あれ……?
6
「着いたー!」
待ち合わせをした駅から、いくつか電車を乗り継いで二時間ちょっと。ようやくついた外房の街に、彼女は黄色い太陽に向かって、組んだ両手を伸ばした。ぐぐっと背伸びする彼女の、ぎゅっと瞑ったその瞳が、たまらなく愛おしい。
「なに? そんな見て」
「いや、その、つい……」
「っ……むっつりさんがもう!」
はにかむように唇を尖らせた彼女は、「よし」と帽子をかぶり直して、駅の案内所で受け取ったスタンプラリーのパンフレットを片手に、もう片方の手を俺に差し出してきた。
「ん!」
彼女のその人形のように白くて、華奢な右手に、一瞬呆けた俺だったが、恐る恐る自分の左手を重ねる。するりと指を組んだ彼女の手は、想像していたよりずっと滑らかで、柔らかくて、暖かくて……ちょっと力を入れすぎると壊れてしまいそうな気がして、俺は気が気ではなかった。大切に、大切に、握り返す。
すると彼女は、「んふふ」と嬉しそうにそばかす交じりの頬にえくぼを作ると、八重歯を覗かせて言った。
「行こ!」
スタンプラリー。たかだか二〇個のスタンプを集めればいいだけだと思っていたが、海沿いで横に長い街を、時に喫茶店、時に神社、時に水族館、時に港と、あちらこちらを歩いて回るうちに、足が上がらないくらい疲れてしまった。
その体に鞭を振るって、最後のスタンプが設置された、展望台のある岬へと上がる。
「ほーら、頑張れ、頑張れ! 情けないぞー!」
「いや……天川さん、すごいね」軽やかな足取りで、不揃いな石段を上った彼女は、少し先で俺を待っていた。
「えへへ。これでも一応、剣道やっておりますので!」
竹刀を持つふりをして、「めーん!」とおどけて見せる彼女に、苦笑しつつ、横に並ぶ。
「結構景色がいいみたいだからさ、一緒に最後は登ろ?」
「うん」
彼女と手を取って最後の一〇段ほど上がる。すると――
急に視界が開けた。茂っていた木が頂上だけなくって、一面芝生の広場が広がっている。奥の方に東屋があって、その向こうから潮騒が聞こえてくる。「きゃー」と子供みたいな声を上げて、彼女が走り出した。腕を引かれて、俺も走る。半ば激突する勢いで、崖際の欄干に手をついた。
「うはー! すっご!」
彼女が目をまん丸にして、叫ぶ。
目の前一面が、海だった。雲一つない夕暮れの中、海がどこまでも広がっている。西に傾いた日に照らし出されて、ハレーションを起こした波が、延々と岬に打ち付けてくる。
「すっげえ……」
「だよねえ」
彼女はしみじみとつぶやいた。そしてそれを最後に、しばらく彼女も俺も何も言わなかった。
海の波の音。風で木々がしなる音。海鳥の鳴き声。
ちらりと横を見ると、柵に頬杖をついた彼女が、野球帽からあふれた髪を、海風になびかせていた。海を見つめるその琥珀色の瞳は、物憂げでもあり、楽しげでもあり、俺の心を甘く締め付けてきた。
思わず、俺は大きく息を吸って、叫んだ。
「ボーイズ・ビー・アンビシャスっ!」
「えっ?」
「いやその……なんか、海に言いたくなって」
「くふふふ! やっぱ君って……ほんと変だね!」
目を線になるくらい細めて、彼女はおかしそうに体を揺すった。
「そしたら、私もなにか言いたいなあ」
「いや、そんな無理に」
「ううん。えっとね……あっ、そうだ」
彼女はその小さな手で柵をぎゅっと握って、上半身を大きくそらせた。音が聞こえるほど息を吸って、欄干から身を乗り出す。
「人生とは、愛という蜜を持つ花だー!」
彼女の声は、海風や波の音に負けず、遠くまで響いていった。「はあはあ」と肩で息をしながら、彼女は八重歯を見せて笑った。
「あー……気持ちいい」
「良い、言葉だね」
「でしょう? 確か……レ・ミゼラブルの作者だったかな。んふふ」
また少しの間、会話が無くなる。
