16.追憶の湖―a certain fairy chat―


 これはとある妖精の会話――。



 鏡のような湖の上には、漆黒の闇が広がっていた。光はどこにも見えない。手を伸ばすと、透明な黒がまとわりついてくるような低い空が悠遠のごとく続いている。


 そこへ古びた木のかいを漕ぐ音が一つ一つ、波紋とともに揺らめく。丸太をくりぬいただけの粗末で小さな舟には、二人の小さな妖精が乗っていた。男の子と女の子のようだった。背中の羽が不知火しらぬいに似た蛍光の粒を零しながら、せわしそうにまたたいている。



「ねぇ、このあたりでいいんじゃない?」

 夜の闇を指先で掴みながら、女の子が柔らかな微笑みを浮かべる。


「そうだね」

 肩に担いだ皮の鞄を下ろしながら、男の子が悪戯っぽい微笑みを返す。


 あたりは湖に沈む朧月おぼろづきの明かりでぼんやりと照らされていたが、手首から先を確認するだけの明るさだった。二人の顔まではよく見えなかった。


 男の子は鞄の中からトーチと黒曜石の欠片を取り出した。黒曜石をこすり合わせると、真っ白な火花が爆ぜ、トーチに炎が宿った。二人の顔がくっきりと闇の中に浮かび上がる。


 燃え盛るトーチを、男の子が湖へそっと落とす。燃え盛る炎の先と湖の縁が触れた瞬間、揺らめく波紋が光芒こうぼうの鎖となって、湖の下へ螺旋状に連なっていく。まるで、光の竜が湖の水を飲み干してしまうようだった。



「3……、2……、1……!」

 女の子がカウントダウンを始めると、湖の朧月も光を伴い、白月はくげつのごとく輝きを増していく。


 水の中を、光に誘われた色とりどりの夜光虫が泳ぎ回り、水しぶきを上げて湖面を飛び回る。最早、漆黒の闇は逃げ惑うように姿を消していた。二人を中心に七色の虹が湖を綾なし、まばゆい玲瓏れいろうの光とともに踊っているようだった。



「私ね。いつかこの湖の底の、更に下へ行ってみたいな」

 アメジスト色の小鳥を指先に宿しながら、女の子が呟く。


「馬鹿だなぁ。この湖に底はないんだよ。湖は下の世界とつながっていて、僕たちは息すらできないんだよ」

 女の子の肩に止まった小鳥のくちばしをつつきながら、男の子が馬鹿にした表情で笑う。


「それでも!」女の子が頬を膨らませる。「私、いつか行ってみたい。この美しい光たちを、下の世界から見上げてみたいの」


「確かにね。僕らの空には、光というものがないからね。こうやって湖の月と魚に炎を与えない限り、湖も真っ暗だ」


「とても、綺麗なんだろうなぁ」


「きっと、そうだろうなぁ」



 二人の妖精は、小さな肩を寄り添い、光り輝く銀湾の底をいつまでも見下ろしていた。

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追憶の湖 月瀬澪 @mio_tsukise

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