第3話 「海」と「空」

                 第三章 「海」と「空」


 中西は、ゆかりが生まれてから、梨乃と会うことを控えていた。梨乃も中西の気持ちが分かるので、自分から身を引こうと考えていた。二人の関係はゆかりが生まれたことで、終わるはずだったのだ。

 しかし、世の中とは本人たちの意向でどうにでもなるだけのことではないようだ。お互いの気持ちとは裏腹に、事態が進行していくこともあったりする。

 中西は、そのことを分かっていたはずだった。梨乃が分かっていたかどうかは別にして、中西の中に、

――嫌な予感――

 のようなものがあったのも事実だった。

 しかし、涼子の入院中の二人は、完全に燃え上がっていた。中西は自分に妻がいることを忘れるくらいに自分の立場を見紛っていた。それは梨乃が今までに出会った女性の中にはいないタイプの女性だったということが一番である。面影としてはみのりを思わせるところがあったが、自分の初恋がみのりだったという思いからか、好きになった女性を、

――みのりのイメージを感じた――

 という理由づけをすることが、正当な理由だと思っていた。そうでなければ、自分を納得させることができない。特に梨乃とは、誰が何と言おうとも、浮気に違いないのだ。自分を納得させることが不可欠だった。

 梨乃とはいつも人目を憚るように会っていた。中西にも梨乃にも、その思いは新鮮なドキドキ感があった。背徳感というより、新鮮な気持ちは、まるで新しいおもちゃを与えられた子供のような心境だった。

「私、今まで普通の恋愛をしたことがないんです」

 と、梨乃が恥かしそうに言った。

「どういうことなんだい?」

「いつも、相手が強引に言い寄ってきて、いつの間にか、相手に強要されるような形でお付き合いが始まるんです。中西さんのような紳士なお方は、私には珍しく、もったいない気がします」

「そんなことはないよ」

 と、頭を掻きながら、照れ隠しをしていた中西だったが、それを見ながら実はほくそ笑んでいた梨乃に気付かなかったのは迂闊だった。

 いや、それは中西だけに限ったことではない。誰であっても、同じような状況に持ち込まれると、同じ心境になるだろう。しかも、相手は控えめな性格に見える梨乃なのだ。

――男冥利に尽きる――

 という言葉は、こういう時に使うのだろう。

 梨乃を相手のセックスでは、話とは裏腹に、強引でないと物足りないところが見えていた。本当はその時に気付かなければいけなかったのに、男というものは、どうしても一途になると、最初に信じた自分の感情を貫こうとする。

――梨乃の性癖は、今までの自分の男運のなさの反動が、そうさせるに違いない――

 と思わせた。

 梨乃のように控えめな態度を取る女性に対しては、どうしても、贔屓目に見てしまい、最初からこちらが下にいなければいけないような錯覚に陥らせるのだ。一旦自分が上に行ってしまうと、梨乃に対して高圧的な態度に出てしまいそうで怖かった。せっかく梨乃が最初に、自分のことを紳士的だと評してくれたのだ。自分からその期待を裏切るようなことをするというのは、愚の骨頂に違いない。

「恭三さんは、自分で納得しないと、なかなか行動に移さない人なんですね」

 と、梨乃から言われてビックリした。

 子供の頃から、その思いは変わっていないが、大人になるにつれて、その感情を表に出すこともなくなり、人から見て、気付かれることはないと思っていた。それなのに、最近知り合ったばかりの梨乃に、ここまで簡単に看破されるなど、想像もしていなかったことだった。

「どうしてそう思うんだい?」

「恭三さんとは、前から知り合いだったような気がするからかしら?」

 と、言って微笑んだ。

「それは僕も感じていたような気がする」

 というと、梨乃はさらにニコニコし、まるでしてやったりの表情になったが、怪しく歪んだ唇に、中西自身すでに惑わされていることに気付かなかった。

――これが梨乃の常套手段――

 自分と同じ考えを示してくれたと思っている相手に対し、その時に疑いを感じるなど、万が一にもありえるはずはないのだ。そこで疑いを感じるなど、どれほど相手に対して失礼になるかということを、中西は分かっているつもりだった。しかし、この場面で分かっているということは、自分に対してのアダになるのだった。

 梨乃と一緒にいる時、驚かされることが多かった。

 一つは、自分の考えていることを、ズバリと看過されることだった。

「恭三さんは、自分で納得しないと、なかなか行動に移さない人なんですね」

 というセリフを言われた時に、すぐに気が付いたが、さらに驚かされたのは、中西自身で気付いてはいないが、意識としては持っているようなことを看過されたことだった。

「恭三さん、私に誰か他の女性を被らせて見ているんじゃないの?」

 みのりのイメージがしたと思ったのをすぐに打ち消した中西だったが、それを看過されるような意識を、自分では持っていなかったはずである。それなのに、どうして梨乃がそんな言葉を吐いたのか、梨乃のイメージは今まで知っている中での女性にはいなかったはずである。

――ひょっとして、カマを掛けられているのかな?

 とも感じた。

 中西の態度や表情で、何を考えているのか探っているのではないかと思うと、迂闊にうろたえることは避けた方がよかった。

 それにしても、最初に感じた梨乃に対しての感情、

――控えめな性格の女性だ――

 という思いは、少なくとも修正しないといけないだろう。

 また、梨乃に驚かされたこととして、梨乃は自分の過去を隠そうとはしなかった。今までに付き合った男性との話もしてくれた。話の様子では、三人の男性と今までに付き合ったことがあるようだ。

「一番印象に残ったのは、最後に付き合った男性だったわ」

 その頃にはすでに梨乃とは深い関係になりつつあった。まだ、これからも関係が深まっていく段階にあることを示唆するような会話も今までにあったし、梨乃が今まで付き合っていた男性のことを隠そうともせずに話すのは、

――梨乃の性格というのもあるだろうが、俺に対しての想いがあるからに違いない――

 と感じていた。

「どうして、僕にそんな話をしてくれるんだい?」

 と聞いてみると、

「最後に付き合った男性は、最低なところもあったんだけど、どこか忘れられないところもあったの。最低なところが目立ったので別れることになったんだけど、恭三さんが、彼の忘れられないところと似たものを持っているのよね。だから私は、恭三さんに惹かれたのだし、こうやって過去のことをあなたになら話せると思ったの」

「君は、今まで付き合った男性に対しても、今の僕に対してのように、過去のことや、前に付き合った男性の話をしたりしたの?」

「した人もいるけど、しなかった人もいる。しなかった人は、最後に付き合ったその人だけだったわ。とっても、話ができるような雰囲気じゃなかったから」

「それは、その人が猜疑心の強い人だったからだということかな?」

「そうね。確かに猜疑心は強かった。でも、それ以上に、その人に過去の話をすると、間違いなく嫌われるのは分かっていたのよ。その人に対しては、もし別れることになったとしても、嫌われるのが分かっていることを敢えてして、別れるような形にしたくなかったというのが本音かしら」

 その言葉に、梨乃の性格が現れていた。彼女は別れる場合も、何か納得できるものがほしいのだ。そういう意味では中西に似ている。中西の性格を看破できたのは、自分の中にある性格を感じているからなのかも知れない。

 しかし、実際に自分で把握しているかどうかは怪しいものだ。

 中西であれば、自分の性格と似ているところを、分かっていて敢えて指摘するようなことはしないだろう。

 中西は、梨乃の性格分析を、自分なりにできているつもりでいた。それは自分と似ているところから見ることで、簡単にできると思っていたからだ。

 しかし、思っていたこととは裏腹に、深く掘り下げれば掘り下げるほど袋小路に嵌りこみ、相手の術中に入っていることに気付いていなかった。

「でも、その最後に付き合った人が、私の性格を決定づける相手になったというのは皮肉なものね。恭三さんは、私のことを二重人格だって思っているでしょう?」

 ここで、

「いいえ」

 とは、正直言えなかった。言ってしまうと、それ以上、会話が成立しない気がしていた。それまでの話がすべて、このことの振りだとすれば、ここで否定してしまったら、話は先に進まなくなってしまう。

「確かに、そう思う」

 少し重みのある言い方をした。とても軽く言える言葉ではない。だが、それも中西の性格がそうさせるのだろう。もし自分だったら、軽く流されると腹が立つという気持ちと、重みのある言葉は、不安を募らせるので、本当は嫌なのだが、本音を聞きたいという意味では敢えて重みのある言い方が、この場面では合っている。

 そういえば梨乃は、中西のことを紳士だという表現をした。

 最初は、

――お世辞なんだろうな――

 と思っていたが、それまでに付き合っていた男性と比較したという時点で、

――本音なのではないか?

