それって……



 週末をまたいだ数日後、俺の姿はまた学部の図書館にあった。手には世界遺産検定を勧めるパンフレット。もちろん、それを受けるつもりなど毛頭なく、その端の方に書かれた彼女の文字――荒川シソウの本が目当てだった。

 ダイスケに借りて読んだ、『赤いヒマワリ』。内容は、数年前に親友を失くした主人公が、彼の墓にヒマワリをそなえ続けるヒロインと出会って、親友の死の謎に迫るという、ひと夏を描いた長編ミステリーだった。密室殺人があったり、猟奇的な犯人が登場するわけではなく、むしろ掴もうとしたら離れていくような、主人公とヒロインの淡く儚い物語。その癖、イヤミス的なエンドに、胸がきゅっと締まる。

 本なんてしばらく読んでいなかったけれど、面白かった。次に何が起こるのか想像しながらページを指でめくって、並んだ文字を目で追うのって、こんなに楽しいものだったっけ。

 きっと彼女の影響もあるのだろうけれど、荒川シソウの魅力に見事に引き込まれた俺は、勧められた本を読んでみようと、彼の本が並んだ書架を訪れた。

 本棚の前で、しゃがんだ女子と目が合う。

「……あっ」

「ああっ!」

 ほぼ同時に声を上げた。

 彼女――天川桜子だ。

「わっ、また会った! 偶然にしたって、すごいね」

「う、うん。そうだね」

 まったく予想していなかったから、俺は口をまごまごさせた。落ち着け、俺。

 垂れた前髪を耳に掛けながら、彼女は立ち上がった。羽織っていた少しふんわりしたシャツワンピースの下から、脚のラインを露わにする、タイトなパンツが顔を覗かせる。小柄だが、スタイルのいい、すらりとしたその体に、俺は瞬きを繰り返した。

「そうそう、この前は本当にありがとう。本を届けてくれて」

「いやいや、ホントに偶然で。図書館の人に、君のことを聞いて……」

 待て待て。この流れは、会話が無くなるパターンだ。それはやっぱり……嫌だ。

 ……でも、彼女は恋人がいるんだし、俺が引き留めるのは失礼じゃないか?

 鳥が巣を作ったように口を半開きに固まった俺に、彼女は「ん?」と何かに気がついた。

「あっ、そのパンフレット……もしかして、本、借りに?」

「っ……」今更隠すのも変だろうと、俺は頭を掻いた。「そ、そうなんだ。その……意外とハマっちゃって……」

「本当!? うわー、嬉しいなあ」

 両手を合わせて、彼女は微笑んだ。ちらりと覗く八重歯に、細くなった目。

 彼女の声とその表情に、俺の心は音を立てて痛んだ。

「――ごめん」

「ん? なにが?」

「実はその……嘘、ついてて……」

 俺は正直に、実は本を読んでいなかったことを明かした。彼女は真剣な顔で聞いていたが、やがて「んー」と目を伏せた。

「じゃあ、もしかして、私……無理に押しつけちゃった?」

「いや、そうじゃなくて……あの後、ちゃんと本は読んで、本当に面白かったんだ」

 その気持ちが嘘じゃないってことを証明したくて、俺は『赤いヒマワリ』で好きだったところや、思ったことを、浮かんでくるままに彼女に話した。それはろくに整理もされていない、とりとめのないもので、言ったそばから……ああ、今にも死にたくなってくる。

