手際良く部屋を片付ける主母を見下ろしながら、俺は考えていた。

 マラソンのゴールを取り払われてしまったような空虚さだ。

 どうしようか。何かに焦っていた。


「そろそろ、買い替え時ねぇ」

 主母は書棚を触っている。


 いっそのこと、それでも良いのかもしれない。そうすれば、全てリセットされる。何もかも新しく始められる。


 そうだ、主父の書斎があるじゃないか。そちらに移動すれば、俺は全てを一からやり直せられる。交友関係もそうだ。周囲から忌み嫌われることもなく、ただ、慎ましく暮らす。それで良い。


 主母は俺を取り上げた。目線の先には、ごみ箱がある。

「コウタぁー、この本どうするのー」

「……あとでぇ~」

 遠くから主の声がした。

「もう」

 主母は俺を机上に置いたまま、部屋を出ていった。



「あなた、捨てられるかもしれませんね」

 机上の奥から声が聞こえた。

 国語辞典だ。主からは一度も開かれたことがない。そのくせ、書棚の階級争いからは逃れていた。

 辞典のことを、俺はずっと密かに嫌っていた。

「ほっといてくれないか。今、考え事をしているんだ」

「私の調べではですね、今までの本は、少しでも汚れたら全て処分行きだったんですよ。おそらく、あなたもそうなるでしょう」

「……処分って?」目玉をぐるっと上に向けた。

「処分というのは、不要なものや余分なものなどを捨てる、売り払う、などして、適当な方法で始末すること。公法上では、具体的事実や行為に対して、行政権または……」

「あー違う、違う。処分されたらどうなるかって聞いてるんだ」

 辞典や辞書っていうのは、どうしてこうも回りくどいひとが多いのか。

「シュレッダーにかけられて細かく粉砕されてから、ごみ集積所に捨てられる。その後、ごみ集積場で可燃ごみとして焼却される、灰になる」

「きみ、それを見たことがあるのかい」

「いいえ。ですが、私は全てを知っています」

「見たこともないのに、まるで全てを知ったような口、利くんだね」

 俺は少しだけ声を大にして言った。

「幸運を」

 その一言に、少しいらっとした。



 階段を駆け上がる音、主が戻って来た。


 部屋に入った主は、真っ先に俺を手に取り、そして、空のごみ箱に捨てた。


 図書本をぱらぱらとめくっている。図書本はすぐに書棚に戻された。

「うーん……」

 棚を揺らしながら、主は眉間にしわを寄せている。

「あ、そうだ!」

 主は俺をごみ箱から拾い上げた。そのまま書棚下の隙間に突っ込む。

「……よし」

 棚の揺れがおさまったのを確認してから、軽快に部屋を出ていった。


 不覚にも、俺は隙間にぴったりの厚みだった。

 濡れた身体も相まって、底は思いのほか冷えた。

 最下段の本達やつらが俺をせせら笑っている。

「笑うな」

 いや、笑われてもいいのか。

 ベッド下奥には、たくましい雲が転がっている。

「……随分と低い窓だな」

 ひっそりと呟いた。



 俺は十刷本、全知全能の十刷本だ。

















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十刷本 神崎諒 @write_on_right

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