変わりたい



 翌日、酒のせいか、それとも不思議な彼女に会ったせいか、あんなことがあったのにぐっすりと――それもゼミにはとうに間に合わない時間まで――眠っていた俺は、机にあの文庫本があるのを確認して、少し嬉しくなった。ひとまず、彼女は現実に存在する。絶望に駆られて作り出した、俺の妄想ではなかったようで一安心だ。

 だがほっとすると同時に、胸が苦しくなってきた。昨日のことを思い出すと、心が軋んで痛い。つらい。それは記憶が悲しいからとか、忘れたいからとか、そういうわけじゃなくて、ただ、また彼女と、その、会いたくて――

 いや、冷静になれ、俺。大学にどれほどの学生がいると思っている?

 なによりも、見知らぬ彼女にとてつもなく恥ずかしいことを、大の男がべえべえ泣きべそをかいてのたまったのだ。今すぐ窓から飛び降りたくなって、髪をくしゃくしゃにしたが、ふと視界にあの本が入った。手を伸ばして取ってみる。……これを届ける、くらいならいいか……?

 かくして俺は、講義もないのに登校して、学部の図書館へと足を運んだ。

「すいません、本を拾ったんですが……」

 貸出カウンターに向かいつつ、例の文庫本をバッグから取り出すと、「はーい、今行きまーす」と、どこかで聞いたことのあるハスキーな声が返ってきた。

「……って、あー!」

 エプロン姿で現れたのは、文芸サークルの先輩――山口美花恵だった。俺はざぶざぶ目を泳がせた。なにしろ、昨日、正論をぶつけられて、心身ともに打ちのめされたのだ。どんな顔をすればいいのかわからない。

「へあ……あ、ど、どうも、先輩」

「クズの佐々じゃーん。なに? どしたの?」

 蛇に睨まれたカエルとはまさにこんな気持ちなのだろうか。いや、それはカエルに失礼かもしれない。先輩の言うことに間違いはなく、非はすべて俺にあるのだから……

「その、本を拾いまして……」

「本? あー、落とし物ね。ハイハイ、ちょっと貸して」

 先輩は栗色のネイルをした指で文庫本を受け取ると、裏のバーコードを読み取ってPCモニターを見つめた。

「……あー、この子か」

「し、知ってるんですか?」

「うん、まあね。アタシ、ここでバイトしてるからよく見るし……って、なに? 気になるの?」

「え、いや、その……」

「えー、なになに? そもそも、どこで拾ったのこれ。パクったんじゃないでしょうね?」

「そ、そんなことないですって! 彼女が落として行ったのを見て!」

「彼女?」怪訝な顔をする先輩に、しまったと唇を噛んだ。誤魔化そうとしたが、時すでに遅く、先輩は舌なめずりして笑った。「じゃあ、これを借りた人の顔は知ってるんだ?」

「あ、いや、それは……」

「もしかして――気になっちゃった?」

 右へ左へ目をやって、俯く俺に、先輩は大げさに肩をそびやかした。

「ひひひ。きっしょ! ……まあでも、教えてやらんこともないなあ」

「ほ、本当ですか!?」

「うわっ! ちょっと必死すぎっしょ!」

 軽い口調でザクザクと心を突き刺してくる先輩だったが、メモ用紙にペンを走らせると、「ん」と差し出してきた。見ると、「心理学科三年 天川桜子あまがわさくらこ」と走り書きしてある。

「心理学科なら、次の時限、本館地下のメインホールで、必修講義が入ってるはずだから、行ってみれば?」

「っ……あ、ありがとうございます!」

 まるで賞状でも貰ったかのように、メモ用紙を掲げて頭を下げる俺に、先輩は薄い笑みを浮かべて手を振った。

「ひひひ。うまくいくといーね」


 そして今、先輩の笑みの意味を知った。

 センターホールに入った俺は、昨日の彼女――天川桜子を見つけることには成功した。成功したのだが、扇状のホールで一番後ろの列に座った彼女の隣には、男がいた。

 なにやら真面目な顔で話す二人は、赤の他人である俺から見ても親密で、それを裏付けるかのように、他の生徒たちが近づく様子もない。人の多いセンターホールだが、その一角だけは、彼女たちだけの場だった。

