ヘタレ・ランウェイ
8
走った。とにかく俺は走った。
息が切れようが、足が重くなろうが、一歩でも早く前へ、あの河川敷へ向かって。
橋を渡っていると、対岸の河川敷に彼女の姿が見えた。月明かりの下、芝生の上に座って、膝を抱えて、川を見つめている。
「――桜ちゃんっ!」
背後ではなく、橋から聞こえた俺の声に、彼女は驚いたように立ち上がった。そして俺を見て、一歩、足を後ろへ引く。俺と彼女の間には今、明確な壁があった。
待ってと叫んだところで、彼女は行ってしまうだろう。
なんとか彼女の下に行きたくて、橋を渡りきる時間も惜しくて、俺はたもとで欄干を乗り越えると、橋から河川敷へと身を投げた。
「っ――アキくん!?」
空中で彼女の悲鳴に似た声が聞こえたかと思いきや、硬い地面に体を打ち付ける。
「っ……げほっごほっ! ――痛ぇ……っ!」
うつぶせで落ちたせいで、胸が潰れて、思いっきりむせこんだ。
「アキくん!? だ、大丈夫!?」
駆け寄ってきた彼女が口に手をやりながら、傍らに膝をつく。
「う、うん……」
呻きながら体を起こす。いたるところがみしみしと軋んだが、高さにして三メートルほどを落ちた上、ろくに受け身も取らなかった割には、頭もぶつけず、目立った外傷もない。
彼女は泣きそうな顔で言った。
「もうっ……な――なんでこんな無茶……っ!」
「だって……桜ちゃんが、どこかに行っちゃいそう……だったから」
「ばかっ! だからって……!」彼女は白くなるほど唇を噛んで、声を震わせた。「一瞬、死んじゃうって……思ったんだよ!?」
「っ……ごめん。ごめん。でも……大丈夫だから」
「ばか! ほんっと……笑えないよっ!」
ぼろぼろと涙をこぼす彼女に、胸が苦しくなる。震える手に力を込めて、俺は彼女の背に手を回した。その体は想像していたよりもずっと細く小さくて、でも柔らかくて、暖かかった。
肩を彼女が噛んだ。噛んだまま、震えている。その背を、そっと抱きしめた。大切に、優しく、優しく……
しばらくして、涙を腕で拭いながら、彼女が俺の胸から離れた。
「ずるいよ」鼻声だった。「飛び降りなんかして、今更、抱きしめるなんて……」
「ごめん。その……怒ってるよね?」
ばちんっ! 平手で頬を叩かれた。
「当たり前でしょっ!」
鼻先を真っ赤にした彼女は、俺を叩いた右手をぎゅっと握って、充血した目で睨んできた。
「自分のことばっか考えて……! そんなの……優しさでもなんでもないよ! 私で遊んで楽しいの!?」
「……ごめん」
彼女はバッグからティッシュを取り出すと、それで鼻を噛んだ。隣に座って、しばらく川を見つめる。風で草の擦れ合う音だけがする河川敷。初めて会った時と、同じだ。
彼女はゆっくりと口を開いた。
「……あのね、アキくん。君が、喫茶店に誘ってくれた時のこと、憶えてる?」
「うん」
「私ね、すごく嬉しかったんだよ。あの時、私、アキくんのことずっと図書館で待ってて、もし来なかったらどうしようとか、本、押しつけちゃったかなとか、いろいろ考えて、不安で……。それで、君と会えただけでもよかったのに、ご飯も食べれて、好きな本の話もできて、嬉しかった。楽しかった」
同じだ。あの時、彼女は、俺と同じことを思っていたんだ。
「だからね、その後も、君にいっぱい声をかけて、いろいろやって……今度は私の番だって思って、この前の旅行に誘ったんだよ。もしそれでその、断られたら、それでいいやって思って。多分、私だけの想いだったんだって、思って……。
でも、君は来てくれた。私、嬉しくて、嬉しくて……。手だって繋げたし、一緒にいろんなところ回って、いろんなもの食べて、楽しかったし……。キスをしたときね、ああ、君も私を想ってくれてるんだ――って思ったんだよ。でも、そこまでしても、君は何もしてくれない。何も……自分からは言ってくれない」
「っ……」
「恋は一方通行でも、愛はそうじゃないんだよ。私、わかんないよ、君のこと。君の気持ち。怖いよ、私だけ、はしゃいでるんじゃないかって思うと。それなのに……それなのに全部、私が言わないといけないの!? 全部、私がしないといけないの!?」
彼女は堰を切ったように叫んだ。その声が、風に響いて、何度も俺のことを突き刺す。
「勘違いしないでね。君がついてきてくれたのも、君が手をつないでくれたのも、君とキスができたのも、嬉しいの。……でもね、ずっと、私に君がついてくるなんてそんな関係、私は望んでない。そんなの、いらない。私は――君の隣がいいんだよ。じゃないと……そんなの好きでもなんでもないよ……っ!」
彼女は悲し気に目を細めて、視線を地面に落とした。俺は歯を食いしばった。
ああ。俺、ここまで彼女を追い詰めていたんだ。
自分が幸せだと思ってたものは、壊したくないと思ってたものは、本当は彼女が必死になって作ってくれたもので、俺はただ、それに浮かんでいただけだったんだ。
怖くて震えながら、気丈に振る舞って、俺が答えてくれるって、待って……
それなのに俺は、その一歩すら踏み出さずに、立ち止まってた。
とんでもない、クズ野郎だ。クズって言葉じゃ足りないくらい、ひどい奴だ。
……こんなやつが、彼女の愛を受けて、いいのだろうか。
このまま関係を終わらせた方が、彼女にとっていいんじゃないか。
俺みたいな奴なんかよりも、ずっと良い人が――
「あの、さ。俺は、君の隣には――」
――「アキラ、君はそれを、本気で言っているのか?」。
ふいに、ダイスケの声が頭に響いて、俺は言葉を飲み込んだ。
――「君は、天川桜子という人を微塵も思っていないんだな」。
違う。俺はちゃんと彼女のことを想ってる! だからこそ……
――「あのさ、いつまでそうやって立ち止まってんの?」。
先輩の言葉が反復する。待て、俺はまた、立ち止まってるんじゃないか?
