第2話  交換ノ-ト?

 やっと最後のデザ-トとコ-ヒ-だ。早く帰りたいな…。なんて考えている時に限って周りに何だか人の気配…。


「楽しんでる?どしたのよ?何だか魂抜かれたみたいだよ?」


 役員秘書の女性メンバ-の元締めである城野裕子が話し掛けて来た。私より8歳年上でいつも秘書室では厳格と評判の女性だ。理事長付でいつも颯爽としており、ビル街を背に歩く姿は正に「仕事の出来る女性」の典型であった。例のビジネスウーマンだ。時々夕刻に事務所の窓辺で夕日を眺めている寂し気な姿に少し陰を感じつつも、研修中から正直挨拶をする程度で直接話した事はなかった。


 何故なら理事室に呼ばれると云う事は何か良くない事が起きた時だ。必ずここから呼び出しが掛かる。要はあまり顔を出したくない場所でもあった。そんな女性から声を掛けられ、私は少し戸惑った。


「あ、お疲れ様です。いや、ちょっと残業続きだったので。楽しんでますよ。食事も美味しいです」


「資金課って激務だもんね。いつもあなたを見ていて思ってたんだけどさ…何か悩んでるでしょ。どれ、お姉さんに話してごらん」


 いつの間にか空いていた隣の席に座ると人の顔をまじまじと覗き込んでジッと目を見つめて来る。あの厳格と言われてる城野さん…だよな。「お姉さん?酔っぱらってるのか?」とにかく早く逃げたい一心の私の返答は…


「いや、悩みはありますがまぁまぁ…こんな楽しむ席で仕事のお話するのは申し訳ないです。周りに人もおりますし…」


 心の中では「ちょっと待て。何を言ってるんだ。何で悩みなんてありませんよ。仕事も楽しいですと答えないんだよ。話が絶対にややこしくなるぞ」と思ったのだが、その予感は正に的中してしまった。


「そっか。そうしたらさ、交換ノ-トをやろうよ」


「は?交換ノ-トですか?城野さんと?いやいや恐れ多いですよ」


「何言ってるのよ。悩みがあったら文章にすると良いっていうじゃない?明日ノ-トを渡すから書いておいで」


「は?…はぁ…」


「じゃあね」


 相変わらずの颯爽とした後ろ姿を見送りつつ、「交換ノ-ト」という奇妙な提案に今のは何だったんだ?と思ったが、まぁかなり酔ってたようだし酒の上の戯言であろうと思い、私は何にも深く考える事なく二次会も上手くごまかして帰路についた。


 JR総武線の千葉行は退勤時間帯を過ぎていても結構な乗車率で、ドア付近には乗客が固まっている。当時痴漢の多い路線としても有名で、立ち席の際は普段から誤解を招かぬようにカバンは網棚、両手で少し高い位置の手摺や吊革に掴まってかなり気を使って乗車していた記憶がある。

 

 また、朝は世界一正確と呼ばれる日本の鉄道ダイヤの模範のような風景が繰り広げられ、通勤電車は2分30秒に1本の間隔で走って来る。1本逃しても次の電車が既に見える所に来ているのだ。各駅停車は10両編成、快速電車は16両編成で1号車から最後尾までびっちりと人が乗っている…というよりも正に詰め込まれていると言っても過言ではない。


 更に乗っている最中にもしカバンを持つ手を離れてしまったとしても、すし詰め状態なのでカバンが床まで落ちる事はない。それだけ密集した状態で乗っているのだ。そして乗降客の多い駅に到着してドアが開いた瞬間は「降りる」のではなく正に電車から「吐き出される」といった表現が適切であったと思う。首都圏は通勤だけで体力勝負なのだ。


 翌朝、事務所に行くとデスクの上に大きな封筒が置かれていた。「資料」とスタンプが押されていたので、食事会に出ないで残業していた他の課からの書類の束か?と思いながら開けると中には一冊の大学ノ-トが入っていた。ハァ?昨日のあれ、本気で言ってたんですか?と心の中で呟きつつ1枚目をめくる…。


「悩みや吐き出したい事、何でも良いから書いてこの封筒に入れて持っておいで。相談に乗れるところは乗るからね」


 と書かれていた。基本的に私の考える「交換ノ-ト」は高校生辺りの仲の良い男女や女の子同士がやり取りするイメージであり、私には縁遠くそれだけに戸惑いもあった。また、当時の連絡手段は固定電話か手紙、結婚式や訃報の際は電報を打つ。


 そう言えば駅には伝言板も置かれていた。「〇〇先に行く。〇〇駅で待つ。電話乞う」と書かれて固定電話の番号が堂々と記載されているという大変おおらかな時代でもあった。そんな頃だけにある意味「交換ノ-ト」も一種の連絡手段とも言えた。


「ま、連絡帳みたいなものか。何を連絡するかは知らないが…」


 そう思いながらデスクにノ-トを仕舞った。

 恐らく城野さんは通勤に疲れ、浮かない顔して電卓を打っている新人がよっぽど哀れに見えて交換ノ-トで悩み位聞いてやろうと云う気持ちになったのであろう。


 ノ-トを放置するのも何だか気が引けたので、最初に書いたものは仕事に関する愚痴を延々と書いていた記憶がある。しかも内心これだけ書けばドン引きしてきっとノ-トは返って来ないだろう…と正直それを願っていた。


 しかし、こんな事を書いたにも拘わらずノ-トには学校の先生が生徒に対して諭すような雰囲気の事が記入されて戻って来た。


 「参ったな…ノ-トが返って来ちゃったよ」


 その後は不定期ながらも交換ノ-トは何だかいろいろと書き込まれて結構なペースで2冊3冊と増えて行く。


 8歳年上で秘書課女性の「元締め」と「うだつの上がらない新人」、何故この奇妙な組み合わせになったかは分からない。しかし、時には前以て私の異動情報までノ-トで教えてくれて逆に内示を受ける際に落ち着いていられたのを覚えている。


 そしてその移動先は管理部管理課で通称管理0課と呼ばれる少し特殊な部署であった。

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