8章 song from past

 1


 先ほどの騒ぎから一転して、森の中は川のせせらぎや鳥の歌う声で穏やかな時間が流れていた。日は既に高くなり、木漏れ日まで降り注いでいる。

 そんな中で、カプリラたちは言葉もなく草木覆い茂る地面の上に座り込んで俯いていた。

 皆、表情は深刻そうだ。会話を交わす気力もなく途方に暮れている。騎士団から逃げ延びれたものの、これからの行動の指針も足がかりも何もかも失った。どうしたらいいかわからない。自分達は指名手配されたままで、あの騒動の後ではなおさら取り締まりは厳しくなるだろう。

(……メグル。酷い目に遭わされていませんように……)

 そしてメグルまでも、カプリラたちは失ったのだ。彼女は自らの身を犠牲にしてカプリラたちを逃した。騎士団に捕まって、きっと連行されてしまっただろう。

 もしかしたら全ては夢で、今にひょっこりと現れた彼女が肩に手を置いてくれるかも、などと甘い幻想を抱いて周りを見渡すもそんな気配は微塵もない。

「……みんな。気が重いだろうが、これからどうするか決めよう。いつまでもこうしているわけにもいかない」

 コーヴェが口火を切る。しかし彼女の浮かない顔からも、どうしたらいいか見当がついていないようだ。それはそうだろう。もう自分達には足がかりも何もない。この崖っぷちの状況を打破できる術は、もうないような気もする。

 でも、やることは決まっていた。カプリラは立ち上がる。

「……メグルを助けに行く。ハイバルト王国に乗り込もう」

「……そうね。私もそうしたいけど……。あそこは騎士団の本拠地だし、おそらく向こうもこっちが助けに来るとわかって厳戒態勢で待ち受けているはずよ。何の対策もなく乗り込むのは、自分から捕まりに行くのと同じになっちゃうわ」

 エナも居ても立っても居られない様子だったが、躊躇した様子だ。元騎士団の彼女だから、ハイバルト国が今の自分たちにとってどれだけ危険かよくわかっているのだろう。

「それに、メグルがどこに連れて行かれたのかもわからん。そもそも城まで辿り着けるかどうかすらな」

「私の翼がある。飛んで行けばいい」

「撃ち落とされちゃうわ。向こうには大砲がある。しかも雷の魔石を改良して搭載してるから、追尾機能まで付いているはずよ。あの国は魔石加工の技術が発展してるから。術式を組み込む魔術師の研究所まであるくらいなの」

「……なら、私一人で行く。二人はどこかで隠れてて。何とかメグルを助け出してくるから」

 歩き出そうとしたカプリラの肩を、コーヴェとエナが慌てて掴んで止めた。

「カプリラ! 落ち着け。お前一人じゃ絶対に無理だ。お前が強いのは知っているがそれは向こうだって同じだ。大勢に囲まれたらタダじゃ済まない」

「でも……!それでも行くしかないんだよ! メグルを助けるには!」

 叫んでしまう。コーヴェとエナに八つ当たりしたってどうにもならない。彼女たちは悪くないのに。でも騒ぐ胸の内を抑えておくことが出来ない。

「……カプリラ」

エナが俯きつつ口を開く。が、その先は言いにくそうだった。そのどこか後ろめたそうな眼差しはコーヴェも同じだ。それで察してしまった。

「まさか……メグルを諦めろって、言わないよね……?」

 震える声。エナたちは何も言わなかったが肯定したも同然だ。

 背筋がすっと冷たくなる。絶望だ。カプリラだってわかっていた。今の自分たちに、メグルに対して出来ることはないと。

(……だめだ。考えろ考えろ考えろ考えろ、考えろ! メグルだったら、もし私が捕まったとしても絶対諦めない。何かあるはず、何か……)

 必死に頭を巡らせる。万に一つでも、億に一つでもいい。彼女を助け出せる手掛かり。絶対にあるはずだ。

「……歌だ」

 一人呟く。思い当たった。唯一の可能性。自分の記憶だ。

 カプリラは顔を上げると、空に向かって歌い出した。

「カプリラ? どうしたんだ?」

「しっ。何か思いついたのかも。カプリラの歌には、不思議な力があるみたいなの」

 不思議そうなコーヴェにエナが言う。カプリラは声を張って歌を続ける。

 記憶の中に唯一残る、懐かしささえ抱いてしまうあの歌。今まで幾度となく口ずさんできたあの歌。メグルと出会うきっかけになり、彼女のおかげで大きな声で、大勢の前で歌うことが出来るようになった。

(……お願い。この歌に応えて……っ)

 あの青い夢の世界で語りかけてくる声は、歌に従えと言っていた。歌がお前を導く、とも。

 霧の中で見た、あの巨大な影。おそらくあれは声の主だ。曰く、今のカプリラの姿は仮初で、本当の姿はあの影と同じものらしい。

 あの姿をもし、取り戻せたら。ハイバルト国の警戒網を突破できるかもしれない。影を目にしただけだが、あの存在感には威厳と力強さをひしひしと感じた。翼のようなものを広げた時、何もかも吹き飛ばすような風圧もあった。あれなら、もしかしたら。メグルを助けるためだったら、自分はどんな姿になったとしても構わなかった。

(ん……?)

 歌い上げる最中。微かにツノの先が疼くような感覚があった。何かの気配を捉えたのだ。少しずつ感覚は鋭くなり、ツノ全体が薄く痺れるような感じになってきた。

「あれ? カプリラの歌声、何かこもってきてない……?」

「いや、エナ。違う。別のところから同じ歌が聴こえてきてるんだ」

 コーヴェが気づいた。カプリラの歌に添うようにして誰かが一緒に同じ歌を歌っているのだ。まったくのズレもなく、一言一句同じパートを声で奏でていた。ひりひりとカプリラの肌が逆毛立つ。

「誰なの? どこから聴こえてるのこの歌……?」

 カプリラが歌うのをやめても、歌は続いていた。一つじゃない。いくつもの音が協奏して辺りに響いているのだ。

 カプリラは耳に神経を集中させる。空から降り注ぐような多重の歌声。それが聴こえてくる方角が、何となくだが捉えられてきた。

「……行こう。もしかしたら、メグルを助ける手掛かりになるかも」

 カプリラは先陣を切って歩き始める。エナとコーヴェは腑に落ちていなさそうだったが、訳も聞かずに付いてきてくれた。

(待っててメグル。絶対、助けてみせるから……)

 今まで探していた自分の過去。それがメグルを助ける力になると、カプリラは自分でもわからない確信を抱いていた。


  2


 城というのはこんな風なものか、とメグルはどこか落胆めいた冷めた気持ちで周りを見渡している。

 広い廊下。何人だろうが並んで歩いてもすれ違うことができそうだ。装飾品は少なく、大きく切り開かれた窓が壁に並び、薄く日差しが入ってきている。ただっ広いだけで、豪華絢爛さや目を見張るような雰囲気はまるでない。物々しいだけだ。外観を拝んだ時はその大きさに息を呑んだものだが、中はこんなに簡素なのか。ロックじゃない、とため息をつく。

「おいキョロキョロするな、罪人」

 横を歩く騎士団の一人に脇を小突かれた。メグルは四方八方を団員たちに囲まれながら連行されていた。手には、重々しい鎖の手枷がはめられている。

「誰が罪人だ。あたしゃ何もやってねぇよ、阿呆どもが」

「貴様! 何だその口の利き方は!」

 今度は頭を小手のついた手で殴られる。「頭やめろ! これ以上馬鹿になったらどうすんだ!」と言ったらまたやられた。話のわからない奴ばかりだ。エナは騎士団なんかやめて正解だったな。

(こいつら、どこに連れていく気だ……?)