 ああ。

 別に告白したわけでもないのに、俺は心の中でため息をついた。どっと体が重くなる。

 近くにいた学生に、彼女に本を渡すよう頼んで、足早にセンターホールを後にする。

 本館を出ると、晩夏のうららかな日差しが、中央広場のタイルを真っ白に染めていた。その陽光に、俺は一人、自嘲した。

 つまらない失恋だ。今の今まで彼女の名前すら知らなかったのだから、淡くもなくて、人に言えば笑われてしまうような恋。でも、焦燥感に身を任せて告白し、玉砕した一年前とは比べ物にならないほど、心に深く突き刺さった。

 ……いや、よく考えろ。もし仮に彼女に恋人がいなかったとしても、俺なんかに振り向くはずがないだろう。

 そう思って、小石を蹴り飛ばした時だった。色褪せたジーンズのポケットで、携帯が着信を知らせて震える。

 手に取ってみて、俺は「えあっ」と奇妙な声を上げた。

 ――『見事に沈んだ佐々クンを励ます会。今日の夜一八時に駅前の呑み屋で』。

 送り主は先輩だった。


「それで、本だけ置いて帰ったんだ! アハハハ!」

 先輩は赤い顔に大口を開けて、げらげらと笑った。彼女の前には、空になった中ジョッキが所せましと並んでおり、今もまるで水同然に焼酎の水割りを口に注いでいる。

「いやー、まあそうなると思ったけどさぁ……ぷっ! 佐々、アンタ、最高だわ!」

 また体を揺すって笑った先輩は、空いたグラスを取りに来た店員に、今度は日本酒を頼んだ。現時点で俺の倍は飲んでいるのに、相当なうわばみだ。普段のしとやかな雰囲気はどこへやら、変貌――というより本来の性格を露わにした先輩は、情け容赦なく俺をなじってきた。