それは気まずい沈黙とか、そういうのじゃなくて、むしろ気持ちを落ち着かせてくれた。
でも逆に冷静になったら、今度は別の考えが頭に浮かんできた。
その……想いを告げられるんじゃないかって。今はきっと、悪いタイミングじゃないはずだ。
また彼女をそっと見る。アンニュイな表情を浮かべる彼女に、呼吸が苦しくなる。ああ、だめだ。今言ったら、きっと声が震える。まともなんか喋れない。そしたら、俺なんて……
……もう少し、もう少しだけ待とう。なによりも、今は――この時間を壊したくない。
やがて彼女が腕時計に目を通した。「スタンプ、そろそろ押そっか」。東屋に行って、パンフレットの最後の欄に、スタンプを押し付ける。
「よし。これで、二〇個」
「やったー! 疲れたぁー」
彼女は「んー!」と天高く両手を上げた。
「じゃあ、あとはこれを……」
「観光案内所に届ければ、本がもらえる! よっし! 元気出てきた! 行こ!」
「うわっ、ちょ、ちょっと待って!」
言うが早いか、手を握って駆け出した彼女に、俺も慌てて走り出す。
あー、ちくしょう。
絶対――好きだって、言ってやる。
その後、本を受け取って、旅館に入って、個室で地酒と豪華な海鮮料理を食べて……。彼女が楽しみにしていた温泉に、一度別れて入ってから、再び部屋で落ち合った。
浴衣姿の彼女は、まだ髪が少し湿っていて、肌も熱で赤みを帯びているせいか、ひどく色っぽかった。それに、普段のコンタクトの代わりにかけたメガネも、化粧のない本来のその顔も、自分だけの彼女を見ている気がして……胸が、痛い。
「あー、喉乾いたぁ。お酒呑も、お酒」
スキンケア用品の入った小さなバッグを放って、彼女は備え付けの冷蔵庫から缶ビールを取り出した。寝る前に呑もうと言って、いくつか買っておいたのだ。俺も差し出された一本を受け取ると、かしゅっと蓋を開けた彼女が、缶を掲げた。
「よっし! かんぱーい!」
「うん、かんぱい」
畳の上に敷かれた布団に腰を下ろして、座卓に簡単なつまみを並べる。くだらないバラエティ番組を映したテレビから、小さめのボリュームで笑い声が響く。
「お風呂、どうだった?」チーちくの一切れを口に放り込んで、彼女が尋ねた。
「よかったよ。広いし、海、見えたし」
「だよね! 気がつけば一時間近ちょっと入っててさ、ホントにのぼせちゃうところだった」
「その……ありがとう。ごめんね、天川さんに宿任せちゃって」
電車の予定を組んだのは俺だったが、旅館を手配してくれたのは彼女だった。俺がその感謝を口にすると、彼女は「うーん」と難しい顔をした。途端に、やっぱり俺がやった方が良かったかと後悔したが、彼女は顎を撫でながら、じっと俺を見つめた。
「なーんか、ここまで来て、天川さんって呼ばれるの、やだなあ」
風呂上りのせいか、アルコールのせいか、彼女のアンバーの目が、とろんと潤んで見える。
「え、えと……それじゃあ――桜子さん?」俺は恥ずかしくって視線を伏せた。
「えー、それも他人行儀。やだやだ」
彼女は布団に倒れこんで、駄々っ子のようにじたばたと暴れてみせた。でもその目だけは、俺を捉えて離れない。ずるい。ずるいよ、その目。
「うっ……じゃ、じゃあ……さ、桜……ちゃん?」
「っ……」彼女は布団に手をついて、上体を起こした。「もう一回、言って」
「えっ……桜ちゃん」
「もう一回。こっち見て言って」
「さ、桜ちゃん」
「んふふ」掠れた声を震わせる俺に、彼女は優しく微笑んだ。「ありがとね。――アキくん」
「っ……!」
名前で呼ばれたことに驚いたけど、その衝撃はすぐに消え去った。
だって――彼女が急に顔を寄せてきたから。
目を見開く俺の唇に、柔らくて、瑞々しくて、張りのあるものが押しつけられる。それが彼女の唇だと気がついた時には、俺の頬を彼女の吐息がくすぐっていた。それはひりひりするほど熱くて……