 城内に連れて来られたが、どこに行くかは一切告げられずに歩かされている。これもこちらにストレスを掛ける一種の心理作戦なのだろうか。向かう先は城内にありそうな牢獄か、それとも別の場所か。強がっていたが、メグルの口の中はからからに乾いていた。

「止まれ。今から王に会う。失礼のないよう振る舞え、罪人」

 ふと立ち止まらされた。見上げるほど大きな扉の前。この扉だけ頑丈そうで、それなりに美しい装飾が施されていた。王に会う。ぴんときた。ここは謁見室なのだ。まさか王直々にお会いしてくれるとは。乗り込む手間が省けた、とメグルは震える拳を握りしめて誤魔化した。

 扉が重々しく開かれた。やはり謁見室だ。廊下の何倍以上も広く、長い空間が続いている。

 長方形のような部屋の左右に、甲冑を着込んだ兵士たちが並んでいる。その先、小さな壇上に上がる階段があり、背もたれの大きな玉座があった。

 そこに頬杖をついて退屈そうに君臨しているのは、やはりハイバルト国王なのだろう。思ったより若い。下手したら自分より年下かもしれない。だが見かけにそぐわない乾いた冷たい視線が、底の知れなさを感じさせた。不気味な男だ。

 メグルは王の前に連れて行かれ、手枷もそのままに跪かされた。

「アロガン国王、指名手配中の罪人を一人お連れしました」

 メグルを取り囲む団員の一人──シャンディーでライブをしている時に乱入してきたリーダー格が王に告げる。王はアロガンという名前らしい。

「一人? 少ないな。全員生捕りにして連れてこいと伝えたはずだがな」

 静かだが、広い部屋に反響してやけに威圧感のある声でアロガンが告げる。その場にいる騎士団たちの顔色が変わった。慌てて膝をつく。

「も、申し訳ありません。取り逃がしました。急ぎ、残りの三人を確保します!」

「……メルギン団長。覚えておきたまえ。三度目は、ない。さっさと行け」

「はっ……!」

 メルギンと呼ばれたリーダー格はまた礼をすると、素早くその場を後にする。逃げる隙を窺っていたが、周りの団員たちは動かないままだったので無理そうだ。

「さて、ようやく会えたな。この世界の民を洗脳しようと目論む邪悪思想集団、バンド。主犯格はお前だな。何だ、こうして前にするとただのちっぽけな女じゃないか」

「洗脳も邪悪思想もばら撒いてねぇよ。あんたもこうして対面するとただの若造だね、王様」

「おい貴様! 無礼な口は慎め!」

 脇にいた団員に頭を掴まれて床に叩きつけられる。側頭部をしたたか打ち付けて舌打ちが出そうになった。頭はやめろとさっき言ったばかりだというのに。

「おい。こいつは今、俺と話している。いちいちそうやって茶々を入れるつもりか?」

「し、しかし、こいつの口の利き方が……!」

「所詮弱者の戯言、まったく関心もない。むしろお前の口答えの方が耳障りだ。こいつの前座に、お前の首を刎ねようか?」

 団員が慌てて口を噤んで、メグルを再び跪かせた。やはりこいつの言葉には上からのしかかる巨大な手のような力がある。

 でも、メグルの覚悟は言葉を交わした瞬間に決まった。手の震えはもう止まった。この圧には、絶対屈しない。

「……お前の目的は何だ? 何だって奇怪な音楽を世界中に広めて回っている? ロック、とか言ったか。何故そんなものが、人々を惹きつけるんだ」

「へぇ、ロックを知っていただけてるとは光栄だね。王様は弱者に興味ないと思ってたよ。でも理由なんて、あんたらが考えてるよりずっと単純だよ」

 すっとメグルは息を吸う。そして宣言するように、はっきりとした声で叫んだ。

「あたしは、あたしらは! 自分達のロックをこの世界中に届けたい! あたしらのロックで世界中の人を楽しませたいんだ! それだけ! 以上! 説明終わり!」

 手枷をつけられてひざまずかされたまま、胸を張ってメグルは言い切る。その場にいる全員が呆気に取られた沈黙が広がる。アロガンでさえだ。メグルだけが満足げに深く息を吐いていた。

「……何だ、イカれているのかお前は。それにそんな愚かな理由を信じると思うか? 欺くにしてももう少し上等な嘘をつくべきだな」

「うっせー、バァカ。あとはそっちの受け取り方次第だわ。あたしは嘘偽り混じりっ気一切なし。真実しか語ってねーっつの。いつだってね」

 強いて言えばさ、とメグルはじっとアロガンを睨んだまま続ける。

「あんたがあたしらの音楽を楽しませることを邪魔してるんだけど。この世界にさ、どれだけ住む場所を追われた人がいると思う? 結界の魔石が高額で取引されているせいで手に入らないからだよ。あんた、仮にもこの世界一番の王様なんでしょ。支援とか、何か出来ることあるんじゃないの? ほったらかしにしてるよね?」

 住む場所を追われた難民たちを受け入れてくれるところは確かにある。が、それはハイバルト国は一切関わっておらず、この国は、この王は支援金さえ出してないという。完全に見て見ぬ振りだ。しかも国内で難民の受け入れもしていない。自らを蚊帳の外に置いている。

「結界の魔石が希少で、高額にせざる得ない状況はわかるよ? でも、それならそうでもう少し立ち回り方っていうのが……」

「結界の魔石が希少などと、誰が言った?」

 アロガンの一言で、メグルは凍りつく。周りの人間たちは黙ったままだ。全員知っていた。知らないのはここから外の、世界中の民だけ。

「結界の魔石なら、この城の下で山のように眠っている。だが俺はそれを民たちに無償で分け与えるつもりは一切ない。何故かわかるか?」

「お前……! ふざけんなこのダボ……ッ! そんな理由なんか知るか! 今すぐそれ世界中に配れよ!」

「断る。何も俺はそれを独占しているわけじゃない。取引しているだろう、高価で。それすらも払えない弱い者たちに、この世界は用がないということだ」

「そんなのお前の勝手な判断だろ! みんな必死に生きようとしてるのに……!」

「俺の判断じゃない。世界の真理だ。弱い者は淘汰され、強いものだけが生きる。それが世界のあるべき姿だろう」

「違う! 誰にだってこの世界で生きる権利がある! 生きるのを楽しむ権利がある! それを奪う権利は、王のお前にもない!」

「ある。この国の王の俺には、世界を統治する権利も資格もある。それが強者というものだ。一通り吠えて、満足したか? 俺もお前のことを知れてよかったよ。とんだ間抜けだったな」

 アロガンがすっと手を上げる。すると、メグルの脇にいた団員が再びメグルの体を掴んで地面に押し付けた。右手を、真横に伸ばすように引き出されて掴まれ固定される。

「さて、本題だ。お前の行動原理がどうであれ、お前にはこの世界の均衡を崩す危険性がある。お前らの音楽は、人を操る。洗脳する。弱い奴らを団結させて、強い者たちを脅かしかねない。非常に厄介だ」

「……人を操ってるつもりはないけどね。まあこの国でも人気者だったよ。おかげさまで」

 鉄で造形された護送用の馬車でここまで運ばれている時、薄く開いた空気用の隙間から街の様子を覗けた。メグルが運ばれることは、晒し目的か触れ回られていたらしい。大勢の人たちが外で馬車に注目していた。凱旋パレードのような人だかりだった。

 石を投げられることもあった。罵声も浴びた。国家転覆を目論む邪悪集団。その誤ったイメージがこの国でも横行しているのだろう。

 だがその中にも、メグルを讃える声があったのだ。不当な拘束だ、彼女は犯罪者じゃないと叫ぶデモまで巻き起こって、外では騒ぎが巻き起こっていた。もしかしたら難民を救ったり、他の大陸でのバンド活動がここにも届いていたのかも知れない。その声が、折れかけていたメグルの心を立て直してくれた。だからこうして、まだ屈せずにいられる。

