春にさよなら

かこ

 さわさわと戯れる風が甘い香りを運んでくる。香りを頼りに山に入ったはいいが、夏生なつき春緒はるおはなかなかたどり着けないでいた。風でひとっとびできれば、どれだけ楽だろうか。泥が分厚くついた草履がわずらわしい。

 一息つこうと、低い木に背をあずけた夏生は友に声をかける。


「春緒、休もう」

「わたしのこと、ハルって呼ばない?」


 持ちかけた声はやけにのびやかだ。

 夏生は戸惑いを隠せなかった。男女で距離を置くような年頃だというのに、より親しげな名で呼べという。盗み見た春緒の横顔につられて空をあおぐ。

 若葉が芽吹く中で、二人に影を落とす葉は赤褐色だ。

 答えあぐねる友をのどかな声がなだめすかす。


「無理だったらいいの」

「なんで、わざわざ」

「学校で背が一番高いから男だろ、て。春のおは男だ、て言ってくるの」


 ずっと悩んでいたのだろう。とがった感情を全く感じさせず、呼吸の間に、目元の影に、口端の歪みに、諦めを隠していた。

 見た目だけで男だとからかって、恥ずかしくないのだろうか。

 夏生は憤りまじりの疑問を抱いたが、殴り飛ばしたい衝動を後回しにした。春緒の正面にまわり、大人と同じ背丈を見上げる。


「背ぐらいすぐに追いつく」


 見下ろした春緒はやんわりとした笑顔を浮かべ、しおしおと膝を抱えた。気に入りの着物だと言っていた白い菫に影ができる。


「わたしが追い越しちゃうかも」

「追い越す」

「うそつき」

「ハル。俺が嘘をつかないこと、知ってるだろ」


 願いを叶えてもらった春緒は黙り込んだ。一瞬崩れた顔は膝にうずめられ、菫にしわがよる。

 ハル、と芯の通った声が呼ぶ。


「期待したくないのに、期待しちゃうじゃない」

「そうか」


 そうよ、とくぐもった声が返された。


❊。* 𖡼܀❊*


 舞い落ちる淡い花びらが目に入り、もう散り時かと驚いた。慎ましやかに咲いたと思えば儚く散る。時の流れに任せる潔い姿に胸を絞めつけられるのは毎年のことだ。

 夏生は桜から背けた目を楽譜に戻し、整理を続ける。


「外地行きが決まったらしいな」


 同室の声が聞こえても手は止めず口だけを動かす。


「耳が早いな」

「遅かれ早かれ、みな行くことになるだろ」


 顔を上げた夏生は扉に体をあずける男を見返した。

 開いた襟元やまくった袖からはたくましい筋や厚みのある筋肉がのぞく。猫背なことを差し引いても、恵まれた体格に鉄色の軍服をまとえば、見目も背も抜きん出ていた。

 本人は気に入らない様子だが、夏生は羨ましくて仕方がない。

 鬱陶しげな髪の隙間から冷めた双眸が夏生を見下ろす。

 春にしては冷たい風が花びらを運び、楽譜に寄り添うように落ちた。小さな影から視線を上げた夏生は億劫な口を開く。


「別れを惜しみに来たわけでもないだろう」


 見慣れない色を持つ瞳がわずかに細められた。しばしの沈黙の後、低い声が落ちる。


菫岡すみれおか曹長が探してたぞ」

「なんでまた」


 特に聞きたくない名に青筋が浮きでた。

 嫌がらせだろう、と皮肉る男を夏生は睨む。


「わかってて知らせるお前も相当だろう」

「相変わらず、何人か殺ってきたみたいだな」


 極悪人面とからかわれ馴れている夏生は面倒くさそうに腕を組む。


「殺るのはこれからだ」

「曹長を殺っても得なことはないぞ」


 軽口に夏生がじとりとした目を向ければ、男は肩をすくめて口を開く。


「曹長を巻いてやろうか」

「……曹長の所に行く」

「物好きだな」

「逃げてもいいことないからな」


 楽譜をはいのうに詰め込んだ夏生に呆れた声がかけられる。


「行くんじゃなかったのか」

「すぐに行くとは言ってない」


 すりぬけざまに夏生は男の肩に拳をあてた。

 だらしない構えだというのに微動だにしない。

 夏生は気に食わない位置にある目を一瞥することもなく通り過ぎた。

 桜はささめくように散っている。


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