巻之四 もう弾けないと思っていたのですが
以前の通りに
「
前と全く変わらぬ姿で。
そしてその手には、琴らしき包みを抱えていた。
「どうして……」
本当にあの琴を持ってきたのだろうか。
信じられない気持ちが呟きになってこぼれ落ちた。
わたしの呟きは届かなかったようで、維茂さまは以前と同じように快活に笑った。
「久しぶりだな。元気にしていたか? ほら、お前が欲しがっていた琴を持ってきたぞ」
維茂さまは少し得意げな顔をして、手にした包みを小さく持ち上げるようにした。
「本当に、右大臣家の琴を……?」
「馬を飛ばして
まるっきりなんでもないことのように、維茂さまはおっしゃる。
わたしはまだ信じられない気持ちだった。
ともかく包みの中を確認しようと、維茂さまを家の中に案内する。
板の間であぐらをかいた維茂さまが、その包みを前に置いて、布を取り払う。
それは確かに、あの琴だった。
奥方様からいただいて、何度も弾いた──そして最後には弾かせてもらえなくなった、それでそのまま置いてきてしまった、あの琴。
指先で弦を撫でるだけで、その音を思い出せる。
なんだか涙が出そうになるのを堪えて、わたしは維茂さまを見た。
「約束通り、お前が欲しがっていた琴を持ってきた。お前への贈り物だ。受け取ってくれるか?」
わたしは目を伏せて、もう一度その弦に触れる。
琴は、再び弾かれるのを待っているように、そこにあった。
弾きたい。
その気持ちが湧き上がってくる。それと共に、右大臣家で言われた言葉を思い出す。
──なんと不吉な。
──あの娘の琴の音を聞けば呪われます。
気付けば、指先が震えていた。
それを誤魔化すように、自分の指先を握る。
わたしはもう、琴は弾かない。きっと、弾けない。
涙を堪えて板の間に指先をつくと、維茂さまに頭を下げた。
「せっかく持ってきていただいた琴ですが、わたしはもう、琴を弾きません。やはり、お持ち帰りください」
少しだけ、ためらうような間があった。
その後に維茂さまが、不思議そうな声を出す。
「更科姫、お前の琴の腕前は素晴らしいものだったと聞いたぞ。それに、琴を弾くのが好きだったとも聞いた。この琴はお前のために持ってきたのだ、好きなだけ弾けば良い」
「好きだったのは、前のことです。今はもう、好きじゃありません」
わたしの言葉に維茂さまは納得していない様子で、何を言ったら良いかわからないように、口を開いたり閉じたりしていらした。
わたしはそんな維茂さまを真っ直ぐに見て、言葉を続ける。
「どんなに好きなものでも、このように、簡単に引っ繰り返ります。維茂さまも、今はわたしのことを好きなどとおっしゃいますが、きっと、いつか心変わりしてしまいます」
維茂さまが、悲しそうに眉を寄せた。
わたしは目を伏せて、その表情から目を逸らした。
「更科姫……」
維茂さまが、にじり寄ってくる。琴を挟んで、維茂さまと向かい合う。
伏せたわたしの顔を覗き込むように、維茂さまは背中を丸めた。
「お前はつらい目にあって、傷付いたのだな」
維茂さまらしくない、静かな声だった。
わたしは返事をせずにただ、俯いていた。
「正直に言えば、お前のその傷をどうすれば癒せるか、俺にはわからない。それがもどかしい」
「そんなこと、わたしは望んでません。わたしは何も望みません。維茂さまもわたしに何も望まないでください」
維茂さまは、小さく息を吐いた。
「お前に何かを望んでいるわけではない。ただ、お前のその傷が癒えるまで、俺はお前の隣にいたい。隣で、お前を守りたい」
ずっと我慢していた涙が、こぼれ落ちてしまった。
琴が、せっかくの琴が濡れてしまう。
わたしは袖で、目元を覆う。
琴の腕前が評判になって、右大臣家に呼び出された。奥方様に是非にと請われて、お仕えすることになった。
奥方様から琴をいただいて、演奏すれば褒められた。それは嬉しかった。
けれど、ほかの侍女からは気味悪がられ、いじめられた。
病がちな奥方様のために用意した薬は毒だと言われた。
違うという言葉は、誰にも聞いてもらえなかった。
そのまま
貴族の大人なんて、みんな自分勝手だ。
勝手に呼び出しておいて、人の話も聞かずに勝手に追い出して。
わたしは、それがとても悲しかった。
思い出したら、涙が止まらなくなってしまった。
「これ以上、お前が傷付かないように、隣にいたい。それだけだ」
維茂さまはそれ以上何もおっしゃらずに、わたしが落ち着くのを静かに待っていてくださった。
維茂さまは琴を置いていかれた。
わたしはその琴を受け取ることにした。
まだ弾くことはできそうにないけど、もしかしたらいつか、弾けるかもしれない。
もし弾けるようになったなら、その時は、維茂さまに聞いていただこうと思う。
維茂さまはと言えば、相変わらず贈り物やら
「更科姫、今日も文を書いてきたぞ。受け取ってくれ。そしてどうか、俺と
「何も望まないとおっしゃったのに!」
「隣でお前のことを守るなら、夫婦になるのが良いと思ったんだ!」
いつものように、維茂さまは快活に笑う。
それでわたしもいつものように、贈り物も文も受け取らずに、維茂さまを追い返す。
気付けばそんな賑やかな日々が当たり前になってしまった。
維茂さまは身分ある貴族の若者だけれど、わたしが知っている貴族の大人とは、なんだかちょっと違うような気がしている。
いつの間にか、本当にいつの間にか、見上げる山並みが
更科姫物語〜鬼を討伐にきた若武者を投げ飛ばしたら突然求婚されたのですが!?〜 くれは @kurehaa
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