「そこで命令だ。お前らの音楽を、この国のために使え。お前たちの力は逆に言えば、弱者を封じ込めて反逆を防ぎ、強者たちを団結させることができるということだ。存分にこの世界のために音を奏でられるぞ。聞くところによるとお前の音の力は、聴いた者の力を強める効果もあるそうだな。充分すぎるほど利用価値がある。五体満足で生かしといてやるぞ」

 アロガンは平然とそう言い放ってくる。どこからも上から目線。これが世界に生きるべき強者というなら、そんなものはクソ喰らえだ。メグルは伏せたまま、抑えられた右手で思いっきり中指を立ててやる。

「嫌だね。あたしらのロックは世界中の人を楽しませるためにある。道具じゃない。あんたに利用されるなんてまっぴらごめんだよ。他を当たりな、若造」

「聞こえなかったか? 提案じゃない、命令だ。逆らった者には、当然罰が与えられる」

 アロガンがすっと人差し指を上げる。するとメグルが見えるところ、団員が棍棒のような鉄の棒を振り上げるのがわかった。メグルの右手に向かって。

 先端に近づくにつれて太くなる鉄の棒は、棘まで付いていて殺傷力が高まっている。あんなのを振り下ろされたらただじゃ済まないだろう。

「特別にもう一度言う。俺のためにその音楽を使え。断るならお前の手を潰す。両手だ」

 冷たく、腹の底まで染みてくるようなアロガンの声。本気でやるということはよくわかっていた。さすがにメグルの額からも汗が滴った。息も荒くなり、身じろぎするもがっちりと抑えられていてぴくりとも動けない。逃げられない。

(……あたしの覚悟は。もう決まっているはずだ)

 改めて思う。ここに連れて来られる前から。カプリラに、相棒のギターを託した時から。自分がいなくても、この世界のバンドは、Pepper Candy Dropsはあの三人がいれば不滅だ。きっと良い音を響かせ続けてくれるだろう。

「……こっちも出血大サービスでもう一回言ってやるよ。断るっつってんだろ、この大アホ有頂天クソ全裸大王様が……!」

 メグルの唸るような返答に、アロガンは深くため息をついた。やれやれ、と言った程度の軽い反応だった。

「やれ。まずは右手だ」

 メグルは目を瞑り、歯を食い締めた。ひゅっと風を切り、鉄の棍棒が振り下ろされる音が響いた。


  3


「ここだ……」

 随分と歩いた気がする。カプリラたちが辿り着いたのは、人里をだいぶ離れた山岳地帯だった。やや険しく、寒さも厳しい山道を登ってきた先に、下の樹海を見下ろせる見晴らしのいい平たい場所があったのだ。

 崖になったその場所には、祠のようなものがある。すでに朽ち果てボロボロになったその中に、錆びた像が祀られていた。空を飛ぶドラゴンのように見える。

 ここに来るまで何日か要した。メグルは無事なのか。焦りに急かされて、カプリラたちはほとんど睡眠もとらずに突き進んだのだ。無駄にする時間はない。カプリラの感覚では、間違いないここから歌は聴こえていた。だがこれがもし何の意味もなければ、もうメグルを見捨てたも同然になる。ずっと心臓が不安で喘いでいた。

「あれ、歌が……」

 エナが呟く。祠に向かって足を踏み入れた時、今までずっと聴こえていた歌が不意に消えた。いつの間にか、周りは深い霧に囲まれて見通しが効かなくなっている。青い霧だ。夢で見ていたあの景色と、よく似ている。あの懐かしいという奇妙な感覚も。

「カプリラ、歌ってみろ。大丈夫、間違いなくここだ」

 コーヴェが背中をそっと厚い掌で押してくれた。カプリラは頷いて、崖の先に立つ。そして静かに澄んだ空気の中で、息を思い切り吸って歌い始める。

 心地いい。あの歌を口ずさんでいるだけで、空を漂うような感覚がある。かと思えば、いつの間にかカプリラたちの足元に地面はなかった。そこも青い霧に包まれていて、まるで雲の上に立っているみたいだ。もはやいたはずの山岳地帯も消え去って、青い世界にカプリラたちは来ていた。懐かしいという感覚は、どんどんカプリラのツノを疼かせていく。

 歌が。また聴こえていた。今度は一つじゃない。空から降り注ぐような籠った歌声が四方八方から響いていた。反響しているんじゃない。複数の声が確かにカプリラの歌に応えている。

「カプリラ!」

 不意にエナとコーヴェがカプリラの腕を引き、庇うように前に立った。カプリラは見た。巨大な影が、霧の中に浮かび上がってきたのだ。

 それは空を飛んでいた。上空から大きな翼をはためかせて霧を巻き込んで風を巻き起こす。そしてカプリラたちの前に降り立った。

『よく来たな。自分の真の姿を取り戻す覚悟が出来たということか』

 影が言う。その声は耳が捉えているというより、直接頭に響いているかのような感覚があった。でもその影の声であるということははっきりとわかる。不思議な感覚だった。

「二人とも、大丈夫。この人は敵じゃないよ」

 自分を庇ってくれたエナとコーヴェにそう告げて、カプリラはその影に向かって踏み出す。切り出された崖だったはずだが、ちゃんとその先の空間に足が着いた。やはり青い霧に包まれた時点でどこか違う場所に移動していたみたいだ。これも、歌の効果なのだろうか。

「……覚悟はしてきたよ。教えて。あなたたちは誰なの。私の真の姿って、一体何なの」

『それを知りたいのは、メグルという人間のためか』

「……そう。私には大切な理由。それにやっぱり、自分のことを知りたい。ずっと探してたんだから」

 それ以上の理由なんてあるだろうか。誰だって自分の過去は知りたいし、大切な人を助け出したい。そのためにここまでやってきた。目の前にいる影は、その二つの手がかりを持っているのだ。

『充分だ。久しぶりだな、我らの子よ。ここは我らが住まう時空。竜の里と言ってもいい。お前の故郷だ。いや、だった』

「竜の里? あ……!」

 ずず……と影が近づいてきて、その風圧で周りの霧が晴れていく。そしてその姿が、ようやく目前に現れた。

 巨大なトカゲのような容姿だった。だがその背中から左右に広がる広大な翼と、聡明な顔つきの印象からか、魔物というよりは高尚な存在であるような雰囲気がある。

 またカプリラの胸の内に、懐かしいという安心感が浮かんでくる。この人が、自分にとっての親なのだろうか。そして自分の真の姿というのも、この姿なのだろうか。

「……ドラゴン。実在していたのか」

 コーヴェが驚いたようにその姿を見上げている。カプリラも旅の最中、その名を耳にしたり書物で目にしたりしたことがあった。

「確か神話の神様、よね。世界でも信仰している人たちがいる地域もあるらしいけど……本当にいたなんて」

 エナも呆気にとられている。書物では確かに神話の神様であったり、伝説上の生き物として語られていた。ドラゴンの銅像を教会に携え、信仰している集落にも訪れたことがある。

 それでも、その名を目にするのは極めて稀だ。昔のことはよくわからないが、今ではあまり語られることもないのだろう。伝説や神話として語られているくらいだ。

『実在はしていた。だが我々はもういない。とうの昔に滅びた。それが我ら、竜の一族だ』

「滅びた……? 何を、言っているの……? だって今、私達の目の前に……!」

『ここはお前たちのいる世界より遥か過去の時間の世界。別の時空なのだ。歌の力で、我々はお前たちをここに招くことができた。お前の強まった歌の力でだ』

 カプリラの疑問に、別のドラゴンが霧の中から降り立って答えた。それを合図としたように他のドラゴンたちもカプリラたちの周りにやってくる。やはり一人ではなかった。彼らもまた、人と同じ種族。遥か昔から存在した。だが、ここが過去の時間の世界で彼らはとうに滅びているというのはどういうことなのか。

