合わせないという事態が、蜂巣家ではわりと頻繁に起こる。
それでもべつだん、親子の仲は悪くない。欠点を自覚しているぶん小うるさくないから気楽だ、と兄は肯定的に評価していた。私もなるべくそう思うようにしている。役所の壁に貼られたポスターに登場するような家庭ではないが、私たちには私たちの、ちっぽけでそれなりの日常があるのだ。
「そういえば昨日、お隣さんに会ったよ」
珈琲を冷ましながら言うと、母は途端にぎょっとした表情になって、
「あそこ、誰か越してきたの? 日中に挨拶に来たわけ?」
「じゃなくて、外でたまたま。昨日引っ越してきたばっかりだと思う」
「よかった。どんな感じの人?」
私は少し考えてから、「若い女の人」
「へえ。独り暮らしなのかな」
「たぶん」
「どこから越してきたの?」
「分かんない。訊くの忘れてた」
答えながら、少し失敗したなという気がしていた。犬と音楽が好きだということ以外、アルセさんについてほとんどなにも知らない。把握しておくべき情報を把握せず、些末な話にばかりこだわってしまうことが、私にはよくある。
「名前は有瀬馨さん」
せめてこれだけは、と思って告げると、母は首を傾けて、「どういう字?」
「有明の有に、瀬戸内の瀬に、馨はいちばん画数が多いやつ」
アルセさんがしてくれた説明をそのまま繰り返す。
「それでアリセじゃなくてアルセなんだ。珍しいね」
「蜂巣もだいぶ珍しいと思うけど」
という私の言葉に母は笑い、「まあ、確かにね」
久方ぶりのふたりの朝食を終え、私たちは並んで食器を片付けた。宿題をこういう順序で処理していこうと考えている、などと報告してみたが、あんたがいいと思うようにやりなさい、と言われたのみだった。それから母は洗い物をする手を止め、
「今日なんだけど、お昼頃に杠葉のお祖母ちゃんちに行ってきてもいい? いまの仕事が一段落したら手伝いに行くって約束してたんだよ」
母の生家、私からすれば祖父母の家だ。少し前に祖父が亡くなったばかりで、いまだ混乱状態が続いている。健康そのものといっていいほど健康だったのに、唐突に倒れてそのまま目覚めなかった。祖母も母も、もちろん私も、あまりに急な別れを受け止めきれずにいる。
「片付けとか、やっぱりまだ残ってるの?」
「手続き関係はだいたい目途が付いたんだけど、もうそれだけで疲れ切っちゃって。お祖父ちゃんってほら、自分でいろいろ集めたり作ったりするのが趣味だったでしょう。ちょっとずつでも整理していかないとねって話になったわけ」
「分かった。私はロンと留守番してればいい?」
「お願い。落ち着いたら、あんたもお祖母ちゃんに顔見せに連れてくから」
どうにかこうにか〈修羅場〉を乗り越えたばかりだというのに、母は多忙だ。手助けしようにも十四歳の身ではやはり限度があるから、私は私で自分の仕事(たとえば宿題)をなるべくスムーズに片付けるなどの形で貢献しようとしている。うまくできているかは、また別だけれど。
自室に引き上げ、朝の勉強のノルマをこなした。問題集とノートを仕舞ってから、机の上のスマートフォンを引き寄せる。兄に向けてメッセージを送ろうとして、少し逡巡した。
〈ハードコアパンクで感傷的なのってあるの?〉
しばらく考えた末に送信したこの文章に、彼はすぐに返事を寄越した。今日も真っ当な時間に――といってももう十時半だけれど――起きているものらしい。
〈あるだろうけど、九十年代以降じゃないかな。俺はぜんぜん詳しくない〉
〈年代で区切る意味は?〉
〈慣習かな? 六十年代ならビートルズやストーンズ、七十年代ならツェッペリンやピンクフロイドやクイーン、みたいな感じで分かりやすい〉
〈お兄ちゃんの専門は?〉
〈六、七十年代〉
〈ブルース?〉
〈それとハードロックとプログレ。お前どうした、なんか勉強した?〉
私は短く間を置いてから、〈ちょっと〉
〈それは素晴らしい〉
〈どうも。お兄ちゃんは帰省しないの?〉
〈するつもりだけど、飛行機代も馬鹿にならないしなあ。それに祖母ちゃんち、まだばたばたしてるんじゃないのか〉
