第4話 昔の恋の話
労働時間の短縮に国がやっと動き始めた頃、まだ土曜日は12時までの半日勤務で「半ドン」と呼ばれていた。この「半ドン」とはその昔、正午になると時報の代わりに軍隊が大砲を打っていた事からそう呼ばれていたらしい。そんなこんなで土曜日の正午に勤務を終え、帰宅後には翌日に備えて洗車をして過ごした。
当時の愛機はスバルレガシィセダンであった。2000VZ 4WD。EJ20型エンジン搭載で出力は150ps/6800rpm。バブル期に業績が悪化してしまった富士重工(現在のSUBARU)が社運を賭けて市場に投入し、更に世界ラリ-選手権ではその性能に世界中の自動車メ-カ-が震撼した名車だった。
豊かな時代で豪華なAT車が多くなっていた頃であったが、私はMT車を好んだ。街を往く女性から「珍しい車ね。どこの国の車?」と話し掛けられた事も何回となくあった。「いや…日本…スバルの車です」と答えると「何だスバルかよ」と吐き捨てるように云われたが、今までは女性がスバルに関心を示した事はなかった。「やはりスバル車の造りが変わって来たんだな」と自己満足出来た車でもあり、ヨーロッパ調の流麗な美しいボディ-はメ-カ-も満を持して世に送り出した車でもあった。
日曜日の少し早い時間帯、そんな愛機を駆ってボクサ-エンジンサウンドとユーミンの曲を入れたカセットを掛けてコラボを楽しみつつ海浜幕張から湾岸線、首都高を経由して神奈川は戸塚に当時あった社宅から少し離れた場所を目指す。ノ-トには…
「時間は7時30分。社宅の連中に見られると面倒だから少し離れた〇〇で待ってて」
と書かれていた。
普段から時間にも厳格な女性。遅れたら怒られるだろうなぁ…と思いながらも早朝の為か首都高特有の渋滞に巻き込まれる事もなく、約束の15分前には到着出来た。そして、思っていた通り待ち合わせの5分前には颯爽とやって来た。
「さすが5分前行動の女…だな」
と呟く。
「おはよう。スバルに乗ってるんだ。珍しいね~」
普段は事務所で制服、通勤時のス-ツ姿しか見ていなかった私は、見た事のないラフな可愛らしい服装に少し「ドキッ」としたのも事実だ。助手席にスッと乗り込み缶ブラックコ-ヒ-を差し出して来た。
相手が乗って来たらステレオは切る。私が車に人を乗せる時の流儀だ。こちらは好きでも相手が嫌いなアーティストの可能性もある。
「おはようございます。レガシィはなかなか良い車ですよ。どこか行きたい所ありますか?」
「桜の季節だしさ、桜の綺麗な珍しい所かな…」
「桜の綺麗な珍しい所…難しい注文ですね」
パッと思い当たる場所もなく少し考えていると
「ほれ。あんまり停まってると社宅の連中に見られちゃうよ」
と催促をされ
「ですね。分かりました。じゃ、川崎に行って東京湾フェリ-で千葉へ渡って大多喜城を目指しましょう。天守閣の下に咲く桜が綺麗なんです。帰りは湾岸道路と首都高経由で…」
「いいね。任せた。ね、カセット掛けてよ。さっき聴いてたやつ。ユーミンでしょ?」
「あ、お好きなんですか?人を乗せる時は好みのアーティストも解らないし、母親や父親は懐メロや軍歌世代なもんですからこの類の曲は煩いって言われるんです」
「私は良く聴いてるから大丈夫」
「じゃ、遠慮なく掛けさせて貰います」
カシャッとカセットがオーディオに入ると再びユーミンの甲高い歌声が流れて来た。ゆっくりとレガシィは走り出して国道を車群に紛れて川崎を目指す。
道すがら話したのは他愛もない話。川崎は東京湾フェリ-の乗り場から木更津行の船に乗った。甲板に車を停めて係員が車両を固定すると強制的に乗っている人間は船内客室やデッキに誘導される。
ここは羽田空港に着陸する航空機が車輪を出して船の頭上を掠めるように飛ぶ場所で、その大きさにフェリ-に初めて乗る誰もが驚くスポットで、テレビドラマのロケで使われた船としても有名だった。
「ここは飛行機が怖い程近くを通るんだね。これを見られただけでも収穫だわ」
空を見上げて城野さんが嬉しそうに呟く。
「そう言って頂けて嬉しいです。航空機が間近で見られるので私の好きな風景でもあるんです」
と言って私も空を見上げると丁度ANAが着陸態勢に入って来た所だった。
「へぇ~いつも一人でフェリーに乗って飛行機眺めてるの?寂しぃなぁ」