「ほーら! クズの失恋にカンパーイ!」

「わかってますよ」グラスを合わせながら、俺は唇を尖らせた。「どうせ、俺はクズです」

「お? なになに? 今度は反抗?」

「いや……そうじゃなくて……」

 傾けた中ジョッキに自分の顔が映って、俺は目を伏せた。本当に、先輩の言う通りだ。

 俺は、どうしようもない人間なのだ。

「あーあーもう、すーぐいじける!」先輩は冷酒のグラス片手に俺を指さして笑った。「人の夢を笑うクズで、歳ばっか重ねた童貞で……カァー! 役満じゃん!」

「……わかってますって」

「えー? ほんとかなあ? 夢も希望もない、佐々くーん」

「――だから、わかってますって」

 俺がジョッキをテーブルに置くと、先輩は「おおっ」と大げさに両肩に手をやった。「怒った?」とからかうような視線を向けてくる彼女に、俺はため息をついた。

「そうじゃなくて……むしろ、謝んなきゃと思って」

「……え?」

 アルコールが体中を巡って、体が妙に軽くなってきた俺は、頭を下げた。言うんだ。言え。昨日俺は、この自分を認めるって、決めただろう。震える唇に力を込めて、口を開く。

「昨日は、すみませんでした。その、場の空気をぶち壊すようなこと言って。……先輩に怒られて、そのあと……いろいろ考えて、なんか俺、目覚めたんです」

 思った以上に、言葉はスルスルと口から出た。悪いのは俺なのに、不思議と気分が軽くなる。

「許してもらえるとか、そういうのじゃないって分かってるんですけど、とにかく、その……すみませんでした」

 先輩から返ってくる言葉がなくて、俺は視線だけちらりと上げた。

 先輩は不思議な目をしていた。その赤みがかった瞳は、俺を映しているのに、俺を見ていない。まつ毛を合わせるように瞬きを何回か繰り返して、唇を舐める。

 やがて先輩は、何か言いかけるように口を数度開いてから、テーブルに肘をついて額に手をやった。伏せた顔で、彼女の表情は読めなかった。

「……アンタさあ、その……」

「……な、なんですか?」

 恐る恐る俺が尋ねても、先輩はしばらくそのままだったが、ふいに顔を上げた。

「ううん。何でもない。――ほら、呑め呑め! 失恋祝いだぞ!」

「っ……はい、いただきます!」

 先輩の様子が気になったけれど、そこからはもうやけになって、俺は出てくる酒を片っ端から飲み続けた。


「うっぷ……ちょ、ちょっとお手洗い行ってきます」

「ふふーん、ごゆっくりー」

 意味ありげに目を細めて手を振る先輩に、ぎこちない作り笑いを浮かべた俺は、狭い通路を奥のトイレへと向かった。胸が奥底から焼け始めて、壁に手をついてよろよろ歩いていると、ふいに左手の扉が開いた。ホールとは違う白っぽいエプロンをつけた従業員が出てくる。

 避けようとして、「あっ」と声を上げてしまった。同時に、心臓が胸を衝いた。マスクをしているが、若干見えるそばかすに、長いまつ毛と琥珀色の瞳。間違いない。

 その証拠に、怪訝な目をした向こうもまた、驚いたように眉毛を持ち上げた。

「――昨日の人!」

 指をさしてきた従業員は、天川桜子だった。

「えっ、どうしてここに……? ――あっ、お客さんか! いらっしゃいませ!」

「あ、ど、どうも」

 思いがけぬ再会に、なんだか頭が真っ白になる。

 彼女はマスクをずらすと、その特徴的な八重歯をこぼして笑った。

「あの、今日、友達から本、受け取ったんですけど、もしかして……」

「あ、う、うん。河川敷に落ちてるの見つけて、同じ大学だったし、俺が持ってって……」

「やっぱり! うわっ、本当ありがとうございます! 弁償しないといけないのかなって、結構あせちゃって……」

 昨日と違って、敬語を使う彼女がなんだか新鮮で、俺は少し笑みをこぼした。

「ううん。別に大したことじゃ」

「いやいや、本当に助かりました」

 彼女がほっと胸を撫で下ろすと同時に、若干気まずい空気が流れ始める。

 そうだ。俺と彼女の関係は、昨日河川敷で話して、落とし物を届けた程度。到底、会話が続くようなものではない。

 でも、なんとなくこれで別れるのが惜しくって、俺はついあらぬ嘘をついてしまった。

「いや、実は俺も、あの本が好きで」

「えっ、そうなんですか?」思った以上に彼女は顔をほころばせた。「荒川シソウって、意外とまわりで好きな人いなくて。読んでるのも私くらいで、話せる人がいなくって――って、すいません、私だけ話しちゃった」

 口に両手をやる彼女に、「そんなことはない」ときざにかぶりを振ろうとしたが、神は嘘をついた俺に即刻、罰を与えてきた。

 だ。腹の奥底にたまりにたまったヤツが、顔をもたげて食道をせりあがってくる。

 先走りとばかりに、異常に口内に唾があふれ始めて、顔色を青くした俺は、しどろもどろに彼女に言った。

「あ、いや、大丈夫なんだけど、その……ちょ――ちょっと、お手洗いに……」

「あっ……すいません、私、引き留めちゃって。そうですよね。廊下奥の右手にありますので、どうぞ、お使いください!」

 幸い察してくれたのか、微笑んで指さす彼女に、引きつった顔でうなずきながら、俺はトイレに駆け込んだ。

 決壊。決壊。決壊。

 ティッシュペーパーで、チーンと鼻を噛むと、いやに頭がすっきりする。

 それを放り込んで、俺は便器に水を流した。

 さよなら、レバー、タンにハツ。お前ら、最高においしかったぜ。

 渦から目を背けるように便座のふたを閉めて、洗面台に向かう。酔いが醒めてきたせいか、鏡に映った自分の姿を見て、俺はハッとした。

 一か月前に切ったきりのぼさぼさ頭に、シャツにジーパンと何とも言えない微妙な服装。ひげだけは剃っていたが、ひどいありさまだ。

 こんなやつが、先輩と一緒に酒を飲んで、あまつさえ彼女にも声をかけたのか?

