第2話 出産
第二章 出産
中西が、涼子と結婚したのは、二人が二十五歳の時だった。
「私、二十五歳になるまでに結婚しなければ、そのまま一人なのかも知れないわ」
と、涼子は言った。
その表情には寂しさはなかった。むしろサバサバした表情で、
――こんなことを口にする場合、寂しさを感じさせる中での表情か、あるいは、この時の涼子のようにサバサバした表情以外にはありえないような気がするな――
と感じていた。
涼子の方でも、結婚するなら、相手は中西しかいないと思っていた。他の男性と付き合ったことがなかったわけではない。二人がしばらく離れていた時、付き合っていたかどうか微妙な関係だと思っていたが、
――きっとまわりから見れば、付き合っていたように見えるに違いない――
と思わせるようなお付き合いだったと思っている。
だが、心の中までその人に許すことはなかった。それが相手に疑問を抱かせ、
「君とこれ以上一緒にいることはできない」
というセリフを相手に吐かせて、そのまま別れてしまったのだ。
最初はさすがに茫然としていたが、
――自分から言わせたんだ――
と感じることで、涼子は、自分の行動に根拠があったことを自覚した。
その時、頭の中には中西がいたのは間違いない。そして、この時初めて、
――私は中西さんが本当に好きなんだ――
と感じた。
今さらではあったが、中西に対して好きだと感じたのは、これで何度目だっただろう。一度感じては、次第に気持ちが薄れていって、またしばらくすると、再度感じての繰り返しだったはずなのに、気持ちの上では、
――初めて感じた――
と思ったのはなぜだろう。
――今度こそ――
という思いがあったのだろうか。もしそうだとするならば、涼子にとって中西は、いつまでも、
――捉えどころのない男性――
だったに違いない。
だが、その思いがあるからこそ、中西に対して、自分の中で忘れられないところがあることに気付かされるのだ。捉えどころがないというのは、決して相手のことを分からないというわけではない。むしろ分かりすぎるくらい分かっているから、
――今の自分なら捉えられない――
と思うのだ。だから何度も中西に対して、好きだという感覚が生まれるのであって、その感覚がすべて一緒だというわけではない。それだけ、気持ちの中で中西への想いが成長している証拠だったに違いない。
中西が涼子のことをどのように思っているかというのが、涼子にはどうしても掴めなかった。知り合ってから結婚まで、結構長かったのは踏ん切りが付かなかったというのも事実だろう。
しかし、裏を返すと、
――長すぎた春――
であるにも関わらず、お互い本当に離れることがなかったのは、やはり二人に運命があったのだということを分かっていたからに違いない。
涼子は、中西に対して従順な気持ちになっていた。元々相手に尽くすのが涼子の性格だったからである。
中西はといえば、尽くされることで、かなり有頂天になっていたのは事実だった。尽くしてくれる涼子に対していつの間にか、自分たちの立場が、主従のような関係になっていることを無意識ではなく、ハッキリと意識していたようだ。
そのためにどうなっていったのかというと、まず、中西の方の言葉が少なくなっていった。
――涼子なら、何も言わなくても分かってくれる――
という思いが強かった。
実際に、何も言わなくとも、痒いところに手が届くような涼子は、実に献身的な奥さんになっていた。
――もし、結婚相手が中西でなければ、ここまで献身的になれたかどうか分からないわ――
と、涼子に思わせるほど、涼子は実に献身的に中西に尽くした。
それがまるで生きがいのように思っていた涼子だったが、その思いは、残念ながら中西に通じていなかった。
それまで人に尽くされたことのない中西は、自分がどのように人から見られているかということだけ気にしていた。
「別に人の目なんか気にしないよ」
と嘯くようになったのは、それからまだ後のことだった。それまでは、人の目を必要以上に気にしていたのだった。
人の目を気にしなくなったのは、そんな自分に対して疑問を持つようになったからである。
――僕って臆病なんじゃないか?
と思うようになった。
これも今さらなのだが、臆病だということを感じるようになると、余計に自分に対して過敏に反応してしまうことを意識した。
――過敏な反応が、自分を疑心暗鬼の状態にさせるんだ――
と感じた。臆病に感じたのは、その疑心暗鬼の表れに過ぎない。それを意識すると、涼子が尽くしてくれるのをいいことに、自分の存在を鼓舞しようと思うようになってきたのだった。
涼子としばらく離れている間、涼子に付き合っている男性がいることも知っていた。何しろ、涼子から彼のことで相談されたこともあったからだ。
その時、中西は誰かと付き合っているわけではなかった。それなのに、涼子が相談してきた時、まるで恋の先輩でもあるかのように、口から出まかせに近い助言をしてあげた。
――どうせ、他人事だ――
と半分投げやりだった。
――こっちの気持ちも知らずに――
という思いが強く、助言するなら、思い切り自分を鼓舞してやればいいと思っていた。それで自分に対して、尊敬の念を持ってくれることで、
「やっぱり、あなたがいい」
などと言われると、最高だという思いを抱いていたのも事実である。もっともそれくらいでなければ、助言なんてできないだろう。
「俺に聞くのはお門違いだ」
と言って、突っぱねてもよかったからだ。
どうして突っぱねなかったのか自分でも分からない。自分の中で葛藤があった。それは「意地」という葛藤だった。無下に突っぱねて、他人事だとして優越感を感じながら接したとしても、中西の中で大した差はなかったはずだ。
それなのに、助言をしたというのは、心の中で、
――嫌われたくはない――
という思いがあったのも事実だ。
もし他の女性が相手なら、そんな風には思わなかっただろう。自分の気持ちを押し殺してでも嫌われたくないという思いに至るというのは、それだけ、
――自分を一歩下がった場所から見ることができる――
と感じた。
つまり、もう一人の自分が、客観的に自分を見ることができるからだ。
自分を客観的に見ることができたと最初に感じたのは、みのりの屋敷に遊びに行っていた時だった。まるで毎日が夢のような楽しい時間だった。それは今から思えば、浦島太郎が連れていかれた竜宮城のようではないか。しかし、みのりから玉手箱を持たされたわけではない。玉手箱はみのりが持っていたわけではない。ひょっとすると、中西が持っていて、覚えていないだけで、こちらからみのりに渡したのかも知れないと思った。だからこそ、みのりも木村さんも自分の前から姿を消したのだと思ったのだ。
だが、話しでは、みのりは不治の病だったという。どこまで信憑性があるかは分からないが、事実としてみのりも木村さんも、忽然と中西少年の前から姿を消したのだ。そこに何の前触れもなかった。本当に存在したのかということすら、しばし茫然とした頭では理解できなかったくらいだ。
――一体、あの時の僕はどうしていたんだろうな?
