「だぁぁ、いってぇ……!」


 四方に布が垂らされた輿こしの中にいるのをいいことに、装束の裾を乱して盛大に胡座あぐらをかいた紅殷こういんはブツブツと文句を呟いていた。


「きちんと全部解決してきたんだし、そんな怒らなくてもよくね? 俺も晶蘭しょうらんも怪我なく帰ってきたんだしさぁ。……そりゃあちょっと、派手にやりすぎたなぁとは思ったけども……!」


 紅殷と晶蘭がかい糸影しえいと直接対決した日から二日。


 紅殷は玉仙宮ぎょくせんぐうが急遽施行を決めた大規模修祓の現場に出向くべく、『金簪きんさん仙君せんくん』として護衛武官達がかつぐ輿に揺られていた。


 ──この規模の修祓がこんな速さで決行されるって……。国師は俺達があれくらいの勢いで暴れてくるって、予想ができてたってことだよなぁ……


 何せ修祓の名目は『天変地異の前触れを鎮めるため』だ。金簪仙君直々の修祓とされていることも、お題目も、あまりにも今回の事の顛末てんまつにドンピシャすぎる。いくら金簪仙君がその規模の案件にならないと玉仙宮の奥殿から出てこないと思われていても、だ。


 ──分かってたんなら、俺達を石床に長時間正座させる必要もなかったんじゃねぇの……?


 そんなことを思う紅殷に賛同するかのように、髪に飾られた金歩揺きんほようから垂れた金鎖がシャラシャラと微かに音を立てた。


『金簪仙君』として修祓現場に向かっているのだから当たり前なのだが、本日の紅殷の装いは常の質素なお忍び装束ではなかった。


 身に纏っているのは、純白の絹地に金糸と紅糸で刺繍が入れられたきらびやかな巫覡装束だった。腕には呪具でもある金糸織の領巾ひれが絡められ、宝玉が散らされた帯には手鈴と扇が差し込まれている。髪も高く複雑に結い上げられていて、晶蘭から返却された金の髪留めと金歩揺で華やかに彩られていた。


 久々に修祓装束での外出になったわけだが、ただ座っているだけですでにずっしりと体が重たい。巫覡として鍛錬は怠っていないはずなのに、なぜこんなに重たく感じるのだろうと、紅殷は金簪仙君としての装束を纏うたびに思う。


 ──周囲から向けられる視線を吸い込んで質量に変える性質でも持ち合わせてるんじゃね? この装束。


 その『重さ』の正体にうっすらと心当たりがある紅殷は、小さく溜め息をつくと意図して考え事の矛先を変えた。


「蘭蘭、無事かね?」


 心が沈まない話題となると、自然に行き着く先は出立まで同じように罰を受けていた相棒のことになる。


「俺のスネがヤバいってことは、あいつのスネは瀕死ってことだと思うんだけども」


 灰糸影との直接対決の後、紅殷と晶蘭が宿で一泊してから玉仙宮に戻ると、正門の内では仁王立ちの国師が二人の帰りを待ち構えていた。鬼の形相をしていた国師に顔を引きらせながらも事の顛末を報告したところ、喰らわされたのが頭上からの拳骨のち石床上での正座という罰則である。


 昼前に紅殷を乗せる輿が寄越されるまで、紅殷と晶蘭は仲良く並んで儀式の間の床に直接正座させられていた。


『出撃のため、お召し替えを』と今朝早くに呼ばれた時はようやく正座から解放れると目を輝かせたのに、蓋を開けてみればお召し替えが終わった後も修祓装束のまま石床での正座の刑は続行された。


 晶蘭に至っては武官正装での正座だった。己の体重に加えて鎧や剣といった武具の重さまで加わっていた晶蘭の膝から下は果たして無事であったのだろうかと、割と本気で心配している紅殷である。


 ──いやでも、迎えが寄越された時、足がしびれて立てなかった俺に対して、晶蘭って自力で立ち上がってたよな?


