月の見方
1
二三歳、男、一浪、二流大学文学部四年、彼女無し童貞。
それが俺こと、
すべてが悲惨だ。特に最後の、彼女無し童貞。
はっきり言って、この歳になるまで、恋人がいないなんて微塵も思っていなかった。受験勉強をしている時は、大学に入ればできるだろうと思っていたし、大学に入ってからは、まあ誰かと知り合えるだろうとか思ってた。
そう。思ってただけだ。
今になってわかる。いくら頭でこねくり回そうが、行動しない限り、結果は生まれない。
別に無理にモテようとしろってわけじゃない。ただ講義やバイトで、男女問わず、明るく接してみるだけでも、十分違ってくるはずだ。
でも、俺はまったくそれをしてこなかった。とんだバカ野郎だ。
しかも、さらに悪いことに、今更気がついたところで、取り返しがつかない。大学という最後の青春は、後期五か月だけを残し、泡沫の夢と消えつつある。もう、手遅れだ。
そう――すべては……
「手遅れだろ!」
結露した雫が滴り落ちる中ジョッキを、俺はテーブルに叩きつけた。
駅前の居酒屋。奥の座敷では、都内某私大文学部の文芸サークルの飲み会が開かれていた。酒が回って饒舌になった俺は、正面に座った入学以来の友人――
「なァ! よく考えろよ、ダイスケ! お前、行きたいところの内定貰ったんだろ? なのに、辞退して小説家を目指そうなんて、馬鹿だし、今更手遅れだろ! 最近じゃ、一〇代でデビューする奴がほとんどだぜ! 無理だろ無理!」
「未来はわからないだろう」大正浪漫な着物を着たダイスケは、相変わらず冷静で、芯の通った声音をしていた。「何かを始めるのに、手遅れなどということはない」
「いーや、あるね! 俺という生き証人がいる。どうだ! 手遅れの塊みたいなやつだろ!」
「……君のその卑屈さは、感服に値するよ」
「おー、感服しろ! わかんだろ? 俺もお前も、恋もできねぇ、彼女もいねぇ、しまいにゃいつまで経っても童貞。御年二三の手遅れだぞ! あ、いやお前は二二か? でもかわりゃしねぇ!」
「それが、僕が夢をあきらめる理由にはならないだろう」
「なるね! 言っとくが、気がついた時には手遅れだぞ! ――小説家なんか、なれないって!」
ふいに座敷が静まり返った。声を大きくしたわけではないのに。視線が俺に集中する。
しまった。
――「小説家なんか」。
本気で、作家を目指している学生が集まっているこのサークルでは、一番の禁句である。
現にダイスケもその能面のような顔の、こめかみあたりをピクリと動かした。思わずつばを飲み込む。いましがたビールを飲み干したのに、もう喉がカラカラだ。
「――ほーら、なにやってんの、君たち」
ハスキーな声が頭上から降りかかってきて、俺はびくりと体を震わせた。
その尻の吊った猫目で「うん?」と見下ろしてくる先輩に、俺は押し黙るほかなかった。
「いや……すんません」
何をやっているのだろうか。こんな男、モテないに決まっているではないか。
座敷の隅へこそこそ移動した俺を他所に、飲み会は徐々に活気を取り戻して、やがて夜が深まったところでお開きになった。
「学祭まであと二か月! 卒業する先輩方のためにも頑張ろう!」
居酒屋を出て、盛り上がる会員たち。彼らに背を向けて、俺は一人、駅へ歩き始めた。どうせ執筆から逃げた幽霊会員だ。いないも同然である。
「――ねえ、ちょっと」
ふいに背後から声を掛けられる。振り返って驚いた。先輩だ。
「佐々くん……だったよね? ごめんね、私、人の名前憶えるの苦手でさ」
「え、あ……はい」
俺は耳の先まで赤くしながら顔を伏せた。アルコールのせいだろうか、先輩の顔は赤く、目が少しトロンとしていて、いつも以上に蠱惑的だった。こんな人が、俺に何の用だろう。
二人で連れ立って駅までの歓楽街を歩く。先輩の顔には、ネオンサインや街灯、店先の提灯などの明かりが映って、妖しく見えた。
「この後、どうすんの?」
「あ……家に帰ります」
「ふーん、そっか……。あー、私、ちょっと疲れちゃった」
足を止めた先輩は、「ん」と両指を組んでひっくり返すと、前へ腕を伸ばした。そこはちょうどピンク色のネオンがまぶしい、ラブホテルの前だった。
――「疲れちゃった」。
先輩の言葉が脳裏をよぎる。それってつまり……そういうこと?