俺の左手に、彼女が手を重ねてきた。
その滑らかな指先が、俺の手のふちをそっと撫でる。優しくて、でも弱々しいわけじゃない。大事なものに触れるように、彼女は少しずつ力を込めて、俺の手を握った。
彼女はアーモンドのような形をした目を、すうっと細めて、目の下に淡い影を作った。艶っぽい視線が、俺の足の先から頭のてっぺんまでをくすぐる。
薄桜色の唇から、彼女の息が漏れる音。
重ねた手から、どくどく響く彼女の鼓動。
俺も息が早くなる。
その、これって……そういう、雰囲気だよな。
覚悟はしていた。期待も……していた。こうなったら、いいな、なんて思って……。
彼女のその細い肩に両手をやって、押し倒すのは簡単だろう。
だけど、今、何も言わず、それをしたら、いけないと思う。
それは絶対に――だめだ。
でも……怖い。
あー、くそっ! 怖すぎる! これで違うとか言われたら、雰囲気が壊れたら、俺は……
――そうだ。なら、確認すればいいんだ。まずは、彼女の気持ちをちゃんと聞いて……
「ねえ、その……さ」
「うん?」
「――俺のこと、どう、思ってる?」
彼女は息をのんだ。
でもそれは――嬉しそうではなかった。
……あれ? 俺の心が音を立てる。
変だ。これは、変だ。
さっと、彼女は俺と重ねた手を引いた。困惑したように目を瞬かせると、顔を徐々にこわばらせていく。
そして彼女はつばを飲み込んで、変な笑みを浮かべた。
「……えっと、……あのね、アキくん。――君は、私をどう思ってるの?」
つばを飲み込んだ。
俺が、彼女をどう思っているのか?
それって……どういうことだ。
なんで、そんなこと聞くんだ?
なんで、先輩と同じことを……?
もしかして、その、彼女は、俺のことなんて……
俺は急に恐ろしくなった。まるで体が滝つぼ目掛けて突き落とされたようだ。
……ああ、そうか。そう、だよな。俺は、結局……
「ご、ごめん」
「え?」
「ちょ、ちょっと俺……外の空気、吸ってくる」
壁に手をついて立ち上がった俺は、戸惑う彼女に背を向けて、部屋から廊下へ飛び出した。
「え、あ、アキく――」
彼女の声は扉の閉まる音に、かき消された。
ばたん。
結局、なにごともないまま、俺と彼女は東京の駅に戻った。会話はあった。「楽しかったね」とか、「本が手に入ってよかった」とか。でも、彼女はあまり踏み込んでこなくて、笑顔もどこか影があって、俺もそこに壁を感じた。
たぶん、これでよかったんだ。これで。彼女にとって、俺はただ同じ作者のファンってだけで、それ以上でもそれ以下でもなくて……。キスをしたのだって、きっとお酒が入って一瞬間が差しただけだ。そう、俺が知らなかっただけ。そんなの、この世界じゃ当たり前なんだ。
ただ、これで別れるのも寂しかった。俺の気持ちは彼女とは違ったみたいだけれど、まだ友達ではいたい。もしまたこんな機会があって、この関係が続いていけば、いずれは彼女も俺の思いに気がついて――
「その、さ……また、誘ってくれる?」
「っ……うん、そうだね」
改札口での別れ際、彼女は笑ってそう答えた。その笑みが作ったものだってことくらい、俺にはすぐわかった。
まあ、そうだよな。勘違いしたのに、まだ続けたいって、それは気持ち悪いよ、俺。
そう自嘲して顔を伏せると、改札を潜った彼女が振り向いて言った。
「あのさ。君が思っているほど、私って弱くないし、君が思ってるほど、私は強くないよ」
「……え?」
どういうことだろう。
意味が分からなくて、半口を開ける俺に、彼女は薄く笑った。
「それじゃ」
その声はいつもと同じように、少し低くて軽やかな声音だったのに、どうしてか冷たく感じた。
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