変わってなかった
7
数日後、俺の姿はダイスケの家にあった。このところ、彼女のことばかり考えていた俺は、この失恋を思いっきりバカにしてほしくて――でも先輩の姿は見つからないし、見かけたところで気まずいので――、彼の家を大学帰りの夜、訪れたのだ。
また決まって、俺がぶつぶつ話す間、ダイスケは相槌を打つこともなく、青白い光を放つPCモニターを睨んで、キーボードに指を走らせていた。
その不規則な音に耳を傾けながら、俺はぽつりとつぶやいた。
「……もしかしなくても、俺、遊ばれてたのかな」
キーボードを叩く音が止む。初めはまた熟考に入ったのだろうと気にしなかったが、ふとダイスケがこちらを向いているのに気がついた。
「……アキラ、君はそれを、本気で言っているのか?」
「だって……そうだろ? 俺は――」
その先の言葉を、俺は飲み込んだ。
ダイスケの目があまりに冷たかった。
「――君は、天川桜子という人を微塵も思っていないんだな」
「っ……は? どういう――」
またも俺は言葉を続けられなかった。
立ち上がったダイスケが、倒れた俺に寄ってきて、玄関を指さした。
「帰ってくれ。今すぐに」
「ちょ――な、なんだよ、いきなり!」
「出て行けと言っているんだ。君のような無粋な輩をこれ以上、家に上げていたくない」
侮蔑の目線で見下してくるダイスケに、俺は身を起こしながら言い返した。
「は、はあ? なんだってんだよ! この前の時は、黙って聞いてたくせに!」
「あれはまた別の話だ。非は君だけではない。……それにすら、気がついていないのか?」
ダイスケの飾り気のない言葉がいちいち癇に障ってくる。思わずかちんときた俺は、立ち上がると、彼に人差し指を突きつけて怒鳴った。
「――っるせぇなあ! 出てくよ! 出てきゃいいんだろっ!?」
「ああ。ぜひそうしてくれ」
あくまでも自分のペースを崩さぬダイスケに、「チッ」と舌打ちだけ残して、俺は彼の家を後にした。
「なんだよ、あいつ!」
苛立つ気持ちに身を任せて、手のひら大の石を思いっきり蹴ってみる。だがそれは電柱に跳ね返って、むしろ俺のすねを直撃した。
「っあ――!」
痛みに顔をゆがめてしゃがみ込む。もしここに彼女がいたら、また八重歯を見せてくすくす笑うんだろうな。
ああ、くそ。好きだったんだ、俺。彼女のことがめちゃくちゃ、好きだった。
駅までの繁華街のど真ん中だというのに、叫び出したい衝動に駆られる。それをぐっとこらえていると、「あれ?」と聞き覚えのある声が頭上からした。
「あれれ――れ?」
顔を上げると眼前に、誰かの顔がある。思わず、「うわっ」と声を上げて後ろに尻もちをついた。
「はっ! なにやってんの、アンタ」
「せ、先輩!」
体を揺すって「アッハッハ」と笑っているのは、先輩――山口美花恵だった。でも見た目が変わっている。茶髪だったはずの髪は元の黒髪に戻っていて、毛先だけ明るめのチェリーレッドに染めている。なによりロング丈の髪をポニーテールにまとめていたはずなのに、今は短くショートヘアになっている。
呆気にとられる俺に、先輩は「ほい」と手を差し出してきた。その手を掴んで立ち上がると、どんっ! と鳩尾に衝撃が走った。
先輩に殴られたのだ。
「かはっ」と妙な声が口から漏れる。背をくの字に折って、よろよろと後ずさった。
「なっ、……なにするん……、ですか……っ!?」
「私も気持ちも考えられないクソ野郎に、一発お見舞いしたんだけど? 文句ある?」
「そ、それって……」
「忘れたとは言わせねえよ? 勇気振り絞って誘ってる女に、恥ずかしくて答えることもできなくて、ただアスファルト見つめてたのは、どこの誰でちゅかー?」
からかい交じりに笑う先輩に、ようやく息が落ち着いてくる。荒い息をしながら睨み上げると、先輩はすたすたと歩き始めた。
「ほーら、来いよ、バカ。こんなとこほっつき歩いてるなんて、どーせ暇だろ?」
「んじゃ、クズ野郎との再会を祝して!」
「は、はい……」
結局俺は先輩についていき、近くの居酒屋で酒を飲んでいた。先輩は口に白い泡を作りながら、生ビールをうまそうに呷ると、「ぷはあ」と一息ついた。
「染みるー!」
「ですね……」
梅水晶をつつきながら、俺が目を伏せてうなずくと、先輩は「んん」と咳払いして、椅子に座り直した。
「――ごめん」
「えっ?」
「あ、殴ったことじゃないよ? それを謝るつもりは、毛頭ない。ただ、あの時……アンタに好きな人がいるって知っていながら、声をかけた。アンタが揺れるって分かってながら、誘った。ズルい女でさ、ごめんね。でも――あの時はそれくらい、アンタが好きだったんだ」
遠い目をして謝る先輩を見つめて、俺はようやく気がついた。俺があの時どうするべきだったのか。なんでダイスケが、非は俺だけじゃないって言ったのか。
「っ……お、俺も、すみませんでした。その……怖かったんです。怖くて、怖くて、何も言えなくて……本当は、俺がちゃんと言うべきでした。『ごめんなさい』って」
「うん。――おせえよ、ばーか」
「うっ……」
「据え膳食わぬは男の恥……なんてことは言わないけどさ、結構、傷つくよ。ああいうの」
「……はい」
それはそうだと、俺が首を垂れると、先輩は話題を変えた。
「そういや最近、アンタ、サークルにも顔出してるんだっけ?」