 そもそも、彼女には恋人がいるわけで……。途端に気まずくなってきて、口をゆすいだ俺はトイレを出るや否や、慌てて先輩に駆け寄った。

「そろそろ、行きませんか?」

「えー? ……せっかく、に会ったんじゃないの?」

 背もたれに寄りかかって、先輩は大きく足を組んだ。

「っ……先輩、知っててこの店、選んだんですか?」

「さあ、どうだろ? ひひひ」

 どこまでも食えない人だ。俺は先輩を急かして、席を立った。

 だが、レジまで行って、ぐっと唇を噛む。前の客の会計をしているのは、彼女だった。

「おっ、また再会じゃーん」

「あっ……ちょ、ちょっと先輩――」

 くすくす笑う先輩は俺に五千円札を押し付けると、先に店から出て行ってしまった。

「お待たせいたしました、どうぞー」

「う、あ……はい」

「えーと、少々お待ちください…………はい。お会計、九七六〇円になります」

 淡々とレジを叩く彼女に、財布から一万円札と一〇円玉をトレーに出して……五〇円玉が何かに引っかかってなかなか出てこない。ちくしょう、こんな時に限って!

 焦って耳の先まで赤くする俺に、彼女は言った。

「……他に読むんですか?」

「え――?」

「ほら、さっき、『赤いヒマワリ』が好きだって、言ってたから。荒川シソウの本、他に読んだりするのかなって」

「あー……」

「実はさっきのは嘘で」なんてこと、言えなくて、俺はようやく取り出した五〇円玉を手に、必死に言葉を探した。すると彼女は、「あ」と声を上げた。

「もしかして他は読んでないんですか?」

「う、うん。そうなんだ」

「やっぱり!」

 彼女はレジ横のパンフレットを手に取ると、そこにペンを滑らせた。俺がなんだろうと首を傾げていると、彼女は「はいこれ」とパンフレットを差し出してきた。

「荒川シソウの書いた本で、私が特におすすめのやつ。良かったら読んでみて下さい」

「あ、う、うん。ありがとう」

「いえいえ。あの人のファンが増えたら、私も嬉しいし」

 目を細めて笑う彼女は、マスク越しにでも優しい笑顔を浮かべているのが想像できた。それに目を吸い寄せられて、固まった俺だったが、いつの間にか拳の中に痕が残るほど五〇円玉を握りしめていたのに気がついて、あわててそれをトレーに置いた。