そんなことを感じていたが、その思いがまるで昨日のことのように思い出されると、それからの自分の人生を思い返すことは比較的難しいことではなかった。考えてみれば、中西少年はみのりのことも木村さんのことも何も知らない。いや、知りたいとは思ったが、実際に一緒にいる時は、知りたいとは思わなかったのだ。それは知りたいと思うことに恐怖を感じていたからで、
――知らぬが仏というけど、本当なんだな――
という思いを抱かせたのだった。
中西は涼子と結婚することに戸惑いがあったわけではない。少し怖いと思った時期もあったが、それは相手が涼子だからだというわけではなかった。相手が誰であれ、結婚することに躊躇があった。そう思い、自分を納得させていた。
しかし、実際には相手が涼子だから戸惑いがあったような気がする。
涼子に対して感じているのは、
――自分に対して従順だ――
ということである。
従順だということは、これほど男にとって嬉しいことはなく、男冥利に尽きると思っていた。だが、従順であることに自分がすぐに飽きてしまうなど考えたこともなかったが、飽きてしまうと、これほどつまらないものはないと考える時期もあった。
しかし、結婚してからの二年間は、今までの人生の中で、本当に最高の期間だった。それは紛れもない事実で、
「結婚してよかった」
と感じさせた。
それは涼子も同じだったようで、
「新婚気分が、ずっと続けばいいのにな」
というと、
「ええ、そうね。私も同じことを考えているわ」
と答えた。
その時に考えていたことが、同じ言葉でも二人が同じ気持ちだったのかどうか分からない。後になって考えれば、
――新婚気分なんて、まるで夢のようだったな――
と思うからだった。
ただ、お互いに疑念を感じていた時期もあったが、それも長くは続かなかった。
「その時にどうして離婚しなかったのか」
と誰かに聞かれたとしても、
「やっぱり、一緒にいる運命なのかも知れないな」
と答えるかも知れない。
二人が三十歳になる頃には、お互いに子供がほしいという意識もハッキリしていて、
「子供もいいな」
と中西が言えば、
「ええ、私もそろそろあなたが欲しいと言ってくれると思ったわ」
お互いに相手の気持ちが分かるのか、何かをしたいと思うのが、同じ時期に重なってしまうことが結構あった。
――やはり、一緒にいるのが一番自然だと思えるからだろうな――
と、中西は感じていたが、涼子も同じ思いだったようだ。
二人の間にそれから半年が経って、子供ができたことが分かった。
「三か月に入ってますね」
産婦人科の話に涼子も中西も笑顔で向き合った。お互いに、
――これほど相手が幸せそうな顔をするのを見たのは初めてだ――
と感じたに違いない。お互いの笑顔には、相手の笑顔に対する満足感が含まれていたのも事実だったのだ。特にこの思いは中西の方に強かった。そして、子供ができたと聞いた瞬間から、
「絶対に女の子だ」
と、信じて疑わなかった。
その時の二人は、本当に素直な気持ちだった。祈りはきっと神様に通じるに違いない。
生まれた子供は、ゆかりと名付けられた。
「すべて平仮名の名前がいい」
と、最初に主張したのは、中西だった。涼子もそれには依存なく、名前を決めたのは涼子だった。
「これなら不公平はないからね」
という言葉に、涼子も満足だった。
――もし涼子が名前を決める時に、みのりという名前を選んでいたら、どうだっただろう?
少し考えてしまった中西だった。
中西が、子供の名前を平仮名にしようとこだわったのは、みのりのことが頭にあったからだ。もちろん、平仮名の名前の中にはたくさんの名前があるので、まさか涼子が「みのり」を選ぶとは思えなかったが、涼子が名前を決めてくるまでは、それなりにドキドキした。
「ゆかりにしましょう」
と、涼子に言われた時、ホッとしたのも事実だったが、どこか寂しい思いもあった。その思いは、複雑な心境というよりも、心の中にある渦巻のようなものを呼び起こしたような気がして、
――涼子に気付かれていないかな?
という思いもあったが、別に気付かれたとしても、それが何か二人の間に亀裂を生じさせるものでもないのだから、気にする必要もないだろう。中西は、いよいよという時、前の日からそわそわして仕事にもならなかった。それは、
――自分が親になるんだ――
という意識よりも、もっと客観的なもので、まるで、
――これからお祭りが始まるんだ――
という程度の感覚でしかなかった。
そろそろ予定日が近づいてきたという意識があったが、ほとんど心の準備もなかった時の定期検診で、
「そろそろ近いということで、これから入院することになったわ」
と、涼子から言われて、思わず取り乱したような様子を涼子の前で見せてしまったのだろう。
「いやねえ、入院したからと言って、すぐに生まれるわけじゃないわ。そんなに緊張しなくてもいいのよ」
と、言われて中西はふいに我に返った。
「そうだよね」
と、ホッと胸を撫で下ろしたが、もうその瞬間から、中西は目の前で起こっている出産が、
――まるで他人事――
に感じられてきたのだ。
――自分が慌てても仕方がないんだ。それにしても、ドラマなどで見る夫の立場の人は、どうしてあんなに両極端なんだろう?
本当に慌てている男性は、まるで出産が自分のことのように落ち着かない様子で、それを宥める看護婦さんも、
――しょうがないわね――
という表情で見つめている。
いよいよになると、分娩室の前で右往左往の様子。じっくり見せられると、ウンザリしてしまうような光景も、ところどころで見せるから微笑ましく見える。そんな思いがあった。
しかし、本当に落ち着いている男性は、テレビなどにはあまり出てくることはないが、憎らしいくらいに落ち着いている。
しかし、本当は奥さんの方からすれば、旦那に落ち着いてもらっている方がありがたいだろう。自分のことで精一杯なのに、旦那の方にまで気を遣わなければいけないからだ。そういう意味では、腰を落ち着けて構えている夫の方が助かるというものだ。
だが、中西は、そのどちらでもなかった。
妻や子供のことが気になって仕方がない様子は表から見るとするに違いない、しかし、頭の中では、万に一つの心配もしていない。そうでなければ、他人事のような心境でいられるはずはないからだ。
「俺もこのままここで生まれるまで一緒にいるよ」
というと、涼子が、
「生まれるのはそんなにすぐじゃないから」
と言われた。その時に中西は、
――俺が、客観的に見えかかっているのを見透かされたんだろうか?
と涼子に対して感じた。
涼子はそんなつもりではなかったに違いない。どちらかというと、ただ、諌めるつもりだっただけなのかも知れない。
その時の中西は、確かに神経が過敏になっていたのかも知れない。被害妄想になる要素などあるはずもないのに、戒められたことで、自分の中の何かが変わってしまったのだ。
今までに同じような思いをしたことがあったような気がする。それは、
――何かから逃げ出したい――
という思いが働いていた時で、神経も過敏になっていて、すべてが他人事、そして、その思いがどこから来るのか分からないままに、「イベント」は終了していた。
しかし、
――案ずるより産むが易し――
と言われるだけあって、他人事のように感じ、
――気が付けばやり過ごしていた――
という思いの方がありがたかった。
もっともそれまでの努力は、自分でも半端ではなかったと思っているので、本番をいかに落ち着けるかというだけのことだったに違いない。
そう、その「イベント」とは受験の時のことだったのだ。それまで一生懸命に勉強してきたことの成果を表す本番で、いかに落ち着けるかということが問題になる中で、中西自身、
――自分を他人事のように思うこと――
それができたことで、本番がうまく行ったのだと思っている。そういう意味で、節目になるようなイベントでは、
――いかに自分を落ち着かせるかということは、他人事のように客観的に自分を見ることができるか――
ということに繋がっていくのだ。
出産というイベントは、しかも本番の主役は自分ではない。あくまでも脇役で、目立ってはいけない存在であることは分かっている。なので、別に他人事でも問題ないはずなのに、どこか他人事ではいけないような気がしていた。
確かに、出産は夫婦揃ってのイベントなのは分かるが、その時の旦那の立ち位置は微妙なものである。逆に言えば、どんな立ち位置であっても、問題がないような気もする。中西がそのことに気付いた時、すでに、出産は佳境を迎えていた。
入院室から分娩室に移された涼子は、その奥で頑張っている。微かに聞こえてくる苦しそうな声に思わず手に力が入る中西は、それまで自分が他人事でいたことを、少し後悔していた。
冷静に考えればそんなことを考えなくてもいいのに、なぜそんな風に思ったのかを考えてみると、なぜか思い出されたのは、子供の頃の記憶だった。
――そうだ、あれはみのりや木村さんに出会った頃の記憶だ――
忘れていたつもりだった記憶が、なぜこんな時によみがえってきたのだろう? 中西は頭の中が少し混乱していた。
――みのりが「不治の病」に罹っていたということを思い出したからなんだろうか?
その思いは、
――当たらずとも遠からじ――
少なくともその時の中西は、そう思っていた。
ただ、そのことを考えるのは、「不吉」を意味する。そこまで考えていなかった。しかも考えてはいけない「死産」を意味するからだ。
だが、そう思えば思うほど、みのりのことが思い出されて仕方がない。しかもそれ以上に不思議だったのは、
――なぜかみのりの後ろにいる木村さんを必要以上に意識してしまう――
ということだった。
「中西さんは、みのりお嬢様のことをどう思っておられますか?」
ある日、一度だけ木村さんから、そんなことを聞かれたのを覚えている。それまでいつもニコニコしていた木村さんの表情が真剣になっていて、怖いと思うくらいだった。
後にも先にも木村さんのそんな顔を見たのは初めてのこと。
――あの時は、何のつもりだったのだろう?
