[4] 名前
1時間ほど残業して退勤。
いつものペットショップによれば都合よくサカモトくんに遭遇。昨日の礼とそれから無事に飼育環境が整えられたことを話す。
と言いつつ自分ちのスライムがいかにかわいいかについて、結構な割合で語ってしまったような気がするが。あんまり深く考えてはいけない。
雑談だけでは申し訳ないので何か買ってくことにする。昨日の今日でエサは十分に足りている。
まさかもう1匹飼おうなんてわけにもいかない。いや広めの水槽を買ったから1匹ぐらいなら増やせないこともないけど。
想像してみる。今、家にいる水色のスイラムの横に、薄い赤色の子を並べる。
最初のうちはお互いに距離をとっている。間合いに入らない。けれどもいっしょの時間が増えるにつれて――
さすがにあんまりにも気が早すぎる。いつかもし同じようなことをまた考えることがあったら真面目に検討することにしよう。それは少なくとも今日ではない。
おもちゃコーナーに足を運ぶ。大小さまざま色とりどりたくさんのおもちゃがそろっている。
これなら値段はお手ごろだ、何かひとつ買って帰ろう。
実際に手に取って確かめる。固かったり柔らかかったり感触も様々だ。
ぱっと見ただけではどうやって遊ぶんだかよくわからないものもある。裏返して説明を読んでみればだいたいのところはつかめたけど。
うーん、どれもいいような気がしてきた。何を基準に選んだらいいものやら見当もつかない。
10分ほど迷った末にようやく決まる。
冷静になってみればそんなにおもちゃひとつ買うのに考え込まなくてはいけないほど困窮しているわけではなかった。とりあえず今日は何か買って帰ってそれで気に入ってくれないようならまた明日くればそれでいい。
簡単スライム迷路。固めのゴムでできた珍妙なオブジェクト。曇った半透明で中の様子が見えた。
拳大の球体から5本ほどうにょうにょと管が伸びる。それぞれ中の形が丸、三角、四角、バツ、星と違っていて、中心の球体部分を通じて自由に行き来できるようになっている。
スライムは狭いところにもぐりこんで自らの形を変形させるのが好きだ。人間で言うマッサージとかストレッチとかそんな感覚に近いのかもしれない。
ちょっとした荷物を手にさげ帰宅。「ただいま」と行ったところで返事はないが、電気をつければ水槽の中でぴょこんと動くのが見えた。
光に反応してるだけのなのか、それとも俺の存在を感知しているのか、どちらかわからない。まあ自分の気分のいい方で、後者だと思っておくことにしよう。
早速買ってきたおもちゃを床の上に置いた。そのそばに水槽から取り出したスライムをそっと近づけてやる。すぐには反応しない。遠ざかるでもなくその場で止まって、見たこともない謎の物体を観察している。
もしかすると俺の視線も気になるのかもしれない。こっちはこっちでお腹がすいていた。夕食をとりつつ横目でちらちらと眺める。触手を伸ばしては引っ込め、興味がないわけではないようだ。
コンビニ弁当を食い終える。入れたばかりの熱いお茶を一服。酒という気分でなかった。こうしてのんびりスライムの様子を視界に映しながらやすらぐ時間もいい。
不意にひゅるっと管の1つへと水色の半透明の体は吸い込まれていった。まるで管の方に意思があるみたいな自然な侵入だった。そのままするするとスライムは中心へと運動する。
ほどなくして球体部分にたどりついた。唐突な変化に戸惑うようにその場所で彼はくるくるとまわった。それから壁面にぴったりとはりついて周りの状況を確認する。
入ってきたのとは別の管へと潜っていく。半分ほど入り込んだところで静止したのは驚きによるものだろうか。さっきとは形が違うことに対しての驚き。
けれどもその静止はほんの一瞬のことでまたゆるゆるとその体を進めていった。ぴょこんと出口から顔を出した(便宜上そう表現しているだけで、もちろん彼には顔と呼べるような部分はない)。
全身が飛び出してくる。彼の体は20cmほどの星型のひも状に変化していた。その形をたもったままうねうねと床の上を動き回る。
家の中で何の心構えもなしに遭遇したらぎょっとするタイプの虫に似ているかもしれない。けれども自分の見知ったスライムだとわかっているからそれもかわいいと思えた。
ひとしきり変形した体を楽しんでから、スライムは再び管の中へと入っていく。どうやら気に入ってくれたようだ。買ってきてよかった。
その後もスライムは水槽に戻してやるまでずっと迷路で遊びつづけていた。見ていた限り、丸や三角や四角の単純な形より、バツや星といった少し複雑な形のほうが好きらしかった。これが彼の個人的な指向なのか、それともスライム全般の趣味なのかはよくわからない。
遊び疲れていたのか、水槽に入るとすぐに水をぐいぐいと飲みこむ。寝る前に減った分はつぎ足しておいた。
チップ。その名前が頭の中で浮かんできた。
由来はしごく単純でトレイの中でちゃぷちゃぷと水音をたてていたから。
単純だけど実にちょうどいい名前だった。かわいらしいけどかわいらしすぎない。ものすごくしっくりくる。
他の候補と比較検討するまでもなく決定していた。
おやすみ、チップ。心の中でつぶやきながら、俺はゆっくりと目を閉じた。
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