わからない



 やっぱり変だ。

 約束した時間に駅で落ち合った先輩は、バイトしていた時と服装が変わっていて、前回飲み会をした時より、その……ひどく綺麗だった。薄手のコートに、ブラウスと少しゆったりしたドロストパンツ。いつも縛っていた髪を伸ばした先輩は、妖艶な大人の雰囲気があった。

 それに店だって、よく使う大衆居酒屋じゃなくて、海鮮系の小洒落た店で、それも個室に案内された。

 でもそれって、俺の気のせいなんだろう。今まで俺が知らなかっただけで、経験してないだけで、本当はこんなの、よくあることなのだ。

 だって、大きな夢が、描きたい将来があるわけでもなく、大した人生も送ってこなかったこんな俺が、先輩と釣り合うわけがないのだから。

 そう思うと少しだけ気分が軽くなって、俺は素直に食事を楽しむことにした。先輩はビールを飲んだ後、すぐに日本酒に移って、さほど酒を飲んでいないのに、赤みがかった目をとろんと潤ませた。その視線にくすぐられて、どきりとした気持ちを、俺はビールを飲んで誤魔化した。

「ねえ。アンタさ、この前、呑んだ時、謝ってくれたでしょ」

「え、ああ、はい」

 確かに俺は、先輩に迷惑をかけたと頭を下げていた。許してもらえたかはわからないけれど、少なくとも、誠意は伝えた……つもりだ。

「あれ、さ……本当は、謝んなきゃいけないのって、私の方なんだ」

「え? どういう……」

 戸惑う俺に、先輩はすぐに答えず、深く息を吐いてテーブルに両肘をついた。

「……数週間前にさ……選考に落ちたってメールが届いたんだ」

「選考って……あっ――小説の、ですか?」

「うん。……私ね、小説家になりたい、書きたいって、決めた時、学生までの夢だって決めたの。たぶん、それまでに叶わなかったら、もう一生、叶うことないだろうから。それで……今年が最後の学生でいられる年」

 先輩は箸でしょうゆを混ぜ始めた。でもそれはワサビをとくわけでもなく、ただいたずらに箸の先で弄んでいた。

「一応、就職先も抑えてあって、その返事をする期限が、来月の上旬なんだ。だから、それまでがタイムリミットだった。でも……落ちちゃった。いろいろ応募したのに、全部。――それもさ、笑えるのが、二次選考とか、最終選考とか、そんなんじゃなくて……一次で全部落ちたの。今回はどれも自信がある、最後の年だし、なんとかなるって思ってて……そしたら、今までで一番ひどい結果になっちゃった」

 先輩の「なっちゃった」という声はひどく軽くて、個室にやけに響いた。先輩はそのまま軽く、でも空っぽに聞こえる声音で「さらにね」と続けた。

「その後、彼氏とも喧嘩してさ。彼はもう働いてるんだけど、私も夢が叶わなかったら働くって約束してて、それで、彼にね、『じゃあ働くんだよね?』って言われて……私、答えられなかった。それでもう、天地がひっくり返るような大喧嘩して、以来三週間も、連絡とってないの」

 先輩は目が微かに揺れる。振り切れているようで、振り切れていないようだった。

「そんな状況で、あのサークルの飲み会に行ってさ。アンタの言葉が、胸に刺さった。『手遅れ』、『小説家なんかなれない』。めちゃくちゃ、腹が立った。だからアンタをバカにした。――でもさ、家に帰って冷静になって、思ったんだ。腹が立ったのって、アンタの言ってることが正しいからかもしれないなって」

「それは……それは違いますよ!」たまらず言った。先輩は薄く笑った。

「私もそう思ったよ。あんなクズな奴の言うことなんか、耳を貸さなくていいって。むしろもっとやってやればいい。だけど、あの時アンタに謝られて、急に自分が見えた。あれ? アンタを否定してる私の方が、ずっとクズじゃないか――って」

