言葉、お届けします。
それから、私はすっかりミズキさんのお店の常連になった。
普通のカフェのようにご飯を食べに行くこともあれば、ミズキさんに愚痴を聞いてもらうだけの日もあった。
最近は、ミズキさんとも仲良くなって、買った『言葉』の調味料でサービスしてもらうこともあった。
醤油のような『言葉』を買った日には、休憩時間のための軽食に焼きおにぎりを作ってくれたり、
甘い『言葉』を買った日には、いかにもインスタ映えしそうな可愛いお菓子を作ってくれたり。
私だけの秘密にしたくて、写真を撮ることは少ないけれど。
こうして日々を過ごしていく中で、春を迎えた。そして、世界の中ではほんの些細な、私にとっては大きな事件が起きた。
「離退任する教諭について」
学年末も終わり、手渡されたプリントには、阿部先生の名前がはっきりと印字されていた。
当たり前だ、どうして気付かなかったのだろう。教師は毎年誰かしらが異動するのに、ずっとお世話になっていたからだろうか、阿部先生が担任の学校生活が当たり前になっていた。
寂しくて、悲しくて、少し、悔しかった。
まだ、何も言えていない。
お礼も言えていないし、反抗的な態度をとったことについて謝罪すらしていない。
「阿部先生!」
帰りのホームルームが終わり、廊下を歩く先生の背中を慌てて追いかけた。
「あら、麻里、どうしたのさ」
その背中がずっと頼りなく、儚く見えて。そのはずなのに彼は、おどけた口調で振り返るといつものように笑った。いざそんな阿部先生を前にすると、何も言えなくなってしまうのだ。
「あの、模試の結果が」
「ああ、あの後ちゃんと親御さんと話せた? ごめんな、大変だったかもしれないけど電話はさせてもらった」
そうじゃなくて、という言葉は喉奥に押し込まれたまま出てこなかった。
「次は頑張るんだぞ」
はい、という返事は、ほとんど声にならなかった。あまりにもいつも通りの顔で話をしてくれるから。
だけど麻里には分かった。
その奥に苦さを噛み潰した顔を隠していることが。
阿部先生が口にした「次」。
その結果が出る頃、先生はもう、私の先生ではなくなっている。きっと誰よりも先生が実感しているはずだ。
繕っているそのいつも通りの笑顔を剥がす資格は、麻里にはないと思った。
ありがとうもごめんなさいもさようならも、全部最後の日だけでいい。
先生の前ではもう泣かない。
貴方がいなくても、一人で立ち上がれるようになります。
__声にならなかった思いも、いつかきっと消化される日が来る。
阿部先生の言葉を今調味料として具現化したら、きっと苦い粒だろう。
ミズキさんなら何にしてくれるかな、やっぱりコーヒーかな。
その日、私はミズキさんのお店に駆け込んだ。
「お待ちしておりました、麻里様」
息を切らして扉を開けると、ミズキさんは、まるで私が来るのを知っていたかのように、静かな顔でこちらを見ていた。
「阿部先生が、先生が、春に」
何から話せばいいか分からずに、ずっと頭にあった名前を口走った時。
ガラン。
前に聞いた時よりも大きな、鐘の音が響いた。
ハッとしてミズキさんを見ると、これまでに見たことがないような、妖艶な表情をしていた。
「確かにお預かりしました。麻里様の『言葉』、私が責任を持ってお届けします」
fin.
言葉、お届けします。 翔 @kakeru4015
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