『我々竜の一族は、時間とあらゆる世界線を司る種族。古来よりあらゆる世界の過去、現在、未来を渡り歩き、観察し時にはその文明を守ってきた』

 竜の一人がそう頭の中で伝えてくる。信仰され、神話になっていたように、竜の一族は本当に守り神として存在していたのかもしれない。時間も、世界も超えて。

 でも、時間にさえ縛られないはずの彼らが滅びてしまったというのはどういうことなのだろう。カプリラの心を読んだように、別の竜がそれに答えた。

『我々の存在も滅びる定めから外れることはできない。どんな世界も、文明も決して永遠に栄え続けることがないように。役目を終え、我々竜の一族は自分達が消滅することを受け入れたのだ』

『今目の前にいる私たちも、過去の幻影にすぎない。──カプリラ、これがお前の竜の一族としての時間を遡る力だ。それがお前の中に戻りつつある』

 正面にいる一番大きな竜が言った。はっとなる。自分の胸元に手を当て、カプリラは聞かずにはいられなかった。

「私もやっぱり、あなたたちの仲間なの⁉︎ でもどうして私は滅びなかったの? どうして私はあの世界で一人きりだったの? わからないよ……っ」

 ずっと孤独だった。自分が周りの人たちと違うことが恐ろしくて、世界と関わることを避け続けていた。自分が何者なのか。探してずっと旅をして、いつまでも見つからないことに焦り、諦観さえ覚えていたのに。

 でも、メグルが。彼女が自分をそんな日陰から連れ出してくれた。今隣にいてくれているエナとコーヴェもそうだ。もう一人じゃない。

 だから知らなくてはいけないのだ。自分達と、それを取り戻してくれた大切な人の未来のために。

 カプリラの決意が伝わったのか。正面の竜はややためらいながらも語り始めてくれた。

『我々が消えゆく運命を受け入れる日。お前はまだ何の認識もない真っ新な赤ん坊だった。生まれたばかりの幼子であるお前を、自分達の運命に引き摺り込むには惜しかったのだ。お前にはもっと色々なものを知る権利があった』

 だから別の世界に、時間にお前を逃した。竜はそう語った。カプリラは自分が痛いほど拳を握りしめているのに気づいた。

『我々の時空との繋がりを断つため、お前は記憶を失い本来の姿も、力も失った。送り込んだ時間と世界に馴染むような仮初の姿を与えられたはずだった。だが我々の象徴であるツノとその左目は残ってしまったようだ。まだ竜の一族の力が、お前の中で眠り続けていたのだろう。そのせいで色々と苦労をかけたな』

 カプリラは自分の左目に手をやる。どんな想いを抱いたらいいのか、わからなくなってきた。自分は、今まで暮らしてきた世界の住民ではなかった。わかっていたが、それが真実だと知ってしまった。寂寥感のような宙吊りの気持ちがもやもやと胸の内を彷徨っている気がした。

 カプリラは背中から翼を出し、広げてみせた。そうしていると、今周りを取り囲む竜たちとよく似通った姿に思える。

「この翼が現れたのは……私が本来の姿を取り戻してきていたからってこと?」

『そうだ。夢という形で、お前が私たち過去の存在と繋がれるようになったのも。竜の一族は、歌という形に力を宿す。お前が歌うことに意味を見出したことで、その響きはより力強さを増し、元来の能力も目覚め始めてきたのだろう。……仲間たちのおかげだな』

 竜に言われて、カプリラは隣にいる二人に目をやる。エナは強く頷き、コーヴェはそっと頭を包み込むように撫でてくれた。

 この二人なら、例えカプリラがどんな姿になっても受け入れてくれるだろう。背中を支えて押してくれるという安心感があった。きっとメグルも。

「……真の力を取り戻せるって言ってたよね。今すぐ。出来る?」

『ああ。お前の力はもう目覚めている。翼がその証拠だ。覚悟も決まったようだな』

「覚悟は出来てる。助けたい人が、いるから」

 小さなカプリラの目を見て。一番大きな竜はその長い首を下ろして、視線を合わせてくれる。カプリラは自然とその額に手を合わせていた。体の表面は鋼のように硬いが、ほんのり暖かい。ほんのり心がほぐれた。

『今まで一人にしてすまなかった。だがお前には生きて欲しかった。それが我々全員の総意だ』

「……うん。ありがとう。おかげで大切なもの、手に入れられたよ」

 周りの竜たちもカプリラの周りに集まり、身を寄せてくれる。思ったものとは少し違っていたが、これも家族の形なのだろうか。確かにその温もりを、カプリラは感じた。

 皆、歌を歌っていた。いくつも重なった、記憶に唯一残っていたあの歌。竜の一族が力を使う時のためのものだったのだ。

 カプリラも口ずさむ。竜たちに囲まれたカプリラの体が、少しずつ青い光を帯び始めた。それは少しずつ強くなり、カプリラの視界を優しく包み込んでいく。

(メグル、待ってて。すぐ迎えに行くからね)

 覚悟を改めて胸に抱き、強まる光をカプリラは受け入れた。


  4


 意識が朦朧としている。自分がどこにいるのか、どうなっているのか。立っているのか倒れているのかさえ認識が曖昧だ。天と地が逆になっているのかもしれない。

「……こいつのために、反対デモが起こってるみたいだぜ。こんなことは初めてだ。こいつの何がそんなにすごいんだ?」

「やっぱり王の言う通り、こいつが民を洗脳して操ってるのかもな。真実味を帯びてきた。こいつはやはり処刑すべきだってことか。確かに危険だ」

 左右から声がぼんやりと聴こえてきていた。メグルは、自分が両肩を掴まれて引き摺られていっていることにようやく気がついた。

「ん……どこだ……? どこ連れていく気……?」

「お、起きたのか。処刑場だ。これからお前を処刑するんだよ」

「コラ。罪人と話すなって言われてるだろ。下手したらお前も巻き込まれるぞ。知らんふりしてろ」

 メグルの肩を掴んで引き摺り運んでいる兵たちが話している。何とか言葉を捉えられるくらいには意識は戻ってきた。だが宙を浮かんでいるように不安定だ。

 処刑場。それでピンときた。自分は運ばれているのだ、その場所に。これから自分は処刑される。この国の民たちの目の前で。その実感が少しずつ湧いてきた。

 だが逃げようとする気力さえない。ここ数日、随分とこの城の兵たちに痛みつけられた。仲間の居場所を吐けと迫られたが本当に知らないので知らないと言い続けたが信じてもらえなかったらしい。まあ、知っていても絶対に言わなかっただろうが。

 ボコボコにやられたので意識も五感もしっかり働かない。ここまでボロボロになると人はこんな不安定な状態になってしまうのか。曲に活かせそうだと頭を過って、意味がないことに気づいた。

 自分はこれから処刑される。これから曲を作る未来なんてありはしないのだ。

「ふふ……へへ……っ」

 掴まれて、力なくぶら下がった自分の手を眺めていたら乾いた笑いが出てきた。

 鉄の棍棒を振り下ろされた両手。腕と繋がっているのが不思議なくらいぐちゃぐちゃに潰されてしまっていた。指も何本か落ちている。こんな手ではギターを弾くことおろか握ることさえ出来やしないだろう。

 だが後悔はない。自分の音楽を、次の担い手たちに繋げた。きっと自分がいなくてもカプリラたちがロックを世界に届けてくれるだろう。

 だがやっぱり、一つだけ心残りがあった。

「……おかしくなったのか? ほら階段だ、しっかり歩け。もうすぐ終わるぞ、良かったな」

 メグルの足は力が入らず、兵たちが不平を漏らしながら体を抱えるようにして階段を昇っていった。死刑台への階段の段数は十三段だとどこかで聞いたことがある。二十段以上あった。嘘じゃないか。メグルは一人にやける。