 と考えるべきだったのかも知れない。

 それを考えなかったということは、中西の中に、梨乃に対して自分の理想像を見ていて、――理想像と現実とが違っているかも知れない――

 という意識を持ち始めていたことを、敢えて無視していたのだろう。

 そう思うと、中西の中で温めてきた自分の理想の女性というイメージが、少しずつ変わってきているのではないかと思えた。

――梨乃がみのりのイメージを変えた――

 と、言えなくもなかったのだ。

 だが、梨乃によって、みのりのイメージを変えられたことに、不思議と嫌な気はしなかった。以前の中西なら、梨乃のようなタイプの女性を好きになるということはなかったはずなのに、特に、

――梨乃の身体に溺れた――

 という意識は確かに中西にはあったが、それだけではないことも分かっている。それなのに、梨乃へのいいイメージは次第に消えて行った。

 かといって、悪いイメージが増強していったわけではない。かつての中西なら悪いイメージだったはずのことが、悪い印象ではなくなってきたということは、それだけ、自分の考えに説得力を感じなくなったのかも知れない。

――梨乃も説得力を感じると自分で言っていたっけ――

 似たところがあることから、自分の信念に対して、どこか疑問を感じながら、感覚がマヒして行ったのかも知れない。同じ感覚がマヒするのであっても、疑問を感じながらであれば、それだけ余計に自分が感じていることに、一度は持った疑問が、もし解決されれば、再度疑問を持つことは二度とない。疑問を持つということは、そういうことなのだ。

 今まで、中西は、みのりに対して疑問だらけだと思っていたが、

――疑問を持っているからこそ、覚えていられるんだ――

 とも感じていた。

 夢に何度も出てきたのを覚えているが、その時のみのりは、いつも同じ人格の同じ雰囲気だった。完全に自分が作り上げた「幻想」だったのだ。

 今から思えば、

――夢を見ていたことを忘れていることもあるのではないか?

 と感じることもある。それは、

――夢をもっとたくさん見ていて、覚えているのは、理想像のみのりだけだ――

 という考えである。つまり、覚えているのは、

――自分の理想としているみのり以外の夢を見た時だ――

 という考えも成り立つのではないだろうか。

 みのりという女性は、中西と同じで、

――自分で納得したことでないと信じない――

 という少女だったのかも知れないと思った。

 だからこそ、あれだけ気高く、少々のことには動じない雰囲気に見えるのだ。お嬢様ということもあり、動じない姿が、

――世間知らずだ――

 という風に見られるかも知れない。だが、他の人が何と思おうとも、中西としては、

――気高く、物動じしない性格がみのりなのだ――

 と、思えてならないのだった。

 ただ、それでも意識の中に、

――可愛らしさを残しておきたい――

 という思いから、世間知らずのイメージを消し去ることはできなかったのだ。

――夢を忘れてしまっているとすれば、忘れてしまった時の夢とは、どっちなのだろうか?

 世間知らずなみのりの夢なのか、それとも、気高く物動じしない時の、みのりの夢なのか、中西は考えていた。

 夢を忘れてしまっている時は、自分が覚えていたくない方だろうから、気高く物動じしない時のみのりの方だと思っている。

 梨乃は、自分のことを隠そうとはしなかった。今までに付き合った男性のことも話してくれたからだ。それはそれで、嬉しかったのだが、よくよく考えてみると、この後、梨乃が自分と別れて、他の男性と付き合うようになると、

――その時、自分のことをその男に話すんだろうな――

 と感じた。

 一体、どんな話をするというのだろう? 

 中西は既婚者である。中西としてはそれほど意識をしているわけではないが、梨乃の方はどうだろう? もし自分が梨乃の立場だったら、相手が既婚者の場合、自分の方が立場が強いと感じるのではないだろうか。

 しかも梨乃は、妻である涼子のことも知っている。二人して涼子を欺いている形にはなっているが、中西が感じる思いと、梨乃が感じる思いに、相当な差があるに違いない。

 あって当然である。中西に対しては強い立場である梨乃は、涼子に対して後ろめたい気持ちになるはずだ。ただ、中西が背徳の思いを強く持っているということを梨乃が感じているとすれば、それは大きな勘違いだ。

 中西が背徳の思いを感じていないというのは、中西本人が感じているだけで、まわりの人たちにはどのように伝わっているのだろう?

 梨乃が感じた中西の背徳の思いが本当で、中西自身、自分の考えを見誤っているとすれば、二人の関係は、二人がお互いに感じていることよりも、かなり複雑に絡み合っているのかも知れない。

 中西は最初から、梨乃との関係を、

――子供が生まれるまで――

 と考えていたわけではない。

 むしろ、子供が生まれても、続けられる間は続けたいと思っていた。それは、梨乃に対して最初に感じた「癒し」の思いが強いからだった。

「癒し」は暖かさである。

 中西は、自分に子供ができたということを涼子から聞いて、最初はピンと来なかった。それは別に子煩悩だったわけではないからで、まるで他人事のように感じたからだ。しかし、他人事というのは、それだけ自分をしっかり見ようという表れでもあった。大イベントに、何となくだが心がときめく感覚が、今まで感じたことのない感覚だったことで、その正体を見極めたくなったのだ。

 子供が生まれた時の脱力感、それを中西は、後から思い起すと、

――あれこそ、それまで感じていた「癒し」とは違う「癒し」で、本当の「癒し」だったのかも知れない――

 と感じた。それが中西の梨乃に対しての思いの転換点の始まりだったようだ。

 だが、「癒し」を感じたのは、中西だけで、梨乃にはその思いが伝わらないだけに、中西が離れて行こうとしたのを、

――自分に対する裏切り――

 だと思ったに違いない。

 それでも、梨乃は中西と別れようと思っていた。

――相手が、子供だけに勝てるはずがない――

 と思ったからだ。

 しかし、梨乃が中西と別れられなくなったのは、中西がついた「些細なウソ」から端を発していた。

 中西は梨乃と別れるつもりだったので、あまり自分のことを秘密にしない梨乃を見ていると、次に付き合う男性に、

――自分のことをどのように言われるか分からない――

 という危惧があり、考えなくてもいい余計なことを考えてしまったことで、些細なウソをついてしまった。

 しかし、些細なウソほど相手に気付かせるものであり、相手を深く傷つけるものだということを得てして誰も分からないものではないだろうか。

 中西にとっての「些細なウソ」は、本当のことに限りなく近いものだった。中西自身は、それをウソだと思っている。些細なウソではなくである。

 中西の意識の中と、中西が感じていることとで差がある以上、相手には、また違った意識を植え付ける。ウソの中に登場する人物を中西は、ずっと意識していたみのりをイメージしていたが、みのりのことを実際に知らない梨乃は、中西が意識している相手を涼子だと思っていた。

――でも、何かが違う――

 梨乃はウソを形作っている人が涼子だとすると、

――この違和感は何なの?

