4章 welcome to new world!

 1


「じゃあ、今回のライブ成功を祝して。かんぱーい!」

 メグルがそう言って木製のジョッキを掲げると、カプリラとエナも楽しそうにそれに続いた。メグルのはこの世界の発泡性のお酒、カプリラたちは未成年なのでジュースに相当する飲み物だった。

 街にある酒場だ。夜なので席も埋まり賑わいを聞かせてくれるこの空間は大衆居酒屋を思い出させてくれて居心地がよかった。この街での箱ライブを終えて、打ち上げに来ていた。

 それなりの広さのホールは満席で、観衆たちの反応もよかった。やっぱりベースがあるだけで音の深みは全然違う。メグルも上機嫌だったがカプリラもエナもテンションが高めだった。

 最近ではメグルたちの名が知れてきているのか、街に入るなりファンらしき人たちに囲まれることが多くなった。自分達から言わずとも街の人たちはライブをする場所を貸し出してくれ、いっぱいまで来てくれる。完全に流れは自分達に来ている。これで浮かれない方が無理というものだ。

「いやぁ、最初はどうなることかと思ったけど、案外うまく行くものねー。私の腕が良かったからかな。何だっけ、ベーシストとして?」

 酒を飲んでいないのに顔を赤らめてはしゃぐエナに、「その通り! エナはベーシストとして最強だ!」とメグルも太鼓判を押した。

 実際彼女のベース演奏の上達っぷりは最近まで素人だったとは思えないくらい凄かった。メグルが教えたことをすぐ呑み込むし、自分ならではのアレンジもしっかり演奏技術に組み込む。ベースの練習だって旅の途中で暇を見つけて毎日繰り返している。基本彼女は努力家なのだろう。その結果、彼女と出会ってから早一ヶ月。もう難なくどころかド派手にライブをかませるくらいになった。今までメグルが知り合ったベーシストの中で一番イカしてるまである。

 更にエナはライブの経理まで名乗り出てくれた。この街のようにそれなりに豊かそうなところでライブをやる時はチケット代をとる案を出してくれたのだ。

 もちろん低価格なのだが集まる人が多すぎるのでかなりの金額になる。貸してくれた場所にいくらか返して経済を回しつつ、ライブのおまけ程度の金額をバンドの旅の足しにさせてもらう。おかげで旅の道具の調達は簡単になったし、こうして打ち上げをしてもお釣りが来るくらいになった。まさにエナ様万歳だ。

「こう順調だと、やっぱ欲しくなるな。そろそろドラム! 念願のフルバンド!」

 酒を飲み干してお代わりを注文しつつ、歌うようにメグルは言った。ちなみにコーラスは出来るものの、メグル自身は自覚があるほど音痴だった。だからギターボーカルは中二で諦めたのだ。

「そうだね、私もみんな揃った演奏聴いてみたいかも。ドラムはあるし、誰か来てくれたらすぐ出来ちゃうね」

 ワクワクした様子で賛同してくれるカプリラだが、ジュースを煽ったエナは「そうかしら」と懐疑的な声を上げる。

「そんな適任、すぐ見つかる? 今まで何人か試してもらったけれど、みんなてんで叩けなかったじゃない。それにあのドラム、普通のより大きいみたいだし。あんなの演奏できるの、結構な大男くらいだと思うけど」

「だいじょーぶっ。あたしは運命ってやつ信じてるから! カプリラとも会えたしエナもバンドに入ってくれた! 新メンバーはもう目の前だぁっ」

「声でか、酒くさっ。あんた、酔っ払って寝たら今度こそ置いて帰るからね」

「私がまた背負っていくけど。お酒はほどほどにね、メグル」

「平気平気。あたしめっちゃザルって評判あるからっ。ほら、二人も遠慮しないでもっと呑も呑も!」

「どうするカプリラ、こいつ本当に置いて帰ろうか」

 宴もたけなわ、まだまだ続く。もちろんこの後盛大に酔っ払ったメグルは、カプリラに背負われエナに呆れられてほっぺたを突かれながら宿に帰るのだった。


  2


「……みんな、雨の匂いがする。どこか雨除けできる場所探した方がいいかも」

 前を歩いていたカプリラが、鼻を鳴らして空を見上げる。雲が掛かっているが、まだ日差しが降り注いでそれなりの晴天だ。馬車を引く馬を撫でていたエナが不思議そうにカプリラの視線をなぞった。