 俺はまた口を開こうとしたけど、先輩が箸をパチンとテーブルに置いて、それを制した。

「……アンタがあの飲み会で言ったことが、正しかったのか、間違ってるのかは、まだ私もよくわからない。でも、その後の行動で間違ってたのは、私。だから、その……」

 先輩は顔を伏せた。肉感的な唇が震えて、掠れた声が紡がれる。

「今まで、ごめん」先輩はさらに頭を下げた。「ごめんなさい」

 なんと言ったらわからなくって、言葉を探した俺だが、気がつけば思いが口をついていた。

「そ、そんなことないですって! その、俺がこの前、先輩に謝れたのは、先輩が怒ってくれたからです。じゃなかったら、多分、俺、また腐ってた。それに、ダイスケに謝れたのだって、先輩がいたからです。だから、先輩が謝ることなんて、何もないですよ! 今の俺があるのは、先輩のお陰なんです。その先輩が……その、謝らないでくださいよ!」

 思った以上に個室に声が反響して、しまったと思ったが、先輩は小刻みに震えると、やがて「ぷっ」と吹き出して笑い始めた。

「ご、ごめ……アハハハ。いや、まさか、『謝らないでください』なんて、怒られるとは思ってなくて……ハハハ!」

「あ、べ、別に怒ったわけじゃ……」

 取り乱す俺に、息をついた先輩は、日本酒のグラスを傾けながら言った。

「アンタさ、変わったね。あの本、届けてから……いや、拾ってからかな」

「っ……いろいろ、自分を見つめなおしたので……」

「ふーん。それってさ――あの子のお陰?」

「え……?」急に胸が締まった。あの子というのはおそらく……天川桜子のことだろう。

「だって、今日アンタが借りた本、彼女がよく借りてく本の作者と同じだし」

 先輩はいたずらっぽく目を細めて、「どうなの?」と聞いてきた。唾を飲んで答える。

「……そう、です」

「気になってる?」矢継ぎ早に先輩は尋ねてきた。

 誤魔化すこともできなくて、俺は素直にうなずいた。「……はい」

「そっか。……でも、付き合おうとはしないんだ?」

「それはだって……彼女には恋人がいますし、もし機会があっても俺には……」

「とても見合いません」という言葉は、恥ずかしくってごにょごにょと消え去った。

 先輩が何も言わないので、顔を見上げると、彼女は赤みがかった瞳をゆらゆらと妖しく光らせて、俺を見つめていた。俺が何か言おうとすると、先輩は遮るように先に口を開いた。

「――よーし! 食うぞ、呑むぞ! 早く帰れると思うなよ、アキラ」

 先輩の顔はもう元通りだった。

 きっと、俺の気のせいだ。

 そう思って苦笑しながら、うなずいた。

「はい、お付き合いします」


 数時間後、へべれけに酔った先輩に肩を貸しながら、俺は夜の歓楽街を駅へと歩いた。飲み屋や風俗などの集まった街角には、酔ったカップルを迎え入れるべく、煌びやかなラブホテルがいくつも軒を連ねていた。それとなく早足になる俺の脇腹を、先輩が肘で小突く。

「寄ってくー?」

「また、もうやめてくださいよ。俺、あの時、フロントの人に叱られたんですよ。『冷やかしなら出て行ってもらえますか』って、結構マジに」

「ハハハ、そりゃ失敬」

 相変わらずハスキーな声でくすりと笑ってから、先輩は足を止めた。振り返ると、先輩は潤んだ瞳で、じっと俺を見据えていた。

「――じゃあ、冷やかしじゃないなら?」

 通りを風が吹き抜けた。先輩のコートがひらひらはためく。街のネオンサインが、彼女の体に照り付けていた。

「えっ……?」カラカラに乾いた喉が張り付く。

「私、誰でもいいわけじゃないよ」

 先輩は風で乱れて唇に引っかかった前髪を、その細く綺麗な中指で払った。

「ねえ、君は? 私を、どう思う?」

 俺が、先輩をどう思っているか?