 と思わざるおえなかった。言い知れぬ疑念が浮かんできて、梨乃の中での精神状態が情緒不安定になってきた。

 中西は、そんな梨乃を放っておけるようなタイプではなかった。ただ、自分に子供ができたことで、どちらに対しても中途半端になることだけを恐れていた。

 中西は、次第に自分が些細なウソをついたということを忘れていった。梨乃が、そんな中西を見て、疑心暗鬼に陥ったことから、情緒不安定になったことを分かっていない。

――しばらくそばにいてあげることで、梨乃は立ち直ってくれる――

 と思っていたが、その考えは甘かった。

「私、あなたの子供がほしいの。あなたには迷惑を掛けないわ」

 ということまで口にするようになっていた。

 さすがにその言葉を聞いた中西は、恐怖におののくようになり、

――このまま梨乃と一緒にいるわけにはいかない――

 と感じるようになった。

 梨乃から離れようとする中西だったが、それから半年ほど、梨乃と別れることができず、苦悩の日々が続いた。

 しかし、なぜか急に梨乃が中西から離れるようになってきた。

――よかった――

 と思って、ホッと胸を撫で下ろした中西だったが、一か月もしないうちに、今度は自分が物足りなくなった。

――自分が自分ではなくなったかのようだ――

 と感じたが、地に足が付いていないような焦りがあったわけではない。

 どちらかというと、足がないのに、あるつもりのような、足の先だけ麻酔が効いていて、自分のものではないような感覚だった。

 つまりは、自分の中で心変りをしたわけでもないのに、どうしてこんな心境になるのか、自分でも分かっていない。

 今度は、中西が梨乃を追いかけるようになった。

 ただ、あからさまな様子を取るわけではない。精神的に梨乃の気を引こうという気になっていただけだ。

 中西自身、

――さりげない態度は紳士的に見えてくれるだろう――

 と、いかにも自分に都合よく思っていた。

 しかし、そんな態度ほど、相手からすれば、

――わざとらしく見える――

 に違いない。

 梨乃もそうだった。特に梨乃のような女は、相手が逃げようとすれば追いかけるし、相手が自分に引き付けられているのを見ると、焦らしたくなるタイプなのだ。

 中西も同じだった。ただ、二人の間で大きな違いというと、梨乃には自分の性格が分かっていたが、中西には分からなかった。中西は、相手がそんな性格だとすれば分かる方だった。分かるだけに、

――自分がもし同じような性格なら、自分で分かるはずだ――

 と思うに違いない。なぜなら、中西は自分のことを客観的に見ることができるからだと思っている。

 そんな中西と梨乃は、いつしか気持ちの上ですれ違っていた。それも、梨乃には交差したことが分かっていたが、中西には分からない。梨乃はそれだけ冷静になっていたのに、中西は冷静なつもりで、冷静にはなれていなかったのだ。

 中西が自分を納得させられなくなったことで、梨乃を追いかけるようになったが、それも長くは続かなかった。中西が我に返ったのは、

「私、子供ができたの」

 と、梨乃から言われた時だった。

「俺の子ではないよね?」

 と、最初にそう聞いてしまったことで、すでに、普段の中西ではなくなっていた。普段の中西なら、梨乃の身体のことを先に気にするはずだが、その時の中西には精神的な余裕がなかった。

 頭がどうしていいか分からなくなった時、中西は自分を客観的に見ていたはずなのに、その時は、客観的に見ることができなくなっていた。

「さあ、あなたの子供じゃないんじゃない? そんなこと言う人に親の資格なんてあるはずありませんからね」

 中西は、その言葉を聞いてドキッとした。言葉にもドキッとさせられたが、その時の梨乃の態度が信じられなかったからだ。

 子供ができたということ自体に最初、梨乃が何かを言いたくて、カマを掛けてきたのではないかと思っていたが、梨乃の態度を見ていると、妊娠という話だけは本当のことに思えた。もっとも、子供ができたということを信じたからこそ、自分の子供なのかなどということを口に出したに違いない。

――梨乃がカマを掛けたなどということは、分かっていての気休めだったんじゃないだろうか――

 と、思ったのだ。

 元々控えめなところがあった梨乃だったが、中西に対して饒舌だったことが嬉しかった。お互いに他愛もないことを話している時が一番楽しかった。

――別に涼子に不満があるわけじゃないんだけどな――

「幸せボケ」というわけでもないと思っている。涼子と一緒になって嫌だったと思うことは一度もなく、涼子に不満を感じたこともなかった。

 しかも子供ができて、本当なら幸せな気持ちで自重すればよかったはずなのに、梨乃に惹かれてしまった。

――これも男の性のようなものかな?

 と思ったが、別に悪いことではないとすぐに思った。

――バレなければいい――

 などと思ったのも一瞬で、それ以上に、梨乃と仲良くなったことに罪悪感を感じなくなっていた。

 だが、子供が生まれたと言われた時にはビックリした。避妊には気を付けていたはずだったのに、

――できるはずがない――

 と思っていたが、「子供ができた」と聞いた時、持っていた自信が少しずつ瓦解していった。

 それは、梨乃が信じられなくなったわけではない。自分の思いこみが信じられなくなった。それなのに、梨乃に対して、

「俺の子ではないよね?」

 などという言葉はないだろう。

 中西は頭の中で混乱していた。自分の妻である涼子に子供ができたその時に、自分の気持ちに正直になった相手の梨乃との間にも子供ができてしまった。梨乃に求めたのは、「癒し」だった。それだけだったはずなのに、

――それがいけなかったということなのか?

 と、中西は思っていた。

――梨乃はどうだったのだろう?

 梨乃が中西に対して自分に子供ができたことの告白は、結構勇気のいることだったに違いない。

「子供ができた」

 と、もし浮気相手に告げた時、相手がどう反応するかによって、すべてが違ってくるからだ。

 梨乃は中西に対して二つのことを考えていた。

 一つは、今回のように、

――自分の子供だと認めないだろう――

 という考え方。

 開き直って突き放すような言い方を中西はするはずがないことは分かっていた。そこまで中西が自分のことを普通に見つめることはできないと思ったからだ。何かあればすぐに客観的な目になって、他人事のように感じる中西に、

――相手に対して開き直るようなことはないだろう――

 と思えたのだ。

 実際に開き直ることはなく、恐る恐る話を聞きながら、他人事のように接する中西の言葉は最初から分かっていたのだ。

――どうせ、この人は最初、自分の子供なのかどうかを、私に聞いてくるんだわ――

 という思いがあった。

 その通り聞いてきたわけだが、梨乃も最初から、憎まれ口を利くつもりはなかった。最初から分かっていたつもりだったのだから、想像していたようなことを言われたら、セリフは最初から想像していたわけではないのに、憐みを持った言葉を発すると思っていたのだ。まさか憎まれ口を利くなど思ってもみなかった。

――私も、それだけ頭が混乱しているのかも知れない――

 それともう一つ考えたのが、

――彼が、もし最初に疑いの言葉を掛けてこなければ、堕胎だけしか選択肢はないと思っていたのに、彼が簡単に思っていた言葉を吐いたことで、私はどうしていいか分からなくなった――

 という思いだった。そんな思いにさせた彼に対して、憎まれ口の一つも叩きつけたいと思うのも無理もないことだろう。

 もう一つ中西に対して考えたことは、

――あの人がもし子供のことを認めない言葉を言わなければ、ずっと黙ったまま、私は何も言わないんでしょうね――

 という思いだった。

 中西は、一度にいろいろなことを考えようとするくせがある。これは中西本人には分かっていないことだった。少しでも彼と仲が深まった人間にはすぐに分かることであり、それだけ中西は、