「ほんとに降るの? 晴れてるけど」

「いや、降るよ。カプは鼻がいいから間違いないね。ついでに目も耳も効くし感覚も鋭い。安心感がすごい」

「全知全能じゃない。まあいいけど、この辺り人が住んでそうなとこないわよ?」

 町から町を移動の途中だった。道は整備などされているはずもなく、周りは平原が広がるばかりで雨風を凌げそうな岩影なんかもない。メグルは見渡して、先の方に気になるものを見つけた。

「あっちに何かある。あれって村とかの入り口にある門じゃない?」

「そうだねメグル。だいぶ崩れちゃってるみたいだけど、大丈夫かな。人の気配がない」

「えー……。また魔物の住処だったらどうすんのよ。そんなとこ入るより先急いだ方が良くない?」

 早くもメグルの肩に冷たい感触が落ちてくる。ぱつぱつと、空から雫が降り注いできた。いつの間にか空は灰色で覆われ、雨足はだんだん強まっていく傾向を見せていた。

「やばっ、降ってきたわ。とりま、一回行ってみて決めない? やばそうだったら引き返せばいいし、このまま歩いてたら風邪引いちゃうっしょ」

「いや魔物に喰われるより全然マシじゃない? どう考えてもあの壊れた門不吉すぎるわよ……」

「大丈夫。何が出てきても私がぶっ飛ばすから」

「……ちょっとメグル。あんたカプリラに悪影響与えすぎ。こんな物騒なこと言わせないの」

 ため息をついて渋々エナも合意してくれたので、門のところに向かう。道の脇に建てられたそれは年季なんてものじゃなくほとんど元の形状を留めてないくらいに崩れている。その先の道は森の中に続いているが、馬車はぎりぎり入っていけそうな幅だ。

「もぉお……暗くなってくるし雨は強くなるし最悪……。これで雷でも鳴ったら完全に心折れちゃうわよ……」

 エナの予言通り雷鳴が辺りに轟いたので、彼女は隣のカプリラに思い切り抱きついていた。メグルはそれをからかいながら歩いている内に道の先に何かを見つけた。

「えっ、みんなあれ村じゃない……? いや、廃墟……?」

 長らく人が通っていなさそうな道を雑草を避けつつ進めば、村だった場所に出くわした。木造の家はほとんど朽ちて崩れ落ち、石造りの建物も経年劣化で中が外に剥き出しになるくらい壊れている。横倒しになったり、ぐちゃぐちゃになった家財道具などが、ここにかつて人の営みがあったことを生々しく物語っていた。人の気配はない。それと雨のどんよりとした空気も混じってか、ひどく不気味な空間のようにメグルは感じた。

「……きっと結界の魔石の効果が切れて、ここにいた人たちは出て行ったんだね」

 カプリラがフードの中でどこか寂しげに呟く。きっといくつもこんな場所を見てきたのかもしれない。結界の魔石がなくなること。それは思ったより深刻なことかもしれないとメグルの胸の奥も痛んだ。

「と、と、と、とにかくっ。こ、こ、こ、ここを離れましょうよ。雨宿りなんか出来そうにないし、こんなとこ魔物以外の何か出たらどうすんのよっ」

「いや、何か良さそうなとこあるけど」

 メグルが指差した先。村の残骸の奥に、一際大きな建物があった。洋館、と言ってもいい立派な外観で丈夫な作りになっているのかあまり崩れているところもないし屋根もちゃんとある。更には傍に屋根と壁が無事の馬小屋があり、馬車も置けてこの上なく今の状況を凌ぐのに適した場所のようだ。ただ、こんなところにぽつんと一軒、無事な建物があること自体、何というか少し不穏だ。