「一人も良いものですよ。いつも通勤や仕事で周りに人ばっかりですからね。仕事に疲れたりするとフェリ-に乗り来るんです。ちょっとした旅行気分が味わえるので」
こいつ休日には意外な一面があるんだな…という顔で城野さんはまじまじと私の顔を眺めていた。
現在は東京湾アクアラインの開通により航路は廃止となってしまったが、当時、港内を眺めるとアクアラインの工事用の船舶がポツリポツリとおり、この地域に間もなく新しい時代が来る事を告げている。
更に東京湾に入って来る大半の船舶は東京港を目指して北上して来る。その北上して来る船舶とぶつかるのでは?と思えるような絶妙な距離感で東京湾を横切り40分程で木更津港に入った。
「まもなく入港となります。乗車してください」
という係員の声に人々は客室から各々の車両に乗り込みエンジンを始動させた。そして一瞬、船は「ガクン」と停まり、やがて前側のハッチが開くと木更津港が姿を現す…この瞬間がテレビCMのシ-ンのようで堪らなく好きな瞬間でもあった。
「行きますよ」
ギヤをロ-に入れてゆっくりとクラッチを繋ぐ。2000ccのDOHCエンジンのレガシィはゆっくりと動き出す。オーディオからは再びユーミンの甲高い声…。
当時の千葉県木更津から大多喜への道路は高速道路もなく、ただの国道や県道の田舎道。千葉をほんの少しだけ南下する。
「何だか車を運転してると事務所に居る時と雰囲気が全く変わるわね」
「そうですか?でも、多分仕事している時より真剣です。運転って特に助手席に人を乗せているとその方の命を守らなきゃいけないですから真剣になるんですよ。基本的に事務所にいる時は災害でもない限り怪我をしたり死んだりする事はありませんからね。何故か私の居る0課だけは何だか物騒ですけど」
「フフフ。あの部署はなかなかワイルドよね。あなた運転中は正義感強いんだ」
「正義感というかハンドルを握るドライバ-としての使命感かな。失礼だな~。運転中だけじゃないですよ。普段生活していても正義感は持ってます」
「ゴメンゴメン。でも、うちの事務所にいる理事付のドライバ-さんでそこまで考えてる人っていないよ」
「私は車と運転が好きなんです。車って凄いじゃないですか。1日100キロも200キロも走ってくれる…。機械は基本裏切りません。時々機嫌悪い事はありますけど、それは私がこいつの異変に気付いていないだけなんです」
「人間より車が好きなんだ」
「だって人間って変な噂話はするし、わめくは悪口は言うわ…ろくなもんじゃないですよ。車はきちんと手入れをして異変に気付いて直してやればどこまでも一緒に走ってくれます」
「管理0課の若手は人間よりも機械を信用しているって私のデータに加えておく」
「あ、どうぞデータを追加しておいてください。あ、極秘扱いで願います」
「ふふ。はい。分かりました」
職場ではなかなか厳しいと噂を聞く秘書課の統率。しかし、プライベ-トでは良く喋り、良く笑う。そして、桜の咲く大多喜城を歩き、養老渓谷の粟又の滝に寄って川魚料理を食べ、更にあっちだこっちだと走り回り夕刻には千葉市街へと入った。
「夕食なんですけど、近くににお勧めのドイツ料理の店があるんですがどうですか?何ならお酒もどうぞ。黒ビールを飲んでる方が多いです」
「あなたは?運転だから飲めないのに申し訳ないよ」
「私は基本的にアルコ-ルは無くても大丈夫なので。でも飲んでる雰囲気は好きですよ」
「そっか。だから食事会の時も食べる一方だったんだね」
「え…見てたんですか…食事会の時」
「秘書ってさ、いろいろな噂話を聞くのね。あなたは来たばかりなのになかなか仕事できるって言われててさ、ちょっと観察してたんだよね」
「そうでしたか。交換ノ-トなんて言われた時に何かがあるか又はお酒を召し上がっていたので酒の上の戯言かどちらかだとは思っていたのですが…私の仕事なんざ全くダメですよ。一昨日も資金課の私の後任が帳簿持ってデスクに来ました。見たら私の書いた帳簿、86と68とか72と27を書き間違っていて、全部訂正印押して抹消線引いて書き換えでした。いかに嫌々仕事をしていたか…ですよね。情けない話です」
私はゆっくりとドイツ料理店の駐車場へレガシィを入れて2人で店のドアを開けた。店内は日曜日の晩の割には比較的空いていて少し町の灯りが見える見晴らしの良い席に案内された。