――分かりやすいタイプの人間だ――

 と言えるのではないだろうか。

 一度にいろいろなことを考えようとするということは、

――忘れっぽい性格だ――

 ということだ。

 いや、忘れっぽいというより、一つのことを考えながら、余計なことが頭を過ぎると言った方がいいのかも知れない。だから、

――今考えていたことを忘れてしまった――

 と感じるのであり、またそれと同時に、一度にいくつものことを考えてしまう性格になってしまうのだった。

 しかも、考え始めでいきなりいろいろなことが頭を巡ってしまっては、収拾が付くはずもなく、考えていることが堂々巡りを繰り返してしまう結果に陥ってしまう。

 それが、中西の判断力を鈍らせる一番の理由である。

 最初に閃いたことをそのまま信じられるような性格であれば、もっと違った考えが生まれるかも知れない。

――ひょっとすると、リーダーシップを取れる人間だったのかも知れない――

 と、梨乃は考えていた。

 梨乃は、控えめなところがあるのは、

――余計なことを頭に入れたくない――

 と思っているからだ。

 控えめにしているということは前に出ているわけではない。前に出ないで後ろから見ている方が、明らかに広い範囲を見ることができる。一つのことに集中はできないが、全体を見ることができるというのは、

――攻撃は苦手だが、守勢に回った時に、大きな力を発揮することができる――

 と梨乃は考えていた。

 梨乃は決して控えめな性格ではない。攻撃的ではないが、逃げ腰というわけでも決してない。

 逆に言うと、梨乃を見ていて、控えめな性格に見える人というのは、自分が攻撃的な性格の人だと梨乃は思っていた。

 だが、中西は決して攻撃的な性格ではない。しかも、守勢的というわけでもない。そんな中西だからこそ、梨乃の方は惹かれたのかも知れない。

――自分にない、しかも、よく分からないが、興味の深い部分を持っている男性――

 それが梨乃にとっての中西だったのだ。

 中西は、梨乃がどれほど自分のことを考えていてくれているか分からないが、ここまで考えてくれているとは思っていないはずだ。ここまでくれば、梨乃の考えは、「人間分析」であり、梨乃の相手と接する距離は、人間分析をする上で、絶妙の距離であるということであろう。

 やはり、これも梨乃が育った環境から育まれた性格から来るものなのだろう。それは中西の子供の頃、涼子の子供の頃、それぞれとはまったく違っているのだろうということを感じているのは、梨乃だった。

 中西は、自分のことを客観的に見て、他人事にしてしまうところがあるが、それを知った瞬間、

――この人の過去は、私とはまったく違う――

 と感じた。

 梨乃は、むしろ子供の頃、中西のように、自分を客観的に見て、他人事のような目をしていた。小学生の頃にそのことに気が付くと、

――こんな性格嫌だ――

 と、自分を変えることを考えた。

 なかなか容易に性格を変えるなどできるわけではなかったが、梨乃には、小学生の時点で自分の性格を看過することができるだけの力があった。自分の性格を変えることができたのは、子供の頃の性格がしっかりしていたからであろう。

 今の方がしっかりしていないというわけではない。過去に性格を変えたことで、控えめな態度を見につけるだけの冷静さを持つことができた。そして、子供の頃のしっかりした性格を控えさせることによって、いざとなれば、物動じしないようになっていたのも、分かるというものだった。

 梨乃は自分のことを、

――二重人格だ――

 と思ったことがあった。

 だが、どちらも悪い性格ではないと思っていることで、

――二重人格でなぜ悪い――

 と考えるようになった。

 それだけ、まわりの二重人格に見える人にも、いきなり偏見を持つのではなく、どんな性格をしているのかということを計り知ろうとした。

 二重人格の人というのは、最初の印象で、

――この人は二重人格だ――

 と感じる。

 もちろん、最初にどちらか強い方の性格をその人の性格だと思うことがほとんどなのだが、二重人格だと感じた瞬間、その人を偏見で見てしまうような考えを持っている人は、少なくないと思っている。

 だが、梨乃は最初に二重人格だということを分かった時に偏見を持つわけではなく、相手の性格を冷静に分析しようとする。偏見を起こしてしまうのは、元々感じている性格とは別に、その人にもう一つの性格を見出すということがどれほど難しいかということが分かっていることで、

――余計なことはしたくない――

 という思いが働くからに違いない。

 だが、梨乃はそのことを分かった上で相手の性格を見ることができないと、

――自分の中にある二重人格を自分で許すことができない――

 と思ったからだ。

 梨乃も、自分を納得させなければいけないと思っている性格なので、自分の二重人格をいかに自分の中で納得させるかということ考えを巡らせている。

 中西は、そんな梨乃に惹かれたのかも知れない。

 それは、梨乃の中にある、

――潔さと、賢さ――

 だった。

 潔さは、中西の中では、判断力だと思っている。それは中西に一番欠けているものであり、梨乃もそのことは分かっているつもりだった。

 しかし、中西が梨乃に求めたのは、「癒し」だったはずだ。梨乃の中に、どのような癒しがあったというのだろう。梨乃にはよく分からなかった。

「俺は、梨乃に癒しを感じるんだ」

 何度となく中西が梨乃に言った言葉だった。

 会話の中で一番多く言われた言葉だっただけに、どうしても意識してしまう。意識してしまうが、その意図が分からない。

――ひょっとして、何かを勘違いしているんじゃないかしら?

 とさえ感じたほどだ。

 だが、勘違いだって、その人の取り方によっては、「真実」になるということもないことではない。では、梨乃が感じていることは真実ではないということだろうか?

 梨乃は自分の身体に宿した命は、中西の子供に間違いはないと思っていた。

 中西と知り合う前に付き合っていた男性がいたが、その人と別れてからかなり経つ。それから中西と不倫関係になるまで、男性経験があったわけではない。やはり中西以外には考えられない。

 しかし、梨乃は実に不思議だった。

 確かに中西は避妊をしてくれていたし、妊娠の可能性は限りなくなかったはずだ。それなのに妊娠してしまったのだから、中西がいう、

「俺の子ではないよね?」

 という言葉には無理はない。

 いや、これは中西でなくとも、否定したくなっても当然のことだ。否定しない方がどうかしているとも言える。

 だが、梨乃はなぜか中西に対して憤りを感じた。

――私はあの人に、必要以上の何かを期待しているのかしら?

 そういえば、以前付き合っていた男性からも、

「お前といると、重たすぎる」

 と言われた。

 その言葉が直接の動機ではないが、決定打の一つになったことは確かだった。しかも、今その人のことを思い出すと、最初に思い出すのはその言葉だった。他にもいっぱいいい思い出はあったはずなのに、最終的に思い出すのが、その衝撃的な言葉だったのだ。

――そんなに、私は人に対して過大な期待をしてしまうのかしら?