「殿下」


『え? 蘭蘭ってば、もしかして足しびれてなかったの? あの状況で?』と目をしばたたかせた瞬間、まるで紅殷の内心が聞こえていたかのように外から声がかけられた。


 隊列に加わったその他大勢の耳を気にしているのか、響く声はいつもより他人行儀で少し硬い。だが掛布をわずかにめくって中を覗いてきた晶蘭の顔には、普段と変わらず呆れの表情が浮いていた。恐らく晶蘭は、紅殷が人目がないのをいいことにここぞとばかりにくつろいでいたことくらい、当たり前のように承知していたのだろう。


「何してるんです、人目がないからって」


 案の定、ひそめられた晶蘭の声には呆れが色濃く表れていた。晶蘭が周囲に中が見えないように気を使ってくれていることを知っている紅殷は、晶蘭に合わせて声をひそめつつも遠慮なく不満を言葉にする。


「だって。イテぇもんは痛ぇんだもん。こんなん澄ました顔してられっかよ」

「輿に乗る時は平気そうな顔してたじゃないですか」

「あれは意地。『金簪仙君』としてはああ振る舞うのが正解だろ? だけど『紅殷』としては、痛ぇもんは痛ぇって言いたいの」


 自分だけ澄ました顔をしている晶蘭をジトリと見上げて、紅殷はほんのわずかに口調を変えた。


「お前だって痛ぇんじゃねぇの? 騎馬とはいえ、足大丈夫かよ。思えばこの間だって、俺のせいで怪我してただろ? ちゃんと診てもらったか?」

閑月かんげつの辻での負傷ならば、あの場であなたの力に癒やしてもらったので。傷を負っていないも同然でしたよ」

「それでも、痛かったもんは、痛かっただろ?」


 ねたように続けた紅殷に、晶蘭がわずに目をみはる。


 そんな晶蘭を真っ直ぐ見つめ続けることができず、紅殷はぎこちなく視線をらしながらモソモソと言葉を続けた。


「痛い時はちゃんと『痛い』って主張しろって、俺に教え込んだの、晶蘭だっただろ。……教え込んだ当人がそんなこと言ってて、どーすんだよ」


 紅殷なりの心配と、『あの時はごめん』という不器用な謝罪を、晶蘭は察してくれたようだった。


 数拍分、沈黙で驚きを表した晶蘭は、ふっと目元を和らげる。


「痛かったですよ」

「……ごめん」

「でも、あなたが私の前で怪我を負ったり、自分の心を見て見ないフリをすることの方が、私にとってはもっともっと痛いですから」


『だから、あなたはそのままでいてください』と晶蘭は柔らかく続けた。いつになく柔らかい視線と、それ以上に柔らかくて温かい言葉に居たたまれなくなった紅殷は、ムスッと口元を引き結ぶと心持ち姿勢を正す。


 それでもムズムズと騒ぐ心の内を押さえきれなかった紅殷は、先程ふと気にかかった疑問をぶつけることにした。


「晶蘭、お前、その装備で俺と同じように正座させられてたのに、迎えが来た時平然と立ち上がって、俺に手まで貸してくれたよな? 足、しびれてねぇの?」


 紅殷からの唐突な問いかけに晶蘭はパシパシと目を瞬かせた。


 それからニヤリと、悪戯いたずらが成功した子供のような顔で、晶蘭は笑った。生真面目な晶蘭が滅多に見せないたぐいの笑みに、紅殷は思わず素直に目を瞠る。


「護衛武官は、祭祀で控えている時、基本的に片膝立ちでしょう? しびれないコツを心得ているんです」

「え。蘭、ずっこい」

「後で教えて差し上げます」


 そう言い残すと晶蘭はスッと身を引いた。掛布が元に戻ると、その向こうから硬さを取り戻した晶蘭の声が響く。


「そろそろ到着致します、ご準備を」

「分かった」


 ──約束だかんな、蘭蘭兄ちゃん。


『ったく、そういう裏技はもっと早く教えてくれよなぁ!』と胸中で不満をこぼしながらも、紅殷はいそいそと居住まいを正した。痛めつけられたスネを何とかかばいつつしとやかに座り直し、グシャグシャになっていた装束を美しく整える。