「……気になるの?」先輩はいたずらな笑みを浮かべた。「入ってみる?」
「えっ、あ、いや……」
「えー? 本当に?」
意味ありげに目を細めた彼女は、その細くて長い指で、俺を手招きした。
「ねえ、ちょっと耳貸して」
俺はほとんど機械みたいに、先輩に向かって背を折った。ニットのカットソーの上からでも、彼女の豊満な胸の形が手に取るようにわかる。ふわりと柑橘系の香水の匂いがした。
「一緒に入るの恥ずかしいから、あとから来て」
先輩のハスキーなささやき声が、色っぽく耳をくすぐって、頭の中が真っ白になる。壊れた人形みたいに首を縦に振ると、婀娜っぽく微笑んだ先輩は門をくぐってホテルに入って行った。
あとから来てって……どれくらい待てばいいのだろう。よくわからなくって、俺はただ間抜けにもホテルの前で一分くらい立ち尽くしていた。さすがにもういいかと思って、ホテルの中へ入る。並んだソファに大きなテレビ。思ったよりも、瀟洒な雰囲気だ。
でも先輩の姿がない。どこに行ったのだろうと周囲に目をやった俺は、背後の自動ドアが開閉した音に、振り返って――
「え――?」
ドアの向こうで、俺に向かって両手の中指を突き立てる先輩が見えた。白い歯をこぼして、満面の笑みを浮かべている。
「――バーカ! てめぇの夢も追えねぇクズが! 人を笑って、てめぇを誤魔化してるようなやつに、彼女なんかできるわけねぇだろ! 一人でさっさと帰れ! ぶぁーか!」
あまりの衝撃だった。
先輩の変貌した口調も、その大口を開けて笑う様子も、なによりその胸を衝く言葉も。
呆気にとられた俺を他所に、先輩はケラケラ笑って街に消えていった。
「……そりゃ、そうだよな」
帰路の途中、橋を渡りながら、俺は自嘲気味に呟いた。
当たり前だ。こんなクソ野郎に、あんな綺麗な先輩が声をかけるはずがない。
「なにやってんだろうな、俺」
深くため息をついて、何気なく欄干から川に目を向けた。水面に薄空色の月が映っている。まるでピンポン玉みたいに丸い。天を仰いだ。
「でっか……」
青白い月が雲一つない夜空に浮かんでいた。そこだけぽっかり空に穴が開いたみたいだ。
なんだか、自分がひどくちっぽけに見える。あの月と比べたら、俺なんてミジンコみたいなものじゃないか。価値が、無いように感じてくる。
なんとなく家に帰るのも嫌になって、俺は河川敷へ降りた。スーパー堤防というやつで、一面芝生になっている。まだ九月で暖かいせいか、葉は青く茂っていて、横になっても痛くないだろう。
見上げてみると、月の他にも、意外にたくさんの星が瞬いていた。こんなに見えるもんだっけ。でも天体なんてサッパリな俺には、北斗七星すら見つけられず、動いているものが人工衛星ってことしかわからなかった。
「俺ってなんも知らないんだな」、「つまらない人間だ」と、また惨めな気分になる。
そんな時だった。――彼女が現れたのは。
「え……月の、見方?」
「そ」
名前も知らぬその女は、俺の隣に腰を下ろすと、傾斜した芝生の上に倒れた。彼女の顔を、月光が照らす。丸く曲線を描いた輪郭に、ツンととがった鼻と、頬を覆うエキゾチックなそばかす。淡い影を作る長いまつ毛の下には、アーモンドのような形をした物憂げな瞳が覗いていた。どちらかというと大人しそうな顔立ちをしているのに、鋭く尖った八重歯がギャップで、俺は目を吸い寄せられて離せなかった。
「うはー。大きいな、今日の満月」彼女はそうこぼしてから、「いい? 君はあれを見て、どう思ったの? 何を思ったの?」
「……俺って、ちっぽけだなって。何も知らないし、つまらないんだなって」
なぜか正直になって、俺は答えた。
「うーん。半分正解」
「え?」
「そう、君はちっぽけだよ。でも、私もちっぽけ。この世の人間、みーんな、あの月と比べたらちっぽけなの。だから、君だけが何も知らないわけじゃないし、君だけがつまらないわけじゃない。私だって、知らないことがたくさんあるし、つまらないところもある」
「そう……かな」
「うん。そうだよ。だからね、月は見上げる時は、ちっぽけなことを楽しむの」
何を言っているのかわからなくって、俺は彼女を横目に見た。すると彼女は突然叫んだ。
「私はちっぽけなんだっ!」
驚く俺の耳に響いた彼女の声は、風の音や、川のせせらぎに、溶け込んで、消えていった。
彼女は琥珀色の目を大きくさせて、嬉しそうに息をついた。