 しかも、それを相手に悟られてしまって、それが重荷になってしまう。それは、梨乃にとっては、思ってもみなかったことだった。

 梨乃は、自分以上の相手でないと、付き合いをしないと決めているところがあった。

 梨乃自身は、自分に対しての評価はそれほど悪いものだとは思っていない。だから、時々、自己嫌悪に陥ることがあった。

 自己嫌悪に陥るということは、それだけ自分がしっかりしていて、間違っていないと思っているからで、それが逆にプレッシャーになっていることに、気付いていない。だから、自己嫌悪に陥った時も、その理由と、突入契機がどこにあったのか、なかなか分からない。

 すべてはそこから始まるのに、始まるところが一番難しいというのも皮肉なことで、梨乃はそれだけ自分のことを分かっているつもりで、実際に分かっていないということを、自己嫌悪の時に思い知らされることになるのだった。

 梨乃が一体中西に何を期待していたというのか、正直分からないが、中西には梨乃が、

――俺に対して、何かを期待している――

 という思いは感じていた。

 それが、どんな思いなのか、漠然としてではあったが、分かっているつもりだった。

――梨乃に対して癒しを求めているということは、俺も、自分の中にある感情で、梨乃が癒されてくれるといい――

 というような、ケースバイケースのような感覚だったことに気が付いた。

 その癒しがどのようなものなのかということを、密かに期待していた。梨乃が与える「癒し」に対し、中西はプラスアルファを添えて返してくれる。それがどんなものなのかという期待があったのだ。

 それが、まさか子供という形のものになるとは、梨乃は想像もしていなかった。

 梨乃は子供が嫌いだというわけではない。だが、父親が否定する子供を産む勇気は自分にはなかった。

――子供が可哀そう――

 という気持ちの中に、それだけの

――自分には育てられない――

 という気持ちが含まれているのかということが重要だった。

 確かに子供が可哀そうだという気持ちが一番大きい。その理由として、父親に認めてもらえないという思いと、そんな子供を自分一人で本当に育てていけるのかというのが強かった。

――好きな人の子供を産んで、その子を父親と一緒に愛情を持って育てる――

 というのが、子育ての基本だと思っている。

 しかも、よくニュースなどを見ていて出てくる、子供の遺棄だったり、さらには虐待だったりするのを見ていると、そのほとんどが、内縁の夫との間にできた子供で、ドロドロの家庭環境が思い浮かぶ。それを思うと、相手は奥さんのいる人で、子供は、

――不倫の子供――

 になるのだ。生まれてきた子供は、最初から「負の要素」を持って生まれてくることになる。

――そんな子供を育てるのだ。生半可な覚悟でできることではない――

 と考える。

 正直、失敗が許されることではない。それは、どんな親にも言えることだが、それだけに、「負の要素」がどれだけのものなのかを分かっていない自分に子供が育てられるわけもなかった。

――彼に言わずに、密かに堕胎することもできた――

 と思ったが、それだけはできなかった。絶対に彼には知っておいてもらわなければいけないことだと思ったのだ。

 中西は、頭の中でいろいろな思いが交錯していた。

――確かに子供は自分の子供ではない可能性が限りなく高いが、梨乃がその間、他の男性と愛し合ったという思いも感じられない。このままでは、梨乃を放置してしまうことになる。それだけは絶対にできない――

 かといって、自分の妻の涼子にも子供ができた。今、梨乃が懐妊し、不倫していたことが分かってしまうのは、まずいことだと思った。

――どうしたらいいんだろう?

 考えがまとまらず、いたずらに時間だけが経ってしまっていた。最初、完全にどうしていいのか分からずの状態で中西に相談してきたであろう梨乃も、少し落ち着いてくると、もう中西にこの話をしなくなった。中西が涼子とゆかりを大事にしたいという気持ちがあるからか、梨乃の方も中西に近づけなくなっていた。

 時間が経つにつれ、自分が冷静になってくるにつれ、梨乃は子供を堕胎する方に考えが傾いていた。最初は、

――意地でも子供を産む――

 という思いに駆られていたが、それこそ、自分の意地であり、

――子供のためにはよくないことだ――

 という考えはほとんどなかったのである。

 そんな梨乃だったが、落ち着いてくると、

――このまま産んでも、この子は父親のいない子供として生きていかなければいけない――

 ということを覚悟しなければいけなかった。そんな子供に対して、自分がどう接すればいいのか分からない。結局子供を産んでも、不幸にするだけなら、このまま生まれてこない方がいいに違いないと思うようになっていたのだ。

 そこには、

――自分が子供の立場に立てば――

 という考えが大きかったのは、自分でも分かっていた。そこが、中西にはないところだった。追いつめられると他人事のように考えてしまう彼のことは、前から分かっていたことだった。

 梨乃は中西と話をしていた時のことを思い出していた。

「僕は子供の頃から絵を描くのが好きだったんだけど、海の絵を描いたことがあって、その時に感じたことなんだけど、海と空の間に窪みのようなものがあって、全体を見渡すと、海と空だけが世界を支配しているように思えたんだ」

 梨乃は、中西が何を言いたいのか分からず、話を聞いているしかなかった。相槌を打つこともせずに、ただ中西の息遣いを感じながら、彼の次の言葉を待っていた。

「それでね。ずっとそこだけを見て描いていると、どちらが大きいのかって考えるようになったんだけど、そう思っている以上、どちらが大きいということは言えなくなったんだ」

「それで?」

「その時に、世の中って、すべてが何か二つあることに支配されているんじゃないかって感じたんだよ。対照的な何かがそれぞれ存在するから、世の中って成り立っているんじゃないかってね」

 梨乃は、その話を聞いて、何となく分かったような気がした。

「そうね。確かに世の中には対照的なものが必ずあるわね。明と暗、善と悪、海と空というのもそうなのかも知れないわね。でも、『有』と『無』というのも対称って考えていいのかしら? 二つの勢力がまったくの中間に位置しているわけではないでしょう? たとえば数字で考えてみて、ゼロから百までを考えてみて、ゼロだけを一つの分類に考えて、一から百までを一つと考える人、また、百にならなければ、ゼロも九十九も同じだと思う人もいるでしょう? さらに真ん中で切って考えようとする人もいる。人それぞれなんだけど、どれが正しいと言いきれないところもあると思うのよね」

「数字のたとえでいうなら、僕はゼロか、それ以外で考えるかも知れない。もっとも、その考えの人が一番多いと思うんだけどね。二番目の百かそれ以外で考える人は、いわゆる『完全主義者』ということになるんでしょうね、僕には理解できないけど」

 その話を聞いた時、梨乃は、中西が物事を考える時、

――どうして、彼が他人事のような客観的な目で見ることができるんだろう?

 という疑問が少し分かったような気がした。

 梨乃は、そこまで考えてくると、

――やはり子供は産まない方がいいんだ――

 と考えるようになった。

 確かに、自分のお腹の中にいる子供の父親が中西であることは、ほとんど考えられない。しかも、梨乃は他の男性と愛し合ったわけではない。子供ができること自体、ありえないことだった。

 それなのに、子供ができてしまった。まるで「聖母マリア」のようではないか。

 しかし、現実はそうはいかない。子供を産むか堕胎するかの二者選択でしかないのだ。

 梨乃は中西に相談はしてみたが、返ってくる返事は分かっていた。自分の子供ではないことがハッキリしているのに、それを安易に認めるようなことを、誰がするというのだろうか。

 あれから、中西は何も言ってこない。最初こそ、いつものように他人事のように感じていたのだろうが、今の中西は、彼なりに悩んでいるのではないかと思うようになった。

――彼に連絡を取ろうかしら?