 ふと、頬に風を感じた。顔を何とか上げると、どこまでも遮るものがなく空が広がっていた。澄み切った青。そこに雲に隠れていた太陽が顔を覗かせ、眩い黄金色の光を降り注がせていた。

 上空からまっすぐスポットライトで照らされているような気分になる。美しい、と心から思った。空をこんなに綺麗だと思ったのはいつ以来だろう。その鮮やかな色は、カプリラの左目の輝きをどこか思わせた。会いたい、と心から望んでしまう。せめて一目だけでも、彼女の姿を確認したかった。それももう、叶わないけれど。

「いい格好だな、バンドのリーダー。これから死ぬ気分っていうのはどういうものなんだ」

 アロガンがいた。彼のこちらを射抜く冷たい眼差しは変わらない。向こうにとっては邪魔な石を蹴り出すような感覚なのだろう。

 彼の前には木製の簡易な階段があり、その先の壇上には巨大な斧を携えた黒い袋を被った処刑人がいた。あいつの豪胆な腕で斧を振り下ろし首を刎ねるのだろう。コテコテすぎて逆に笑える。

 メグルは再び壇上へと抱えられて登らされた。目の前にすると処刑人はメグルよりもずっと大きく筋肉質な上半身を曝け出しており、顔の布と斧の刃先に黒くなった血がこびりついていた。こちらを萎縮させ逃げる意志を無くすためか。そんなことをしてももう逃げられないのに。

 両手と首を固定する板のような固定台に掛けられた。手動のギロチンみたいだ。いよいよその時が近づいている。ひりひりとその空気が肌を裂くように伝わってきた。

「あ……」

 そこで初めて目の当たりにした、城壁の向こう側の世界。

 人が石粒のように城の前に集まっていた。犇く人たちは姿を見せたメグルに向かって叫び声とどよめきを上げた。歓喜の声も、悲嘆の声も憐れみの声も全部入り混じっている。不思議な景色だった。

「バンドを殺すな! 処刑反対! 今すぐ取りやめろ!」

 そんな声も聞こえた。見ればこちらの処刑を反対する人たちが城の傍まで迫り、騎士団や賛成派の人々と諍いを起こしている。こんなにも大勢の人の心を動かせたのか、とちょっと感慨深い気持ちになる。

(……ここでライブ出来たら、マジで最高だったんだけどなぁ)

 唇を噛む。最大の野外フェスのようなこの舞台で、あの三人とどでかいロックをかます。その瞬間を想像するだけで、心が滾った。もし順当にあのまま指名手配なんてされなかったら、もしかしたらそれもありえた未来なのかもしれない。

「彼女を殺すな! 処刑は不当! 処刑は不当!」

 そんな声が聴こえていた。処刑を喜ぶ声よりも強まってきているかもしれない。

 だがアロガンが壇上から、国民たちの前に立った。

「惑わされるな! 我がハイバルトの民よ!」

 王は吠えた。マイクなどを通さなくても、その芯の通った声は密集した国民の端から端へ届いたように感じた。

「こいつはバンド! 我が世界の民に悪しき思想を植え付け操ろうとする邪悪な集団の一人に過ぎない! 音楽の心地よさに騙されるな。この処刑もこの国のため、この世界の民のため。そしてこの世界の未来のためだ! それを脅かすものは小石だろうと排除しなければならない!」

 アロガンが大きく息を吸う。そして叫んだ。

「目を覚ませ、我が姿を見よ! 耳を澄ませ、我が声を受け入れよ! この王が永遠の安寧と繁栄を約束しよう!」

 しんと、空気が静まり返った。あれほど混沌と入り混じった声たちが一瞬にして止んだのだ。これが王の威厳、ということだろうか。メグルさえも気圧されていた。

「何か言い残すことはあるか。特別に許してやる」

 アロガンが両手と頭を繋がれたメグルの前にやってくる。それを目の当たりにしている群衆たちは、固唾を呑んでこちらを見上げているような気がした。この静寂が、逆に心地いい。メグルは自分の乾いた唇を辿々しく動かし始める。声は張れないから、音を操って城壁の外の人たちにも聴こえるように反響させた。

「……あたしは、今三十なんだけどさ。二十七で死ねなかった時、ちょっと寂しかったんだよ。 昔のロックスターってみんな二十七で死んでるんだよ。だからあたしは、その抽選に漏れたのかなって思ったりしたわけ」

 ところどころ掠れたが、思ったよりすらすらと言葉が出た。王は表情を変えずに聞き流しているようだが、群衆たちは皆耳を傾けているような気がした。

 だから、溢れてしまう。胸に熱い何かが込み上げるより先に、視界が滲んだ。床に溶けていく雫を目にして、自分が泣いているのだと気づいた。声が震える。

「……でも。何でだろうね。やっぱもっと生きたいなぁ……っ。もっと仲間と、あいつらとめっちゃ格好いい音楽やりたかったっ。こんなでっかいステージで、みんなに囲まれてライブやりたかったよ……っ」

 死にたくない。まだ死ねない。胸の内側からこぼれたこの言葉が、今の自分の真実だった。覚悟は決めたはずなのに。未練なんてたらたらだ。当たり前だ。こんなところで終わりなんて、受け入れられるわけがない。

 カプリラと、エナと、コーヴェと。四人で過ごしたあの楽しい習慣を、諦め切れるはずなんてないのだ。

 誰かが一人、叫んだ。死ぬな、とかそんな言葉だったかもしれない。

 それを皮切りに、群衆たちが声を上げ始めた。皆、メグルを奮い立たせてくれるようなそんな言葉だったように思う。そこに、「早く殺せ」といった感じの怒号が折り重なり、空気はまた混沌と騒がしくなる。

「……ちっ。せっかく静かにしてやったのに。やはりお前は危険だな。言葉だけで民を洗脳するとは」

 アロガンが忌々しそうに片手を上げた。メグルの顔の前に立った処刑人が、斬首用の斧を

「この世界の未来のために──死ね」

 満足そうな顔でアロガンは後ろに下がっていく。まだだ。まだ、何か手があるはず。固定具にはめられたままメグルは身じろぎした。が、びくともしない。それでも、まだだ。諦めてたまるか、という気持ちが再びメグルを突き動かしていた。

 もう斧が振り下ろされるだろう。でも最後の一瞬まで、抗ってやる。それが惨めでも構わない。散り際華々しくなんて知るか。二十七歳で死んだ奴らだって、もっと人生を謳歌したかっただろうし好きな音楽をやりたかったはずだ。だから、絶対に生き延びてやる。

「……おい。何だあれは」

 ふと、誰かが声を上げた。アロガンだったかもしれない。釣られてメグルも、顔を上げた。

 空だ。ずっと向こう側、城下町さえ越えた先に、何か影が浮かび上がっていた。かなり遠いのに存在を確認出来るくらい大きい。こちらに徐々に近づいてきている。飛行機か戦闘機か、さもなくばUFOか。

「対空砲を撃て。撃ち落とせ」

「はい、もう準備させてます!」

 アロガンの指令だろうか。それが聞こえる頃には影の形がはっきりメグルの目からも認識できた。

「……ドラゴン?」

 大きく広げられた翼、目を見張る巨体に、トカゲのような風貌。

 けどどこか、親しみがある。すぐわかった。カプリラだ。

「……めっちゃ格好いい登場じゃん。さすがうちの自慢のボーカル」

 ドンッと腹に響くような轟音が響いた。対空砲が撃たれたのだろう。だがカプリラには当たらない。身を翻し、最小限の動きで砲弾を避けていた。スピードが速い。もう城下町まで来る。完全にその姿を目に捉えられていた。