「こうやって声に出して自分に言い聞かせるとね、なんか、どうでもよくなってくるんだ。悩んでることとか、後悔とか、変なしがらみとか、全部、どうでもよくなる。だってさ――あの大きな月と比べたら……私の存在も、君の存在も、大したものじゃないでしょう?」
彼女の話し方には、一種の余裕があった。きっと自分のことを分かっていて、そしてそれを認めているからこそ、変に怖気づくこともなくて、自分のリズムで話ができる。
対して俺はどうだ。分かってる。とんでもないクズ野郎だってことくらい。でも……もうどうしようもないんだって、それを直すことをあきらめている。
もしそれを認めたら、俺も変われるんだろうか。彼女みたいに、なれるだろうか。
「っ――俺はちっぽけなんだ!」
気がつけば俺も、月に向かって叫んでいた。響いた声が、反響して消えていく。思いっきり叫んだせいか、その分、新しい空気が肺をいっぱいに膨らませた。
確かに――どうでもよくなってきた。ダメな自分を初めて、認められた気がした。
そしてその気持ちのままに、俺は続けて叫んだ。
「変わってやる! 俺は――変わるぞっ!!」
今からでも遅くないなら――俺は変わりたい。ダメなところを一つずつ、直したい。
見上げた満月に、そう誓った。
傍らで彼女がわずかに目を見開いた。「変わる」。彼女が小さくつぶやいた気がしたけど、俺の気のせいかもしれない。
「……ありがとう。ちょっと、楽になったかも」
「んふふ。どういたしまして。いい場所でしょ?」
「うん。……その、いつも来るの?」
「満月の時は、ね」
「あ、邪魔だった?」
「ううん。だってこんな広いんだよ? 邪魔も何もないっしょ」
その後しばらく、俺も彼女も口を開かなくて、静寂があたりを包んだ。川辺に茂ったイネ科の草が、垂れた穂を風で互いに擦れさせて、サラサラと音を立てる。
不思議と沈黙は苦ではなかった。でも、出会ったばかりの不思議な彼女と、この広い河川敷でほんの三〇センチにも満たない距離で、同じ時を共有するのは、なんだか奇妙だった。
「なにかあったの?」
やがて、彼女が尋ねてきた。俺は少し目を伏せた。普段のように、誤魔化す方法はいくらでも思い浮かんだ。でも、結局正直に話した。自分を変える一歩目にしたかった。
自分の情けなさを隠すことなく、つまびらかに、全部、全部、彼女に話した。
彼女はずっと黙って聞いていた。相槌すら打たないから、聞いているのかいないのか分からなかったけれど、なぜか気にならなかった。
「ふーん。二三歳、童貞で、彼女もいない。それで……やけになって怒らせちゃったんだ?」
話し終わって少しすると、念押しするように彼女が言った。
あまりにも情けなくて、「うん」とうなずいた俺の声は枯れていた。
「――バカだね。ホント、バカ。くふふふふ!」
吹き出すように笑いだした彼女は、そのまま止まらず、笑い声を漏らし続けた。
「あー、面白いなぁ……涙出てきちゃった」
「そう、だよね。でも……少しずつ、変えてみようと思う」
「いいじゃん。死にそうな顔してたから声かけたけど、今は良い顔してるよ、君」
「よし」と彼女は立ち上がった。ベージュのテーパードパンツについた埃を払うと、俺を見下ろした。
「青いカレーはまずく見える。でも、本当はおいしいの」
「……え?」
「私はね、普通の見た目でまずいカレーの方が嫌いかな」
怪訝な顔をする俺を他所に、彼女は「じゃあね」とヒラヒラと手を振って去っていった。
呆けたようにその背を見つめる。やがて彼女は河川敷上の遊歩道を、橋に向かって消えていった。
一体、なんだったんだろう。狐にでも化かされた気分だ。
でも、気持ちは少しすっきりした。俺は、俺を受け入れるしかない。認めるしか、ない。
「……名前、聞いとけばよかったな」
そう呟いた俺の声は、ひときわ強く吹いた風にかき消された。思わず身震いするような、秋の風。よく考えれば、もう二四時をとうに回っているのだ。
家に帰ろうと立ち上がって、俺は眉をひそめた。彼女が寝転がっていたそばの芝生に、何かが落ちている。
「……本?」
拾ってみると文庫本だった。荒川シソウ著、『赤いヒマワリ』。作者はなんとなく知っている。一〇年位前に話題になったミステリー作家だったような……。
何気なく裏返してみて、俺は「あっ」と声を上げた。
俺の通っている大学のシールが張られていた。しかも同じ文学部の図書館所蔵だ。
「……また、会えるかな」
呟く俺をあざ笑うかのように、再び冷たい秋の風が吹きつけてきた。
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