巻之三 これっきりにしたかったのですが

更科さらしな姫、すまない」


 その日、ずいぶんと遅くにやってきた維茂さまは悲しそうな顔をしていらした。

 なぜだかお着物が泥で汚れている。


 わたしは庭先に生えていた紫蘇しそを摘む手を止めて、立ち上がった。

 突然に謝られた意味がわからなかった。


「ええと……なんでしょうか?」

「贈り物を用意しようと思ったのだ。それで、花を贈ると良いと聞いて山に入ったのだが、花がいっこうに見付からなくて……ずいぶんとあちこち探し回ったのだが」


 わたしは瞬きをして首を傾けた。


「それで、何を謝っているのですか?」

「だから、今日は贈り物を持ってくることができなかった。それを謝っている」


 真面目な顔で、維茂さまはわたしを見ている。

 わたしは視線を逸らしてしまった。


「いえ、あの、贈り物など、要りませんから。わたしは、何も受け取るつもりはありませんし、なくても大丈夫です」

「それでも、俺は用意したかった。お前に花を贈りたかったのだ」


 維茂さまが背中を丸めてわたしの顔を覗き込む。その顔も、泥で汚れていた。

 わたしは一歩後ずさって、うつむいた。


「要りません。何を持っていらしても、受け取りませんから」

「そうか」


 維茂さまは小さく息を吐く。


「更科姫は何なら受け取ってくれるのだろうな。何か欲しいものはないのか?」

「欲しいもの?」

「ああ、なんでも良いぞ。みやこのものはどうだ? 馬を走らせて手に入れてこようか」

「京……」


 それでふと思い出したのは、京を出るときに置いてきた琴だった。

 あの琴は、きっと今も右大臣家にある。きっと維茂さまでも手に入れることはできないだろう。


「何かあるのか?」


 わたしは首を振った。


「いいえ。欲しいものはありません、何も。ですからお帰りください」


 維茂さまは名残惜しそうにしていたけれど、わたしが何も言わないでいたら、いつものように「では、また来る」と言い残してお帰りになった。






 その日の夜、薄い布団の中で琴を思い出したのは、きっと昼間のそんな会話のせいだったと思う。

 野山で駆け回って遊んでいたわたしだけれど、琴を弾くのは好きだった。

 琴の腕前が評判になるほどだったのだ。


 けれど、今はもう、琴を弾きたいと思うことも忘れていた。

 みやこを出るときに、右大臣家の奥方様からいただいた琴を置いていかなければいけなくて、それを悲しく思っていたことだって、すっかり忘れていたくらいだ。


 わたしの中にあった好きという気持ちだって、こんなに簡単に引っくり返って、無かったことになってしまう。忘れてしまう。

 やっぱり、人の心などすぐに変わってしまう。


 琴など忘れて寝ようと寝返りをうって、ふと、維茂これもちさまに琴を頼もうと思い付いてしまった。

 右大臣家の奥方様の琴。きっと維茂さまでも手に入れることはできない。

 維茂さまを遠ざけるには、きっとちょうど良い。


 真っ暗な部屋の中で、眠りに落ちる。その寸前に、もし本当に維茂さまが琴を持ってきたら、と考える。

 ありえない。

 そう考えるその奥の方に、もしそうなったらまた琴が弾けるだろうか、と思う気持ちも、少しはあったような気がする。





更科さらしな姫、姫は贈り物などなくても良いと言ったが、せめてと思ってふみを書いてきた。受け取ってくれないだろうか」


 維茂これもちさまが、折り目の曲がった紙を差し出す。


「俺は文を書くのも苦手なんだ。今まで貴族の女子おなごたちから届くこともあったが、文はどうにももどかしい。歌というのも苦手だ。それでも、更科姫には俺の気持ちを伝えたいと思って、なんとか書いた。どうか、受け取ってくれ」


 わたしは首を振る。


「いいえ、受け取りません」

「どうしても駄目か?」


 維茂さまのきりりとした眉が、悲しげに寄せられる。

 それを見上げて、わたしは覚悟を決めて口を開いた。


「何も受け取りません。でも、ひとつだけ、欲しいものを思い付きました」


 わたしの言葉に、維茂さまは身を乗り出さんばかりだった。

 悲しげに伏せられていた目をぱっと見開いて、わたしの顔を覗き込む。


「欲しいもの!? それはなんだ!?」

「琴です」

「琴だな!」

「はい。わたしは以前、右大臣家の源経基みなもとのつねもと様の奥方様にお仕えしていました。その時に、奥方様からいただいた琴が、きっと今も右大臣家にあるのです。みやこを出るときに持ってくることができず、それが心残りで」


 わたしの言葉が終わるか終わらないか、維茂さまは大きく頷いた。


「右大臣家か。よし、わかった!」


 いつものように快活に、朗らかに笑う維茂さま。

 わたしは小さく頷いて言葉を続ける。


「ですが、その琴を持ってきていただけるまでは、もう維茂さまにお会いしません」


 わたしのその言葉を、維茂さまはどう受け取っただろうか。

 維茂さまは不意に真面目な顔をなさった。


「そうか。では、次に訪ねてくるときには、その琴を必ず持ってくると約束しよう」

「はい……お気をつけて」

「楽しみに待っていると良い」


 維茂さまの言葉に、わたしは小さく微笑んで──でもきっと、これが最後だと思っていた。

 琴はきっと手に入らない。維茂さまはこれっきり、わたしのところへはいらっしゃらない。


「では、またな」


 いつものように去ってゆく維茂さまを見送って、もっとすっきりするかと思っていたのに、なぜだか少し落ち着かなかった。






 それからしばらくの間、維茂これもちさまは本当にいらっしゃらなくなった。

 最初の頃は、またいついらっしゃるかと警戒していたけれど、三日四日、九日十日と日が経つうちに、少しずつ力が抜けてきた。

 わたしは庭や畑の世話をしたり、集落の人たちの求めに応じて薬をせんじたり。

 ひとり気ままに、何もないけれど静かな毎日を過ごす中で、ふと、維茂さまのことを思い出す。


 維茂さまは本当にみやこにいらしてるのだろうか。

 それとももう、諦めただろうか。


 わたしは小さく頭を振った。

 わたしにはもう関係のないこと。

 いつも通り、静かに、穏やかな毎日を過ごすことができれば、それで良い。


 だというのに、どうしてもこんなに落ち着かないような、寂しいような気持ちになるんだろう。


 濃い緑色だった山々が色づき始めた。

 あかや黄に染まり始めた葉を眺めて、少し冷え始めた風を感じて、いつの間に秋になったのかと思う。


 維茂さまはまだ姿を見せる気配はない。

 もうつきったと思うのに。





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