と今でも思い出す。
あの時、自分が木村さんに、何と答えたのか、正直覚えていない。
――何も答えなかったのかも知れないな――
と思ったが、ひょっとするとその方が信憑性があることだったのかも知れない。とにかく子供のことなので、素直に感じたことしか言葉に出せないはずだ。あの時、答えなど見つかったはずはないように思う。
――もし、あの時、木村さんは中西が何も答えなかったとして、どんな心境になったんだろう?
中西は思い浮かべてみたが、
――木村さんはやっぱり木村さんだ――
と感じ、すぐにいつものニコニコ笑顔に戻ったに違いないと感じていた。
いつもニコニコしながら、みのりを見つめている姿。それが木村さんであり、それ以外の木村さんは、ほとんど想像できなかった。
――いくら仕事なのかは分からないが、ここまで一人の人に尽くすことができるんだろうか?
と感じた。
――やっぱり、不治の病というのが、自分の中でみのりのために生きることを納得させていたからなのかも知れない――
この思いは、涼子の出産の時に思い出した二人を考えた時に感じたことだった。
今自分が、どうしてみのりと木村さんのことを思い出したのか、少し分かったような気がした。
――あの時の木村さんの心境に、今の自分がなりかかっているのかも知れないな――
と感じた。
しかし、もしそうであるとするならば、あの時の木村さんは、みのりに対して、
――他人事のように客観的な自分を感じていたことになる――
と思った。
――そんなことって……
と思いながらも、すべてを否定することができない自分を感じた。
木村さんはあの時、自分を殺していたように思った。中西には、到底自分を殺してまで人に尽くすなどということができるのか、想像もつかないことだった。だが、自分が他人事のように客観的に見ることができるようになると、その時の木村さんの気持ちが分かってきたような気がしたのだ。
――自分を殺してまで他人に尽くすということは、『自分と他人を同じ位置に置く』ということでもある。つまりは、相手を自分と同じだと考えることができなければ、自分を相手と同じように他人事のような目で見ることができれば、少なくとも同じ立場にいることはできるのではないか?
と感じるのだった。それを自分で納得できて、一度持った自覚を下げることさえなければ、実現できることだと思う。
しかし、あくまでも想像だけのこと、本当にできるかどうかは分からない。そこには、相手との距離がどの程度のものか、図る必要があるからだ。そう感じた時、中西は絵を描いている時の自分を思い出していた。
絵を描いている時、考えることは、まずは基本になっていることで、
――遠近感とバランスを図ること――
だった。
つまりは、人との間での距離を測っていることと同じではないか。絵を描いている時は、まず自分を主観的に置くことはない。必ずと言っていいほど、自分を客観的に置いて描いている。それは最初から感じていたことではなく、気が付けば、自分から距離を取って見ていたのだ。
「そうじゃないと、全体を見ることができない」
絵を描く時のことについて大学時代同じサークルの友人と話をした時、自分が答えたことだった。この時にどんな会話からこんな話になったのかということ、この答えについて、相手がどんな反応をしたのかということも、ほとんど覚えていない。だが、間違いなく、この回答をしたのだ。このことだけを覚えておくために、他のことは記憶から消えてしまったのだろうか?
自分が絵を描く時、
「大胆に省略することがあるんだ」
と答えているが、それは、
――消してはいけないことがあるから、覚えておかないといけないことだけをハッキリさせるために、敢えて、大胆な省略を必要とするんだ――
と、自分に言い聞かせ、納得させてきたのだと、考えるようになっていた。
その考えはおぼろげなものだったが、ハッキリしたものではなかった。その思いがハッキリしてきたのは、妻の出産、つまりは、ゆかりがこの世に生を受けた時だというのは、ただの偶然ではないだろう。
いや、偶然などということはありえない。それを一番よく分かっているのは中西本人のはずだ。
ただ、中西はその時まで大きなことを忘れていた。
それは、
――自分自身のことを客観的に見ることができるかどうか――
ということだった。
自分のことを客観的に見るということができていなかったなど、それまで感じたこともなかった。
――自分のことを客観的に見ることができるように思っていたのは、実は自分を取り巻く環境を客観的に見ることができていた――
というだけのことだったのだ。
中西は、
――これから生を受けるのが自分の子供である――
ということは重々分かっていることのはずなのに、どうしてもピンと来ない。それが自分を他人事のような客観的な目にしてしまうからなのかも知れないが、どうしてピンと来ないのか、一生懸命に考えていた。
――他の人はどうなんだろう?
という思いは、その時浮かんでこなかった。あくまでも、
――この考えを抱いているのは、自分に対してだけのことなんだ――
と考えていたからだ。
ではなぜ、その時だけ自分以外の人を思い浮かべなかったのだろう?
中西は、ここぞという時は、他の人のことを意識しないような性格だった。裏を返せば、他の人のことを考えている時というのは、ここぞという場面ではない時だということになる。
そういう意味では、出産という「大イベント」、まさしくここぞという場面ではないだろうか。
中西がその時感じたのは、
――俺には、自分自身のことを客観的に見ることができないんだ――
ということだった。自分のことを客観的に見ることができなくても、自分を取り巻く環境を客観的に見るだけでも、同じような効果があると思っていた。
――だが、本当に自分を客観的に見ることができると、どうなってしまうのだろう?
と思うと、少し恐ろしい気がしていた。
まわりのことを客観的に見ることができているのに、実際に自分自身を客観的に見ることができない。それは、その間に何か大きな壁が立ちはだかっているのではないかと感じるからだった。
そこまで考えていると、
――次第にその後が堂々巡りを繰り返してくるのではないか?
と感じるようになっていた。つまりは、考えられるところまでは考えてしまったということである。
そう思っていると、分娩室からかすかながら、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。それを本当に他人事のように聞いていた中西は、その時、その瞬間だけ、自分を本当に他人事として見ることができたことに気付いていなかった。自分を他人事として感じることができるとすれば、それは一瞬であり、しかも、本人の自覚のないところで、風のように通り過ぎてしまっている。ただ中西がそのことを自覚する時がやってくることになるのだが、かなり後になってからのことであり、中西にとって、再度のイベントの時だということを、その時の中西が知るはずもなかった……。
赤ん坊の声が急に大きくなったのを感じた時、中西は我に返った。そこには、分娩室から飛び出してきた看護婦さんが興奮気味に立っていて、
「お生まれになりましたよ。母子ともに健康です。とても元気な女のお子さんです」
その子が女の子であることは最初から分かっていたのだが、実際に生まれたということを他の人から言われた時、心臓がドキドキするのを感じた。
普段なら、自分が見たり触ったりしないと信じないくせに、その時だけは、人から言われたことが大きな救いになったのだということを中西は感じていた。
――後は自分で確認するだけだ――
本当に大切なことは、自分だけの確認では安心できないということを、その時中西は初めて知ったような気がする。受験の時の合格発表も、
――他人の目など、信じられるものではない――
と感じていたはずなのに、どうして子供のことになると、他人の言葉を素直に信じることができるんだろうと思うのは、本当に自分でも不思議なことである。
「中西さん。しっかりしてください」
と、看護婦さんが、自分を見てそう言った。
「えっ?」
「顔色が悪いように見えましたので」
と言われたが、まったくそんな自覚はない。
「いえ、大丈夫ですよ」
「それならいいんですが」
と、看護婦は言った。
その時、確かに嬉しくて、少し気を失うほどだったと思っているが、顔色が悪かったというのは、解せない気がした。興奮気味だったので、顔が真っ赤だったというのであれば分かる。気を失いそうになりながらでも、耳たぶが熱くなってきているのが分かったからだ。
ただ、考えてみれば、今まで中西は、何かあった時、自分の思いに反して、まわりから、
「顔色が悪いぞ」
として聞かされたことが、何度かあった。
特に思い出すのは受験の時だった。
合格発表を見に行った時だが、最初、家を出る時には、ある程度の覚悟を持って家を出た。それこそ、他人事のような客観的な感覚でである。そうでもしなければ、精神的に参ってしまっていて、自分で自分の合格発表すら見に行くことができなかったに違いない。
