人間は考える葦である



 重い頭に、だるい体を引きずって、ゼミの終わった研究室を後にする。

 結局、一睡もできなかった。一睡もしないうちに空が明るくなって、ダイスケと二四時間営業のスーパー銭湯で汗を流してから、大学に来た。

 その分、本は読み切った。

 彼女は、『赤いヒマワリ』とは全然違うと言っていたけれど、確かにその通りで、犯人が明らかな状態、いわゆる倒述ミステリーというものだった。多摩で暮らす片親の女の子が主人公。ひどい虐待を受ける彼女は、ある日海が見たくなって、湘南まで歩いていく。そこで片目を傷つけられた黒猫と出会ったのだが、大きな犬を連れた資産家の一家に絡まれて……

 少女を追う退職寸前の刑事の、寂寥感のある雰囲気に加え、虐待や殺人の描写は、グロテスクで非常に凄惨だった。『赤いヒマワリ』は淡く、儚い文体だったのに対し、こちらは読み手をぐさぐさと突き刺してくるようだ。思わず目を背けたくなるようなのに、それでいて、読むのをやめることができない。

 すごいものを読んだ。ありきたりだけれど、それが俺の感想だった。ますます、荒川シソウという人に惹き込まれる。他の本も読んでみたい。

 図書館に入って、おっかなびっくりカウンターの様子をうかがう。先輩の姿がないことに、少しほっとした。どんな顔をすればいいのか、分からなかったから。

 借りていた本を返した俺は、階段を上がって、二階にある書架に向かう。彼女――天川桜子の書いてくれたメモを頼りに、次の本を探そうとして……

「佐々くん」

 背後からかけられた声に、驚きのあまり飛び上がった。耳をくすぐる、少し低く落ち着いた声音。振り返った先には――

「天川さん!」

「やっほー。来てくれてよかったぁ」彼女はひらひら手を振った。「ほら、昨日は、私がバイトで、最後、ばたばたって別れちゃったでしょ? それでラインも交換してなかったし、良かったらなあ――って思って」

「え、じゃ、じゃあ、ここで俺を待って……?」

「まあね。すぐそこに自習用のスペースあるし、私、本さえあれば二、三時間はつぶせるから。……まあ、お酒があればもっといけるけど」

 いたずらっぽく笑う彼女に、どきりとする。大人しそうな顔をしているのに、彼女はこういうところがあるから、心臓に悪い。悪いが……この痛みは嫌いじゃない。

 携帯を取り出す彼女に、俺は慌てて自分のラインのQRコードを表示した。

「えっと、これが俺ので」

「ん。おっけー。友達申請っと。――ふふ、プロフの背景、面白いね」

「え、あ、これは、友達とふざけて取ったやつで……」

 ビートルズのジャケットをまねて、深夜の横断歩道で撮った写真。大学一年の夏休み、仲良くなった友達と行った、伊豆諸島。夜になると電灯すらなくて真っ暗で、海岸際の無料の足湯で二時くらいまで騒いだ帰りに、はしゃいで撮ったのだ。この頃は、俺もよく遊びに行ってたっけ。今はもう、ここに写っている友達とは、すっかり付き合いがなくなってしまった。

