6
手際良く部屋を片付ける主母を見下ろしながら、俺は考えていた。
マラソンのゴールを取り払われてしまったような空虚さだ。
どうしようか。何かに焦っていた。
「そろそろ、買い替え時ねぇ」
主母は書棚を触っている。
いっそのこと、それでも良いのかもしれない。そうすれば、全てリセットされる。何もかも新しく始められる。
そうだ、主父の書斎があるじゃないか。そちらに移動すれば、俺は全てを一からやり直せられる。交友関係もそうだ。周囲から忌み嫌われることもなく、ただ、慎ましく暮らす。それで良い。
主母は俺を取り上げた。目線の先には、ごみ箱がある。
「コウタぁー、この本どうするのー」
「……あとでぇ~」
遠くから主の声がした。
「もう」
主母は俺を机上に置いたまま、部屋を出ていった。
「あなた、捨てられるかもしれませんね」
机上の奥から声が聞こえた。
国語辞典だ。主からは一度も開かれたことがない。そのくせ、書棚の階級争いからは逃れていた。
辞典のことを、俺はずっと密かに嫌っていた。
「ほっといてくれないか。今、考え事をしているんだ」
「私の調べではですね、今までの本は、少しでも汚れたら全て処分行きだったんですよ。おそらく、あなたもそうなるでしょう」
「……処分って?」目玉をぐるっと上に向けた。
「処分というのは、不要なものや余分なものなどを捨てる、売り払う、などして、適当な方法で始末すること。公法上では、具体的事実や行為に対して、行政権または……」
「あー違う、違う。処分されたらどうなるかって聞いてるんだ」
辞典や辞書っていうのは、どうしてこうも回りくどい
「シュレッダーにかけられて細かく粉砕されてから、ごみ集積所に捨てられる。その後、ごみ集積場で可燃ごみとして焼却される、灰になる」
「きみ、それを見たことがあるのかい」
「いいえ。ですが、私は全てを知っています」
「見たこともないのに、まるで全てを知ったような口、利くんだね」
俺は少しだけ声を大にして言った。
「幸運を」
その一言に、少しいらっとした。
階段を駆け上がる音、主が戻って来た。
部屋に入った主は、真っ先に俺を手に取り、そして、空のごみ箱に捨てた。
図書本をぱらぱらとめくっている。図書本はすぐに書棚に戻された。
「うーん……」
棚を揺らしながら、主は眉間にしわを寄せている。
「あ、そうだ!」
主は俺をごみ箱から拾い上げた。そのまま書棚下の隙間に突っ込む。
「……よし」
棚の揺れがおさまったのを確認してから、軽快に部屋を出ていった。
不覚にも、俺は隙間にぴったりの厚みだった。
濡れた身体も相まって、底は思いの
最下段の
「笑うな」
いや、笑われてもいいのか。
ベッド下奥には、たくましい雲が転がっている。
「……随分と低い窓だな」
ひっそりと呟いた。
俺は十刷本、全知全能の十刷本だ。
十刷本 神崎諒 @write_on_right
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