 と何度考えたことだろう。だが、それを何とか思いとどまった。そうこうしているうちに、梨乃は自分の気持ちがスーッと落ち着いてくるのを感じた。

――この調子で精神状態が落ち着いてくれば、私の中だけで何とか結論を見つけられそうな気がするわ――

 と感じた。

 結論を自分の中で見出せないのは、まわりのことをまず先に考えてしまうからではないかと、梨乃は感じるようになっていった。

――これが彼と私の一番の違いなんだわ――

 と梨乃は感じた。

 中西は、当事者になって追いつめられると、他人事のように客観的にモノを見る性格だった。そのことを本人はもちろん、梨乃にも分かっていた。きっと涼子にも分かっていることだろうと思う。

 中西に近いところにいない人は、彼に対してまさかそんな性格だなどということを悟る人はいないだろう。だから、彼は見る人によって、性格の感じ方が違うのだ。

 そこには、境界線のようなものがある。中西には、どこか自分の中で決めている境界線のようなものがあって、その上で、まわりの人が踊らされているのではないかと思えるところがあった。

 中西という男性を見ていて、梨乃は、

――どうして自分が最初に彼に惹かれたのか分からない――

 と思っていた。

 別にパッとしたような他の人にはない魅力が感じられたわけではない。

――いつの間にか気が付けば彼に惹かれていた――

 というのが本音であった。

 だが、そんな恋愛もいいものだと梨乃は思っている。別に交際相手が自分の理想の男性でなければいけないという確固とした思いがあるわけではない。

――その時好きになった人が、私の理想の人なんだ――

 と感じていたからだ。

 そのことを他の人に話すと、

「理想の人がいないということは、結局誰でもいいっていうことないの?」

 と言われたことがあり、ハッとさせられた。

「確かに理想のタイプがいないというわけではないが、実際に付き合う人は、理想の人ではないことが多いわ」

 というと、

「それは誰でも同じ。私も実際にそうなんだけど、でも、理想のタイプというのは、自分の中にしっかり持っているものなのよ」

 といっていた。

 彼女の言うことは間違ってはいない。確かにその通りなのだ。だが、梨乃にはなぜか理想の男性を思い浮かべることはできなかった。

――理想の人だと思える人が現れて。初めてそこで気付くというのではいけないのかしら?

 と感じていた。

 今までに何人かの男性と付き合ってきたが、そのすべてが相手から交際を申し込まれた時、

――断る理由が見つからないから――

 ということで付き合ってきた。

 告白した男性からすれば、有頂天だったことだろう。

 だが、付き合ってみると、すべてが受け身、男性からすれば、

――何か物足りない――

 と思ったとして当然だった。

「あれだけ相手が有頂天になっていたのに、別れる時は本当にアッサリしているのね」

 と友達から皮肉を言われた。しかし、それが真実であり、事実であった。

 彼らとはそのすべてが自然消滅であり、却って別れた男性は、アッサリとしたものだった。それが梨乃には救いに感じられた。だが、これを本当に、

――恋愛経験をした――

 と言えるのだろうか?

 恋愛経験というのは、もう少し違うものだと思っていた。

 そんな自分に疑問を持っていた時、美容室で勤め始め、まわりからは真面目で控えめな性格に見られ、好感度が結構あったというのは、皮肉なものだった。

 その時知り合った涼子のつてで知り合った涼子の夫である中西、彼をまさか好きになってしまうなど、梨乃には想像もつかなかった。

 前の男性と自然消滅してからしばらく経っていたので、そんなに寂しいという思いは消えていた。

 さすがに自然消滅とはいえ、男性と別れてしばらくは寂しさがこみ上げてきた。しかし、それがどこから来るものなのか分からない梨乃は、正直自分を持て余していたような感覚になっていたのである。

 梨乃は、中西の中の何に惚れてしまったのだろう?

 正直、今も分かっていない。他の人にはない何かを感じたのだろうが、一番今大きく感じていることは、

――この人は、追いつめられたりした時は、他人事のように客観的にまわりを見ることのできる人で、だからと言って、逃げているわけではないように感じるところかしら――

 というところであった。

 さすがに子供ができたことで浮足立ってしまった梨乃が中西に相談した時、彼の様子にそれまで感じていたことと違った感覚を覚えたのも事実である。しかし、それは中西に限らず誰でも同じことだろう。だが、梨乃は中西の中に、

――他の人と同じ――

 ということを求めているわけではない。

――彼でないとできないこと、言えないことを求めているんだわ――

 ということを彼と話ながら感じた。

 最初こそ、当然のことであるが、彼は子供のことに疑いを向けた。しかし、話をしているうちに、他人事だと感じながらも、逃げようとしない彼を感じることができた。頭の中がフル回転しているが、どうしても堂々巡りを繰り返す。それは、自分が彼の立場でも同じことだったに違いない。

 それから、ずっと彼からの連絡は途絶えている。

――一番連絡してほしい時なのに――

 梨乃は、女としての自分の弱さを感じていた。

 だが、その時感じたのが、

――私が待っていた男性は、やっぱり彼だったんだわ。どうして彼は涼子さんの夫なのかしら?

 と複雑な思いを感じていた。

 自分の中の考えの矛盾は、梨乃が今まで考えたことのないものだった。その時に感じたのが、

――恋愛というのは、矛盾がなければ存在しないのかしら?

 というものだった。

 しかし、それはあまりにも突飛な考えで、それまで自分が本当の恋愛をしてこなかったという証拠でもあっただろう。

 しかも、その考えの発展が、

――懐妊するはずもないのに、子供ができてしまった――

 という思いである。

 その思いがどれほどのものか、男の中西に分かるはずもない。

――藁をも掴む――

 という思いで、何とか中西に相談した梨乃だった。

 今までの梨乃であれば、そう簡単に人に相談するようなことはなかったはずだ。しかし、事が重大であり、問題は自分一人で解決できるものではないことがハッキリしているのだから、中西に相談するのは当然のことであった。

 もちろん、最初から中西に全面的に引っ張って行ってもらおうなどという思いがあったわけではない。

――二人で一緒に考えていけばいいんだ――

 という思いがあった。

 しかし、それはお互いが平等な立ち位置でのことであって、明らかに立場的には違っている。それは決定的な違いであり、一言で言えば、

――男女の違い――

 ということであった。

 妊娠するのは女性側で、男性はそれを否定しようと思えばできるのだ。実際に妊娠するはずはないという思いが彼にはあり、圧倒的に彼の方が立場は有利だった。

――そんなことは最初から分かっていたはずなのに――

 と、相談した後で、

――しなければよかった――

 と感じるほど、梨乃はしばらく放心状態だった。それほど事は重大であり、梨乃にはどうすることもできないことだった。

 それでも梨乃はしばらくすると、

――やっぱり相談してよかった――

 と感じた。

 それは、相談することで、一歩前に進めたからだ。

――今こうして悩んでいる同じ瞬間、彼も悩んでいるんだわ――

 と、梨乃は中西のことを想った。それは、今まで梨乃が抱いていた中西への想いと形が違っても、同じ感覚に違いなかった。

――私は一人ではない――

 この思いが、今の梨乃を支えているのだと、自分で感じていた。

 中西が梨乃に何も話さなかったのは、確かに中西の中でどうしていいのか分からないというのが強かった。

 他人事のように客観的に見た時の結果として、悩んでも仕方がないという思いを持たなければいけないという感覚だった。それは後ろ向きの考えでしかなく、余計なことを考えてしまって、堂々巡りを繰り返すからだと思ったからだ。

――他人事のような目で見ることはよくないことだ――

 と前から中西は思っていたが、どうもそうではないように思えてならなかった。

 他人事という方に重きを置くわけではなく、客観的に見るということの方が大切なことであるということを中西は考えるようになった。

 その頃中西は、いろいろ考えていた。それは梨乃に対してのことというよりも、むしろ自分のことだった。

 過去のことが走馬灯のように駆け巡る。それは、

――まるで夢に見たのではないか――

 と思うような出来事で、

――夢は決して連結して見ることはない――

 ということに対して矛盾しているようだった。

 一つの夢の中で違う内容が交錯するということはありえないと思っているが、それも一種の矛盾に対して自分を納得させるものだった。

――夢というのは、自分を納得させるためのものを求めている時に、自分の中から回答しようとしているものではないか――

 と考えるようになった。

 その時に矛盾が生じるとしても、それは仕方がないことであり、むしろ矛盾が自分を納得させるためのものを作り出す力になっていると思うと、納得がいくというのも、皮肉なものだった。