それでも、さすがに学校に着いて、掲示板の前に立てば足が震えてしまっていた。それは掲示板にある自分の受験番号を探すという作業の前に、目の前にできた人だかりに圧倒されたということもある。端の方で胴上げしている姿。うな垂れて、今にも自殺でもするのではないかと思えるような、そんな両極端な姿を見せられたら、
――まるで死刑台に昇る心境だな――
と思わずにはいられなかった。
もちろん、そんな思いは頭の中にこびりついて残っているもので、高校入試の時に最初に感じた思いを、大学の時は、まるで翌日にフラッシュバックされたような、実に生々しさがデジャブのように襲い掛かってきた。
――あの時はさすがに顔色は悪かっただろうな――
と思い、その後の合格を確信した時でも、
――信じられない――
という思いから、しばらくそこから立ち去ることができなかった。
本心からすれば、そんな異様な場所から、
――一刻も早く離れたい――
という心境があった。
しかし、その場を離れてしまったら、自分の合格が消えてしまいそうな気がしていた。自分の目で、合格が確定しているのを確認したはずなのに、自分の目さえ信じられないのだ。
それまでの中西は、
「自分で見て、触ったりしたものでないと信じない」
と嘯いていた。
――人の噂などを軽々しく信用しない――
という意味からの心境なのだが、受験の時は、自分すら信用できなかった。
他人の目であれば信用できるというわけではないが、少なくともその場を離れる度胸は、その時の中西にはなかったのだ。
中西は受験の時の合格発表が今までで一番緊張する瞬間だった。それは間違いのないことだが、それ以外にも同じような心境になったのを覚えていた。
覚えていたと言っても感覚的なものであって。それがいつだったのかは、正確に思い出すことができない。
ただ、その時の心境は、合格発表の時というよりも、むしろ、今回の出産の時に、感覚的には近い。
――あの時のことを覚えていないのだから、今回の出産の時に感じた思いも、後になってから思い出そうとすれば、思い出すことはできないかも知れない――
と感じた。
その思いは、半分当たっていて、半分が違っていた。そのことを感じるのはもっと未来になってからのことだった。
ただ、その未来というのも、
――近い将来――
という意味だった。
――そんなに未来が遠く感じられない――
と思うようになったのも、この時からで、分娩室の扉が開いた時、気持ち悪く感じたのは事実だった。
――血の匂いだ――
その思いがその時の記憶のほとんどを占めていた。
――今までの嫌だったというシチュエーションではなく、何となく嫌な気分が残っていることがあったが、本当は血の匂いを嗅いでしまったからに違いない――
ということに気がついた。
すぐに落ち着いて、分娩室の扉を開けて、中に入った。
涼子は、中西の顔を見た時、ニッコリと微笑んだ、
――大義を全うした――
という満足感が溢れているのだろう。
その表情を見た中西は、涼子がまるで他人のように思えてしまったことにビックリした。
――どんどん遠ざかっていくような気がする――
まったくの錯覚のはずなのに、なぜそんな気持ちになったのか、自分でも分からない。
さっき聞こえた赤ん坊の声もすでになかった。眠ってしまったのかと思ったが、母親の枕元で蠢いていた。
生まれたての赤ん坊は、まだ人間の顔になっていないのか、しわくちゃな表情だ。しかも、顔色は真っ青なのに、ところどころ赤みを帯びているのを見ると、さっき感じた血の匂いが、またよみがえってきそうだった。
さすがに今度は、吐き気を催すことはなかった。
――分娩室という特別な環境の中で血の匂いがしてくるのは無理のないことだ――
という意識が、そうさせるのかも知れない。
涼子は、中西に対して微笑みかけると、ドッと疲れが出たのだろう。そのまま眠ってしまった。
「奥様を病室までお連れしますね」
看護婦さんは、そういうと、病室まで涼子を運んでくれた。
赤ん坊はそのまま乳児室に運ばれ、病院側でしっかり管理してもらえる。中西にとっては、ただ、オタオタするだけだった。
この時のことを、中西はずっと忘れなかった。印象深い数日間、オタオタしながらなのに、ずっとウキウキした気分が暖かい気持ちにさせてくれる。
しかも、その時感じたウキウキには二種類あった。
本当に自分のこととしてウキウキしている気分、そしてもう一つは、他人事のように客観的に見ているくせに、ウキウキする気持ちは自分のこととして感じている時の二種類だ。同じ感覚のようで、どこかが違っている。それは、客観的に見ている時に、イメージする自分の子供が成長した姿を思い浮かべることができたことだ。成長した娘は、みのりにそっくりであり、次第に涼子に似てくる。
――涼子と結婚できて、本当によかった――
と、中西は、子供が生まれたことで、余計に涼子との結婚が幸せであることに気が付いたのだ。
生まれてきた娘に、最初に考えていたとおりの「ゆかり」という名前を付けた。漢字にすることはなく、すべて平仮名である。
「どうして平仮名に?」
と、涼子から聞かれたが、
「具体的な理由はないけど、自分に娘ができた時に名前をつけるとすれば、平仮名の名前だって決めていたんだ」
涼子も、平仮名の名前に賛成してくれた。だからこそ、ゆかりという名前を思い浮かべたに違いない。お互いに気持ちが一致していたことを、名前を考えた時に喜び合ったものだ。
涼子がゆかりを連れて帰ってきたのが、ゆかりが生まれて五日後のことだった。産後のひだちも順調だったこともあり、母子ともに健康で戻ってきた。
涼子は、出産を期に、それまで勤めていた会社を退職していた。そのおかげなのか、入院前に、家でのすべての準備が整った上での入院になったので、中西が家のことをいろいろしなければいけないようにはなっていなかった。それは実にありがたかった。
「しばらく、ゆっくりしていればいいよ」
と言って、中西は妻をねぎらった。
「ええ、ありがとう」
中西は、妻をねぎらいながら、時々子供の顔を見るのが楽しみだった。本当はずっと見ていたいのだが、なぜかそれはしなかった。時間に対しての自分の感覚が狂ってしまうことを恐れていたのかも知れない。
一年経っても二年経っても、この時の記憶は結構鮮明に覚えている。同じ時期のことでも、そのほとんどを忘れているのに、家にいて、妻と子供と三人の生活だけは、色褪せることなく覚えているのだ。
そのくせ、記憶は遠い昔のような気がしている。一年や二年前だという意識がなかったのだ。
自分が子供の頃のことを思い出すのは、今に始まったことではなく、大学生の頃から増え始め、気が付けば気にしていることなど、今までに何度もあった。
夢に出てきたこともあっただろう。だが、夢というものは得てして、
――目が覚めるにしたがって忘れていくもの――
という意識通り、
――夢に見た――
という意識はあるのだが、どんな夢だったのかということになると、すっかり忘れていることが多い。忘れてしまったのか、覚えようという意識が強すぎて、覚えられなかったのか、どちらにしても、子供の頃の記憶を覚えているということに間違いはないようだ。
涼子が家に帰ってきてから、中西は腰痛や眩暈を起こすことがしばしばあった。座っていればだいぶ楽なのだが、立ったり動いたりすると、腰が痛くなり、眩暈を起こすような状況だった。
そんな時、妙に鼻の利きがよくなっているようで、いろいろな臭いを感じることができた。
鼻が利いてくると、部屋の中に充満している赤ん坊の匂いが気持ち悪さを運んでくる。赤ん坊は好きなのに、匂いだけは耐えられないと思う自分に対し若干の違和感を感じていると、中西はまたしても、子供の頃を思い出していた。
思い出す子供の頃というのは、大体がみのりや木村さんのことである。特に、みのりのことは、真正面から見ているという意識があるのに、木村さんに関しては、後ろから見ている感覚である。
最初は、どうしてそんな感覚になるのか分からなかった。しかも、そんな感覚になるように、一体いつ頃からなったのかということも分からなかった。気が付けば木村さんに対する意識に微妙な変化が起こっていたようだったのだが、それも次第にいろいろ考えているうちに、
――最初から、木村さんに対しては特別な意識で見ていたのだ――
ということに気付いていなかっただけなのだ。
子供の頃、父親に対して嫌な思いしかなかった中西にとって、木村さんは、
――理想の父親――
だったのかも知れない。
木村さんを見ていると、
――余計なことは言わないが、言わなければいけないことはキチンという――
そんな父親だったように思う。
それは中西自身が、
――自分が父親になった時、こんな父親になりたい――
というイメージを膨らませていた時、大いに参考になった考えだった。
自分が父親になった時などというイメージは、大学三年生の頃から現実味を帯びてきた感覚なので、それまでは、木村さん以外に、自分の理想の父親としてイメージできる人が一人もいなかったということを示しているに違いない。
だが、実際に子供が生まれてみると、それまで感じていた木村さんのイメージが次第に薄れていくのを感じた。
――赤ん坊の匂いのせいなのかな?
