夏生なつきは意地になりはてた気持ちを抱えて進む。枯れた色から、みずみずしい薄紅色に変わる獣道に迷わなくなったのは遠い昔だ。難なくのぼり、小さな平地に出た。

 空と地を塗りつぶす薄紅色の花。赤褐色の葉は陽に透けると鮮やかな紅となり、ぼんぼりのような花を彩る。

 あざやかながら控えめに広がる姿を見上げた夏生は、舞い落ちる花びらを追うように幹に目を落とした。

 風化した痕は自分の胸元あたりからちょうど頭の上まである。縦に並んだものは背がのびるたびに夏生がつけた。

 一番上の二つだけが横に並ぶ。木肌と馴染んだ薄い痕とペン先で刻んだ細い痕。

 失笑を噛みしめて、指でなぞったのは一番下のものだった。幼く無謀な願いを込めた痕が一番深い。

 来てたの、と届いた声に、夏生の手は震えた。

 振り返った先、同じ高さの視線がぶつかる。


「久しぶりね、ナツ」

「ああ」


 あたたかな陽に照らされおだやかに揺れる花はつかず離れず、たまにかすめあっては風に身を任せている。

 並んだ春緒はるおは桜をあおいだ。遠くを見るように目を細めながら訊ねる。


「ずっと内地勤務?」

「来週、外地に行く」


 そう、と吐息のようにこぼして春緒はふわりと笑う。


「間に合ったのね、桜は」

「――そうだな」

「うちの人も来週に行くと言っていたから、ご一緒するかも」


 菫岡すみれおか曹長もかという嘆息に、困ったさんねと笑われる。

 揶揄されたのは自分か、彼か、夏生は判断できなかった。脳裏に睨みあげる瞳が割り込み、振り落とすように、並ぶ春緒を見た。何もしていないというのに、楽しげなやわらかな空気は昔から変わっていない。


「どうだ、生活は」


 訊ねたのは夏生の口だ。こぼれた後に、言葉の意味に気付く。不思議と目はそらしたくなかった。

 狐につままれたような顔をした春緒は、首を傾げ一寸だけ考える間をとってから瞼で瞳をおおう。

 たったひとつの呼吸で空気が変わる。

 風が渦巻き、舞い上がる花びらと葉が視界全てを染めた。薄紅色と紅の狭間でおだやかな横顔が見え隠れする。

 息を忘れるほどの光景に目が離せなかった。芽吹くように開けられた目は、別世界を映す鏡のようだ。


「開花したのか」

「たまたま、ね」


 横目で夏生を確かめた春緒は息を吐くように笑った。

 花びらとたわむれる風が、春緒の後れ毛をさらう。

 花を冠する名を持ち、花族かぞくと尊ばれる人々がいる。神が与えたと謳われる異能は人の力を凌駕する存在だ。稀有な力は帝のため、国のために使役され、軍人になる者も多い。

 春緒が生を受けた菫岡家も、国のために血を流してきた一族だ。

 婿を取ると耳に入れた夏生は、手が届かない存在だと思い知らされた。

 美しくも淡い異能に無骨な手がのび、触れる前にするりと逃げられる。


「出すぎた真似、しちゃったみたい」


 問いの答えはそれだった。

 確かに、桜の背を超えるまでに吹き上がる風は巨大だ。

 踏み潰された花びらのようにくしゃりとした顔から夏生は目をそらさない。男だったらと、女のなのにと言われたのではないか。確信に似た疑問を抱くが、そうかで押し止めた。下手な同情は侮辱になる。

 そうよと鼻をすすった春緒はいつかと同じか、それ以上に巧妙な笑顔で心を隠した。

 春緒の指が、瞬き一つしない夏生の目前で止まる。


「また伸びたんじゃない?」

「――それはないだろ」


 幹に背をあてた夏生の頭に触れるか触れないかの位置に白い手が添えられる。体を引き抜けば、横に並んだ痕に小指をあたっていた。

 春緒が口をとがらせる。


「変わらないのか。軍楽隊も忙しい?」

「暇なら問題だろう」


 戦争中だものね、と肩をすくめた春緒は、何も知らない顔をして夏生に笑いかける。


「久しぶりにナツの音、聴きたいな」


 あどけない顔に夏生は遠い昔の記憶を思い出してしまった。彼女の背を抜いたら、添いとげたいと願ったことを。音楽一本で生きることを諦め、下心から目をそらして入隊したことを。

 開きかけた口を閉じ、彼女の声をまねて口にする。


「帰ってきたらな」

「帰ってくるの」


 さぁとかわせば、いじわるねと苦笑された。

 花びらと葉が舞い落ち、春緒が姿勢を正す。


「ご武運を祈り申し上げます」


 軍人の妻らしい礼に、夏生は敬礼で応えた。

 淡くやわらかく笑んだ友は立ち去る。

 姿が見えなくなるまで見送った夏生は山桜に向き直った。一番上の古痕よりも指二本だけ高い位置に見分けのつかない痕をつける。

 ペン先についた木屑は風に飛ばされていった。


❊。* 𖡼܀❊*


 覚えていないはずの乾いた土の香りが懐かしく感じた。草が影を作る獣道を進み、平地に出る。

 二年ぶりに見上げた桜は薄紅でもなく、赤褐色でもなく緑の葉に身を包んでいた。

 周りと見分けのつかない姿に夏生は戸惑う。何度も通ったにもかかわらず、春の姿しか知らなかったからだ。幹に覚えのある痕を見つけて、詰めていた息を吐いた。

 照りつける日差しを葉の隙間から仰いでいる時だ。


「何の連絡もないと思ったら」

「そうか」


 震えた声は風のせいにした。

 振り返った先には同じ高さの目線がある。

 そうよ、とこぼした瞳は濡れていた。


「おかえりなさい、ナツ」

「ああ」


 風がムクドリの鳴き声を運んでくる。

 音を聴きたいと言ったことを覚えているだろうか。胸に抱いていた心残りに耳を傾け、目線を上げる。

 山には新たな色が芽吹き始めていた。



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春にさよなら かこ @kac0

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