――「一度くらい、人の目なんか――自分の目なんか気にせず、走ってみろよ!!」。
そうだ。……そうだ。走らなきゃ。他でもない、彼女のために、俺は、走らなきゃ。
「……アキくん?」
「違う」
「え……?」
「違うんだ!」
「な、なに?」
戸惑う彼女に、俺は向き直った。戦慄く唇に、無理やり力をこめる。
「ごめん。ごめんなさい。俺……全然、君のこと見えてなかった。自分のことだけ考えて、君のことなんか、一切考えてなかった。俺なんかが、君を傷つけることなんかないって思って、俺が傷つくだけだって思って、怖くて、逃げてた……っ! 一歩も前に、進んでなかった!」
また話はまとまっていない。でも、胸に渦巻いた想いはあふれかえって止まらない。
「でも、もう逃げない。こんな自分とか、君にはふさわしくないとか、そんなこと、もう思わない! 前に、進むって約束するよ! 君の隣に並ぶって、あの月に誓うよっ! だって……」
そう。だって俺は……
「――君が好きなんだ! どうしようもないほど、君が好きなんだ! 胸が痛くて、張り裂けそうなくらい君が好きで……好きでたまらないんだっ!! 今更、もう遅いかもしれないけど、俺、声が枯れるまで何度だって言うから!」
目を見開いた彼女の肩をそっと掴む。視線を通わせるだけで、動悸が早くなる。
怖いけど、俺はもう、逃げない。止まらない。
「桜ちゃん、俺――君が好きだ」
彼女の琥珀色の目が、ことさら大きくなって、月の光に潤む。
「遅いよ、ばか……っ!」
鼻声でうなずいた彼女は、目を細めると、そばかすのついた頬にえくぼを作って、あの白い八重歯をこぼして、優しく微笑んだ。
「私も――私も好きだよ、アキくん」
叫び出したくなる気持ちをそのままに、彼女のことをまた抱きしめた。彼女もゆっくりと俺の背に腕を回す。彼女の鼓動を感じる。その体のぬくもりを感じる。熱い吐息が、うなじをくすぐる。
どのくらいそうしていただろうか。やがて、二人して河川敷に寝転がった。あの日ほど大きくないけれど、見上げた夜空に丸い月が浮かんでいる。
「……俺は――ちっぽけだっ!」
響いた叫び声は月光に吸われた。手遅れだからとか、クズだからとか、卑屈な考えが消えていく。
「んふふ」と笑った彼女も、大きく息を吸った。
「――私も、ちっぽけだあ!」
初めて、彼女と想いが重なって、前に進んだ気がする。
……ひどく、幸せだ。
俺は、彼女の顔をまじまじと見つめながら、尋ねた。
「ねえ、その……もう、シソウの本、読んだ? あの『麦わら帽子が燃える時』ってやつ」
「まだだよ。だって、アキくんを思い出しちゃって……文なんて頭に入ってこなくて……」
「その、さ」俺は自分のバッグから本を取り出した。あの日からずっと持ち歩いていた。「今から、読まない? 二人で」
呆けたような顔をする彼女だったが、やがてくすくすと笑いだした。そして彼女もまた、バッグから本を取り出した。
「じゃあ……私の家、来る?」
「っ……いいの?」
「うん」
うなずく彼女に、俺は先に立ち上がった。
そして俺は、彼女に向かって手を差し出した。今度は、俺の番だ。
彼女は少し驚いてから、口元を緩めた。俺の手を、彼女の小さな手がきゅっと握る。
「行こう、桜ちゃん」
「うん、アキくん」
了
ヘタレ・ランウェイ 𠮷田 要 @kaname_yoshida
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