 子供の頃の夢をたくさん見るということは、子供の頃に自分をたくさん納得させてきたことがあったということだろう。

 だが、考えてみればそれは当然のこと、小さい頃であればあるほど、その一つ一つが、

――最初に感じたこと――

 なのである。

 一度納得させられたものは、その人にとって「鉄板」である。納得したものは、もう二度と迷うことはない。そして、

――そこから派生した考えがさらに自分を納得させることに繋がってくる――

 そう思うと、今の中西が子供の頃を思い出すのは無理もないことだった。

 しかし、忘れっぽい中西は、普通に考えながら子供の頃のことを思い出すのは難しいことだった。記憶というものの中からまず引っ張り出して、それを意識として活性化させなければならない。その時に活性化させるために必要なのが、「潜在意識」だった。

――夢というのは、潜在意識が見せるもの――

 という話を聞いたことがあった。

 中西は、その言葉を信じている。だから、夢で見ることが、思い出すこと、そして意識として活性化させること、それぞれを一気に成立させる力になる。そのことを意識しているから夢を見る。それが潜在意識の成せる業であったのだ。

 また夢というものが、

――矛盾で成立している――

 と思っている。

 曲がりなりにも、梨乃との間で「矛盾」という言葉がキーワードとして成り立っていることを、中西はウスウス気付いていたのだった。

 中西は、自分の子供ではないと思いながらも、梨乃が他の男との間に子供ができるはずもないと思った。

 中西が梨乃を見捨ててしまったら、梨乃の性格から取る行動は、堕胎以外には考えられない。

――それだけは思いとどまらせなければならない――

 と、中西は思った。

 梨乃が堕胎することで、本当は生を受ける子供が生まれることなく死んでしまうことへの罪悪感と、それだけではないもう一つの思いが潜在していた。

 本来なら、中西は自分の子供ではないのだから、罪悪感を感じる必要などない。今までの中西なら、罪悪感を感じることなどないはずだった。それなのに、罪悪感を感じてしまったというのは、一つは話を聞いてしまったということ。

 もちろん、聞かなければ後悔するだろうが、聞いてしまったことで、自分も梨乃と同じ十字架を背負ってしまったことを自覚した。

 不倫が始まった瞬間から、十字架は二人で背負っていたはずなのに、そこまでの意識はなかった。

――十字架という意識が最初からあったのなら、不倫はしなかったかも知れない――

 涼子に対しての罪悪感は確かにあった。今でも当然持っているが、梨乃との出会いを罪悪感などという言葉で片づけられないほど頭の中にあったのは、「運命」という言葉だった。

「運命の出会い」というと、漠然として感じるが、それなりにその時の中西には根拠があった。梨乃の方でも、

「あなたとの出会いに運命を感じる」

 と、自分が感じている言葉を先に彼女が口にしたのも、決定的であった。

「私、以前から中西さんのことを知っていました。前に電車に乗った時、私が普段乗らない電車に乗ったので、急に気分が悪くなったことがあったんですが、その時、まわりの人は何もしてくれなかったのに、あなたは、わざわざ降りる駅ではないのに、降りて、少しの間でしたが、介抱してくださいました。私はそれが忘れられないんです。その人と再会できたんですから、それこそ運命だと思ってもいいでしょう?」

 中西は、記憶の奥から引っ張り出して考えてみた。

――確かに、そんなことがあったことを覚えている。しかし、それが梨乃だったという意識は今となってはなかった。かなり古い話のような気がする――

「あなたが覚えていないのは、無理もないことでしょうね。私は、まだ高校生の頃だったですから、一年生で入学してすぐくらいだったと思います」

「それなら覚えていなくても仕方がないね」

 ただ、普段ならそんな偽善者のようなことはしないはずなのに、その時は一体どうしたというのだろう。

 言われてから、思い出そうとして、それでも中途半端にしか思い出せないことが、却って後から考えた時に、

――辻褄合わせをしようとした――

 という意識が、自分の中で「運命」として感じさせたのかも知れない。

 子供の話を聞いて罪悪感を感じてしまったもう一つの理由は、ちょうど梨乃から話を聞く前くらいに夢に見た内容が、忘れられなかったからだ。それは、子供の頃に実際に経験した夢で、自分の意識の中には、

――記憶の奥に封印されていることは、中途半端な意識だったんだ――

 という思いがあった。

 その夢というのは、子供の頃のことだった。

 子供の頃といっても、中学時代のことなのに、なぜか出てくるのは、小学生の自分だった。夢の中に出てくる光景や自分、そして知っている人たちの時代は矛盾していても構わない。

――それが夢なんだ――

 と言ってしまえばそれまでだが、夢だからこそ、それぞれの矛盾に何かの意味があると感じさせるのだ。

 夢というものが何かを示唆しているのだとすれば、覚えている夢、忘れられない夢というのは、中西にとって大切なことであることは間違いない。

 それは、みのりと木村さんが住んでいた屋敷が廃墟になった跡地で、クラスメイトが殺されているところが見つかったという記憶だった。自分にも虫の知らせのようなものがあり、

――あの時は、ショックであったが、いつものように他人事だと思っていたのに、どうして今さら夢に見たり意識しなければならないのか?

 と感じていた。

 友達の死は、みのりの死をも予感させるものだった。

――みのりを助けなければいけない――

 と思っているところに、子供の殺されている死体が見つかったという意識が強かった。

 夢を見ているうちにいろいろなことが思い出された。何しろ子供のこと、間違った記憶だったのかも知れないが、意識の中では、

――死んだその子の身元が、なかなか掴めない――

 という話だったことを思い出した。

 死体が見つかった。どうやら、誰かに殺されたらしい。殺人事件と事故から警察は捜査している。しかし、身元がハッキリとしない。

 何とも不思議な事件である。

 今から考えると、いろいろなことが考えられる。

 その子はいつか行方不明になった子供で、その子がかなり時間が経ってから死体で発見された。捜索願が古ければ古いほど、捜査は難航するだろう。

 となれば、その子は行方不明になってから、死体で発見されるまで、どこで何をしていたのだろう? もし行方不明になったのが誘拐であれば、子供の親に対して、何らかのアプローチがあったはずだ。そうであれば、もっと早く身元が分かったことだろう。

 しかし、それもない。

 ということは、少年は少なくとも営利目的の誘拐ではないということになる。

 それなら、ただ子供を連れ去って、そのまま育てていたということだろうか? それなら、なぜ後になって殺さなければならない? 連れ去った人がいて、その人が何かの犯罪に加担して、それを少年に見られたというのであれば、分からなくもない。だが、少年はまだ十歳にもなっていなかったという。何かを見たとしても、そこから足が付くということもあるだろうか?

 犯人たちがそれほど追いつめられているというのであれば分からなくもないが、話し全体としては、少し信憑性に欠けている。

 だが、この時、信憑性というのは、どうでもよかった。

 すでに、十年以上も昔の話、しかも、子供だった自分は大人になり、子供ができようとしているのだ。

 だが、今、もう一つの仮説が生まれていた。

 死体が見つかったというセンセーショナルな事件であったことから、最初はその話題で街は持ち切りだった。小さな街のことだから、噂が噂を呼び、しばらくはこの話題が続くだろうと思っていた。

 しかし、二、三日もすれば、そのことを話題にする人はほとんどいなくなっていた。

 それは、話題にしていた日と、それ以降の日で、まったく違った世界が広がっているかのように思え、そこで感じたのがなぜか、

――海と空に窪みがあって、目の前に広がった世界は、海が空を支配しているのか、空が海を支配しているのか?

 という、絵を描いている時の発想だった。

 目の前の世界は、海と空だけに支配されていて、そのどちらがどちらを支配しているのかという発想から、自分の被写体への感覚が始まっているのだった。ただ、それはあくまでも、海と空が別々の世界を持っているという発想から生まれたことだ。それが同じ時間に発する考え方なのか、それとも、時間自体を分離するものかということでも考え方は違ってくる。子供の死体が見つかったという話題が急に出なくなったことで、

――海と空の分離する世界――

 という発想が生まれてきた。

 そして、その時に考えたのが、

――本当に、子供は殺害されていたのだろうか?

