[3] 同僚

 目覚めてうがいして顔を洗ってリビングに行くとそこには見慣れぬ水槽があって『そうだ、昨日スライムを買ってきたのだ』と改めて思った。

 別に忘れていたという話ではなくて、改めて喜びをかみしめたというか、そんなような話である。

 水槽の中をのぞきこんでみれば青色半透明で手のひら大のやわらかそうなやつがぐてーっとしてて確かにそれはそこにいた。


 スライムは人間で言えば皮膚の感覚が非常に発達している、と本で読んだ。

 実際の接触なしに空気の流れの変化から何かの接近を感じるとることもできれば、接近するものが熱を帯びたものであればその温度変化からも状況を読み取ることが可能である、らしい。

 要するに近づいていけばそれに気づくということだ。

 彼はふるりと大きく体を震わせると、きゅっと体をひきしめる。別に怯えているわけではないと思う、おそらく。もっとポジティブな反応だ、多分にこちらの希望がまじっているけど。


 ゆっくりと手を伸ばしてみる。

 スライムはぴょこんと跳ね上がってその手に触れてきた。少し冷たくて柔らかくてぬめっとしている。それでいてさらりとしていて皮膚に何か残るという感触はなかった。

 日常他にない感覚でくすぐったくておもしろい。これもスライムの魅力の一つだと思う。つかの間それを楽しんでから、伸ばしたときと同じようにゆっくりと手を引いた。


 社会人の朝の時間は忙しいのだ、やることがたくさんある。

 カーテン開けて陽の光を浴びながら、インスタントコーヒーをスプーン1杯カップに注いで、食パンにマーガリンをぬったらオーブントースターに投げ入れて、鍋で必要な分だけお湯を沸かしてやってそれをカップに加えて、できあがったコーヒーを飲みつつトーストにジャムを塗って食す。

 こうして書くとやたらあわただしい気がしてくるがそんなことはない。それらはすべて日々繰り返している動作であって、そうしながらだんだんと脳が覚醒していくのがわかった。


 今日のコーヒーは若干薄いなと思いつつ、食卓から遠目に水槽を眺める。

 スライムは窓に近い日の当たる場所で丸まっているように見える。レースを通したやんわりとした日差しは彼にとってちょうどいいものなのかもしれない。

 そんなこんなですでに時間は家を出るにはぴったりで、ざっくり身なりを整えたら「行ってきます」と声をかけて水槽のふたを閉める。聴覚はないけど振動を感じ取ってか、彼はふるりと身を動かして見せた。


 電車に揺られて会社についてパソコンを立ち上げてメールを確認して――そんなことをしながら頭の中でずっと考えていることがあった。

 昨日、スライムが家に来てから俺は彼のことをスライムと呼んでいる。俺にとって彼は特別な存在であってそれを示すために名前をつけるべきだ。

 あのぷにょぷにょしたかわいらしい姿にあったかわいらしい名前がいいとは思うが、自分で呼ぶことを考えたらかわいらしすぎる名前は困る。かわいいながらもかわいさに振りすぎずいい具合の名前がいい。


 昨日撮っておいた写真をスマホで見つめる。向こう側の景色がうっすらと透ける水色の体。やわらかな感触が手のひらの中によみがえってくる。

 脳裏にそのさまを描いてみる。かわいいと思うがそれだけに脳を支配されてしまっていい感じの名前は何一つとして思い浮かばない。せめて候補の一つでもひねり出したいところなのに。

 会社の昼休みにデスクでそれをやっていたのだけれど、思ってた以上に集中していたらしくて、不意に声をかけられてびっくりする羽目になった。


「何してんすか、先輩」

 声の主は田中で自分より1つか2つ後輩だったがまあ今となってはほとんど同僚のようなものだ。

 今日は明るいグレーのスーツに白いシャツと青いネクタイ。多少軽薄なところがあるが社交的な性格で営業にあっててきちんと仕事はこなしている。それなりにミスもしているが。

「スマホ見てにやにやして、ひょっとして彼女でもできたんすか」


 言いながら田中は人のスマホを覗きこんできた。その時どういうわけだか俺はとっさにそれを隠した。

 後になって考えてもよくわからない。いい年をした大人がスライムを飼い始めて浮かれているのを恥ずかしいとでも思ったのだろうか、そんなことはないはずだ。

 ただなんだろう、今まで自分が他人に与えてきたイメージ、別段意図してそれを形作ってきたわけではないけれど、それと少しだけ食い違う気がしたのだ。


 望んで作ったわけでもないそんなものに振り回されたってしょうがないはずなのに。咄嗟にでてきたものだからそれは人間の本能的な何かかもしれない。

 だとすれば深く考えても簡単に答えは出ないことだろう。

「まあだいたいそんなところだよ」

 といったあたりでおおよそ休憩時間が終わったので、田中はそこまで興味があったわけでもなかったのだろう、それ以上追及してくることはなかった。

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