「帳簿かぁ…私が医療貸付にいた頃に同じような事やったなぁ。そんな事なんて普通にあるよ。気にしないの。じゃ、私は黒ビール飲ませて貰うよ。お勧めの料理は?」
と言いながらメニュ-を眺める。
「城野さんにそう言って貰えると救われます。ドイツ料理ですからソ-セ-ジ系がメインですけど、個人的にはオニオングラタンスープですね。ついでにビーフステーキでも行っちゃいましょうか。黒ビールの後に普通のビールと黒ビールを混ぜるハ-フ&ハ-フも美味しいそうです」
「またそういう誘惑をするんだから。ステーキか。いいね。頼もう」
私はコ-ラ、城野さんはビールを飲んでステーキとオニオングラタンスープを食べて上機嫌で昔の話をする。
「私が新潟の佐渡ヶ島出身って話したよね。小さな地区だから顔見知りばかりで高校時代に恋愛ってした事がないんだよね。短大は女ばかりだし、社会人になってからもな~んにもなくてさぁ…」
「地元の高校にカッコいい同級生や先輩とか居なかったんですか?」
「あのね…佐渡だよ。漁師の息子で普段から家の手伝いしてる色の浅黒い不愛想な男ばっかり」
「自分…不器用ですから…って高倉健みたいなタイプじゃないんですか?」
「高倉健?冗談じゃないわよ。健さんが気を悪くしちゃうよ。みんな坊主頭で海で見たら本当に海坊主だよ。で、あなたの恋愛ってどうなの?」
「私は高校時代は部活一色だったんです。部活のスポ-ツ推薦で行ったもので」
「へ~何のスポ-ツをやってたの?」
「ハハハ…今はこんな体形ですけど実は水泳部でバタフライの選手でした。国体千葉県代表でしたが、まぁ、当時は国体の選手なんざ2級戦力です。大した事ありません」
「へ~意外。あなたも浅黒い部類か。顔を見る分には色白だけどね」
と言って人の顔をジッと見つめて来る。
「私の場合冬は温水プールでしたから基本的に肌は白いですよ。プールの水って塩素が入ってますから漂白されるんです」
と笑いながら私は続ける。
「週に2回は前日にスイミングスクールの事務所に泊まり、朝5時から2時間泳ぐんです。云わば朝練ってやつです」
城野さんは目を丸くして話に聞き入る。
「朝から泳いでるの?それも凄いね」
「練習が終わったら近くの駅から電車に乗って登校する。午前中の授業の合間に15分位の休みがあるので学食に走って行って朝食兼昼食。昼休みの1時間は学校のプールで泳いで午後の授業が終わったら部室に顔を出してからスイミングスクールに戻る。その後アルバイトとして子供達に2時間水泳を教えて更に自分の選手としての練習が3時間。夜9時前にヘトヘトになって電車に乗って家に帰る…そんな生活を送っていたので恋愛って言葉とは縁遠かったですねぇ」
「1日8時間も水の中?今事務所で働いている時間を水の中で過ごしていたなんて…妙に凄いじゃない」
「ですよね。正に妙だったと思います。部活で推薦されて行くと、部活を辞めたら学校は首なんですよ。それ相当の結果も残さないとならないので必死でした。当時バタフライは穴場種目で選手も少なくて、当時のスイミングスクールの先生がお前はバタフライで行け。結果が絶対に付いて来るからって言われてクロールから種目を変更したんです。おかげさまで2年生で200メートルバタフライで千葉県高校選手権を獲得できました。3年生の時には個人、団体戦でチ-ム得点の半分以上を叩き込んで、千葉県の総合体育大会で開校後初の4位入賞を果たしました。本当に嬉しかったですねぇ。あ、知ってます?人間って泳いでばかりいると進化するんですよ」
「へ?何それ。鰓呼吸でも出来るようになっちゃうの?」
「まさか。それじゃ半魚人じゃないですか。いや、実は指と指の間の僅かな皮膚ですが、水かきのようになるんです」
「え?まさか~。どれ…手を見せてよ」
「まだ少し残ってるかな。この部分です」
と言って掌を見せた。
「大きな手だね。そっか。今のように地味にではなく、本当に表舞台で活躍してたんだね」
「はい。今のところでは人生のピークですね」
「ピークが来るの早過ぎだよ。これからまた来るかもよ。で、好きな人は?そっちを聞かせてよ」
「う―ん…高校は私立だったんです。普通の中学生が滑り止めで受ける高校でしたから、こんな学校にいる女子生徒は聖子ちゃんカットでスカートが長くて竹刀を持つととても似合っていたので恋愛対象外です」