「こ、こ、こんなとこ入るの⁉︎ こんなのまるで……」

「お化け屋敷みたいじゃん。まあ探検するには丁度いいんじゃない? どうせ雨が止むまで暇だしさ」

「メグルあんたねぇっ。能天気なこと言って本当に何か化けて出てきたらどうすんのよ! 私が化けてあんたのこと祟るからね!」

「まあまあエナ。雨も強くなる一方だし、とりあえずメグルの言う通り入ってみようよ。一応すぐ出られる準備はしとけばいいから」

 カプリラの言葉には弱いらしく、エナはまた苦渋を全力で表情に表しながらメグルたちに付いてきてくれた。近くの建物に馬車と馬を待機させて扉を閉め、いざ洋館を前にする。玄関の前に差し掛かった時、カプリラが建物の脇に何かあるのを見つけたみたいだ。

「ねえ、あれってもしかしてお墓かな?」

「ちょっ、カプリラ。あんたまで余計なもの見つけないでよっ。そりゃお墓くらいどこにでもあるでしょ」

「でも何か、村の様子と違って真新しい感じがしない?」

「気のせい! 絶対気のせい! 誰がこんなとこに新しいお墓なんて作んのっ。い、いいから早く入りましょう!」

 エナはすっかりビビり切っているみたいだ。メグルも目をやってみたが、木の枝で十字架を模して簡素な墓のようなものがいくつか並べられていた。確かに、他の朽ち果て具合と比べると妙に新しい。だが、まあいいかとすぐ意識から外す。わからないことは後で考えればいい。

「すみませーんっ。どなたかいませんかー?」

「ちょ、ちょちょっ。メグル! あんた何やってんの! 誰かいるわけないでしょっ。いたらどうすんのよっ」

 メグルが玄関の分厚そうな両開きの扉をノックしたら、エナに慌てて止められた。一瞬待ってみるが、中からは何の音もせずしんと静まり返ったままだ。エナがほっと肩の力を抜いた。

「いい? 次許可なく変なことしたら私、泣き喚くからね。十八年間生きてきて初めてってくらい惨めったらしく泣きじゃくるわよ。わかったわね?」

「あははっ、ちょっと見てみたい。とりあえず雨もひどいし、中入ってみようぜぃ」

 入り口に鍵は掛かっていなかった。やや立て付けが悪く、ギギギ……と軋む音を響かせながら重い扉を開いていく。

 雨空で光が遮られているのか、中は暗い。松明に火をつけて中を覗き込むカプリラに、メグルも倣った。


  3


 外観通りに、かなり広い建物のようだ。部屋が分かれているわけではなく、全部一つの空間に繋がっているみたいだ。

 目の前にすぐカウンターらしき場所と階段がある。二階まで吹き抜けになっていて、階段は建物と同じ石造りのため未だ崩れずに残ってくれている。暗いとはいえ窓から外の光が若干差していて目が慣れてくると周りをぼんやりと見渡せた。

 何より目立つのは、本棚だ。背の高い本棚がずらりとカウンターを中心に奥の方にいくつも並べられている。二階も見上げただけでも本棚が並んでいるのがわかった。

「図書館かな。雨漏りもしてないし、天井も壁もしっかりしてるね」

 メグルはカプリラに続いて中に足を踏み入れながら言う。雨風を防げているせいか、中のものも形を保つ程度には傷まず残っている。本もほとんど残されているが、さすがに劣化で崩れてしまっている本棚がいくつかあるみたいだ。

「……メグル。何か」

「ん、気づいてる。誰かちょっと手を加えてるね」

 カプリラに声をかけられてメグルも頷く。ただ建物がしっかりしているだけじゃない。壊れている場所が修繕されているのだ。割れた窓も板などで塞がれていて、本棚が崩れた場所は本が丁寧に積み上げられて置かれている。