木村さんと、赤ん坊の匂いのイメージがあまりにもかけ離れていて、しかも、赤ん坊の匂いが気持ち悪く感じられる時点から、木村さんのイメージが薄れてきたのではないかと思うようになっていた。
だが、木村さんに感じていた父親のイメージは、自分に子供ができて深まっていったのは事実である。
木村さんを見ていると、不思議に思っていたことがあったのだが、何が不思議なのかその時には分からなかった。違和感を感じるのだが、どこから来る違和感なのかが分からなかったのだ。
今ならハッキリと分かる気がする。
――木村さんは、いつもみのりの世話をしているので、自分の家族はいないものだと思っていたが、みのりに対しての態度は、どうにも他人のようには思えない。少なくとも自分に子供がいなければできないような態度を示していたようだった――
と感じた。
それは、自分が結婚して初めて分かったことだった。
だが、なぜ結婚しないと分からなかったのかということを、今度は子供が生まれてやっと分かったような気がする。
正直、子供が生まれるまでは、中西自身、
――子供はあまり好きじゃないな――
と思っていた。
涼子との間にすぐに子供を作ろうと思わなかったのは、
「新婚気分を味わっていたいから」
という理由があったのも事実だが、それよりも、子供自体を好きになる自信がなかったというのが、真実だった。
真実と事実とでは、得てして状況によって、結果が違ってくるものである。
事実は、状況によって変わってくるが、真実は変わりようがないだろう。しかし、真実というものは、人それぞれで違っているものでもある。したがって、
――状況によって、人それぞれの真実が絡み合うことで生まれた結果が、事実となって現れる――
というのが、真実と事実との関係なのではないだろうか。
子供をほしくないわけではないが、絶対にほしいというわけでもない。そんな中途半端な気持ちを涼子は分かっていたのだろうか? 中西が子供をほしがっていないことに疑問を持っているわけでもなさそうだったし、子供をほしがらないことに対して、責めるわけでもなければ、自分の気持ちを抑えているわけでもなかった。
――涼子も、さほど子供がほしいというわけでもなかったのかも知れない――
だが、男性と女性の一番の違いは、子供を実際に生むのは女性であり、
「自分のお腹を痛めて生んだ」
それが、自分の子供なのである。母性本能が芽生えないはずはない。涼子もまさしく子供が生まれてから変わったタイプで、
――大切に育てよう――
という気持ちを、中西は涼子を見ていて感じるのだった。
中西は、涼子がどんな子供時代を過ごしていたのかを知らない。涼子自身が話すこともなければ、中西が聞くこともなかった。少しでも涼子自身から話をしてくれようという意志があれば、中西もいろいろ聞きたいこともある。だが、実際に話をしてくれたとして、本当に聞きたいことを聞き出せるのかということは、中西自身、少し不安だった。
だが、子供ができたことで、涼子も自分の子供の頃の話をしてくれるようになった。
「私の子供時代は、最初は、結構明るかったかも知れないわ。でも、途中から人と話さなくなり、そのまま暗い時代を過ごしていた気がするわ」
「それはどうしてなんだい?」
「元々、私は自分から友達を作ろうとしなくても、友達ができる方だったので、友達を作る努力をしなかった方なの。友達ができると、結構お話にもついていけるので、友達が離れて行くということもなく、でも、自分が中心になるということもしなかったので、輪の中心にいるということはなかったわ。だから、友達が減ることはなかったのかも知れないわね」
そこで、一拍置いて、さらに涼子は話し始めた。
「でも、ある日友達の家に行って、ケーキを出してもらったの。それまでの私は好き嫌いのない方だったので、ケーキを出してもらった時は本当に嬉しかった。おいしそうに『いただきます』と言って食べ始めたのはよかったんだけど、急に気分が悪くなって、そのまま気絶してしまったのね。その時に食べたものを戻したようで、自分では覚えていないのに、そのせいで、それからは、まるで汚いものでも見るような目で見られるようになったの」
「本当に子供というのはむごいものだよね。まわりに罪はないのかも知れないけど、それだけに余計にまわりの目が忌々しく思えてくるというものだ」
というと、
「罪がないという言葉こそ、罪なのかも知れないですね。本当に罪のないことなんて、そんなにたくさんはないような気がするの」
涼子は寂しそうな表情になった。
今まで、人に対しては優しく、自分に対しては厳しいという、どちらかというと、「聖人君子」のように見えていた涼子だけに、彼女の言葉や表情が俄かには信じられない様子だった。
こんな涼子を見るのは初めてだったが、逆にホッとした気分にもなった。それは、その時の自分が、精神的に落ち着いている証拠でもあった。もし、少しでも落ち着かない状態だったら、涼子に対しての疑念が次第に膨らんでいき、
――何を信じていいのか分からない――
という心境になったに違いない。
涼子という女性が、
――実は、子供の頃に暗い過去を背負っていたのだ――
ということを知った時、もっと涼子の過去について、いろいろ知りたいと思うようになっていた。
ただ涼子がその時、嘔吐を催した原因について、自分でもよく分からないと言っていたが、果たしてそうなのだろうか?
子供の頃は分からなかったかも知れないが、途中どこかで絶対に分かるはずの場所を通り抜けているはずである。
――それがいつのことなのか、本当は分かっているのではないか?
と、中西は感じていた。
それは、自分も同じような思いをしたことに気が付いたからだった。
中西は、中学に入学する前くらいまでは、眩暈を起こしたり、嘔吐したりすることなどは、絶対にありえないような子だった。それなのに、中学に入ってから、急に嘔吐を催すようになったのは、自分でも不思議だった。
それがどうして不思議だったのか、すぐには分からなかった。だが、分かってみると当たり前のことであり、嘔吐を催したり、吐き気を起こしたりすることのない男の子だったということが、「作られた性格」だったというのが分かると、
――それはいつからのことなのだろう?
と考えるようになった。
しかし、そこまで考えてくると、後は、みのりと会っていたあの頃しか考えられない。
あの頃は、まるで毎日が夢のような時間であり、眩暈を起こしたとしても、気分が悪いわけではない。ただ、結構きつく自分にのしかかってくるので、その意識が薄れてきたのは、自分の中で、意識として襲い掛かってくることを恐れたからだ。
――子供の頃の涼子は、意外と自分と同じようなことを経験しているのかも知れないな――
性格がそれほど似ているわけではないと思っている自分と涼子のことなので、同じような症状が現れるのだとすれば、
――結構近い環境に身を置いていた――
という風にも考えられると思った。
中西が最近、気分が悪くなったり眩暈を起こすようになったのは、
――このことを悟らせるためだったのではないか?
と感じたのは、思い過ごしだったと思うのは考えすぎだろうか?
中西は、自分が眩暈を起こすようになった原因を、
――みのりが不治の病に罹っていた――
という話を聞かされてからのことだったのを思い出していた。
もし、眩暈の原因をその時に気付かなければ、気付くことができる瞬間をみすみす逃すことになり、そのまま気付くこともなく、ずっと疑問に感じたまま、
――それからの人生を生きていくのではないか?
と思うに違いなかった。
中西は時々、
――自分の記憶が、誰かによって細工されている――
と感じる時があった。
そんな時に、
――眩暈を起こしたり、気絶したりすることが中学の頃多かったが、その時、自分で感じているよりも、実際にはあまり時間が経っていない――
と、感じることが多かった。
それは眩暈や立ちくらみに陥っても、自分の意識はしっかりしていることが不思議に思えることと、いつの間に意識が飛んでしまったのかが分からないくらい、気が付いた時、ほとんど時間が経っていないことから感じることだったのだ。
――眩暈を起こしている間、本当に何も考えていないのだろうか?
