[7] 紳士
ひとつひとつの行動についてその理由を完璧に説明するのは難しい。人間は半分ぐらい流れで生きている。AがあったからBをして、Bをやった後でCをする、そういうものだ。
交流会なのだから誰とも交流せずに終わるのはさすがにつまらない。せっかくなのでその老紳士に話しかけることにした。
まあお互い大人なんだからつまらないと思えばさっと別れてしまえばいい。それでごちゃごちゃと後を引くこともないだろう。そんなことをうっすら考えていたように思う。
「こんにちは。隣に座ってもいいでしょうか」
声をかける。
老紳士はこちらをぎっとにらんで風体をざっとながめてから「構わん」と一言だけ吐き捨てた。100%歓迎されているというようなことはなかったが言葉をそのまま受け取って俺はそこに腰を下ろすことにした。
座ってみれば大水槽の全体像がよく見えた。さっきまでの自分の位置ではうちのチップのことは把握しやすかったが、部分的にしか水槽が見えてなかった。
赤が跳ねて青が広がる。緑が壁にへばりついて黄がそれに触手を伸ばす。茶がぐるぐると筒の形を作って灰がその間を潜り抜ける。白が大きく膨らむと黒は隙間を走る。
スライム1匹1匹の形はわからないがそれらがまざりあってひとつの生物になっている、ように感じられた。なるほど。納得する。これは退屈しないわけだ。
チップのことを思い出せば、彼らは確かに人格のようなものを持っていると思う。そもそも人格というのがなんだかはっきりわからないから、『のようなもの』としか言えないがとにかく。
多分スライムがそれを持っていないなら人間だってそれを持っていないのだろう。少なくともその程度にはスライムは人格のようなものをを持っている。
けれども距離をとって眺めてみればそうした人格らしきものは遠くに消えてなくなってしまう。
それは人間でも変わらないのかもしれない。
雑踏をビルの屋上から眺めればその1人1人に人格を認めるなんてことをしていない。うごめくなんだかよくわからない1個の生物みたいなものだ。
「おもしろいですね」
ぼんやりと水槽を眺めながら俺はそんな言葉をもらした。
「何が」
こちらに目線を向けることなく言葉すくなに老紳士が尋ねてきた。
「あの中にきっと私の家のスライムもいるはずなんですが遠くから眺めているとその区別がなくなってしまう」
「そういうものだ。近くにいる彼らは頻繁に情報を交換している。言葉よりはるかに高速で行われるそれによって個の区別は曖昧になる」
「けれども私のところにもどってくればそれは必ず私のかわいいスライムになります」
「それもまた道理というものだ。変わるものと変わらないものは厳然として存在する」
「別にどちらかが大事だとか必要だとかそういうことではないんでしょうね」
「どちらでもあるというだけだ。我々の感覚がその両方を同時にとらえられるようにはできていない」
「確かにそうだ。これは私たちの方の問題かもしれません」
会話はそこで途切れた。
かわりに思考のすべてがスライムたちに集中する。一瞬切り替わって明瞭にチップの存在を認識する。
他にも青い個体はいるのに、それがチップだとはっきりわかる。言葉で説明することはできないけれど。
チップの体は方々にぽよんぽよんと跳ね回る。とても喜んでいるようでここにつれてきてよかったと思った。
老紳士が再び口を開いた。スライムの方に気を取られていて隣にいることをうっかり忘れていた。
「あんた仕事は何をしてるのかね」
「田井中という会社でおもちゃの営業を」
まったく唐突に彼は笑いだした。いったい何がそんなにおかしいのか俺にはわからなかった。
「偶然というのはあるもんなんだな。短い時間だったが楽しく過ごせたよ」
そう言って立ち上がるとしっかりとした足取りで老紳士は去っていった。
なんだかよくわからない人だった。が楽しんでくれたようで何より。こっちもまあそれなりに交流っぽいことができた。それなりに満足した。
元の席に戻ってコーヒーをもう1杯飲む。チップを眺めながらまたのんびりとした時間をすごす。
その後はおもちゃコーナーに行ってチップの好きそうなやつをひとつ買って帰ることにした。こういうのは直感が大事だ。ぱっと目に付いたタワーを選んだ。
30cmぐらいの、螺旋状の通路が外壁についた塔のおもちゃ。外壁へと上手に体をまきつけることができれば、のぼっていくことができるという仕組み。てっぺんのところにご褒美のお菓子をおいておくこともできる。
完成品をそのまま持ち帰ると大荷物だが自分で組み立てる形式なのでケージに追加で1つ荷物が増えるぐらいでぎりぎり問題ない。
と思ったが配達してくれるサービスがあったのでそっちで頼む、数日中に届くとのこと。たのしみ。
無事にチップを引き取って帰宅する。家に着くころには夕方になっていた。
特に何かをしたということはないが充実した休日を過ごせたような気がした。
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