 何より空気だ。こういう人に放置された場所は埃やカビなどの匂いがする嫌な空気が漂っているものだが、それがない。まるで誰かが定期的に換気と掃除をしているみたいに。

「誰かいるのかな?」

「だ、誰かって誰よカプリラっ。こんなとこに誰かいるわけないってばっ。さっきから怖いことばっか言わないでよ」

 恐る恐る中に入ってきたエナが声を上げる。それが広い空間に反響して更に彼女は身を竦ませた。

 カプリラが提案する。

「とりあえず、中に魔物が入り込んでないか確認しようか。一階からでいいよね」

「えっ、もっと中に入るの? こ、ここで雨が止むまで待てばいいじゃないっ」

「いつ止むかなんてわかんないし、魔物に不意打ちされたらやばいっしょ。それとも、エナはここで待ってる? あたしはカプリラと行くけど」

「メグルぅ……っ。あんたってほんと。わかったわよ、行けばいいんでしょ行けばっ」

 プリプリしているのかブルブルしているのかわからないエナを最後尾に、メグルたちは図書館内を見回ることにした。一階。横の広さももちろんだが、奥行きもあるらしく、窓からの明かりが届かない空間もある。そして本棚がどこまでも並んでいて、それがパーテーション代わりになっているみたいだ。

 だが本棚に並ぶ本は、やはり規則正しく並べられている。廃墟にしては妙に整いすぎているような気がした。埃まで払われている。これがされたのはつい最近だ。

「ひゃあっ! ちょっとメグル! 今何かそこで動いたんだけど!」

「エナ、落ち着きなよ。松明であたしらの影が揺れて動いて見えただけ。誰かいるなんてありえないって自分で言ったんじゃ……」

 メグルが言いかけたその時、ガタンと何かが動いたような音が館内に反響した。結構大きな音だ。エナは文字通り飛び上がっていた。

「何かいるじゃない! 何の音よ今の! ねえ今すぐ出ましょっ、すぐ出ましょっ!」

「エナ、リラーックス。シットダウン。ただ何か勝手に落ちただけかもじゃん古い建物だし。それに雨の音ひどくなってるでしょ。今出てもずぶ濡れになっちゃうよ」

「……でも変だよね。もし何かいるにしても、魔物や動物だったら扉を閉めたりしないでしょ。入り口、閉まってたよね?」

「カプリラ! 余計な考察しないで! すぐ見に行くわよ安全確保!」

 ブルブル震えるくらい怖がっているくせにエナはぐいぐいとメグルたちの背中を押して音の原因を探ろうとしてくる。

 本棚の裏から裏を確認しながら進んで、一階は全て確認し終えたが何もいなかった。

 とりあえずロビーに戻ってきた時、またガガンと音が鳴った。さっきよりはっきりとしていて、二階から聞こえてきているのがはっきりわかった。エナがまた跳ね上がる、

「もぉおおっ、やっぱり何かいるじゃない! 足音じゃないの今のっ。魔物なら魔物らしく堂々と姿見せなさいよぉっ」

「姿見せてもいいの? お化けかもよぉ……? まあでも、誰かいるのは間違いないかもしれないね……」

 メグルは考える。建物の真新しい修繕の跡や一階の整理整頓された本の列を見ると、どうしても誰かがいるような気がしてならなかった。魔物やこういう廃墟に住み着くらしい野盗だとしたら、本などわざわざ整えたりするだろうか。巻数や同じジャンルなども丁寧に並び直されているのだ。

「えぇ……ほんとに行くのぉ……? もう帰りましょうよ、やだぁ……」

 二階への階段を昇るメグルたちに、小さな子供のようにぐずりながらエナが付いてくる。メグルは探検気分でわくわくしていたが、一応危険を鑑みて短剣を構えたカプリラが先頭で進むことになった。