中西は、最近そのことを気にしている。
眩暈を時々起こすことで、
――何か悪い病気なのではないか?
と思ったが、ちょうど家庭内でのごたごたが進展している時だったので、家族にそんな話ができるわけはないと思い、自重していた。そのことを誰にも知られないまま、家庭が落ち着いてくると、自然と中西の眩暈もなくなってきた。
――精神的なものだったのかも知れないな――
家庭内のごたごたが、自分の知らないところでストレスになってしまっていたのだと思うと、中西は気にはなっていたが、自分を納得させるだけの十分な答えだと思い、それ以上深く考えることはなかった。
だが、今までの眩暈というものが、
――自分の中にあるものから生まれるものではない――
などということをまったく気が付かずにいた中西は、ある一瞬を逃してしまうと、そのことに一生気付かぬままになってしまうと思っていた。
もっともそのことは中西だけに言えることではなく、他の人皆に言えることではないかと思っている。
だが、中西の場合は、他の人と違っている。眩暈を起こすことが自分の病気を示唆しているわけではないことを悟っているのだ。
――何かの力が働いているのかも知れない――
と思うと、
――他の人皆に言えることではないか?
という考えは、矛盾している。やはり、眩暈を起こすこと自体、他の人と違うわけで、眩暈の原因も、普通に考えていたのでは、その理由は分からないと思うようになった。
学生時代に時々眩暈を起こしていた時は、自分が何かの病気なのではないかと思っていたが、さほど深くは考えなかった。病院に行っても、
「どこも悪いところはありませんね。気にしすぎではないですか?」
と言われる程度だった。
小さな町医者だったので、大きな大学病院のようなところで見てもらおうかとも思ったが、どちらにしても紹介状が必要になる。町医者に話しても、嫌な顔をされるだけだ。眩暈の回数も、そこまで頻繁ではなかったので、そこまで切羽詰っているわけではない。そう思うと、考えること自体がバカバカしくなってきた。
そのうちに眩暈の回数もグンと減って来て、ほとんど気にならないようになってきた。
――やっぱり、あの町医者の言うように、気にしすぎだったのかな?
と、思った。
それならそれでいいのだが、どこか釈然としない思いが残っていて、子供ができたと聞いてから、忘れていた眩暈を時々起こすようになり、その時のことが思い出された。
少し様子を見ようと思っていると、今度も自然と眩暈を起こすことが少なくなってきた。いよいよ子供が生まれるという時に、
――眩暈を起こすかも知れない――
と思ったのだが、それは血の匂いを感じたからだ。
――そういえば、大学時代に眩暈を時々起こしていた時も、血の匂いを感じたことがあったような気がしたな――
ということを思い出していた。
眩暈と血の匂いの因果関係は、今までにも意識していたことだが、血の匂いを感じることを予知できたとすれば、それは子供が生まれた時だけだったかも知れない。
しかし、予知できたとしても、それは分娩室という環境が、自分の意識の中にある何かを刺激したように思えた。それは、
――初めての子供なのに、分娩室の意識を生々しく感じる――
つまりは、今までにも同じような感覚を味わったことがあるという意識である。
それも、ずっと以前ではなく、生々しい意識がよみがえってくるくらいなので、近い過去だったことに間違いないようだ。
――分娩室と血の匂い――
この二つは、中西の中にある意識と記憶を結びつけることに大きな意味を持っているように思えてならなかった。
妻の涼子は、中西と付き合う前に、他に付き合っていた男性がいた。その男性は涼子とは幼馴染で、小学校からずっと一緒だったので、お互いにそれほど意識はしていなかったはずだ。
二人が高校二年生の時、幼馴染の彼から、
「涼子、俺たち付き合ってるのかな?」
と聞かれたことがあった。
「えっ? 私にはそんな意識はないわよ」
という返事に、彼はキョトンとした表情を浮かべ、戸惑いを隠しながら、
「そうだったんだ。俺は付き合っているつもりでいたんだけどな」
と、言われたが、彼がどうして戸惑う必要があるのか、涼子には分からなかった。
付き合っているというのは、お互いに意識があって初めて成立するものだと涼子は思っていたので、彼が付き合っているのかどうかを聞いた時点で、付き合っていないということが確定したのと同じだと思っている。
涼子には付き合っているという意識がないだけではなく、彼自身も、付き合っているということに疑問を持っているのであれば、それは、もはや付き合っているなどと言える代物ではないはずだ。
涼子は、その時、自分が今まで男性と付き合うということを意識したという思いを感じたことがなかったことに気が付いた。
その時、彼が不思議なことを口にしていた。
「俺は、ずっと以前に、今の涼子と出会っていたような気がするんだ」
「それはどういうこと?」
「涼子には、お姉さんっていないよね?」
「ええ、いないはずだけど?」
「今の涼子にそっくりなお姉さんと、俺は出会ったんだ。そのお姉さんは優しい人で、隣町にある大きな屋敷に住んでいたんだ。急に声を掛けられてビックリしたけど、気が付いたら、そのお姉さんの家に遊びに行って、いろいろともてなしを受けたんだ。その時、彼女の世話をしていた男性がしっかりしていたので、俺もその人を信用できたから、誘われれば、いつも遊びに行っていた」
「そのお姉さんが、今の私に似ているの?」
「そうなんだ。名前をみのりさんと言ったんだけど、今の涼子にソックリなんだ。それでその時に『どうして、俺なんかを誘ってくれたんですか?』と訊ねると、『海を見ている姿が印象的だったの』って言われたんだ。確かに、いつも俺はテトラポットの上で横になっていることが多かったからね」
「どうして、そんなところに?」
「どうしてなんだろう? 自分でもよく分からないんだけど、気が付けばテトラポットの上が一番落ち着く場所になっていたんだ。でも、不思議なことに、後から思うと俺がテトラポットにいたのは、誰かを待っていたからではないかと思ったんだ。その思いが実ったのか、それとも、声を掛けられたことで、最初からそう思っていたように感じたのか、どちらにしても、その時出会ったみのりさんは、俺の考えていることなど、簡単に見透かすことができるような気がしてならなかったんだ」
「そのみのりさんというのは、どんな女性だったの?」
「色白で、白いワンピースに白い帽子。本当にお嬢さんって雰囲気だったな」
「えっ? 私はお嬢さんという雰囲気なの?」
似ていると言われれば、自分もお嬢さんに見えるということだろうかと、涼子は素直に考えた。
「いや、お嬢さんというよりも、何事にも素直な表情をする彼女に似ている気がするんだ。逆に言えば、一定の表情しかしない。つまりは、お嬢様っぽい表情が似合う時以外は、無表情なんだ」
「でも、それだったら、無表情の時の方が多くて、ぶっきらぼうなイメージが残らないかしら?」
「いや、そうじゃないんだ。俺には彼女のイメージは『お嬢さん』でしかないんだ。そういう意味では不思議な女の子だったな」
「同じイメージを私に感じるわけね? じゃあ、私のどのあたりがあなたにとっての素直な表情なの?」
もう少しで食ってかかりそうになりかかっているのを必死に堪えて話をする涼子は、彼が何を言いたいのか、必死に探っていた。
だが、彼の表情から、何が言いたいのかがハッキリとしない。
一つ言えることは、
――彼が、涼子に何かを言いたいと思っているのだが、それを言ってしまっては涼子に失礼だ――
と思っていることだった。
実はこの思い、数年後にも感じることになる。それは彼にではなく、将来の夫となる中西にであった。それは二人が初めて知り合った頃のことで、逆にその時のインパクトがなければ、涼子は中西と結婚しようなどと思わなかったかも知れない。
中西は、妻の涼子が、前に幼馴染と付き合っていたことは知っていたが、まさか、彼からそんな話を聞いていたとは思ってもみなかった。涼子にとって、幼馴染とのことは中西には関係のないこと。それを関連付けて考えることは、幼馴染に対しても、中西に対しても失礼なことだからである。
しかし、涼子はいつの間にか、幼馴染から聞かされた話が中西と関係のないことではなく、その話をいずれどこかでしなければいけないのだと思いこんでいた。その思いは間違いではないだろうが、あくまでも問題はタイミングである。一歩間違うと、夫婦の危機に陥るし、すれ違いが起きてくる。かといって、何も言わないと、勝手に感情が盛り上がり、それ以降気持ちの制御ができなくなりそうであった。
しかし、そんなことを考えているうちに、妊娠、出産と忙しい日々を迎えていた。そのせいもあってか、中西にその話をできなくなっていた。涼子にはその思いがトラウマのようにのしかかってきたのだった。
涼子がもし、みのりが「不治の病」であることを知っていたら、中西に話をしただろうか?
