Sweet Honey Overdrive

下村アンダーソン

Track.1 Emotional Rescue

〈隣人、出現〉

 夏休み初日の輝かしい景色を窓越しに見下ろしながら、数百キロ離れた北の大地に向けてメッセージを送信する。シンプルすぎるくらいシンプルな文面だが、これで充分だという確信があった。伊達に十四年、兄妹をやっているわけではないのだ。

〈ツバメ館?〉

 という返信まで、およそ一分。意図が正しく伝わったことよりも、穣がこの時間に起きていたという事実にむしろ驚いた。とうに完全な夜型人間に移行したものと思っていた。

〈オレンジの車が停まってる。昨日まではなかった〉

〈今度はなんの店?〉

〈まだ分かんない〉

 と書き送ったあと、私は記憶を手繰りながら、

〈前回は猫カフェで、その前は洋食屋、そのまた前は駄菓子屋だったよね〉

〈そのさらに前は揚げ物屋だった。俺が小学校低学年の頃だから、来夏は覚えてないかもしれないけど〉

 初めて知った。兄のこの種の記憶は正確なほうだから、信用していい情報だろう。あとで母にも確かめてみようと思った――もし〈修羅場〉が終わっていたなら。

〈どこかに看板とか出てない? ツバメ館なら俺の部屋からのほうが見やすいかも〉

 アドヴァイスに従い、隣室へ移動する。かつては本やCDのコレクションがぎっしりと詰め込まれていた棚も、いまは空っぽだ。しかし壁に貼られた無数のポスターはそのままになっていた。

 ミック・ジャガーやエリック・クラプトンの視線をなんとなく感じながら、ベッドに上がってカーテンを引き開けた。なるほどよく見える。私は再びスマートフォンを抜き出して、

〈出てない。普通の民家なのかな。次こそ定住すると思う?〉

〈するわけないだろ、ツバメ館だぞ。名付けた俺が言うんだから間違いない〉

 たいそうな自信だ。なにか分かったら続報すると伝えて、やり取りを終えた。

 ツバメ館は我が蜂巣家から徒歩数十秒の位置にある、外見上はごく普通の一軒家だ。ただ不思議なことに、住人の入れ替わりがきわめて頻繁に起こる。ある日ふと空き家になり、しばらくするとまったく違った人がやってきて、まったく違った暮らしを始める。しかし決して、長続きすることはない。

「まるで渡り鳥だな」と何代目かの隣人を見送ったあとに兄が言った。「だったらあそこはツバメ館か」

 そういった次第で命名された隣家に一向に定住者が出ないまま時間が過ぎて、私は中学二年生、兄の穣は大学生になった。進学を期に穣は北海道へと旅立ってしまったので、ツバメ館の観察は私が一手に引き受ける運びとなったのである。

 階段を下りていくと、ジャックラッセルテリアのロンが跳ねるように近づいてきた。私の足許をくるくると行き来しながら、遊んでほしそうな顔をしてこちらを見上げる。そろそろ運動に連れ出す頃合いだ。

 そっと母の仕事部屋の様子を伺った。〈修羅場〉こそ切り抜けたが現状は満身創痍、といった気配がドア越しにも伝わってくる。いまはそっとしておくのが得策だろう。

 ロンをリードに繋ぎ、散歩に出た。ツバメ館の正面を行き過ぎる。いまのところは留守にしているらしい。

 唯一の手掛かりであるオレンジ色の車を見やりながら、新しい隣人はいったいどういう人物なのかと想像を巡らせた。歴代の住人たちに規則性がまったく存在しないぶん、空想を働かせる余地はいくらでもあった。名探偵や発明家、あるいは魔法使いの可能性だって、皆無ではないのだ。

 近所を適当に一回りして済ませてもよかったのだが、せっかくなので少し遠出をすることにした。ジャックラッセルテリアにはそれなりの運動量が必要なのだ。

 高架下をくぐり、軽トラック一台ぶんほどの幅しかない細道へと折れる。畑を一直線に突っ切った先にある国道に沿って進んでいくと、十五分ほどで自然公園へと到着する。

 緑が豊かで空気も清冽だから、散歩に訪れるには悪くない。じっさいロンもお気に入りらしく、目的地がここと把握するなり明確に足取りが速くなった。耳をぴんと立ち上げ、尾を勢いよく振って、全身で喜びを表現している。

 コンクリート敷きの遊歩道を辿る。ウェアを着込んだジョガー、小学生の集団、自分と同様に犬を連れた老婦人などと、次々にすれ違った。

 幼い頃はよく、兄とここで遊んだ。連絡こそ頻繁に交わしているとはいえ、家にいないのはやはり物淋しい。私と母とロン――ふたりと一匹になった蜂巣家が迎える、最初の夏だ。