 二階の様子は、一階とはあからさまに様子が異なっていた。階段を昇った先、本棚が横一列に重ねて並べられて視界を遮るように設置され直しているのだ。まるでパーティションのように。万が一を想定してじりじりと三人で裏側を覗き込んでみる。

「やっぱり……」

 カプリラが呟く。無事だった家から持ってきたのか、ベッドのマットがいくつも並べられて布をかけられ、まるで巨大な寝床のように整備されたものが置いてあった。それを中心に広い空間になっており、手に取りやすいように本の山が大量にその周りに構築されていた。

 間違いなく生活スペースだ。だがその周りも綺麗に整えられていて簡易ベッドのシーツもシミどころか皺ひとつない清潔具合だ。おそらくは浄化の魔石をこまめに使って洗濯しているのだろう。ただ、目を見張るのはその大きさだ。百七十センチのメグルの二倍はあるであろう巨体がそこで両手を広げて快適に過ごせそうな寝床だった。常人には大きすぎて持て余しそうだ。

「ぎゃあっ! 何かいる絶対何かいる!」

 そのスペースに入ってもっと調べようとしたら、唸り声のような低い音が響いて聞こえた。エナがメグルの腕にぎゅっと縋り付いてくる。

 明らかな警告だ。これ以上足を踏み入れるなと警告している。カプリラが振り向いて視線で合図してきたので、メグルは彼女に任せることにする。

 カプリラは息を吸うと、やや声を張って周りの暗闇に呼びかける。

「勝手に入ってごめんなさい、私たちに敵意はありません! ですが外の雨がひどいので一時だけ雨宿りさせていただけないでしょうか。食料や道具を対価としてお渡しします!」

「……だめだ。今すぐ出ていけ。ここは私だけの場所だ。他人を受け入れるスペースはない」

「……何よ。自分だって廃墟の図書館に勝手に住み着いてるんじゃない」

 金属を擦るようなざらついた低い声だった。人の言葉を聞いて安心したのかエナが一言こぼしたらまた唸られて飛び上がっていた。取り付く島もなさそうだ。

「わかりました。せめて、お姿だけでもお見せ願えませんか。お詫びに食料などは置いていきますので」

 めげずにカプリラが闇の声に言葉を掛ける。迷ったのか間が少し空き、また声が応える。

「……いいだろう。私の姿を見たら、怯えてさっさと逃げろ」

 カプリラはこちらに確認を取った後、不満そうなエナを宥めて食料などを入れた袋を取り出す。声の主に見せるように中身を掲げたのち、布を敷いた床の上に並べていく。「本当に物を置いていくのか。物好きな奴らだ」と声は呆れを含んだ。

「全員手を上げろ。武器は出すなよ。距離をとって姿を見せる」

 少し抑えた声が響く。自分がいる方向がメグルたちに伝わるようにだ。不意打ちを喰らわせる気なら出るタイミングもぼかしてどこから出てくるかもわからなくするはずだ。声の遠さから距離まで本当に取っている。メグルは早くも声の主に好感を抱き始めていた。

 メグルたちが両手を上げて声の方に顔を向けると、ぬっと本棚の後ろから出てくる影があった。手に持っている松明に火をつけたようだ。明かりで揺らめく姿を目にして、メグルの後ろに隠れているエナが息を呑むのが伝わってきた。

 巨身、という他ない。館内の高い天井に、腕を伸ばせば届くことは容易だろう。サラシと腰巻きのように簡素な布切れだけを身に纏った肉体は筋骨隆々で、腕も足もこぶのある丸太のように膨れ上がり血管が浮き出ている。まさしく肉の鎧を全身に帯びているようだ。

 何より目を引いたのはその青い肌の色だ。目に焼きつきそうな原色の青色が肌と一体化している。上塗りにしたわけではなく、それは肌本来の色のようだ。そして目は全体が黒く塗りつぶされたようになっていて、眼孔のところが赤く光っていた。威嚇する唸りを鈍く響かせる口は鋭い牙が並び松明の炎でぎらついている。