 ちょうどその偽装工作を終えた瞬間、輿の揺れが止まった。到着したのかと真っ直ぐに顔を上げて前を見据えれば、ユルリと丁寧に輿が地面へ降ろされる。


 どうやらようやく目的地についたらしい。


 ──毎度思うけど、輿で揺られて移動するよりも、自分の足で歩いた方が早いし楽しいし、俺は好きなんだけどな。


 そんな『紅殷』としての思考を、緩く深呼吸をすることで『金簪仙君』へと切り替える。


「玉仙宮筆頭巫覡、金簪仙君のおなりでございます」


 その瞬間、紅殷と呼吸を合わせたかのように朗々と晶蘭の声が響いた。凛と響くその声に、行列を見守っていた市中の民が息を詰め、かしましかったざわめきがしんと水を打ったかのように静まり返る。


 その静寂を埋めるかのように、輿の掛布が上げられる微かな衣擦れの音が響いた。シュルリ、シャラリと響いた清楚な音に導かれるように外を見上げれば、チリリという微かな音とともに金歩揺の鎖が揺れ、黄金の燐光がこぼれ落ちる。


 輿の外には、気持ち良いくらいに晴れ渡った青空が広がっていた。その青を背景に、漆黒の衣と銀の武具を纏った晶蘭が控えている。


 馬から降り、輿の傍らに片膝をついて控えた晶蘭は、金簪仙君の顔つきになった紅殷へうやうやしく片手を差し出した。いつだって頼りになる相棒は、きっと紅殷が足をもつれさせても、周囲には分からないようにそれはもうガッチリと紅殷の体を支えてくれるのだろう。


 いつだってそう信じられるから、紅殷はどんな時だって外へ飛び出していける。


『紅殷』であっても。『金簪仙君』であっても。周囲に何者であると見られていても。


「金簪仙君だ」

「おぉ、なんと神々しい」

「見ているだけで寿命が延びそうだわ」

「今日は何て運がいい日なのかしら」


 晶蘭の手を借り、スネの痛みなど周囲に微塵も覚らせない淑やかさで輿から降り立つと、サワリと周囲の空気が揺れたのが分かった。


 民衆に覚られないようにそっと視線を巡らせれば、護衛武官達が規制線を張った向こう側に幾重にも人垣ができている。その中にチラホラと見知った顔があることに、紅殷は思わず内心だけで苦笑をこぼした。


 ──あーあーおっちゃん達、店番ほっぽって野次馬なんて、おばちゃん達に怒られても知らねぇぞ〜?


 今度『紅殷』として顔を合わせた時には、そのネタでからかってやろう。それでも市の顔馴染み達は、『紅殷』こそが『金簪仙君』であることには気付かないはずだ。


 それでいいと、今の紅殷は思う。そう思えるように、今はなった。


 彼らが『守られている』ということにさえ気付くことなく、日々を健やかにすごせるように、己の全力を振るい続ける。


 それが紅殷の掲げる『綺麗事』なのだから。 


「さぁて」


 紅殷は晶蘭にだけ聞こえる声で呟くと、つい二日前にも訪れていた廃墟街を見上げた。


『天変地異の前触れ』とされた一連の諸々は、結局全て紅殷と晶蘭が暴れた余波だから、実際には異変でも凶事でも何でもない。問題だった陰の気は、その『天変地異の前触れ』で全て綺麗サッパリ祓い切っている。


 つまり本来、今この場で浄祓祭祀を行うことに意味などない。これは民衆を安心させるために、形だけ施行されるものだ。


 それでも紅殷は、気を引き締めるとスッと背筋を正した。隣に立った晶蘭も、同じ呼吸で姿勢を正す。


 ──陰を祓うだけではなくて。人々の憂いを祓うことも、立派に『金簪仙君』が執り行う『祓い』だと、俺は思うから。


 だからこの祓いも、『紅殷金簪仙君』は、手を抜くわけにはいかないのだ。


「では、行こうか」


 生ける民も、死せる民も。平等にその安寧を守るために。


 どんな衣に身を包んでいようとも、どんな肩書きを負っていようとも。


 心に掲げた『綺麗事』は、今日も変わらない。


「敬意をもって」

「誠意を以て」


 対となる言葉はなめらかに。


 続く言葉はピタリと揃えて。


「我ら玉仙宮が誇る金黒きんこくの一対、彷徨さまよえる者に浄化の華をたてまつらん」


 玉仙宮が誇る屈指の一対は、今日も決意の口上とともに現場に向けて出撃するのだった。




【玉仙宮の金と黒・了】


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