 再び砲撃音。当然当たらない。風のようだ。誰にも邪魔させずに、カプリラは滑空しこちらに向かってきている。

「バンドの仲間だ! 急げ! 早くそいつを殺せ!」

 アロガンが叫ぶ。唸り声と共に再び斧が振り上げられた。もうカプリラは目の前まで迫ってきている。あの黄金の目。間違いなく彼女だ。

 ふと停空体勢に入ったカプリラが、こちらに向けて翼を思い切り振るった。凄まじい風圧。目を閉じる直前に斧ごと処刑人が吹き飛んでいくのが見えた。悲鳴が後ろからいくつも折り重なる。その場にいた兵もぶっ飛ばされたようだ。唯一拘束具に固定されたメグルだけはその場に留まれた。

「メグル!」

 カプリラの背中から飛び出してきたのはコーヴェだ。彼女はメグルの前に降り立つと、拘束具を力づくで破壊してくれる。

「大丈夫!? ……何なのこれ。ひどい……っ」

 倒れ掛けたメグルを、すかさず寄り添ったエナが抱き留めてくれる。ボロボロになったこちらの姿を目にして、彼女は息を呑む。そのぎゅっと握りしめた拳を包んでやりたかったが、メグルの指が全部潰されているのだった。

「……やぁ、久しぶり。ちょっと痩せたかも。相変わらずいい女でしょ……?」

「っ……あんたって奴はこんなになるまで……っ。来るの、遅れてごめん……っ」

「いやベストタイミングだったよ。ちょっと早かったくらい」

 処刑台の前に着地したカプリラも、こちらを覗き込んでくる。その眼差しから、こちらを心配しているのが伝わってくる。この子は本当に、わかりやすいから。

 ふと、カプリラの姿が青い光を放ち始めた。それが眩くて目を閉じて、開くと。いつも目にしていた、小さな彼女が近くにいた。

 ちゃんとメグルのギターケースを背中に背負っている。彼女に対してやや大きすぎるそれはちょっと不恰好で、それが愛おしかった。

「メグル。助けに来たよ。ごめん、ギターは返しに来た。この子の相棒は、きっとメグル以外ありえないから」

「……そっか。でも、ごめん。ちょっともう弾けそうにないかな……。気力だけはあるんだけどね」

 メグルの言葉で、カプリラの目はもう機能しない両手に注がれる。どこまでも慈悲深い眼差しにはっとさせられる。明らかに彼女の顔つきがこれまでと違う。記憶を取り戻したのだろうか。

「大丈夫。メグルには私の隣で、ずっとギター弾いてもらうから。覚悟して」

 彼女が手をこちらにかざす。そして小さな声で歌い出した。するとメグルの視界が、体の周りが青い光に包まれていく。

(この青い光は、あの時の)

 幼少期、一人神社で見上げたあの光。ベースとドラムを手に入れた時の、あの風景。

 光が晴れた。自分の手を見る。元通りになっていた。それどころか身体中の傷も、着ているジャージだって前のままだ。立ち上がって、軽く伸びをしてみる。まったく問題なく動く。さっきの朦朧感が嘘のように元気だ。

「これって……カプリラの力? ありがと、めっちゃ元気になっちゃった」

「メグルの時間、ちょっと戻したの。話せば長くなるんだけど、私、神話に出てくるドラゴンだったみたいで。時間とか時空とか、操る力があるみたい」

「そっか、了解。記憶、戻ったんだね。マジでありがとう。これでまた、ギター、弾けるよ」

 ぎゅっと小さな彼女を包み込むように抱き締める。この温もりを、またこの腕の中に感じられる喜びに打ち震えそうになる。

  カプリラは少し驚いているようだった。

「……怖くない? さっきの姿とか、今の力とか。時間を戻して今の格好には戻れたけれど、私ずっとあのドラゴンのままにいつかなっちゃうかもしれないよ?」

「何言ってんの。カプリラはどうなってもカプリラでしょ。それは変わらないよ。あたしが一番よく知ってる。ずっと歌ってもらうんだからね、あたしの隣で。覚悟して?」

 笑いかける。目の前の彼女の瞳にじわりと涙が浮かんだが、彼女はそれを慌てて拭ってしまう。泣いてもいいのに。

「えっ……!?」

 不意に、ぐいっとジャージの襟を掴まれた。かと思えば彼女に抱き寄せられ、唇に柔らかな感触が当たる。

 キスされた、と理解するまで数秒掛かって、じっとこちらを覗き込む彼女とアホみたいな顔で見つめ合っていた。

「カプリラ……?」

「……これでもまだ、怖くない? メグル、女の人と付き合ってたって言ってたから。私とじゃ、ダメ……?」

「あ、いやでも、さすがに年齢差が……あたし三十路の、職なし家なしギタリストバンドマンだよ?」

「関係ないよ。メグルはメグルだし。私も、実は三十年以上生きてるから。メグルより年上かも」

「マジか」

 さすがに戸惑った。まさかカプリラからそういう感情を向けられるとは思ってもみなかったから。赤らんだ彼女の頬と、不安げに甘える眼差し。ドギマギと心臓が落ち着かない。

「ちょっとお二人さん、それ後で。王が逃げてる。追いかけなきゃ!」

 エナが言う。はっと周りを見れば、確かに吹き飛ばされたアロガンの姿がない。そして城の兵たちが処刑台の階段下に集まっていた。

「お前ら! 観念しろ! 逃げ場はないぞ!」

「……観念は、そっちがする番。メグルに酷いことした奴、誰?」

 カプリラの目つきが変わる。青い光。再びドラゴンの姿になった彼女は、威嚇するように吠えた。

「おぉー……怒らせちゃったねぇ君たちぃ。カプリラ、殺さない程度にね」

 了解、と言った風にメグルの言葉に頷いたカプリラは、また翼を一振りした。紙みたいに集まっていた兵士たちが吹っ飛んでいく。


  5


 城の中は騒然としていた。どうやら先ほどの騒動に乗じて、メグルの処刑に反対するデモ隊が城内になだれ込んできたらしい。兵士や騎士団たちもその対応に追われて分散させられてしまっているようだ。王を追うのにこの上ない好機だ。

「いた! あそこにいる。ご丁寧に兵たちに囲まれてどこかに向かってるわ」

 吹き抜けの手すりから身を乗り出したエナが、向こう側に指を差す。メグルもアロガンの姿を確認した。分厚く兵たちを引き連れて、一階の混沌としたホールをどこかに向かっている。明らかに目的のある足取りだ。早く追わないと見失う。

「どうする。ここは構造が入り組んでそうだ。さっさと階段を探して降りないとな」

「大丈夫。みんな私に捕まって。一気にショートカットする」

 小さい姿に戻ったカプリラが言う。メグルが右手を、コーヴェがエナを抱えつつ左手を掴むと、彼女は吹き抜けから飛び出す。翼を展開し、一気に一階までふんわりと着地した。

 ホール内は入り口が近いからか、デモ隊と兵たちのぶつかり合いが激しいしお互いの人数が多い。背の高いコーヴェが人の激流の中で王が向かう先を見つけた。別のところに繋がる通路に入ったようだ。

「今更だが、あいつを追ってどうするつもりだ。この混乱に任せて逃げるのも選択肢の一つじゃないか」

「それだとずっと逃げ続けなくちゃいけなくなる。それに、王はここの地下に結界の魔石をしこたま隠し込んでるって言ってた。居場所を追われた人たちを賄えるくらいだと思う。とにかく説得してみよう」

「ま、言葉以外も使いようね。あっちだってこっちの大事なギタリスト、問答無用で処刑しようとしたんだし。多少荒っぽくいってもいいでしょ」

 エナが走りながら拳を合わせる。頷いたカプリラも目が据わっていた。「こ、殺さない程度にね?」とメグルは一応釘を刺しておく。思ったよりみんな怒っているみたいだ。仲間の絆を感じて、メグルは熱いものが込み上げてくるのを抑えられない。

