[5] 1日

「おはよう、チップ」

 朝の到来とともに彼は目覚める。

 より正確に言えば俺が近づいてくる振動で目を覚ましているようだ。彼に備わっている感覚は非常に精細でこちらがどんなに足を潜ませたところで必ず気づく。別に警戒されているわけではない、と思う。

 寝ている状態で彼は床の上にぐでーっと力なく広がっている。覚醒にともないまず彼はぐぐーっと縦に体を伸ばす。それからのそのそと水場に行って水を吸い取れば一回り大きくなるのだ。

 ただし起きたからといってすぐに活発に動き出したりはしない。カーテンの隙間から日の光がいい感じに差し込んでくるお気に入りの場所に移動すると再びぐでーっと体を弛緩させる。


 朝食は特別に用意することはない。スライムはおおよそなんでも食べるからこっちの食べているものを適当に分けて与えてやればそれで十分だ。

 好みはきちんとあるようで、キャベツやレタスみたいな葉っぱ類への食いつきがいいように思える。そのおかげでこちらも朝から野菜を食う健康的な習慣ができた。

 水を入れかえてやってから出勤。昼食は特に用意しなくとも問題ない。残りものがあったら水槽の中に入れておくぐらいの感覚でやってる。そうした場合、帰ってくる頃にはだいたいなくなっているが。


 家の中には水槽が映るように天井近くにカメラを設置してある。仕事中でも空いた時間があればスマホからそれを眺めている。細かいところは見えないが何をしているかぐらいはぼんやりわかるものだ。

 基本的にチップはぼけーっと日向ぼっこをして過ごす。レースのカーテンを通した柔らかい光が好きなようで時間によって少しずつ体の位置を動かしている。

 あるいは水槽の中に入れてあるプラスチック製のボールで遊んでいることもある。前に買ってやったスライム迷路の簡易版みたいなやつで中身が空洞の球体で丸型や星型のいろんな穴があいている。

 体を変形させることは彼らにとって、人間でいうところのストレッチみたいな効果があるらしい。そんなことを近頃、本で読んだ。それがあってるかはともかく楽しそうにやってるのでよしとする。


 日が落ちてから帰宅。扉を開けた時点で水槽の中で跳ね上がって喜んでくれる。それでもって1日の疲れが吹き飛ぶ、なんてことはさすがにないが、気持ちが会社から自宅にすっぱり切り替わる。

 チップの体は水分が蒸発したせいでたいてい一回りぐらい小さくなっている。そうやって水を吸ったり出したり循環させることに何か意味があるんだろう、詳しいことは知らない。

 夜は時間があるので水槽から外に出してやる。目を離したすきにどこかの隙間に潜り込んだら探すのは大変かもしれないが、今のところそういう事態に陥ったことはない。


 夕食をいっしょにとる。スライムの消化力はすさまじいもので本当になんでも食べる。油断してると紙やプラスチックなんかも平気で取り入れる。

 前にうっかり出しっぱなしのプラスチックのトレーを食べてたことがあった。急いでネットで確認したところ特に問題ないようだったがこちらが1日中そわそわしてしまった。

 実際に特に不調があらわれるようなことはなくて、強いて何か変わったことをあげるとすれば次の日まで彼の体の弾力が若干上がったといった程度だった。


 それで身体上なんの問題もないのだけれど、なんとなくいいものを食わせてやろうというこちらの気持ちが働いて自炊の機会が格段に増えた。ただの人間のエゴなのかもしれないが。

 とはいうもののこっちだって複雑なものは作れない。米を炊いてそれから肉と野菜を炒めるぐらいのものだ。そのうち本の1冊でも買ってきていろいろ覚えたいところ。

 そう言えばスライムが好んで食べる料理集みたいな本を前に本屋で見かけたような気がする。あの時はまだ初心者でそんなことまで考える余裕がなかったから素通りした。今度また行って確認してみよう。


 後片付けだの風呂だのの用事を済ませたら、あとは寝るまでのんびり遊ぶ。

 チップは音楽をかけてやるとそれにあわせてぴくぴく跳ねる。激しいリズムよりかはゆったりとした旋律の方がどうやら好きらしい。最近はネットで見つけた曲名も知らないピアノの曲を流すことが多い。

 だいぶ慣れてきたのかこちらの手の上を自由自在に駆け巡るようになった。左右の指と指とをいい加減に絡ませてやるとその間をくぐりぬけて勝手に遊んでいる。

 いわゆるハンドリング。冷たくてぬるぬるとした感触がおもしろい。古い皮脂を食べて綺麗にしてくれる効果があるという説もあって、そのせいか会社で最近「手がきれいですね」と何度か言われた。


 眠くなってきたので水槽に戻す。向こうももう寝る時間だというのを理解しているのか、水を飲んでそれからいつもぐでーっと広がっているスペースに移動する。

 こうなると彼はもう何の反応も返してくれない。水槽の中で静かに眠るばかりだ。

 電気を消すと部屋の中が薄暗闇に満ちる。返事がないことを知っていながら俺はつぶやく。そうすることで1日が終わる実感がわくから。

「おやすみ、チップ」

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