エピローグ
なにか、忘れている気がする。
退院後してからも、なんで自分があんな所にいたのか、未だに思い出すことができていない。それどころか、ここ一ヶ月の記憶が殆どない。
幸いにも、勉強した記憶は残っていた。日常の、どうでもいい記憶なんかあってもなくても、なんのことはない。日常に回帰してしまえば、またサイクルが続いていく。
アラームで目を覚ます。朝食をとる。着替える。準備をする。学校に行く。
学校では聖と話す。放課後はゲームで時間を浪費する。
それだけの日々だ。
それだけの、ある日のこと。
「なあ、アキノはどう思う?」
「どうって……何がだよ」
「見て分かるだろ! 文化祭だよ!」
秋もすっかり老け込んで、文化祭の時期が近づいている。
文化祭実行委員、なんて派手なものを請け負った聖が、後ろの席で喚いている。
「いやほらね、当日みんなどの時間に仕事するのがいいとか、やだとか、注文が多いのよ。会計とかも考えなきゃ行けないし、見ての通り大変なわけ。かわいそうだと思わない?」
「充実してるなって思う」
「そんな突き放したこと言わないでくれよぉ……手伝ってくれよぉ、暇だろぉ……」
「まあ、暇だけどさ」
俺一人が入って、なんとかなるものだろうか。
「なあ、イサナはどう思う?」
自然に、隣の席の水瀬イサナへと尋ねてしまった。
「……くじ引きでいいでしょ。これで全部平等に解決よ」
「平等がいいってわけじゃないだろ」
憎まれ口が返ってくる。俺は、なぜだかにやりとしてしまう。
「……お前ら、いつの間に仲良くなったんだよ」
「別に、仲良くなんてないわ」
不思議そうに、聖は聞いてくる。
イサナの言う通りだ。いま、初めて話したばかりだ。水瀬イサナが、一体どんな人物なのか、俺はまだ何も知らない。
それでも、うまくやっていけそうな気がする。悪いやつじゃないと、あくまで直感が囁く。
「これから、友達になりたいところだよ」
水瀬イサナは、表情を一つも変えずに、顔をふいと背けた。
そして、一言。
「別に、友達くらい、なってあげてもいいわよ」
帰り際のバス停で、ポケットにあるものを、確かめるように取り出す。
単なる、赤いお守りだ。表面には何の文字も書かれていないから、どこで手に入るのかもわからない。俺は覚えてはいないけれど、砂浜に漂流していたとき、手に持っていたものらしい。
俺が元々持っていたのか、あるいは海で流されたとき、藁でも掴もうとして握ったのがこれだったのか。
わからない。ただ、わからないなりにご利益がありそうで、肌身離さず持っている。
お守りは、結ばれている紐が緩んでいたせいで、一度だけ中身を見てしまった。中には小さな石がひとつ、入っていた。ただそれだけのものを、どうしてか肌身離さず持っていた。
一瞬、柔らかな風が髪を撫でた。
海からは距離がある。遠くから来た、強い風というわけでもない。なのに、なぜだか潮の香りがした。
小柄な少女が、ひとり、俺の隣に立っていた。
「せんぱい、お待たせいたしました」
俺の後輩で、幼馴染の物部ともりだ。
そいつは当然のように、俺の隣にやってくる。
どうしてか、久しぶりに会うような郷愁があった。
どうしてか、ついこの前まで会っていたような安心感があった。
浮つくような気持ちのまま、俺は笑って返す。
「別に、待ってねえよ」
「私は、待っていましたよ」
どういう意味か、なんて聞く前に、ともりは俺の手を見る。
「せんぱい、それ」
「……見ての通り、お守りだよ。まあ、ちょっと壊れてるみたいだから、御利益があるのかもわからないけどな」
「少し貸してくださいな」
了承を取るまでもなく、ともりに取られてしまう。解けていたヒモは、ともりの白く細い指によって綺麗に結び直されていく。
それから。
ともりは両手でそのお守りを握る。目を細める姿は、どこか切実ななにかを感じる。
「はい、どうぞ。直して差し上げました」
「……なんか余計な工程が含まれてた気がするんだけど」
「私のおまじないを、たっぷりと込めさせていただきました」
「どんな呪いが込められてるんだろうな」
「呪いだなんて、ひどいせんぱいですね。ちょっとしたものですよ」
ともりは、変わらない笑顔で答える。
「ただ、忘れないで欲しいって、思っただけですよ」
何かを、忘れている気がする。なくしてはいけない、大切なことを。もう二度と忘れてはいけないことを。
いつかは思い出さないといけないのかも知れない。向き合わなければいけないかもしれない。
けれども。
いまはまだ、このままでいい。
水死体とドーナツ 大宮コウ @hane007
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