 木製のベンチで小休止した。平和このうえない空を仰ぎながら、鳥の囀りや虫の声に耳を傾ける。

 微睡みのような時間をしばらく満喫した。事件が起きたのは、バッグからペットボトルジュースを取り出し、ぼんやり蓋を捩じ切ろうとしたときだった。

「え」

 足許に寝そべっていたはずのロンが私の真正面に立って、愉快そうに舌を垂らしている。首輪から伸びたリードの持ち手は――コンクリートの上だ。無造作に転がっている。

 輪をしっかり手首に通したと思い込んでいた。しかし実際には、ただ掴んでいたのみだったらしい。ジュースを開けようとした際、うっかり手を放してしまったというわけだ。

「ロン」

 考えてみれば、べつだん慌てる必要はどこにもなかった。よく躾けられた犬なのだし、落ち着いて呼べば戻ってきた公算が大きい。まして私は、彼の好物であるビーフジャーキーさえ持ってきていた。一切れちらつかせるだけで、すべてが解決したはずだったのだ。

 ところがそのときの私と来たら、まるで冷静ではなかった。パニックに陥っていたといってもいい。半ば反射的に、最悪の行動を取ってしまったのである。

「ロン、待って」

 ベンチから勢いよく立ち上がり、駆け足で掴まえようとしたのだ。およそ逃げる犬を相手にやるべきことではない。

 ごく当たり前の結果として、ロンはこれを追いかけっこの始まりと認識した。ぱっと身を翻し、瞬く間に私から離れていく。

 広場を端から端まで横断し、そのままハイキングコースへと飛び込んだ。小型犬とはいえ、人間の脚力ではとうてい追いつけるものではない。どれだけ必死に走ったところで、距離はまったく縮まらなかった。

 半べそになりながら、ロン、ロン、と名前を連呼するほかなかった。すっかり息が上がり、全身が汗だくだった。

 公園じゅうを駆けまわったのち、時計塔のある小広場に行き着いた。待ち合わせ場所としてそれなりに有名なのだが、いまはまるで人影がない。まだ余裕綽々といった様子のロンが、私を見返しながら尻尾を振っているばかりだ。

 何十回目かの「ロン」を発しようとして失敗し、私はげほげほと咳き込んだ。額から滴ってきた汗のせいか、あるいは涙のせいか、視界がぼんやりと揺らいでいた。

「この子、あなたの犬?」

 目を瞬かせる。長身に長髪、ラフな装いの女性が、ロンのリードを掴み上げているところだった。

 助かった。掴まえてもらえた。

「そうです」掠れ声で応じ、力を振り絞って駆け寄る。「本当にすみません――ありがとうございます」

「いいよ。気を付けてね」

 リードを手渡された。私は心から安堵し、屈み込んでロンの頭や背中を揉みくちゃにするように撫でまわした。

「勝手にどっかに行っちゃ駄目でしょ。呼んだらすぐ戻ってきてよ」

 などと叱ってはみたのだが、当のロンがきょとんとしているので、あっという間にやる気が失せた。彼はただ、飼い主と全力で遊びたかっただけなのだ。脱走の意思があったわけではない。

 改めてジュースを取り出し、咽を潤す。ようやく落ち着きが戻ってきた。

「ジャックラッセルテリア?」

 とロンを掴まえてくれた女性が話しかけてきた。一目で犬種を言い当てられたことに私は少し驚き、

「そうです。犬、お好きなんですか」

「好き。私も昔、実家でシベリアンハスキーを飼ってた」

「北国の、犬橇の」

 彼女は頷き、「うん。名前はスピカ。子供の頃、玩具の橇を曳かせようと思ったことがあったな。けっきょく親に怒られてやめたんだけど。その子――ロンは男の子?」

「はい、雄です」

 自分が話題にされていると気付いたのか、ロンは嬉しげに飛び跳ねてアピールを開始した。私の膝のあたりを目掛けて前脚を突き出し、手招くような、引っ掻くような動作を繰り返す。

 私たちはしばらく犬の話を続けた。やがて女性が、はたと思い出したように、

「あ、そういえば名前。名乗ってなかったね」

 ロンとスピカ――飼い犬の名前は互いに知っているのに、目の前の相手の名前を知らなかったという事実が可笑しく、私は掌で口許を覆った。彼女もつられて笑い出す。

 親切で犬好きなこの女性は、名を有瀬馨さんといった。アルセ、という響きから一瞬、フランス語かそれ風の言語を連想した私はつい、

「どういうスペルですか」

「漢字だよ。有明の有に、瀬戸内の瀬。馨はいちばん画数が多いやつ」

 指先を空中に踊らせながら説明する。なるほど日本の苗字だ。

 それでも名前を聞いた瞬間に得た、どこかふわりとした感触は失せることがなかった。アルセさん、というカタカナの表記が、私のなかで定着した。

 蜂巣来夏です、と自己紹介したあと、私は付け加えて、「蜂巣はそのまんま蜂の巣で、来夏は夏が来る」

 アルセさんは唇をすぼめた。「じゃあビーハイヴだ」

「ああ――確かに英語だとビーハイヴですね。でもそういうふうに言われたの、初めてかもしれません」

「そう?」

「初対面の人に言われるのは、かなりの確率で『みつばちハッチ』です」

「ハッチって呼ばれてる?」

「呼ばれることもあります。ただ私、兄がいるんです。兄のほうが先にハッチになったので、兄妹ふたりとも知ってる人は、私のことはハッチとは呼びません。ハッチ妹とか、蜜蜂繋がりでマーヤとか」