〈今日お母さんが片付けの手伝いに行くって言ってた〉
〈じゃあもう少し後にするかな。夏じゅうそっちにいたって仕方ないし。お母さんとも相談しておくよ。ちょっとレポートやるから、またな〉
なぜツバメ館の新しい住人について報告しなかったのかと考え、ジンクスに言及されるのが厭だったからだと気が付いた。ふるふるとひとりでかぶりを振る。
パソコンを立ち上げ、ヘッドフォンを嵌めた。ハードコアパンクについて検索する。何曲か視聴もしてみたが、アルセさんが話題にしていたものと同じ括りなのかは分からなかった。なんとなく気に入ったバンドや曲の名前を控え、机の前を離れる。
兄の部屋へと移り、改めて壁に飾られたままのポスターを眺め渡した。六十年代から七十年代――五十年代半ばに誕生したロックンロールが発展、多様化した時代。歴史に名を残す名曲、名盤がいくつも生まれた時代。
隅に設置された木製のギタースタンドにたった一本だけ残されたギターが、ふと視界に入る。オレンジ色と金色の中間のような、曖昧な色味のレスポールだ。兄が最初に手に入れたギター。そして私が唯一触れたことのある楽器。
手を伸べようとしたとき、あう、おう、とロンが騒ぐ声が階下から響いてきた。これは来客を知らせる吠え方だ。カーテンを開け、庭を覗き下ろす。途端に心臓が高鳴った。
階段を駆け下りている最中に、呼び鈴が聞こえた。玄関へと向かう母に合流する。
「――初めまして、有瀬と申します」
一日ぶり、より正確には十数時間ぶりのアルセさんは、私の記憶の中の彼女よりも厳粛な気配を纏った、一言でいえば大人の女性だった。服装も昨日よりずっと生真面目な感じで、女子中学生と気軽に犬や音楽の話をするような人には見えなかった。
「先日、隣に越してまいりました。これからお世話になります」と彼女は通り一遍の挨拶をした。「どうぞ、よろしくお願いいたします」
「ええ、ああ、はい、ご丁寧にどうも。蜂巣です。こちらこそよろしくお願いします」
と母も形式ばった挨拶を返し、横にいる私にも同様にするよう促してきた。私は少し困惑しながら、アルセさん相手に頭を下げた。玄関先の敷石を見下ろしながら、これはなんだ、どういうことなんだ、と考える。
彼女が引っ越しの挨拶に訪れること自体は不思議でもなんでもない。私だけでなく母に会うことを想定していたはずだから、多少なり雰囲気が固くなるのも当然ではある。理屈としては納得がいくのだが、生じた違和感ばかりはどうしようもなかった。まったく違う人が代理でやってきたのかとさえ思った。
やり取りは数分で終わり、アルセさんはあっという間に蜂巣家から去っていった。真面目そうな人だね、と母は感想を述べた。
「昨日会ったんでしょ? どんな話したの?」
「別に、雑談だよ」
と咄嗟に答える。逃走したロンを掴まえてくれたこと、彼女の昔の飼い犬の名がスピカであること、ロン・ウッドのファンであること、感傷的なハードコアパンクをよく聴いていること――そのいずれも、先ほど現れた清冽な女性のイメージにはそぐわないような気がしていた。
「そう」母はあっさりと応じ、「じゃあ、これから杠葉のお祖母ちゃんちに出掛けてくるから。お昼、作るのが面倒だったらこれで買って食べてて。ロンのことお願いね」
財布から千円札を出して私に手渡し、出ていく。取り残された私はすっかり奇妙な心持ちになって、廊下を意味もなくうろうろと行き来した。近づいてきたロンを抱き上げ、
「アルセさん、昨日とだいぶ違ってた。なんでだろ」
おん、と咽の奥で鳴いて、ロンがこちらを見上げた。アルセさんの訪れを告げた彼も、なんらかの違和感を覚えていたのだろうか。
普段ならば貰った食事代はできる限り節約してお小遣いに回してしまうのだが、今日はもうそういう気分ではなくなっていた。ロンを引き連れ、普段の散歩コースとは反対の道を進む。
私がかつて通っていた小学校の前を通過する。少子化の影響で生徒は減りつづけ、いまでは各学年に数名ずつしか在籍していないと聞く。このままだと遠からず廃校になるだろう。学校嫌いの私としてはべつだんいい思い出があるわけではないが、それでも自分の痕跡のひとつが消滅してしまうようで、なんとなく物淋しい。