 ということだった。

 事故死の可能性もあると言っていたではないか。勝手に死体が殺害されたものだということで凝り固まっていたのかも知れない。

 話題がなくなったのは、警察は事故死だと断定したからではなかったか?

 いや、想像が許されるなら、もっと奇抜な発想として、

「自分たちの街に犯人がいた」

 という発想である。

 もし、そうであれば、あまりにも衝撃的なことだけに、

「めったなことをいうものではない。このことは、自分たちだけの胸に閉まって、この話題はタブーということにしよう」

 という大人たちの暗黙の了解が交わされていたのだろう。

 その時の子供が、中西の記憶の中で、今現実として梨乃の身体に宿した新しい命ではないかと思えてならなかった。

 本当なら、

――堕胎させてはいけない――

 と思うのだろうが、勝手な想像なので、梨乃には強要できない。

 しかし、逆に考えて、堕胎させても、

――これは罪ではないのではないか?

 と思うようになっていた。

 梨乃の中に宿した命、それは、みのりを助けたいという自分の中の気持ちが作用しているように思えてならない。ただ、

――みのりはもう死んでいるんだ――

 という思いを受け入れることができないだけで、みのりがこの世に存在した意義を考えるようになっていた。

 見つかった死体の少年、その子の命を、みのりが受け継いでいるとしたら、

――命というのは、その人にとって本当に一つなんだろうか?

 という発想になってきた。

 命を軽視してしまいそうになる発想ではあるが、このことを考えてみると、梨乃が宿した命というのは、

――誰かのために役に立つための命なのではないか?

 と考えるようになった。

 ただ、そうなってくると、

――この子は、一度この世に生を受けなければいけない――

 と考えた。

――やっぱり、このまま生まれてくるのは、可哀そうだ――

 という考えと、

――命を軽視して、簡単に堕胎していいのだろうか?

 という二つの考え。明らかに矛盾しているようだが、どこかで繋がっているように思えてならない。

 矛盾した考えであったが、矛盾した考えを頭に想い浮かべている時に感じることは、いつも、

――海と空、どちらが支配しているのか?

 ということであった。

 読み方を変えると、

――「海」は「産み」、「空」は「から」――

 と読めるではないか。

 海が支配している世界であれば、子供は産むことになる。しかし、空が支配している世界では、子供はこの世に生まれ落ちることはない。

 中西の発想は留まるところを知らなかった。

 ただ、元々子供が好きだったわけではない中西、彼は自分の子供が生まれた時の感動を忘れることはなかった。

 中西は、さらに子供の頃のことを思い出していた。

 今度思い出したのは、木村さんのことだった。

――みのりには木村さんがいた。それはまるでゆかりに対しての自分のようではないか――

 そう思うと、

――木村さんは、本当はみのりの父親だったのではないか――

 と感じている。

 木村さんがみのりを見る目、ゆかりが生まれる時に想像していたのは、子供の頃に見た木村さんの顔だった。

――僕も、あんな顔をするようになるんだろうな――

 と感じた。

 しかも、みのりは不治の病だったというではないか。それなのに、どうしてあそこまで平静でいられたのか? それは、みのりの病が治ると信じて疑わなかったからなのかも知れない。

 二人が住んでいた屋敷跡から死体が見つかったというのは、偶然ではないのかも知れない。殺害を最初臭わせたが、実際には死体は自然死か病死だった。死体が見つかったことで事故死として片づけられたのだろうが、殺人でも何でもなかった。しかも、今から思えば死体が発見されたということも、本当に事実だったのか疑わしい気がしてきた。何かの辻褄を合わせるために、

――記憶が意識によって操作された――

 と思えなくない。

 しかも、最後には、自然消滅しているのだ。それを想うと、梨乃に宿った命も、

――自然消滅するかも知れない――

 と思えてきた。

 実際に、梨乃に宿った命は自然消滅した。

 さらに驚いたことに、梨乃はその時から、自分の中に子供がいたという記憶がなくなっていた。中西が子供の話題に触れると、

「何言ってるのよ。それはあなたの子供ができれば私には嬉しいと思うわよ。でも、本当に産んでいい子なのかを考えると、結論なんて出せない気がするわ」

 と答えていた。

「まさしく、その通りだよね」

 としか、中西は答えることができなかった。


 あれから五年が経った。梨乃とは、すでに別れて三年が経っていたが、お互いに別れたことも、付き合ったことも後悔してはいない。

 相変わらず、梨乃は自分の中に子供がいたなどという事実を意識していない。

――梨乃が意識していないのなら、本当にいなかったのかも知れないな――

 何かの診療ミスで、本当は妊娠していないのに、妊娠と誤診したのかも知れないとも感じたが、それにしても、本人の梨乃に意識がないというのもおかしなものだ。そこに何かの作為的なものが働いていることも考えられなくもないが、必要以上に考えないようにしていた。

 だが、すくすく育っていると思ったゆかりが、

――不治の病に侵されている――

 と知った時、中西は驚愕してしまった。

 涼子は、ショックのあまり、病気になり寝込んでしまった。涼子の方は大したことなかったのだが、このままでは家庭崩壊しそうな予感もあった。

「なぜ、ゆかりなの?」

 と、涼子はなぜか自分を苛めていた。

「お前が悪いわけではない。きっと治るさ」

 としか言えない中西だったが、

「簡単に言わないでよ。私があの子を産んだことが悪かったのよ。こんなことになるんだったら、産んであげなければよかった」

 と、言って悲しんでいる。

 中西にもその気持ちは分かった。

――産まなければ、確かに死ぬこともない――

 その思いを感じていると、梨乃が宿したであろう子供のことで悩んでいた自分を思い出していた。

――あの時も矛盾ばかりを考えて、考えが堂々巡りを繰り返して、結論が何も出なかったな――

 中西は、久しぶりに梨乃の顔を見に行った。梨乃はゆかりが不治の病であることを知っている。涼子が話したのだ。一人で苦しむのが辛かったのだろう。

 だが、梨乃が涼子にアドバイスしたことは、かなり的を得ていたようだ。

「記憶が意識を操作するんだって、梨乃に言われたわ」

 と、涼子が話していたからだ。

 そのことを聞いて中西は梨乃に会ってみたくなった。

 もちろん、梨乃の中には、もう子供の記憶は残っていない。意識がないだけではなく、記憶からも消えていた。五年という歳月によるものなのか、それとも、ゆかりの成長に比例しているものなのか、梨乃の気持ちはなぜかゆかりの成長と比較できるものになっていた。

 梨乃が二人の前から姿を消したのは、それから数か月後だった。なぜいなくなったのか不思議だったが、もっと不思議なことが起こったのは、それから一か月後のことだった。

 病院にゆかりの定期検診に行った時のことだった。

「何とも信じられませんが、病気は治っています。現代の医学では信じられません」

 と、医者自体も、何が起こったのか頭の中で整理できないほどの事実に驚愕していた。

 それを聞いた二人は俄かには信じられなかったが、二、三日と検査していくうちに、病気が治っていることを確認できることで、実感が湧いてくる。

「一体、どうしたことなのかしら?」

 拍子抜けした涼子とゆかり、この二人は次第に病気だったことを忘れていき、本当に記憶の中から消えていくことになっていた。

――これって自然消滅?

 ただ、中西の意識からも記憶からも消えることはない。

「記憶が意識を操作する。それは中西だけができること」

 今でも、中西の中で、みのりと木村さんの記憶が意識として残っていた……。


               (  完  )

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記憶が意識を操作する 森本 晃次 @kakku

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