捨てられなかった手紙

大隅 スミヲ

捨てられなかった手紙

 やってきたのは、小さな男の子だった。

 一緒に来ていた若い母親が買ったばかりの絵本を差し出して、わたしに言う。


「よろしくお願いします」

「えーと、お名前は」

「高田です」

「いや、下の名前の方がいいかな」

「え?」

「え?」


 わたしとその母親は顔を見合わせてしまう。

 あれ? この人、どこかで見たことがある気がする。

 そう思ったものの、わたしは彼女が誰であるかは思い出すことが出来なかった。


「あ、ごめんなさい。しおりです。高田栞」

「はい。栞くんね」

「え?」

「え?」


 また顔を見合わせる。これで二度目だ。

 やっぱり、彼女とはどこかで会っている。どこだったっけ。


「ごめんなさい。私じゃなくて子どもの名前ですよね。たかみです。平仮名でたかみ」

「はい。たかみくんね」


 わたしは彼女から受け取った絵本を開き、1ページ目の真っ白なところにサインを書き込んだ。


 絵本作家になったのは10年前のことだった。

 最初は小説家志望だったのだが、長編小説が書けずに悩んでいた。

 そんな時にたまたま目にしたのが『絵本新人大賞』という公募だった。

 その公募は落選したが、その時にわたしの作品を評価してくれた絵本作家の先生が他の作品も見てみたいと言ってくれた。わたしはそれを真に受けて、その先生がやっている絵本作家講座に入会した。

 最初は色々とダメ出しをされて、自分は才能がないのではないかと思う日々が続いたりもしたが、幾つかのコンテスをに応募して、徐々にではあるが成績を残せるようになってきた。

 そして、第十回を迎える絵本新人大賞で、わたしの作品である『虹の向こう側』は新人大賞を獲得することができた。


 最初のうちは別の仕事をしながら絵本を描く日々だった。新人大賞を獲ったからといって、すぐに売れっ子作家となるわけではない。


「印税で生活水準が保てるようになるまでは、絶対に仕事をやめたりしないでくださいね。それと税金は1年後に来るってことも忘れないようにしておいてくださいよ」


 担当となった編集者が笑いながら言っていたが、本当にそうだと思ったのは1年後の税金の金額を見た時だった。絵本新人大賞には副賞として100万円の賞金がついていた。しかし、それも課税対象なのだ。嬉しさのあまり全額ぽーんと使ってしまっていたら、あとで痛い目にあうところだった。危ない、危ない。


「あのう……」


 サインを書き終わったところで、その彼女が何か言おうとした。


「次の方」


 隣にいた編集者が順番待ちをしていた親子を呼び込んだため、彼女はそのままわたしの前を去って行ってしまった。

 何だったんだろう。わたしの中にモヤモヤとしたものが残っていた。


「お疲れさまでした。大好評でしたね、先生」

「良かったですよ。誰も来なかったらどうしようって内心ヒヤヒヤしてましたから」

「そんなわけないでしょ。いまや先生は大人気絵本作家なんですから」


 編集者は満面の笑みで言うと、書店の担当者に挨拶してきますといって控室から出ていった。

 手持ち無沙汰となったわたしは控室を出ると、何気なく書店の売り場の方へと向かった。いま、どんな本が売れているのか見ておきたいと思ったからだ。


 誰もわたしには声を掛けてこない。先ほどまで絵本コーナーでサイン会をしていた作家だとは誰も気づかないのだろう。絵本を書いていない時、わたしは、ただのおばさんだ。


「あっ」


 声がしたので顔をあげると、そこには先ほどの彼女が立っていた。

 隣に子どもの姿は無かった。

 わたしは何となく頭を下げる。


「あの、私、青山栞です。高校の時に後輩だった……覚えていますか」


 そう言われた時、わたしの目の前にあったもやが一気に晴れていった。

 なるほど、そういうことか。通りで彼女を見たことがあったはずだ。彼女は文芸部の一年後輩だったのだ。


「もちろん、覚えているよ。あ、でも、さっきは気づかなかったや、ごめんね」


 わたしは嬉しくなって、彼女の手を握る。

 手を握られた彼女はちょっとうつむいて、どこか恥ずかしそうな顔を見せた。


 あれ?


 記憶のどこかに何かが引っかかっている感覚がする。何だろう、これ。


『先輩、私……先輩のことが好きなんです』


 そういって、彼女にわたしは唇を奪われた。わたしにとってのファーストキスだった。

 そのあとも、彼女はわたしに何度もラブレターを寄越した。

 けれども、わたしは彼女に返事は返さなかった。


「あ……」


 記憶が甦ったわたしは彼女の手を握ったまま、赤面した。


「ママー」


 子どもの声がする。彼女はわたしの手を離し、振り返る。そこには、背の高い男の人と先ほどのたかみくんが立っていた。


「先輩の絵本、とても気に入ってます。応援してます」


 彼女はそれだけいうと、子どもと旦那さんの方へと歩いていった。


 その後ろ姿を見た時、またわたしの記憶が蘇った。

 そういえば、彼女からもらった手紙はまだ家のどこかに眠っているはずだ。

 あれは何度か捨てようと思ったけれども、捨てられなかった手紙だった。

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捨てられなかった手紙 大隅 スミヲ @smee

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