いや、却って涼子はそのことを自分の胸に抑えたまま、封印しようとしたかも知れない。だが、中西の知っているみのりは不治の病に侵されていることを後から知った中西は、却ってみのりのことが忘れられなくなってしまっていた。そんな中西のそばにいれば、言わないわけにはいかない状態に自分が追いこまれてくることを、次第に涼子は悟るのではないだろうか。
しかし、本当に涼子の幼馴染が出会った「みのり」と、中西が子供の頃に経験した「みのり」とが同一人物なのか、それを知っている人は誰もいない。中西が知っているみのりが不治の病であることは本人の口から聞いたわけではなく、噂を聞いただけだ。幼馴染のみのりの方も、本当に本人の口から聞いたとは思えない。
中西はみのりに対しての気持ちもさることながら、どちらかというと、強く意識していたのは木村さんの方だった。
自分に似ているところがあると思っている木村さんは、みのりにとって、どんな存在だったのだろう?
子供心には、父親のような存在だと思っていたが、それは、自分が育った環境において、ロクでもない父親しか知らないことで、自分の理想の父親と木村さんを重ね合わせていたのだということを次第に意識するようになっていた。
中西は自分が父親になったということを実感していたつもりだったが、なかなか実感として湧いてくるものがどんなものなのかということが分かっていない。
――皆、自分と同じ感覚なのだろうか?
と思った時、ハッと自分で今考えたことを否定したい気分になっていた。
――どうして、他人と比べる必要があるんだろう?
中西は、自分が気が付けばいつの間にか、自分を誰かと比較していることに気付いてビックリさせられることがあった。
――自分は自分、人と比較することなどないんだ――
と、常々考えていると思っていたはずなのに、無意識に矛盾した考えに至ってしまう自分に戸惑いを覚えるのだが、得てして無意識になることが多い自分としては、覚えていないだけで、普段考えていることと矛盾した考えを抱いてしまっているのではないかと思うと、不可思議な感覚に陥るのだった。
眩暈を起こすのは、そんな精神状態が影響しているのだと思っていたが、それだけではないということをウスウスは感じていながら、それがどこから来るものなのか分からなかった。まさか、自分の中にあるみのりの記憶に、涼子の中でトラウマとなっていた幼馴染から聞いた話が共鳴しているなど思いもしなかった。何しろ、涼子の口から話を聞いたわけではないからだ。
涼子としてみれば、
――どうして、彼はみのりさんの話を私にしたのだろう?
という思いがあった。
別に黙っていればいいものを、わざわざしたというのは、何かの想いがあったからなのかも知れない。言葉に出しても、別に誰が得をするわけでもない。涼子に疑念を抱かせるだけ、自分に対して不利になることだからだ。
それとも涼子に対して話をしておかなければ、フェアではないと自分で思ったからであろうか。裏を返せば、涼子に対しての自分の気持ちをハッキリさせたいという涼子に対して好きだという思いを持っていたからなのかも知れない。
しかし、彼は結局涼子に告白することはなかった。それは、涼子にみのりのことを話した時、
――涼子には自分の気持ちを打ち明けても、玉砕するだけだ――
という思いがあったからなのかも知れない。
涼子は、自分がどうして中西と結婚したのか、時々顧みることがある。
中西は、結構積極的に口説いてきた方であったが、涼子は自分で、
――そう簡単に男性の口説きに堕ちる方ではない――
と思っていた。
ただ、幼馴染の彼が積極的に口説いてくれば、自分も積極的になったかも知れないと思っていた。それだけに、煮え切らない幼馴染に業を煮やしていたところへ現れた中西と、気が付けば結婚していたというのが本音かも知れない。
後悔しているわけではないが、中西との結婚のきっかけに、幼馴染が絡んでいると思うと、どこかおかしな気がしてくるのも無理のないことだった。
だが、中西と一緒にいると、
――この人は、私と似ているところが結構あるように思えるわ――
と感じた。
一番似ているところは、お互いに自分は自分だと思っているところだ。人と比較すること、比較されることが一番嫌な性格であるが、なぜか気が付けばついつい誰かと比較しているところまで似ている。二人ともおぼろげに気が付いているが、そのことを認めたくないことから、お互いに相手を深く見ようとは思わないようにしていた。
中西は、子供ができて本当に変わった。それまであまり子供が好きだとは思っていなかったのに、さすがに自分の子供だと思うと、可愛くて仕方がない。
「あの人が、ここまで変わるなんて」
と、涼子は友達にそう言っては、
「何言ってるのよ、おのろけ?」
と、からかわれていた。
友達というのは、涼子だけではなく中西にも共通の友達である梨乃のことだった。
梨乃は元々、涼子が馴染みにしている美容室で美容師の見習いをしていた。以前は他の店で働いていたのだが、そこが閉店するということで、移ってきた。
「ちょうど、一人辞めたので、少しだけでも経験のある人が来てくれてよかった」
と、マスターは言っていた。
梨乃は、美容学校を出てからまだ一年も経っていない時だったので、とりあえずは見習いとして雇っていたが、すぐに昇格させるつもりだという話だった。
梨乃は控えめなところがあるが、会話になると、饒舌なところがある。男性からも人気があり、梨乃目当てで通ってくる男性客もいるとのこと。マスターとしては、願ったり叶ったりだったようだ。
中西までが梨乃と仲良くなるというところまでは、涼子も計算していたようだが、その後の展開までは、さすがに想定外だっただろう。本当は、子供が生まれると中西に言った時点で、必要以上な喜び方をした中西に、疑念を抱くべきだったのだろう。
涼子としても初産である。当然、自分のことだけで精一杯で、まわりのことに気を配ることなど、なかなかできるものではなかった。それだけに、
――少し増長したとしても、涼子に悟られることはない――
と、中西は考えていた。
妻が妊娠した時、得てして夫の浮気が問題になることがあるが、この時の中西もそうだった。
実際に梨乃の気持ちがどこまでだったのかは分からないが、二人の接近には、梨乃の積極的な態度があったのも否めない。相手からのアプローチなしに、女性に近づくことは、中西にはありえないことだった。
涼子とは言葉は悪いが「腐れ縁」のようなところがあり、お互いに、
――将来、結婚することになる――
という青写真は出来上がっていたようだ。
後はどちらがプッシュするかということだけだが、実際にプッシュしたのは中西ではない。中西がプッシュしやすいような環境を作り上げたのは、涼子の方だったのだ。
うまく引っかかったというと、二人に失礼だが、第三者から見ると、そうとしか見えなかった。
しかも、涼子の態度はあからさまで、人に悟られても気にしないような素振りだった。そこが涼子の性格でもあり、あっけらかんとしたところが、人に人気もあった。
だが、自分がやっていることを他人にされると分からないとはよく言ったもので、他の人が自分に対して何かの策を弄していたとしても、意外と気が付かないものだった。
中西も、それほど器用な方ではない。そんな中西が梨乃と深い仲になったとすれば、他の女性なら、女の勘で、
――何か怪しい――
と気付くのだろうが、どちらかというと、前しか向いていない性格の涼子には、姑息に隠そうとしない中西に対して、疑念を抱くことはなかった。
最初こそ、妻に気付かれていないことで増長していた中西だが、どこか一抹の寂しさを抱えていた。
――どうして気付かないんだ? 俺のことが好きなんじゃないのか?
と、次第に焦れてくる中西だったが、ここまで来ると、今度は却って姑息に隠そうと目論んでしまう。
――どうして、こんな気分になるんだろう?