「あっ、はい、一応。何か書けるわけじゃないですけど、製本とか頒布なら手伝えるし」
「いいね。変わってきたじゃん、アンタ」
「……そう、ですかね」彼女のことを思い浮かべて、頭を掻いた。「その……先輩はどうなんですか? 最近、図書館でも見ないですし……」
「私? ちょーっと悩んでてさ。バイトもサークルも休んでたんだ。今後のこととか、いろいろ」
飲み干した中ジョッキをテーブルに置いて、先輩は一呼吸した。
「――で、私、夢を追うことにした」
「っ――小説家を、ですか?」
「うん。やっぱり……書きたいんだよね。この頭ン中にあるものをさ、書いて書いて、どうだ、面白いだろ! って、思わせたい。どうしようもなくさ、書くのが、好きなんだ。ある意味、ジャンキーなのかも。彼氏と別れることを選ぶくらいに、ね」
天井の蛍光灯を見上げる先輩の目は、輝いていた。希望や夢だけじゃなくて、未練とか、後悔とか、いろいろ全部混ざって、輝いていた。素直に――かっこよかった。
「アンタは? なーんか、おしゃれになってるし、もしかして……例の彼女と進展があった?」
いたずらな笑みを浮かべる先輩に、俺は飲んだビールを吐き出しそうになった。
「ちょ、ちょっと、いきなり!」
「ひひひ! いやーでも、その反応だとあったね? なに? もう童貞まで捨てちゃった?」
「いや、その……この前、旅行に行ったんですけど……」
気がつけば、俺はまた彼女との話をしていた。
でも気分は楽だった。先輩なら惨めな俺を、死ぬほどあざ笑ってくれるだろうから。
「――それでその……もうよくわかんなくなったというか、なんというか……結局――」
「お前さあ、元に戻ってんじゃん」
先輩のハスキーな声は、ひどく低く、叫んでないのに脳裏に響いた。思わず、びくりと体が震える。
「え――?」
「変わったんじゃねえの? 少なくともさ、私が好きだったアンタは、変わったアンタだったよ。人に頭下げて謝って、自分を変えようともがいて、喧嘩して……。でもさ、今のお前、逆戻りしてんじゃん」
「で、でも、彼女は……」
ばしゃっ。先輩は届いたばかりのジョッキを俺に向かって振った。横に広がった黄金色のビールが顔を叩きつける。
「っ――なにを」
「あのさ、いつまでそうやって立ち止まってんの?」
先輩の目は、見たことがないほど怒りに満ちていた。
「何勝手に期待して、何勝手に幻滅してんのか知らないけどさ。お前、エスパーか? あの子の心が読めんの? んなわけねぇよな? だからお前、今も彼女もなく童貞なんだろ?」
先輩が徐々に早口になる。でもその刃のような言葉はつまることがなく、俺を刺してきた。
「お前が勝手に思うように、あの子も勝手にお前を思ってんの。お前の性格がどうたらとか、経験がうんたらとか、それお前が思ってるだけだろ? あの子から見たものと同じだと思うな、バカが。あの子なりにいろいろ考えてんだよ。お前って存在を。何をしたら喜ぶかなとか、どうしたら楽しいかなとか。いろいろ……考えてんだよ!」
先輩はどんとテーブルを叩いた。周囲の客の目が集まるが、彼女は気にしていなかった。
俺も呆然として、それどころじゃなかった。
「私だって同じだよ。お前が好きだった。もっかいはっきり言ってやろうか? 私は好きだったんだよ! お前が『俺みたいな』って思うやつを! だから誘った時は心臓が痛かった! この服似合うかなとか、喜んでくれるかなって、お前のことを考えてたんだよっ!」
先輩の目が少し赤くなる。浮かんだ雫が目じりから頬へ伝う。それを拭うこともせず、彼女は言葉を続けた。
「なのに、何やってんだよ、お前! 今の関係を壊したくないとか、どうせ思い違いだとか、自分にビビってんじゃねぇよ、気持ちわりぃな! 確かなのは、お前があの子を好きかどうかだろうがっ! 他人を理解するとか、こんな俺が傷つけたとか、んなことほざいて、立ち止まってっから、お前はいつまで経っても一人なの! だから恋人なんてできないの!」
先輩は言葉を切ると、ひときわ大きく息を吸った。
「少しは自分の本当の想いに素直になって、走ってみろよ、バカ野郎が! 一度くらい、人の目なんか――自分の目なんか気にせず、走ってみろよ!!」
咆哮のような声が、しんと静まり返った店内に響く。
目を興奮で丸く見開いた先輩が、肩で荒い息をする。やがて、目じりを指で拭い始めた。
俺は、全身に鳥肌が立って収まらなかった。
彼女が……俺を考えてる?
だとしたら俺は――とんでもないことをしたんじゃないか。
謝らないと。――いや、俺は本当の気持ちを彼女に伝えないと。
だけど……こんな俺に、会ってくれるかな……
ぎゅうっと拳に力を籠める。ふとそこに月の光が差し込んでいることに気がついた。
窓の向こうに目をやると――丸い満月が空に浮かんでいた。
――「満月の時は、ね」。
あそこだ。彼女はきっと、あの河川敷にいる。
「……っ、先輩、ありがとうございました。俺、目ぇ覚めました」
「あっそ」
「俺……俺、ちょっと行かなきゃいけない場所が」
勢い良く立ち上がった俺に、先輩は――今まで一番優しい顔をした。
「早く行けよ、ばーか」
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