「それじゃあ、三〇〇円のお釣りです。――ありがとうございました。またお願いします!」

 頭を下げる彼女に、何か言いたくて、俺は頬を掻きながら小さく会釈した。

「あ、えと……ごちそうさまでした」


「どう? ラインくらい聞いてきた?」

「やめてくださいよ――って、まだ呑んでるんですか?」

 店先でワンカップ大関を手にした先輩に、思わずあきれた声を上げる。なんだろう。ここまで本来の性格が分かってくると、むしろ安心して話ができる。

「いーじゃん、別に」と頬を膨らませた先輩は、駅に向かって歩こうとする俺に、「待て待て」と酒臭い息を浴びせてきた。

「なーに、帰ろうとしてんの」

「……まさか、二件目行くつもりですか?」

「うーん、それもいいんだけどさ」先輩はシャープな顎を撫でた。「今のアンタが、絶対に行かないといけない場所がある」


「……それで? なぜ僕の家に、君と山口先輩が?」

 踏切を渡って、甲州街道からすぐの住宅街。築五〇年、まるで文豪が住んでいそうなアパートの一階で、俺と千鳥足の先輩に、友人――伏屋大弼は胡乱な目を向けた。

「あー……それは――」

「コイツが謝りたいんだって! 昨日、ふざけたこと言って、ごめんなさーいって!」

 俺を遮って、先輩がハスキーな声を張った。

 寝耳に水とはまさにこのことで、「えっ?」と情けない声を俺が上げると、ダイスケもまたさらに冷たい目をした。

「謝る? アキラが?」

「うん。そうでしょ? 佐々」

 先輩は俺を見上げると同時に、ダイスケには気がつかれないよう、背後で肘鉄を打ってきた。

 それに体を押されるような形で前に出た俺だったが、ダイスケと視線を合わせて唇を噛んだ。

 そうだ。俺はこいつに謝らなきゃいけない。他人の前で公然と、ダイスケの夢を否定した。罵倒した。ある意味、夢がある彼を妬んだのだ。全部、自分の卑屈さから来るエゴだ。

「ああ。――ダイスケ、謝らせてくれ」

 俺はダイスケの目をまっすぐに見つめて言った。

 すると彼は相変わらず鉄仮面のように変わらない表情のまま、小さくうなずいた。

「……謝罪は受け取った。もう十分だ」

「え――?」

 戸惑う俺を他所に、ダイスケはドアを閉めた。たまらず、俺はドアを叩いた。

「ちょ、ちょっと、待てよ、ダイスケ! 俺はまだ――」

「謝罪は受け取ったと言っただろう。近所迷惑だ。早く帰ってくれ」

「……でも――でも俺、ちゃんと謝りたいんだ。お前に謝りたい!」

「君もしつこいな。僕はもう、いいと言っているんだ」

 くぐもったダイスケの声が、ドアの向こうから廊下に響いてくる。天井からぶらさがった羽虫のたかる裸電球が、きゅらきゅらと風に揺れた。

 ドアを叩いていた拳を下ろして、俺は視線を伏せた。

「……ごめん、ダイスケ。ごめん。俺、ただお前がうらやましくて。なんかこう、自分があんまりにも情けなくてさ。お前に……当たったんだ。馬鹿だよな。……今更だと思うけど、ただ……謝りたかった。ごめん……、本当にごめん」

 返ってくる声はなかった。俺は、アパートの壁に背を持たれて、ワンカップ大関をちびちび舐める先輩に向き直った。彼女は暗く赤っぽい目で俺を見た。俺は最後にもう一度だけ、ドアに向かって言った。

「……ごめん。もう、行くわ」

 その時だった。

 ドタドタドタと駆ける音が迫って来るや否や、ドアが内側から蹴り開けられて、浴衣をなびかせたダイスケが殴りかかってきた。

 硬く握りしめられた拳が、俺の左頬に突き刺さる。何の構えも取っていなかった俺は、大きくのけぞると、砂利敷きの駐車場に背中から倒れこんだ。顔をゆがめた俺は、口の中に広がる鉄の味と、脳の揺れたダメージにしばらく起き上がることができなかったが、揺れる視界の中、「フーフー」と肩で息をするダイスケの姿が見えた。

「君は……君はなんなんだ! 僕のことを否定したいなら、しておけばいいだろう! 僕に謝りたいなら、もう受け取ったと言っただろう! それなのに、君は……一体、僕に何をして欲しいんだ!? 許してほしいのか!? ――するわけないだろうっ! 僕だって人だ! 夢を無下に否定した君を、許すわけないだろう!」

 ダイスケの声は珍しく怒りに震えていた。顔は赤かった。あの人形のように変わらない性格のダイスケが、怒っている。それだけで、俺は足がすくみそうだった。

 でも、そこで立ち止まったらだめだ。彼女と月を見上げたあの夜、俺は誓ったんだ。

 どれだけ高望みしたって、俺なんて存在は、所詮ちっぽけなのだ。そのちっぽけな俺を認めよう。そして、ダメなところは、一歩ずつ、少しずつ直すんだって。

「そう……だよな。許すわけ、ねえよな。……でも、俺……それでも許してほしいんだ。お前が正しかったって! 俺がバカでクズで間違ってたんだって、分かったから! 今はもう、認められるから! だから、許してほしくて……」