 くすくす笑った彼女は、写真をズームしつつ、また口元を緩めた。

「いいなあ、こういうの。なんか、こう……男の子っぽい」

「え?」

「佐々くん、そんな雰囲気あんまりなかったから、ちょっと意外だし、見る目変わったかも」

 ちょっと上目遣いに見つめてくる彼女に、俺は耳の先まで真っ赤になるのが分かった。

 それは……ちょっと、ずる過ぎるよ。

 彼女は癖なのか髪を耳にかけて、言った。

「でさ、ここに来たってことはもしかして……?」

「あ、うん。読んだよ。『ただ猫を抱きたかっただけなのに』」

「やっぱり? 目の下クマあるし、もしかしたらーって思ったんだけど。早いね、読むの」

「いやあ……その、いろいろあって、さ」

 昨日のことを思い出して、俺はため息をつきながら顔を伏せた。それもまた、嫌な思考に拍車をかける。彼女の前でも、俺はあまりに情けない。

 それでも彼女は、そんな俺を笑うこともなく、柔らかい声で尋ねてきた。

「また、なんかやっちゃったんだ?」

「……うん」

「そっか」彼女は後ろ手を組んだ。「君はそれを……後悔してる?」

「してる……と思う。でも、どうしたらよかったのか、わからなくて……」

「なら、悩めばいいと思うよ。答えが出るまで。だってそれが、生きるってことっしょ? そうやって考えながら、一歩ずつ進むの。――『人間は考える葦である』ってね」

 人差し指を立てた彼女は、冗談交じりに、声音を変えてそう言った。その自信たっぷりな様子に、心の中で黒い靄のように広がった感情が、するりと消えていく。

「……その、ありがとう」

「うん。いいえ」

「んふふ」と笑った彼女は、「じゃあ」と手を打って、本棚に指を滑らせた。そしてある本を手に取る。

「はい。次は、これがおすすめかな」

「『九回裏二死満塁九番』?」

「うん。珍しくミステリーじゃない、シソウの作品」

「へえ。この人って、ミステリー専門だと思ってた」

「二、三冊あるよ。短編入れたらもっとかな」

「じゃあ、今度はこれ、読んでみる」

 うなずいた俺は、また会話がなくなりかけていることに気がついて、慌てて話題を探した。

 だが、口をついて出たのは、自分でも信じられない言葉だった。

「あの――今日はこの後、なんか予定ある? 講義とか、バイトとか」

「ん?」彼女は唇に指をやって首を傾げた。「いや、特にはないかな」

「じゃあさ、その……喫茶店でもいかない? せっかくお勧めしてもらった、『ただ猫』の感想、言えたらいいなって。――あ、いや、べつに、嫌だったら全然、いいんだけど……」

 語尾に行くほど力がなくなって、俺は何をしてるんだと恥ずかしくなる。彼女が何も答えないのが、さらに心に突き刺さる。

 やばい。やらかした。

 よく考えてみれば、わかるだろ。向こうが俺に声をかけてるのは、ただ憐れんだからで面白いと思ったからで、それ以上なんて俺は……

「――いいよ」

 聞こえた声に、俯いた俺は瞬きを繰り返した。少し顔を上げて、彼女を見る。彼女は髪を耳にかけながら、かすかに視線を伏せていた。

 今、彼女はなんて言ったんだっけ?

 ぼうっとする俺に、彼女は眉間にしわを寄せて、俺の顔をのぞき込んできた。

「ねえ、聞いてる? 私、いいよって言ったんだけど」

「っ……ほ、ほんとに?」

「ちょ、もうなんで君が驚いてんの? ふふふ、ほんと変な人」

「ご、ごめん。じゃあ……」

「うん、行こ。私、ランチが美味しいお店、知ってるんだ」

 えくぼを作る彼女に、思わずガッツポーズしそうになった。こんなに嬉しいことは、いつ以来だろう。

 それにしても、気のせいだろうか。彼女の声が、少し弾んで聞こえたのは。

 ……いや、気のせい。そうだ。そのはずだ。


 正午の暖かな日差しが差し込む喫茶店。日に焼けた木材や、褐色のレンガで、店内は落ち着いた雰囲気に包まれており、それは高ぶる俺の気持ちも和らげてくれた。

 同時に、重大なことを思い出して、俺は手に取った分厚い卵サンドをいったん皿に戻した。

「あの、誘っておいてなんなんだけど、良かったの? その……彼氏がいる、みたいだし」

「あー……実は、別れたんだ」

 ケチャップのたっぷりかかった黄色いオムライスの山を崩しながら、彼女は言った。

「と言っても、悪いのは私の方。春休みにさ、彼にね、告白されて、それから付き合ってたんだけど……なんだろう、話をするのは好きだったし、楽しかったんだけど、それが愛にならなかったって言うか……そういうの。それで関係もうまくいかなくなって……あの河川敷で君と話して、決心がついて、次の日……私から切り出したの」

 鈍色のスプーンですくったオムライスを口に運んだ彼女は、それを頬張ると、少し儚げな笑みを浮かべた。

「――ってさ、そういうこと聞いちゃう? 言わせちゃう?」

「あ、ご、ごめん」

「んふふ。うそうそ。わざわざ気にしてくれて、ありがとね」

 彼女は、透明なグラスに入ったアイスコーヒーを傾けると、「それで」と話を変えた。

「『ただ猫』の感想、聞かせてよ」

「うん」

 今度こそ卵サンドを食べながら、俺は自分なりに感じたことを話した。また、まとまりのない話だったけれど、彼女は――時折八重歯をこぼしつつ――真面目に聞いてくれて、それから逆に彼女が、本の感想を話した。

