第30話

 目を覚ますと、見覚えのない部屋にいた。消毒液の香りがする。周囲はカーテンで仕切られている。

 横には聖がいた。

「……え? 何?」

 自分がどこにいるのかというより、なんで起きて直ぐ側に聖がいるのか。そうした理由で、声が出た。思ったよりも掠れ声。まるで、しばらく声を出していなかったみたいなそれだ。

「……いや、夢か」

「いや夢じゃない! 夢じゃないから! 起きた! マジ!?」

「うるせえ……本物の聖か?」

「嘘の俺なんていねえよ~」

 二度寝しようかと思っていたけれど、うるさく喚くものだから、意識が無理矢理に起こされる。

「……どういう状況?」

「どういうって……お前な、一週間くらい昏睡状態だったの」


 聖が語るに、俺は海辺で倒れているところを見つけられて、意識が戻らないまま入院していたらしい。

「そんで情に厚い俺が、わざわざ見舞いに来てたってわけ」

「お前、暇なのか」

「暇じゃねえよ、忙しい中、わざわざ時間を見繕ってきてやってるんだよ。在りがたく思えよ」

「まあ、……最初に来たのがお前でよかった」

「……で、なんで海に流れてたんだよ。水泳か?」

「記憶にない……いや、マジで」

「……水瀬のことも?」

「……水瀬って、水瀬?」

 なんでその名前が、と疑問に思う。

「マジでわかってなさそうだな……水瀬も海に落ちたみたいなんだよ。まあ、覚えてないならいいんだわ。ま、とりあえず、寝とけよ」

「眠ろうとしたのを止めたんだろ……あと、水瀬ってどっちの水瀬だ?」

「いや水瀬は水瀬だよ。他にいないだろ?」

「……いや、それもそうだよな」

 どうにも、頭が働かない。

 聖の言うとおりだ。水瀬は一人しかいない。

 もう一人いたような気がするけれど、それが一体誰なのか覚えてない。


 姉さんが来るや否や、抱きついてきた。

「あー……迷惑かけてごめん」

「も~! なにしてるの! この!」

「痛い痛い」

 こちらが入院患者というのも構わず、姉さんは頭を力任せに掴んでくる。少しだけ見えた姉さんの表情は、怒りもしていない。安堵の笑顔だった。いっそ叱ってくれていればいいのに、直視しずらい。

「……姉さん、仕事は大丈夫なの?」

「いいの! 弟の一大事なんだから! いままで休めなかったぶん全然休んでるのよ!」

「季節外れの夏休みだね」

 照れ隠しの会話に、付き合ってくれる。いつものような、どうでもいいような会話だ。なのに何故だか、帰ってきたのだという気持ちが湧いてきた。

「私はね、一人でいられるほど強くはないわ」

 姉さんは、突然真剣な声音で語り出す。

「もし戻ってくるのが遅かったら、悪い男にでもひっかかってたかも」

「それはちょっと嫌かな……」

「でしょ? 私だって嫌よ。だから、アンタが無事でよかった」

 少しふざけて言っていたけど、たぶん、姉さんの本心からの言葉だと思う。

 俺も、言わなければいけないものがある。

「姉さん」

「うん?」

「心配かけて、ごめん」

「別に、いいのよ」

「……それと」

 抱きしめる腕を掴んで、遠ざける。不思議そうな姉さんと、顔を合わせる。

「あの、正直やりたいことなんて、見つからないけど……大学とか、これからどうするか……もう少し考えてみようと思う」

 自分でも、意外な心境の変化だった。

 最善かは分からない。でも、そうすることが、今は正しい気がした。気持ちを忘れないうちに、姉さんに打ち明ける。

 姉さんは、徐々に笑顔になって、再び抱きついてくる。

「大っきくなって~! 若人よ! 頑張れ頑張れ!」

 恥ずかしいけど、しばらくされるがままでいた。


 それからのこと。

 退院からは、一週間もかからなかった。

 退院する前に、一度だけ水瀬イサナを病院内で見かけた。

 何か、話しかけようという気持ちが湧いた。でも、話しかけなかった。

 だって、俺と水瀬イサナはだ。同じクラスにいるだけの、全く知らない誰か。そんな相手に、話しかける理由も縁もない。

 俺は遠ざかっていく彼女の背をただ、見送った。

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