「よっしゃあ! 王をとっ捕まえて、世界に平和をもたらすぜぃ! おーッ!」

「ちょっとメグル、おっきい声出さないで。騎士団の連中に私らがいるってバレるでしょうが」

 エナに怒られつつ、人波を掻き分けて進む。ホールから廊下に差し掛かろうとした時だった。

 ドガァンッ、と何かが吹き飛ぶ重厚な音がした。そして悲鳴。目を向ければ、犇いていた人たちがポップコーンみたいに空中に弾き出されていた。何かがこっちに向かってきている。

 コーヴェがいち早く反応して、足を踏み出した。土埃の中から飛び出してきた巨大な影。全身に筋肉の鎧を纏いつつも、上品な立ち振る舞いを漂わせるその姿には見覚えがあった。

「次にあったら引っ捕えると、申し上げましたわよね。今がその時ですわよ?」

 メイベルだ。突進してきた彼女を、コーヴェが両手で止めた。掌と掌がぶつかり合って、さしずめ相撲の熱い押し合いのような形になった。

「おう。元気そうだな。だが今は間が悪い。折り返してくれるか」

「そうは筋肉が卸しませんわ。お相手していただきますわよ。もうわたくしの肉体はぶち上がってますわぁ!」

「……ったく。お前が尽くしている国の王は、結界の魔石を独占し民を苦しめているぞ。そんな奴の下についていていいのか」

 メイベルの表情が変わる。薄々彼女も勘づいていたのかもしれない。苦々しそうに唇を噛んだ。

「……関係ありませんわ。強い者こそが正義。そこにわたくしの疑いはない」

「本当か? なら何故船に乗っていた時、乗客の安全を優先したんだ。お前が王のその考えに疑問を覚えていたからじゃないのか」

「……ごちゃごちゃと。わかるでしょう? 勝ったものが正義ですわ」

「だな。……みんな、先に行ってくれ。すぐ追いかける」

「追いかけるだぁ? わたくしを激舐めしてますわねぇ? 誰も手を出すんじゃねぇですわよ! 横槍を入れてきた奴は背骨ごと首をブッこ抜きますわぁッ!」

 コーヴェとメイベルはお互いに後ろに飛び退き、再びぶつかり合う。両者一歩も譲らず、周りの人々も自分の争いを忘れて唖然とその力と力の張り合いを見ていた。

「……コーヴェは大丈夫そうね。メイベルが周りの奴ら寄せ付けなさそうだし。王を追いましょう」

「うぉおおっ、筋肉と筋肉のぶつかり合い……! 観戦したかったなぁっ」

「メグル、筋肉好きだね。……私ももっと鍛えようかな」

 力こぶを腕に頑張って作ろうとしているカプリラに「もう十分だと思うよ」と言いつつ王を追って廊下を進む。

 さすがに騒ぎの渦の中を外れたせいか、道を阻もうと騎士団たちがこちらに立ち塞がってきた。王が差し向けてきたのかもしれない。

「バンド! 止まれ! お前たちを拘束する!」

 剣を抜いた団員たちを、鞘に納めたままの剣でエナがいなしていく。カプリラも翼を引っ掛けるように体当たりして加勢する。二人とも前よりも動きが鋭くなった上に、メグルのギターの応援効果が入っている。数十人いた団員たちはあっという間に床に伸びた。

「こんなもん? 騎士団って案外緩いのね。鍛え直し」

「エナ、ポーズ取ってる場合じゃないよ。行こう」

 得意げになったエナもカプリラに急かされつつ、先に進む。もう並みの奴では自分達の相手にならないかもしれない。と言ってもメグルは戦力に加算されないので、ひとえに二人の強さだ。

「王は……? えっ、ここに入った……?」

 扉が開いていたのは、広い寝室だ。どうやら王の部屋らしくやたらと面積があり、ベッドも大きい。だが置いてあるものは少なく、がらんとしている印象だ。書類机など必要最低限のものしかない。広さが逆に物寂しげな雰囲気を醸し出している。

 だから隠れられる場所もないはずだが、王の姿はない。もしかしたら時間稼ぎに扉を開けておいただけかと思ったが、よく見たらベッドの奥に何かがあった。

 階段だ。普段は床に巧妙に隠してあるのだろう。今は空きっぱなしで曝け出されており、先は暗くて見通しが効かない。何だか誘われているような気がした。

「怪しいわね。これって罠なんじゃないの?」

「……罠でも何でも。飛び込んでみるしかないっしょ! 虎穴ってやつ!」

 雷の魔石を使った携帯用ライトを灯し、階段を降りようとした時だった。

「エナぁ! このフィルドリン家の恥晒しがぁ!」

 部屋の入り口がばんと開かれた。騎士団たちが雪崩れ込んでくる。道を開けた彼らの真ん中を歩いてきたのは、エナの兄ケイジュだ。頬についたガーゼの治療跡がまだ生々しい。エナのパンチがよっぽど効いたようだ。

「お前はもう反逆者、容赦はしないぞ! お前らを捕らえて私は名を上げてみせる!」

 大それたことを言いつつケイジュは自分の部下に命じてこちらに向かわせてくる。こちらも戦闘体勢に入ろうとしたが、エナが一歩踏み出してそれを止めた。

「ここは私が。今まで散々騙されてきたんだもの。こいつをボコボコにする権利は私にあるでしょ」

「エナ、一人で大丈夫? 向こうも結構人数がいるけど……」

「平気。知らなかった? 私って、めっちゃ強いのよ」

 にやりと笑ったエナは、メグルとカプリラの背中を階段に向かって押した。自信に満ち溢れた彼女ならここは任せて大丈夫だろう。心配そうなカプリラの手を引いて、メグルは階段を駆け降りていく。

(みんな、ちょっと会わないうちに立派になってるなぁ……)

 少し胸がじんとなるのは歳を取ったせいか。早く今の三人とセッションしたいと疼いた。きっと更に音が進化しているだろう。その瞬間が待ち遠しい。

 階段を降り切ると、暗い通路が続く。明かりが一切ない。手元の電灯だけが頼りだ。逸る気持ちを抑えて警戒しながら歩いていく。不意打ちされると思ったが、人気が一切ない。罠だとしたら奥まで誘い込むつもりだろうか。

「メグル、離れないで。……もう離さないから」

 メグルを掴むカプリらの手は小さいけれど力強い。その頼もしさにまた心を打たれながら、メグルも頷いた。

「ここは……」

 狭い通路が終わった。いきなり壁も天井も光が届かない開けた場所に出る。暗くて分からないが、音が反響するくらいには広い。そして間違いなく向こうもこちらが辿り着いた気配に気づいているはずだった。

「……危ないメグル!」

 カプリラがメグルの手を引っ張った。同時に放った蹴りが、忍び寄っていた騎士団の一人をふっ飛ばす。同時に掛かってきた団員たちをカプリラは片手と足で片付けた。メグルを庇いながらだ。明らかに体術のキレが増していた。ドラゴンの姿を取り戻したおかげか。

「うぉ……っ!?」

 不意にカプリラがメグルを高く掲げるように両腕で持ち上げた。そして広げた翼を体ごと回転して振り回す。周りに風圧を作り出し騎士団たちを吹き飛ばす。どうやら一斉に飛びかかろうとしていたみたいだ。メグルは彼女に腕で受け止められて地面に下ろされる。フィギュアスケートのペアになったような気分だ。やったことはないけど。

「この闇の中でもそこまで動けるか。やはり我々の戦力ではもう手がつけられないらしいな、その竜の子は」

 アロガンの声が響いた。かと思えば一斉にライトが点灯し、暗闇が暴かれる。メグルとカプリラは思わず目を伏せた。そして開いた視界の先に、同時に息を呑む。

「これは……魔石? 結界の魔石か……!」

 最初は巨大な氷山が置いてあるのかと思った。見上げても頂上まで視界が届かないような魔石の塊。透き通って、光を内側できらきらと蓄積しているような輝きを帯びている。メグルも他の街を守っている結界の魔石を見た事があるが、あれがカケラだとしたらこれは山だ。これさえあれば、世界中で家や住む場所を失った人たちを救えるし、失うかもしれないという心配から解き放つこともできるだろう。全部解決だ。

(でもどうして、わざわざここに逃げ込んだんだ……? みすみすあたしらを目的に近づけるようなもんじゃないか……?)