 彼女の話に耳を傾けながら、サラダのミニトマトにフォークを突き刺す。

 そして俺は、思った。――幸せだ、と。

 ただ、ここで彼女と話しているだけなのに、言い知れぬ安心感と落ち着きと、高揚感が体を包み込む。

 ひとしきり話した後、食後にもう一杯、コーヒーを頼んだ。カフェインの苦手な俺はカフェオレを、彼女はエスプレッソを注文。出てくるまで待っている間、彼女はふと言った。

「ねえ。『九回裏』も読み終わったらさ、また話聞かせてよ」

「え、でも……迷惑じゃない?」

「なんでよ。ぜんぜん。君となら……楽しいから、時間作るし」

 そ、それって……?

 テーブルに届いた、エスプレッソの小さなコップを両手で持つ彼女に、喉が急に乾いてきて、俺はカフェオレを飲んだ。でも一気に喉に流し込んだせいで、思いっきりむせこむ。

「っ――げほっごほっ!」

「――ぷっ! もう、なにやってんのー」

 面白そうに体を震わせる彼女に、目を白黒させた俺も、つられて笑った。笑いながら思った。

 俺は彼女が好きだ。たまらなく、好きだ。

 そして彼女ももしかしたら……そう、もしかしたら、俺を好きなんじゃないかって。


 勧められた本を借りては読んで、感想を言い合って……そんな関係が二週間続いたある日。

「ねえ、佐々くん。これ、行ってみない?」

 ずいと見せられた携帯には、イベントのホームページが表示されていた。荒川シソウの故郷、千葉外房の街で、デビュー一五周年を記念したスタンプラリーが行われているらしい。全部集めると、書き下ろしの短編小説『麦わら帽子が燃える時』がもらえるようだ。

「へえ。面白そうだね」

「でしょでしょ? 一〇月いっぱいだから、あと三週間なんだけど……よかったら、都合のいい日ある?」

「うん。基本的には暇かな。あー、でも月末はサークルの手伝いが」

「あれ? サークルなんか入ってたっけ?」

「文芸サークルにね。幽霊会員だったんだけどさ、文化祭の準備くらいは手伝おうと思って」

 ダイスケの頼みもあって、俺はおおよそ三年ぶりにサークルに出入りするようになっていた。もちろん、謝罪もした。飲み会の場であんな暴言を吐いたので、どんなことを言われるかと覚悟していたが、同期や後輩は受け入れてくれて、今は一応、頒布などの計画を担っている。

「へー、そうだったんだ。じゃあ、月末は外して……うん、来週か再来週の土日は?」

「うん、どっちも大丈夫。早い方がいいかな?」

「だね。ギリギリになって混雑すると、ヤダし」

「そしたら来週にして……じゃあ土曜か、日曜かどっちにする?」

「うーん」

 彼女は意味ありげに顎を撫でた。俺のことをうかがう様に、目だけ上げる。そしてわずかに唇を噛むと、ゆっくりと口を開いた。

「ねえ。どうせなら一泊しようよ」

「……え?」思わず掠れた声を上げた。

「だってスタンプ二〇個もあるんだよ? 日帰りだと帰り、疲れて死んじゃうよ」

 確かにそれはそうだ。それはそうなのだが……

 俺と彼女が、一泊する? その事実がよく呑み込めない。

 でもほとんど反射的に、首を縦に振っていた。

「そ、そうだね」

「はい、決まり! なんかいいとこの旅館無いかな。温泉とか、高いかな?」

「ど、どうだろ……」

「露天風呂のあるところがいいなあ。海見ながら、のぼせるまで入ってたい」

 すいすいと携帯の画面をスクロールする彼女に、頭は真っ白だった。

 これってやっぱり、その、彼女は俺のことを……?


 それからは、とにかくあっという間だった。

 服を買って、髪を切って、シソウの本を一度読み直して……彼女を失望させないようにしたかった。こんな俺を、誘ってくれたんだから。

 当日の朝、待ち合わせの駅を前にして、俺はリュックを背負い直した。

 改札の前に、彼女の姿が見える。ロゴ入りの白いTシャツに細身のデニム、薄手のアウターに野球帽と、少しスポーティーな服が、遠目からでも彼女によく似合っていた。

 彼女も俺に気がついたのか、笑みを浮かべて手を振ってくる。

 それに手を振り返しながら、唇を噛んだ。

 俺は決めた。

 そう、決めたんだ。

 この旅で――彼女に、想いを告げるって。

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