やっていることと、考えていることでは大きな矛盾を孕んでいるのに、それが自分の中で相手に対して焦れている意識の中で起こっていることだと分かっている。
――焦れた時の方が、結構自分のことが分かるものだ――
と、感じることが、さらに中西を客観的な目にすることに繋がってくる。
梨乃は、控えめに見えていたが、実際にはそうではなかった。行動力はある方で、決断も早い。性格的にもちょっと危ないところがあり、
――小悪魔――
と言ったところであろうか。
中西は、そんな女の子に弱さを見せるところがある。しかも、雰囲気的に似ているわけではないのに、
――梨乃を見ていると、みのりのことを思い出させる――
と感じさせた。
それは、時間がそれだけ経ったということに尽きるであろう。時間というものが感覚をマヒさせることもあれば、思い出を歪に曲げた形で思い出させることもある。危険な香りを秘めた相手を見誤らせることにもなるのだということに、その時の中西は知る由もなかった。
梨乃は最初から相手を惑わすような気はなかったかも知れない。
しかし、結果的に中西は惑わされた。何に惑わされたのか自分でも分からない間に、中西は相手にのめりこむことが往々にしてあった。それは、優柔不断なところがあるにも関わらず、自分でそのことを自覚できていないからだ。梨乃という女性は相手が中西だったから惑わすことができたのかも知れない。それでも、梨乃はずっと相手を惑わせたとは思っていなかっただろう。
二人は純愛だと思っている。今まで好きになった相手のほとんどが、どこか駆け引きを感じさせる相手だったのに、梨乃にはそんな駆け引きは感じさせない。それは梨乃がストレートな性格だからであって、隠し事などもほとんどない、あっけらかんとした性格であることが一番だったに違いない。涼子にも同じところがあったが、
――もし、今の自分の立場で涼子と出会っていたら、浮気など考えなかったに違いない――
と感じるに違いない。
――一体どこが違うというのだろうか?
涼子が悪いというわけでもない。ただ、妊娠したことで、初めて自分の中に寂しさを感じた。
「奥さんが妊娠中というのは、旦那の浮気の可能性が高まる時」
という話を聞いたことがあり、
――自分はそんなことはない――
と思っていたにも関わらず、実際にその立場になれば、モノのみごとに嵌ってしまった。
「梨乃の魅力を一言で言えば?」
と、もし聞かれたとすれば、何と答えるだろう?
ひょっとすると、涼子に対して聞かれた場合と同じ答えを返すのではないだろうか?
元々、自分が好きな女性のタイプを聞かれて即答できない性格である。優柔不断と言われても仕方がないだろう。
「要するに、あなたは相手としては誰でもいいのよ」
と、言われたことがあった。
その時は、自分が好きな女性のタイプとして、
「自分を好きになってくれた人」
と、答えたような気がする。
好きになってくれた人が相手だと、お互いに相思相愛だという気持ちが強かったからだ。なぜなら、
――好きになってくれた人を嫌いになるはずはない――
という思いがあり、その思いは、
――自分を好きになってくれた人ではないと、うまく付き合っていく自信がない――
という裏付けのようなものなのかも知れない。
少し考えれば分かることのはずなのに、相手が女性だと思うと、なかなか考えがそこまで行きつかない。
――やっぱり、客観的に自分を見ないと、判断できないのかな?
と考えることもあった。
だが、そこまで考えても、答えが見つかるものではなかった。すぐそこに答えはあったのかも知れないが、一旦見逃してしまうと、もう見つけることはできないだろう。
たとえば、探偵小説の中に出てくる話として、
「大切なものを隠す時は、一度警察や探偵が調べたところに隠すのがいい」
と言われる。つまりは、
「一度探して見つからなければ、二度と同じ場所を探さないのが人間の心理」
だと言えるだろう。
しかも、もう一つの格言として、
「目の前にあるものほど、意外と気が付きにくい」
と言われる。
「まさか、そんなところにあるはずはない」
というのが心理の盲点なのだ。
中西は、そのことまで分かっているつもりだったが、それも、何かのきっかけがなければ気が付かない。
――結局分かっていないのと同じではないか――
と、溜息を尽きたくなるくらいだ。
この年になって、人から言われることで我に返ることが多くなった。それまで気付かなかったのもどうかと思うが、今になってでも、気が付くだけ、まだいいのかも知れない。
特に子供が生まれてから、自分の子供の頃を思い出すようになっていた。子供の目線になっているからなのかも知れない。
特にみのりと木村さんのイメージは、夢の中に何度も出てきた。
夢に出てくる二人は、子供の頃に出会ったシチュエーションとはまるで違っている。この間見た夢など、寂れた漁村にある小さな食堂のおじさんと娘だった。お嬢様のイメージしかなかったはずのみのりだったが、実際に夢で出会ってみると、違和感はない。木村さんも食堂のおやじさんの格好が様になっていて、子供の頃に出会った二人とは、見紛うようであった。
ただ、夢の中での共通点としては、テトラポットの上で寝ていて、目を覚ましたところから夢が始まっているというところだった。
――ひょっとして子供の頃の記憶も、本当は夢だったんじゃないだろうか?
時々、夢に見たことを覚えていることがあるが、そのほとんど、どこかに共通点があった。それが何なのか分からなかったが、みのりと木村さんが夢に出てきた時は、その共通点がハッキリと分かっている。
夢から目を覚ました時、すぐには夢だったという意識はない。目が覚めたという意識はあるのだが、夢を見ていたという意識が目を覚ました時にはないのだ。
――では、一体いつそのことに気が付くのだろう?
それは、まちまちだった。
布団から抜け出して、顔を洗っている時だったり、服を着替えている時だったり、あるいは、表に出かけてからやっと思い出すこともあるくらいだ。そう考えれば、
――覚えている方が稀なんじゃないかな?
と感じた。
確かに夢を覚えている方が確率的には少ない。みのりと木村さんの夢は、結構覚えているので、ほとんど覚えているような気がしていたが、本当は、覚えている方が稀だとすると、ほとんど毎日のように夢を見ているのかも知れない。
――毎日夢に見るほど、自分にとって印象深い相手だったんだ――
と今さらながらに感じ、さらに、忘れてしまったと思っている記憶も、覚えている時の記憶に吸収されて、鮮明さが増しているのかも知れない。もし、
――毎日夢を見ている――
という意識がなければ、記憶はもっと希薄なものであり、本当に夢を覚えていたとしても、すぐに忘れてしまうに違いない。
――これが夢というものなんだ――
と思うと、一番感じるのは、
――寝ている間に目を覚ましたくない――
という感覚だ。
しかもそのタイミングが、自分にとってのクライマックスの場面であれば、余計にそう感じる。得てして夢から覚めてしまう時というのは、クライマックスの時が多く、
――どうして、このタイミングで目を覚ますんだ――
と、思わず舌打ちをしたくなるのも無理のないことだ。
だが、本当にそうだろうか?
――夢というのは、目を覚ますにしたがって忘れていくものだ――
という話を聞いたことがある。それは、忘れたくないという思いがある中で感じることであって、実際に忘れてしまった夢に対して思い出そうと試みても、思い出すことは不可能だ。
どうして不可能なのかということを考えたことはなかった。
――そんなものなんだ――
と思っていたが、
――他の夢に吸収されてしまって、一つの記憶を作り上げている――
とも考えられる。
その考えが真実に近いとすれば、作り上げられた夢は、「創造物」であり、同じ音である架空の「想像物」とは種類の違うものではないかと思うのだった。
記憶がねじ曲がったものとして格納されているものがあるとすれば、
――夢が影響しているのかも知れない――
と感じる。
夢というものは、それだけ現実社会とは一線を画しているものなのだが、その影響力の強さは、ハンパではないのだろう。
みのりと木村さんの夢を見ることが多くなったのが、自分に子供ができてからというのも何かの縁ではないだろうか? この思いが、
――当たらずとも遠からじ――
だと感じるのも、さほど遠い未来ではないということを、中西はかなり経ってから知ることになるのだが、その前に試練が待っていることを、その時の中西に、分かるはずもなかったのだ……。
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