 おそらく罠だろうが、それにしても妙だ。この魔石が偽物の可能性が過ぎるも、カプリラが頷いて視線を合わせてくる。本物だということだ。ますますわからなくなった。

「どうした? これが欲しかったんだろう。安心しろ、騙すつもりはない。それにわざわざこんな偽物を用意する道理もない」

 更にアロガンが、どこからかメグルたちの前に姿を見せる。マントと王冠を捨てた彼は、背が高いが痩身が目立つ。騙し打つキツネのような底の知れなさがある。

「しかし……お前はつくづく規格外だな。まさか神話の竜まで飼い慣らしているとは」

「そういう言い方やめろ。この子はあたしらの仲間だ。それにあたしの……大切な存在だ」

 カプリラを片腕で抱き寄せてメグルは言い放つ。一瞬カプリラが嬉しそうにこちらを見上げてきたのが横目で見えたので、ウィンクを返しておいた。

「……くだらないな。そんなちっぽけな仲間意識で、革命でも目論んでいるつもりか。世界を救う救世主になった気分はさぞ爽快だろうな」

「そんなんじゃない。ただこの世界を平和にして、あたしたちの音楽を心から楽しめるようにしたいだけ。そのためにこいつを使いたい。あたしは、あんたを説得しにきた」

「大した大義名分だな。やはりお前たちは世界転覆を目論む邪悪集団だ。その証拠に見ただろう、お前らに誑かされた人々が城の中に侵入して暴れ回っている。安寧と平和を脅かしているのはどっちだろうな」

「あんたの言う安寧と平和っていうのは、強いって奴が弱い人たちを踏みつけて犠牲にする世の中ってことでしょ。誰にだって平等に生きる権利がある。生きることを楽しむ権利がある! あたしは心ゆくまま音楽やって世界中を楽しませてぇの! もう一度言うけど、それを邪魔する権利は王のあんたにはないから!」

 びしっと指をアロガンに突きつけてから、「……人に指差しちゃだめだよね、ごめん」とメグルは引っ込めた。

 その時、アロガンが初めて吹き出したように笑みをこぼした。気を緩めたわけじゃない。どこか諦念が滲んだ、突き放すような乾いた笑いだ。口の端を歪ませる。

「……どうやら話し合いは平行線のようだ。どうする? 俺を説得できないからと言って、大人しく帰る腹づもりではあるまい」

「もち。気は進まないけど無理矢理にでも持っていく。幸いにもこっちには力自慢が多くてさ。これくらいのデカさでも持ち運びは問題ないよ」

「だろうな。そして我々には、それを止める武力はなさそうだ。……まったく、早めにお前を殺しておくべきだったよ。国民たちに処刑を見せつけて、抑止力にするつもりだったが。ここまでやってのけるとは」

 アロガンが不意に懐からナイフを取り出した。刃を見せ、納めた鞘を投げ捨てる。周りに騎士団や兵士の姿はない。一人でも最後まで抗うつもりなのか。さすがにメグルもカプリラも身構えた。

「まだやる気? もっと話し合って平和的に解決しない? 時間は掛かっても、お互いが納得できる答えが見つかるかもしれないよ」

「黙れ、侵略者。俺は譲るつもりはない。この世界は、強者のもの。結託し、群れることでしか生を選べない弱き奴らどもに受け渡してたまるか。強き者が君臨し、他を支配する。そうでしか成り立たないのだ、この世は。いずれお前たちにもそれがわかるだろう」

 アロガンが高らかに言い放ち、刃を振り上げる。どうするつもりなのだ。

「メグル、カプリラ! 大丈夫!?」

「無事か、お前ら! どうなった⁉︎」

「何ですのここは……!? 地下にこんな空間があったなんて……っ」

 後ろからエナとコーヴェが追いついてきた。何故かメイベルも一緒だ。全員が結界の魔石の前に立つアロガンに注目した。

「今こそ始まりだ。強者のための世界のッ!」

 ──父さん。これが王としての選択です。小さく彼が呟いた言葉は、メグルの耳には届いた。

 アロガンが振り下ろした刃は、彼自身の喉に深く突き立てられた。血が迸り、離れていたメグルの顔まで飛ぶ。

「なっ──!?」

 その場にいた全員が呆気に取られていた。血を喉から吹き出しながら倒れたアロガンに、メグルとカプリラは同時に駆け寄る。既に顔が血の気を失っている。メグルはジャージの上着を脱ぎ、傷口にあてがう。熱い鮮血の生々しさに怯みそうになる。

「カプリラ! 早くこいつの時間戻して! このままじゃ……!」

「だめだ……! 既に亡くなった命は戻す事ができないから……っ」

 血は止まっていた。カプリラが時間を戻したのだろう。だがアロガンの目は開くことはない。ジャージの上着をどけて胸に耳をつけてみたが、鼓動はまったく聞こえてこない。体の温もりも既に失われつつある。

「……どうして……っ」

 ハイバルトの王は死んだ。自ら命を絶った。理由はわからないが、メグルたちに追い詰められたと思って絶望したのだろうか。いや、今話していた彼はそんな感じじゃなかった。

(強者の世界の始まり……? 何のことだ……?)

 彼の最後の言葉を思い出す。あの発言と自殺という行動がまったく結びつかない。そして何故か、メグルの胸が不穏に騒いでいる。これがあっさりした幕切れではないことを何か本能のようなものが告げていた。

「王が自らを手にかけた……。一体どういうことですの? おめぇらが催眠術の類いを使ったわけじゃねぇですわよね?」

「そんな器用なこと出来たらとっくにやってたよ。彼に意識はあったと思う。どうしてこんなことをしたのかはわからないけど……」

 その時だ。間近にあった結界の魔石に異変が起こった。透き通った内側できらきらと輝いていた光が、消えていく。綺麗な水が凍りつき濁り始めたみたいだ。

「魔石が……⁉︎」

 カプリラが驚く。メグルも肌で感じた。おそらくその場にいた全員も。魔石から感じた神秘的な力が失せていくのだ。魔石が内側から完全に濁り切った時、その力も完全に消えた感覚があった。

「まさか……!」

 嫌な予感がどんどん強まる。アロガンが自ら命を絶った理由。そして今、目の前の結界の魔石が効果を失った意味。彼は自分が力尽きた時、結界の魔石が使えなくなるように紐づけたのではないか。

「みんな急いで! 上の様子を見にいく!」

「メグル? 一体どうしたってのよ」

「何かわからんけどとにかくやばい! 結界の魔石が……!」

 隠し階段を登り地上へ出る。エントランスに辿り着く。争い合っていた一般市民たちと騎士団や兵たちは、皆いがむのをやめてざわざわと騒ぎ始めていた。

「あっ、メイベル隊長! どこ行ってたんすかもぉ! やばいですよ! 今度こそ俺ら終わりです!」

「っていうか、この国もこの世界もやばいです! 俺ら死にました!」

「ちょっと、落ち着きやがれですわユッケ、ビビン。一体何が起こったんですの?」

 メグルたちの前に駆け込んできたメイベルの部下のユッケとビビンが捲し立てる。二人は一旦呼吸を整えると、息を揃えて言った。

「ハイバルト国の結界の魔石が急に光を失いました! 使えなくなったんです! やばいですよ、魔物がこの国に押し寄せてくる!」

 メグルの嫌な予感が当たった。アロガンはやはり自分の命を紐づけていた。彼が死んだことで、結界の魔石が効力を失ったのだ。おそらく、世界中の。

『今こそ始まりだ。強者のための世界のッ!』

 アロガンの最後の言葉がメグルの頭の中で響いていた。

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