お祭りの屋台と売店の中間のような店が、少し先にある。やたら大きいハンバーガーやサンドイッチが名物で、兄が昔、よくそこで買い食いをしていた。ものすごく美味しいとは、正直なところ言いかねる。しかし無性に食べたくなることがときおりある。それがいまだった。
予算の千円を目いっぱいに使い、ハムトーストとポテト、烏龍茶を注文した。ずっしりと中身の詰まった袋を受け取り、そのまま高台にある雛守城跡公園を目指した。
十三世紀頃にこの地を領有していた何某が築城した、と古びた看板にはある。広場の休憩所に陣取り、買ってきた昼食を広げた。パンをいくらかちぎって、ロンに分け与える。
凡庸な景色を眺めながら、私たちは黙々と食事をした。雛守はなんもねえからな、と兄が口癖のように連呼していたのを思い出す。
アルセさんはいったい、この街になにを求めてやってきたのだろう。都会の生活に倦んだ、綺麗な空気を吸いたくなった、などといったありきたりな物語が、脳裡に浮き沈みする。私は彼女について、まだなにも知らない。
「そういえばお兄ちゃん、ちゃんと帰ってくるかな」と傍らのロンに語りかけた。「札幌のほうがきっと、いろいろあって面白いよね。圧倒的に都会だし。田舎でぼんやりするより、新しい街で新しい友達と一緒に過ごすほうが刺激的に決まってるし」
誰もかれも、自分の遥か遠くにいるような気がしてくる。いま焦ったところでどうにもならないのは承知しているのだが――。
視界の隅でなにかが動き、私は急速に現実へと引き戻された。近くに誰かいる。
完全に無人と思い込んで油断していた。ロンに話しかけていたのを聞かれていなければいいのだが。
髪を金色に染めた人物の後ろ姿を、ややあって私は捉えた。性別は分からない。大きめのTシャツに、暗色のパンツを合わせている。兄よりも大人びた気配を感じたから、おそらくはアルセさんと同世代くらいだろう。
幸いにして、私たちにはまったく気付いた様子がない。木製の柵に凭れるようにして、雛守の街を見下ろしているばかりだ。
手早く荷物を纏め、足音を忍ばせてその場を離れた。こういうときに限ってロンが騒ぎはしないかと危惧したが、念が通じたらしく静かについてきてくれた。
最初に見つけた屑籠にごみを捨て、水道で口をゆすいだ。ロンにも少し水を飲ませてから、のんびりと帰路に就く。
家に到着した。ポケットから鍵を出し、普段通り鍵穴に挿し込んだとき、ふと奇怪な感触を覚える。なにかが閊えてでもいるように、奥まで入り切らないのだ。
ひとまずそのまま回してみた。がた、と鈍い音がするのみだった。ほとんど動かない。
「あれ」
不審に思って引っ張ると、妙に硬い手応えがあった。抜き出した鍵を観察し、愕然とする。先端がぽっきりと折れていたのだ。
「嘘でしょ」と唇を動かす。「ちょっと――そんな」
慌てて縁側の硝子戸や裏口を確かめた。いずれも内側から施錠されている。
分かり切っていたことではあった。母とふたりになってからは特に、戸締りに気をかけている。
鍵を持って出てきたというのに、自分で自分の家に入れなくなった。ちょっと想定外の事態だ。
やむなく母に連絡を入れようとして、はっとする。スマートフォンは自室だ。貰った千円は、昼食にぴったり使い切ってしまった。公衆電話さえ架けられない。
じわじわと汗が湧いてきた。軒下に避難していれば直射日光こそ避けられるものの、七月の昼間である。それなりに蒸し暑く、咽も乾いていた。ロンは私の足許で気だるげに横たわり、どうにか体を冷却しようとしている。
彼を引っ張り、庭の外に出た。ともかくも誰かに助けを求めるほかない。
家の前で出鱈目に視線をさまよわせた。すると不意にツバメ館の二階の窓が動いて、ヴェランダに人影が生じた。
アルセさんがこちらを見下ろしていた。
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