と言って爆笑。
「ヤンキ-校だったの?」
「帰宅部はヤンキ-系が多かったですね。何だか今は凄い進学校になったみたいですが、当時はスポ-ツ校で部活をやってる奴らの方がまともだったかな…。水泳部はみんな真面目でしたよ。私は逆に自宅と学校、スイミングスクールを行ったり来たりでしたからね。ほら、高校生の時期って煙草を覚える時期じゃないですか」
「私も吸った事ある。具合悪くなってさ…。1本吸って終わりにしたけどね」
「城野さんが?意外です」
「こんな私だって一応高校生の時代があったんだからね」
と笑う。
「そんな時期でしたが、私を教えてくれた競泳の先生は厳格な方で、お前煙草なんて吸ってみやがれ。分かってるよなって感じだったので、道を踏み外すどころか、学校では本当に部活バカでした。スイミングスクールでも自分で泳ぎながら子供達や後輩の面倒を見るだけで手一杯でして、反抗期すらなかったんです。ま、なかったというか反抗する暇なく何か役割を与えられてました。高校生の時って何かを与えられて「任せた」って言われると俄然やる気を出す時期なんです。恐らく親や学校の先生に反抗していた連中は何かの役割が与えられていなくて、そのエネルギ-を持て余してしたのかな?と思っています。そんなこんなで恋愛の「れ」の字もありませんでした」
「何かガードが堅いな…可愛いスイミングスク-ルの後輩とかは?」
「どうしても高校生の私に恋愛をさせたいようですね」
「だって普通学生時代に恋ってするでしょ?」
「小学校5~6年と中学校時代にはいましたよ。クラスに関西から転校して来た可愛い女の子。中学卒業まで好きだったけど…」
「そうじゃなくて…んっとに誤魔化すのもいい加減にしなさいよ」
「ハハハ。だって城野さんだって周りには浅黒い男ばかりで恋愛対象が居なかったんでしょ?」
「私の場合はあんな田舎だもん。みんな顔見知りばかりだし」
「いゃ、高校時代は真面目にそんな暇がなかったんです。で、大学に行ったけど中退してその後の専門学校時代には一応好きな子は居ましたけど…」
「けど何?話してごらん。クラスでか~わいい~って言われた女の子とか?」
「とにかくひたむきな女性でした。学校が代々木駅の近くだったんですが、毎日朝4時に起きて3時間掛けて山梨の石和から中央線で通って来ていました。私達は比較的通学時間が短くて電車も深夜まで頻繁にあったので時々仲間同士でつるんで食事にも行ってましたけど、彼女はそれをやると家に帰れなくなるので授業が終わると真っ直ぐに帰ってました。だからクラスもゼミも一緒でしたが本当に向き合って話す事は殆どありませんでした。正直彼女の通学している性質上もありますが、他のメンバ-と少し離れた感じになってしまっていたのは申し訳なかったと思ってます」
「告白しなかったんだ」
「告白ですか…。専門学校って授業のプログラムがきついんです。毎週4本5本の論文を抱えて、ある意味原稿用紙と鉛筆が恋人みたいなものでした。下手したら喫茶店に入って論文書いたりしていましたし…。単位を取る事に必死でみんな恋愛なんてしている暇もなかった。だから卒業式で握手して別れてそのままです。確か地元の企業に就職した筈です。学校の勉強を生かせる職種に就いたのは本当に僅かな人数でした」
「な~んだもっと内容の濃い恋愛をしてると思ってたわよ。残念。と言うか、あなたの文章って役員の間でも結構評判だったんだよ。研修報告書を見て良い文章を書くって理事が言ってた。かなり鍛えられた文章だったのね」
「でも評価して貰えずに資金課送りになっちゃいました」
「仕事ってそんなもんだよね」
その後もいろいろな話に花が咲き入店して2時間が経っていた。
「そろそろ帰りましょうか…。社宅までお送りします」
「近くの駅で大丈夫だよ。総武線快速で帰れるし」
「夜の遅い時間に女性を一人で帰すわけには行きません」
「変なところで紳士なんだから…」
「まだノ-トに書いてあったお話も伺ってませんし…」
「あ…」
忘れていたのか、自分の言った事ながらもその話題に触れることを避けていたのか…その後二人の会話が途切れた。
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