第6話 交換ノ-トの終焉と幸せになる権利
それから退職日の半月前までは何回となくノ-トのやり取りが続いていた。仕事の話から移住の話、特に両親が勝手に建設会社等と話を進めている事を書き、城野さんの両親は頻繁に電話をして来て結婚式の日取りを早く決めろと催促している等々…特にお互いの両親の愚痴が増えて行った。
しかし半月前になるとノ-トは全く帰って来なくなり、事務所で顔を合わせてもお互いにただ会釈をする程度。知らず知らずのうちに私も極力会うのを避けていたのかも知れない。もちろん事務所の催しに顔を出す事もなかった。
それから半月が経った6月29日、出勤すると久し振りにデスクの上に「資料」とスタンプの押された大きな封筒が置かれていた。中には大学ノ-ト。
「明日で退職だね。今までありがとう。お疲れ様。元気で…さようなら」
その文章の横には一枚の桜の花びらが押し花として添えられていた。一緒に出掛けた時に大多喜で拾った花びらだろうか?あれから1カ月以上も経っているのに色褪せておらず、綺麗な薄い優しいピンク色で見ていると心が震えて涙が溢れて来た。
「今まで本当に本当にありがとうございました。ご結婚おめでとうございます。ただ、私の中では城野さんの結婚にはまだ納得出来ないでいます。でも、東京に来られて苦労もたくさんされましたよね。その分幸せになる権利があると思うのです。だから必ず必ず幸せになってください。城野さんの事は絶対に忘れません」
終業時刻を過ぎてノ-トに返事を書き、封筒を持って秘書室へ向かう。しかし城野さんは公用外出中であった。
「城野さんからお借りした資料です。お渡しください」
と若い秘書室員に声を掛けて封筒を預け、人気のなくなった事務所で片づけを済ます。もう一度顔を見たかったが、翌日の退職の挨拶に行ってもまた不在だった。
結局交換ノ-トは全て私の手元に残る事なく、城野さんがどこかに保管する事になったようだ。私の書いた内容はきっと様々なデータとしてあの人の頭の中に刻まれていたに違いない。
あれから1カ月。移住の準備で忙しく北海道と千葉を何回か行き来して業者と打ち合わせをしつつ、バタバタと日々が過ぎて行った。そして7月31日の夕方、両親は買い物で一人留守番をしていた所に固定電話が鳴った。この時代にはナンバ-ディスプレイなどない。誰だろ?
「はい…もしもし」
バブル時期は家の固定電話に妙な営業電話も多く、恐らく警戒した声に聞こえたと思う。
「…あの…城野です」
「え…あ、城野さん?どうしたんですか?」
「電話繋がって良かった。元気にしてた?今日で私も退職だからお礼が言いたくて。今までありがとう」
「連絡ありがとうございます。もう話せないかと思っていたので。声が聞けて嬉しいです。本当にお疲れ様でした。佐渡へはいつお帰りですか?」
「明日の朝。新潟まで新幹線で行って汽船に乗って帰る。2時過ぎのジェットフォイルに乗ると3時過ぎには島に着くんだ」
「そんなに早く…式は…結婚式の日取りは…?秋位の予定ですか?」
「それがさ…驚かないでよ。8月12日。早く早くって言われて、お昼から相手の家でご近所や親戚を呼んでやるの」
「半月後じゃないですか。真夏に礼服ですか…考えただけで暑いですね」
「田舎だから新郎新婦はずっと着物よ。暑いなんてもんじゃないかも」
「凄く早い話の展開で驚きました」
「私もあなたの移住話の展開に驚いたけどね。で、納得出来た?」
「いや、こうしてお話をしてもまだ無理ですね。城野さんは?」
「私もまだ納得してない。やっぱりお互いに納得できない結末かな」
「どちらか片方はハッピ-エンドかも知れませんよ。それが城野さんであって欲しいです。私はどうにでもなります」
「ありがとう。何回お礼言っても言い尽くせないな」
「それは私も同じです。本当は…」
「本当は…何?」
私は「本当は一緒に北海道に来て欲しかった」という言葉をグッと飲み込んだ。
「いや…何でもありません。ノ-トにも書きましたが、必ず幸せになってください。私の心からの願いです」
「うん…ありがとう。それじゃ元気で」
「城野さんも…」
未練を残すように暫く時間を置いて電話は切れた。これで良かったんだよな…そう思って自らを納得させる他なかった。
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