第3話 異動と両親の田舎移住計画発動
私の居た特殊法人は社会福祉施設や民間病院に建設資金や経営運転資金を貸し出す言わば政府系金融機関。当時は財政投融資と言って国民の郵便貯金を「運用」するという名目で融資をしており、貸したからには返して貰わなくてはならない。
経営的に順調なところは返済されるが、中には返済が危うい所も多かった。それを管理するのが0課の仕事でもある。時には代理貸付をした銀行や監督省庁の厚生省も巻き込んで日々回収作業に当たるのだが、病院や福祉施設の経営には反社会的勢力が絡んで利権争いをしている事業体も多かった。
更に賃金の未払いによる医師のストライキや労働争議寸前の所もあり、以前より持っていた福祉や医療のクリーンなイメージは一瞬にして崩れ去ってしまった。
私は上司と共にそれらの状況調査の為に現地に赴き、時には反社会的人物や集団と直接折衝する事となった。そして、これらの対応は月日を重ねる毎に私の心を蝕むようになって行く。
ここの部署ではテレビの刑事物にあるような「脅し」「恫喝」「恐喝」「嫌がらせ」が現実に何時起こってもおかしくない。地下鉄に乗る時はホ-ムの先頭に立たずに列の後ろの方に並ぶ…何故なら後ろから線路に突き落とされる可能性があるから。
更に普通に歩いていても背後に不審な人物が居たり、車がゆっくりと尾行するように走っていたら「あれはひょっとして…」と常に周囲を警戒して歩かなければならなくなった。
遂にはズボンのベルトにホルスタ-を着けて金属警棒を入れて忍ばせるようにもなってしまった。幸いに使う事はなかったが、もし今の時代にこんな物を持って歩いていたら正に職質対象。「警察24時」に出る羽目になっていたかも知れない。
そんな悩みを抱えつつ城野さんとの交換ノ-トは意外に頻繁に続いており、特に悩みが深くなった時になると何故か「ご飯に行こうよ。〇〇日の〇時に〇〇で」と記されていた。正に「餌付け」をされていたのだと思う。この食事の前に私がノ-トを書いて引き渡す事もあったのだが、手渡しても直ぐに見る事はなく先ずはカバンに仕舞われる。
恐らくは帰りの電車の中で読んでいたのであろう。しかし、ノ-トに書いても書いた傍から増える悩みに日々相変わらず浮かない顔をして過ごしていた。
年度末の近づいたある日、出勤するとデスクに「資料」とスタンプの押された封筒が置いてあった。これはいつもの風景だ。しかし、時々その「資料」の封筒の中に他部署からの本物の「資料」が入っている事もあるので、必ず中を改めノ-トが入っている事を確認してページを開いた。中には「明日から家の事情で4~5日新潟の佐渡ヶ島に帰省して来ます。ちゃんと仕事して待ってるんだよ」と書かれていた。
あの仕事に厳格な城野さんがこの忙しい時期に帰省?何か変だなという違和感を感じつつも、家の事情なら仕方ないよなと云う反面「年度末だぜ。大丈夫か?」と思いながら「分かりました。お気をつけて。お帰りを「大人しく」待ってます」と返事を書いた。
そんな頃、その年度末で父親が長年勤めていた勤務先の定年退職を迎える。退職日に家に戻って来た父は「老後はゆっくりと田舎で暮らしたい」と言い始め、以前より「この町は住み心地が悪い」と溢していた母親はその話に乗ってしまう。
極度に不便な町に住んでいた訳ではない。自宅からバス停まで徒歩10分。バスは朝は15分に1本、昼間は30~45分に1本。バスに乗ってしまえば最寄り駅まで10分程度。取り敢えず町の中に小さな商店が数店舗あり買い物にもあまり困らない…。場所的に言えばここも立派な田舎だ。
近所には花見川という川が流れ、辺りには広大な水田が広がっている。春には母親と食用ガエルのオタマジャクシを採りに行き、当時我が家の庭にあった池に放したところ、立派なカエルとなり、冬にはどこかで冬眠していたようだが、毎年夏になると必ず池に戻って来て「グオングオン」と夏の間鳴き続けて再び秋が深くなると居なくなる…。そんな事が数年続いていた。その後手入れも大変だと云う事で池は埋め立ててしまったので彼らの消息は知る由もないが、本能的に近くにあった神社の池に移動して行ったのではないかと思われた。
環境的に見れば悪くなかった。ただ、その地域は閉鎖的な町で他の町から家を建てて移り住んだ人間には「よそ者」のレッテルを貼るような所だった。家は私が乳幼児の頃に他の地域から引っ越して来た正に「よそ者」であり、よく子供の頃にそれを理由にして「いじめられた」経験は確かにある。
しかし、「いじめ」といっても今の子供達のような陰湿さはなく、例えば道で出会い、何人かで「とうせんぼ」をされてもそこを強行突破すれば追いかけて来る事はあってもそれ以上の事をしてはこなかった。
時には農道でお互いが畑を真ん中にして対峙し、石や泥の塊を投げ合って逆にこちらの投げた泥の塊が相手の顔面を直撃し、泣きながら退却して行った事もあった。
相手が泣いたとしてもお互いの親には何にも言わないのが暗黙のル-ルであり、それを守り続けているうちに徐々に打ち解けて仲良くなって行った。でも、しがらみの多い大人同士ではそうも行かない。これは長年「よそ者」と言われ続けた、いわば「両親の田舎移住計画発動の瞬間」であった。
1人息子の私はいずれ面倒を見る事になるし、その時は一緒に行くか…と決意を固めたものの、行先すら決まっていない計画だし実行はまだまだ先であろうと高を括っていたのだった。
しかし、この移住計画は思いもよらず早く進む事になる。両親は私の知らない所で勝手に話を進めており、計画が発動されてから僅か1年で北海道は室蘭市への移住話が具体的になりつつあった。
当時室蘭市は首都圏向けに空いた公用地の宅地セールスを行っており、東京都内での移住相談会や現地視察にも両親はかなり積極的に参加していたようだ。私が一緒に現地を見に行こうと誘われたのは既に土地の売買契約が結ばれた後…。
恐らく仕事で忙しくしている私に話せば「今じゃなくても…」と反論される事を警戒していたのだろう。結局「行こう行こう」と言われて室蘭市で現地を確認。市役所の担当者が同行して町の中も案内されてまぁまぁ住みやすそうな環境に「いいんじゃない?」と承諾をしてしまったのだ。
それでも家を建てるには膨大な資金とある程度の時間も必要。更に当時居住していた千葉の家の処分もしなくてはならず、様々な煩わしい手続も絡む事から「土地は暫く放置であろう」という安易な考えもあった。
しかし、普段は腰が重く、石橋を慎重過ぎる位に叩いて渡る父親であったが、この移住計画では何故か軽快な動きを見せる。そして住宅建設資金の融資話から建設業者の選定と現有不動産の売却までとんとん拍子に話が進み、短期間で話が完全に決まってしまった。
室蘭の家の建設中は建設担当業者が住居を提供してくれるし、なるべく早く行きたいという両親の思いはこちらの思いをよそにどんどん加速して行く。結果、父親の計画発動から1年半、とうとう室蘭市へ移住する事が正式に決まる。
もちろんこの出来事はノ-トに書いた。それに対する応えは
「ご飯行こうよ。ゆっくり話を聞いてあげる。たまには休みの日…次の日曜日にどう?車持ってたよね。どっかに連れてってよ。私も話したい事があるんだ」
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