 それでも彼女は熱心に話を聞いてくれて、やがて話を終えた俺に声を押さえて笑った。

「んふふ。君って、すごい、その……変な人だね」

「え?」

「あー、いや、悪い意味じゃないというか。その……なんか、面白いよ」

 また体を震わせる彼女に、つられて俺も笑った。

 でもすぐに、彼女を引き留めているのが申し訳なくなって、慌てて首を横に振った。

「ご、ごめん、俺だけ話しちゃって……」

「ううん、ぜんぜん」彼女は意外と明るい声で言った。「あの本についてそこまで話してくれたの、君が初めてだし。……そうだ、次、読む本、決まってるの?」

「あー……」パンフレットに目を落とす。「このどれかを借りようってことくらいしか……」

「そっか。んー、そうだなあ、『赤いヒマワリ』しか読んでないんだったら、私のおすすめは……これかな」

 彼女は華奢な人差し指で、文庫本の背表紙を倒して、本棚から取り出した。

「……『ただ猫を抱きたかっただけなのに』?」まるで最近流行りのライトノベルみたいなタイトルだ。

「うん。シソウの中でも、毛色が違うというか……。『赤いヒマワリ』がオーソドックスだとしたら、こっちは変化球かな。私は、結構好き」

「じゃあ、これにしようかな」断る理由など、もちろんない。

 受け取った本を抱えると、彼女は「ぜひ」と笑って、はたと壁の一点を見つめた。そこに掛けられていた時計に顔をこわばらせる。

「うそ、もうこんな時間!? 私、バイト、行かなきゃ!」

「あ、ごめん、引き留めて」

「ううん、こっちこそ」

 そう言った彼女は、「じゃあ」と残して姿を消した。思わず、ふうと息をつく。緊張しっぱなしだった。

「あ、そうだ!」ふいに聞こえた彼女の声に、思わず飛び上がりそうになる。振り返ると、彼女が顔だけひょっこり覗かせていた。「名前、言ってなかったよね? 私、天川桜子。心理学科の三年」

「あ……ンン」張りついたのどに咳払いする。「佐々、佐々彬。社会学科の四年」

「え、あ、先輩だったの!? わっ、ごめんなさい! あ……でもそうか、二三歳とか言ってたもんね?」

「う……いや、あれはその……」

 あの夜を思い出すと、死にたくなってくる。あの時の告白を、今すぐ消し去りたい。

 そんな俺を知ってか知らずか、彼女は「んふふ」と軽く笑った。

「ま、それじゃあ、タメ口のままでもいいかな?」

「う、うん。その方が、俺も嬉しい」

 ……嬉しい? 何を言ってるんだ、俺は。

 思い上がるなと自分を叱ったが、すぐに、そんな気持ちは跡形もなく消し飛んだ。

 髪を丸い耳に掛けつつ、白い八重歯を見せて、えくぼを作る彼女に。

「じゃあね、佐々くん」

「あ、うん。天川さん」

 軽く手を振って見送る。図書館の入り口までとか、大学の門までとか、そんなしゃれたことをしたかったけど、今の俺にはこれが限界だった。

 膝に力が入らなくなって、半ば崩れるようにしゃがみ込んだ。

 やばい。

 これ、かなりやばいやつだ。

 早鐘を打って痛む胸を、俺は必死に抑えつけた。

 失恋したっていうのに、そう割り切ってたはずなのに……

 やっぱり俺は、彼女が好きだ。


 ゆるみ切った顔を叩いて、貸出カウンターへ向かう。

 そして俺は、顔をげんなりさせた。

「よっ、アキラ」

 軽く手を上げて、出迎えたのは、先輩――山口美花恵だった。

「どもっす……貸し出しで、お願いします」

「はーいよ」

 また何か言われるだろうと身構える俺だったが、先輩はからかうようなことは何も言わず、その高めの背を折ってカウンターのPCを操作した。

「学生証、ちょーだい」

「あ、はい」

 言われるがままにカードを差し出すと、モニターを見つめたまま受け取ろうとした先輩の指と、俺の手がぶつかった。俺と違って、先輩の指は細くて滑らかで、柔らかくて――

「っ……ごめん」先輩は驚いたように手を引っ込めると、今度はおっかなびっくりそれを受け取った。

「あ、い、いえ……」

 なんだろう。なんか変だ、今日の先輩は。

 また目をモニターに向けた先輩は、バーコードリーダーで本と学生証を読み込むと、文庫本に返却日のスタンプが押されたしおりを挟んだ。だが、本を両手に持ったまま、なかなか渡そうとしてくれない。

「……あの、さ。この前は……ありがと」

「は、はい?」

「ほら、あの、伏屋の家に行った時さ。私よく覚えてないんだけど、起きたらビジネスホテルだったし、その……なんか着替えとかも置いといてくれて……」

「あー……いえ、気にしないでください。大したことはしてないですし……」

 先輩が酔いつぶれた後、本当はダイスケの家にそのまま泊めようとしたのだが、彼に「君が連れてきた」と押し切られ、結局、近くのビジネスホテルに担ぎ込んだのだ。虹色のキラキラ塗れだったので、着替えも途中で買ったが、所詮、ドンキの安物だ。

「いや。ホント、助かった」

 こんなにしおらしい先輩は初めて見た。いや、先輩の本来の性格を知ったのは、ほんの最近のことだし、それまで話すことすらなかったから、実は彼女について何もわかっていないのだが、それでも、ちょっと心配になるレベルだ。

 ちらり。顔を伏せた先輩は上目遣いに一瞬、俺を見た。

 気のせいだろうか。その目がいつもと違って見えた。

 それって……。いや、何をバカなこと思っているんだ。

 俺がかぶりを振ると、息をついた先輩が本を差し出しながら、顔を上げた。

「……今日、暇?」

「今日ですか? まあ、はい」

「じゃあさ。また、呑みに行かない? その……今回のお礼も兼ねて」

 本を俺に渡した先輩は、いやに両手を揉んでいた。

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