「ハッチの妹ってアーヤじゃなかった?」

「そうなんですか? 実は観たことがないんです。タイトルを知ってるだけ」

 私たちはどちらともなく、広場の出口に向けて歩みはじめた。普段の散歩よりもずいぶん時間がかかっている。母に声をかけずに出てきてしまったので、もしかしたら心配されているかもしれない。

「ロンって名前は誰が付けたの」

「兄です」

 公園を出て、もと来た道を逆走した。アルセさんは当然のように私の隣を歩きつづけている。どうやら帰り道が同じらしい。

「由来はある?」

「ミュージシャンから採ったんです。ローリング・ストーンズの――」

「ロン・ウッド?」と興奮気味に先んじられた。ロンに視線を向けながら、「まじか。君はロン・ウッドだったんだ」

「蜂巣ロンですよ。お好きなんですか、ストーンズ」

「好き。来夏さんも好き?」

 私は言葉を探した。なるべく慎重に、「好きといえば好きなんだと思いますけど――よく分からない部分もあります。なんというか、自分にはまだ呑み込めないのかな、みたいな」

 これでもだいぶ話を誇張していた。実際には、兄が流していたのをなんとなく一緒に聴いた程度の経験しかない。

 がっかりさせてしまったかと危惧したが、アルセさんは頷いて、

「私もね、ブルースが好きになってきたのはわりと最近だな。深みのあるグルーヴで聴かせるタイプの音楽ってさ、ちょっと取っ付きにくい感じもあるじゃない?」

「私でも知ってるような名曲もあって、凄いなとは思うんですけど」

 こちらは本音だった。よくは分からないけれど、分からないなりに格好いいと感じることもある。

「時間をかけて聴き込んでいくと、また新しい発見があるかもしれない。何か月後か、何年後か、もしかしたら何十年後かもしれないけどね。でも私はそれでいいんだと思う。小さい頃に蒔いた種が大人になって芽吹いたみたいでさ、新鮮で懐かしい、とっても素敵な気分になるよ」

 新鮮で懐かしい、というその言い回しを私は気に入り、胸のうちで反復した。「また後で聴いてみます」

 私の言葉にアルセさんは微笑して、「それがいいよ。ちなみに私が昔から好きなのはパンク。なかでもハードコア」

 私は目を見開いて、「ハードコア?」

「激しいやつも好きだけど、特によく聴くのはもうちょい感傷的なやつ」

「そんなのあるんですか」

「あるんだよ。来夏さんはどう? 最近のロックだと、なにか好きなのはある?」

「最近のは正直、あまり聴かないです。私のロック系の知識ってだいたい兄経由なので。兄が北海道に行っちゃってからは、ほとんどなにも」

「なるほど。お兄さん、北海道なんだ」とアルセさんは後半部分に反応した。「札幌?」

「札幌ですね。大学がそっちなんです。あ、私んち、もうすぐそこなので」

 いつの間にか、家のすぐ目の前だった。軽く頭を下げてからリードを引く。ロンはすっかり彼女に懐いてしまったらしく、少し名残惜しそうに私の足許へと戻ってきた。

「これで失礼します。ロンのこと、本当に助かりました」

「ああ、うん。それより家、このへんなんだ。私もこの近くなんだよ」

 このアルセさんの返答に、私は首を傾げた。人口の少ない田舎町である。「この近く」と形容しうる家は数えるほどしかない。そして私たちは今日、初めて出会った――。

 彼女はゆっくりと足を止めた。ツバメ館の正面で、オレンジ色の光を帯びた車の傍らで。

 驚嘆を隠せずにいる私を、アルセさんが振り返る。そしてどこか悪戯っぽい調子で、

「もしかして、お隣?」

「――はい、そうみたいです」

 ふわふわと現実味の伴わない、宙に浮いたような感覚だった。彼女がツバメ館の新しい住人。何代目かの、蜂巣家の隣人。

 アルセさんはドアノブから手を放し、私たちに向き直って順番に見渡した。唇に優雅な笑みを湛えながら、

「じゃあ改めてよろしくね、蜂巣来夏さん。それにロン」

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