 突然の問いかけに、頭が真っ白になる。

 でも、そんな中で、真っ先に浮かんだのは、彼女の――天川桜子の顔だった。

「俺は……」

 ピリリリリ。携帯の着信音が、響いた。先輩は鞄から携帯を取り出して、小さく唇を噛んだ。

「っ……彼からだ」

 ディスプレイから放たれる青白い光に照らされた顔は、複雑だった。嬉しそうでもあり、悲しそうでもあり、辛そうでもあり、楽しそうでもあった。

 でも先輩は電話に出なかった。音を立てて震える携帯を手にしたまま、先輩はまた俺を見た。

「ねえ。どうなの?」

 どうって……そんなの……

 いっそのこと、電話に出てくれたら楽だったのに。

 そんなことを思うほど、俺は息をするのが苦しかった。

 奥歯を噛むと、また彼女の姿が脳裏に浮かぶ。そばかすの混じった頬にえくぼを作って、八重歯を見せて笑っている。

 だけど先輩を見ていると心が痛んだ。先輩は、指先が白くなるほど、携帯を握りしめていた。それがどうしようもないほど、俺を怖くする。なんでそんな目を、俺に向けるんだ。

 わからない。俺は……俺はどうしたらいいんだ?

 頭を抱えて、叫び出したくなる。

 どれくらい経っただろうか。俺には無限に感じられたけれど、本当は一〇秒と経っていないのかもしれない。

 俺は――アスファルトに目を向けた。

 先輩の息を吐く音が聞こえる。やがて、

「……もしもし? ごめん、ちょっと手を放してて、出るの後れちゃった」

 また風が吹く。今度は、やけに冷たくて、俺のことを刺してきた。

 毛穴から体の中へ染み込んでくるようなそれに、俺は背を向けて、一人歩き出した。


「俺……どうしたら、よかったんだ?」

 古い白熱電球が黄色く照らす六畳の部屋に、声が響く。我ながらあまりに情けなくて、うつぶせに倒れていた俺は、近くの座布団に顔をうずめた。キーボードを叩く音が聞こえる。

 少しだけ顔を上げた。座椅子に腰を下ろして、PCに向かうダイスケの姿が見えた。相変わらず鉄仮面のような顔で、モニターを鋭く睨みつけている。キーボードに走る指は、素早く動いたかと思えば、急に止まったり、不規則だったけれど、なぜかその音に心が落ち着いた。

「わかんねぇよ。何が正解なんだよ……。どうしたら、いいんだよ……」

 また俺は漏らすようにつぶやいた。ダイスケは何も言わなかった。相槌すら打たない。

 でも、それで十分だった。俺も答えを彼に求めてはいなかった。何の連絡もせず訪れた俺を、あしらうことなく出迎えてくれただけで、嬉しかった。

 また座布団に顔をうずめる。でも目を閉じると、さっきのことを延々と考えてしまう。

 先輩はきっと、俺をからかってなんかいなかった。本当に俺を、好きになって……

 いや、そんなわけないだろう。だって、連絡すら取っていなかったとはいえ、先輩には恋人がいたんだ。そんな人が、真面目に俺なんかを相手にするわけがない。

 だからって、答えなくてよかったのか? 答えを求める先輩から、逃げて……

 じゃあ何と答えればいい? お前にそんな力があるのか? そもそも、俺みたいなやつが答えていいのか?

 ああ、胸が痛い。ずきずき痛む。息をするのがまた、苦しくなってきた。

 胸を押さえて上体を起こし、柱にもたれかかる。ひんやりした木の肌が背に触れて、少し楽になってきた。同時に、眠たくもなってくる。

 だけど、目を瞑りたくない。

 もう、これ以上、考えたくない。

 そんなことを思って、畳から生えた本の塔を見上げた俺は、ふとバッグに図書館で借りた本を入れっぱなしだったことを思い出した。肩掛けのボディバッグをあさって、文庫本を手に取る。荒川シソウ、『ただ猫を抱きたかっただけなのに』。

 クレヨン調で描かれた、少女と黒猫の表紙を軽く撫でて、俺はページをめくった。

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