 立ち上がった俺に、ダイスケは驚いたようだった。俺は鼻から垂れた血を拭いながら、彼に近寄って――

「――でも……今はちょっと痛かったっ!」

 タックルをして、ダイスケを部屋の中へ突き飛ばす。積み上げられた本の塔を倒しながら、彼は畳の上を転がった。六畳の部屋で、向かい合う。

「っ……頭がおかしいのか、君は! 許しを請いながら、僕を突き飛ばすなんて!」

「確かに俺は、お前にひどい事を言った。でも、手は出してないだろ!」

「――っ! 君ってやつは、どこまでもっ!」

 そこからは殴り合いの喧嘩だった。ダイスケの拳が頬に刺さって「ぶっ」と息を漏らす。部屋の隅に胡坐をかく先輩の姿が見えた。「がんばれー」と楽しそうに手を叩いている。

 いつ以来だろう。こんな喧嘩をしたのは。

 もしかしたら初めてかもしれない。こんなに熱く、誰かと思いをぶつけあったのなんて。

 痛いのに、苦しいのに、なぜか、気分は少しずつ晴れていった。

 しばらくして俺とダイスケは、ほぼ同時に畳の上に倒れ伏した。互いに荒い息をして、シミだらけの天井を見上げる。

「……おあいこか?」

「ああ、そうだな。……でも」ダイスケが俺を見た。「僕はまだ、君にひどいことは言っていない」

「じゃあ、言えよ。むしろ……言ってくれ。クズでも、なんでも、言ってくれ」

「うん」ダイスケは息を少し整えて言った。「――僕、彼女いるぞ」

「っ――はあ!?」

 思わず俺は飛び起きた。瞬きを繰り返す。この目の前の、大正浪漫かぶれの変人に、恋人がいる!? 入学以来の友人だが、そんな話、聞いたことがなかった。

「遠距離なんだ。彼女は社会人で、今は博多にいる」

 ダイスケはすうっと目を細めた。彼女を心に想って、愛おし気に……

「どうだ? 心をえぐられたか?」

「……大切にしろよ」俺は唇を尖らせた。でもそれは、本心からだった。「それからさ……ごめん。もう一度、謝らせてくれ。ダイスケ」

「……ああ。――いいよ、アキラ。許す」

「っ……ありがとう」

 ダイスケは不思議な顔をした。それは怪訝な顔へと変わり、最後にはやや心配げになる。

「……なんだよ?」俺は首を傾げた。

「いや……はは」

 笑い始めたダイスケに、つられて俺も声を上げて笑う。久しぶりの気がした。友達とこうやって笑うのなんて。最近はいつも一人で、誰かを見下して笑っていたから。

 その内、ダイスケと共に起き上がって、部屋の修復を始めた。俺は散らばった本を手に取った。「あっ」。小さく声を上げる。それは、荒川シソウの『赤いヒマワリ』だった。

 彼女の笑顔が頭をよぎる。「ファンが増えたら、私も嬉しい」。そう言って渡してくれたメモは、今もポケットの中に入っている。彼女に嘘をついたのが、チクリと心を刺した。

「……なあ。これちょっと、借りてっていいか? 数日かかると思うけど、必ず返すから」

「ああ。別にいいよ。でもその前に……」

 ダイスケは部屋の隅に目をやった。俺もつられて視線を向けると、胡坐をかいていたはずの先輩が、畳の上で大の字になって寝ている。普段は非常に美人でしとやかな人が、無防備にぐうぐうと寝息を立てている。それも――ゲロまみれで。

「先輩を介抱してからにしてくれ、アキラ」

 再び鉄仮面をかぶったダイスケに、俺は諦めのため息をついて、先輩に向かって行った。

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