「ま、魔物……!?」

 カプリラが戦闘態勢を取る。エナが「ひっ……!」と声を押し殺した悲鳴を上げた。だが声の主だった彼女は手を静かにこちらへ突き出すように上げただけだった。

「争う気はない、時間の無駄だ。……わかったろう。さっさと出ていってくれ」

 そう静かに伝える声に、どこか寂しそうな響きが残っていたのをメグルは聞き逃さない。そして彼女は、わざわざこちらに背中を向けた。わざわざ隙を作ったのだ。出ていくメグルたちに、自分には敵意がないのを伝えるためにあえて危険を冒した。

 その心意気に、メグルは惚れた。

「ちょっと待ったーッ! 君、あたしのバンドでドラムやんない⁉︎ ガタイいいし丁度いい! めっちゃいい! 君しかいない!」

 一瞬時が止まった。おそらくこの場にいるメグル以外の全員が状況を呑み込めていなかったに違いない。構わない。突き進む。

「……は? お前何を言ってる? 話を聞いていなかったのかこいつ」

「いや、バリバリ聞いてたよ。その上で勧誘させてほしい! あたしメグルって言うんだ。音楽とか興味ない? バンドやろうぜ! 丁度君ぴったりのドラムのポジが空いてんのよ!」

 彼女に向かってぐいぐい歩み寄ろうとしたら、服の袖を引っ張られてカプリラとエナに全力で止められた。

「ちょちょちょっ、待ちなさいよ! あんた何考えてんのっ。いくらドラムやってほしいからって、あんなの勧誘するなんていかれてんの!?」

「メグル、さすがに私も賛成できないよ。あの人、どう見ても魔物だし。油断させて襲ってくる気かもしれない。すぐここを離れた方がいい」

「……お前ら、聞こえてるぞ。話が決まったならさっさと出ていけ」

 メグルはカプリラたちの手を優しく解くと、親指を立てて見せる。それからまた彼女と向き合った。

 確かに禍々しい見た目ではあるが、その内側はもう十分すぎるほど垣間見られた。ついでに筋肉に埋もれた胸のわずかな膨らみと、三つ編みにした長い髪に花を差し込んでいるちょっとしたお洒落も。彼女は女性だ。

「まあ、話を聞いてよ。君の話は聞いたんだから、今度はこっちの番。ドラム、やんない? 聞いたことないだろうけど、まあ打楽器の一種だと思ってもらえればいいや。それであたしらと音楽やって、世界中を回ろうぜぃ!」

「……お前、ふざけているのか」

「ふざけてるかどうかは、そっちが決めていいよ。でもあたしは本気」

 また止めようとするカプリラたちを宥めて、メグルは両手を高く掲げて向こうに見せながら彼女にゆっくり歩み寄っていく。予めジャージの上着を開いて何も隠し持っていないことをアピールした。

「何してる。……やめろ。近づくな」

 彼女は前傾姿勢になり、牙を剥き出して唸り声を上げる。びりびりと周りの空気を揺さぶったが、メグルは足を止めない。

 音の違いくらいわかる。彼女の威嚇は敵意がない。あくまでメグルを遠ざけようとするためだけのもの。そして、メグルが近づくのを逆に恐れている音だ。

「大丈夫。怖くない。喰って食べたりしないからさ」

 もう目の前まで来た。近づけば前傾になっているとは言え彼女の頭はメグルより数倍高い位置にある。隆起した筋肉に包まれた肉体で圧を掛けられたら確かにインパクトはあるが、メグルは大丈夫だった。彼女がこちらを傷つける意思がないのはわかりきっている。自分のその直感に賭けた。

 彼女に向かって左手を差し出す。歯を剥き出していた彼女が唸るのをやめた。

「まあ、とりあえず握手と自己紹介から。あたしはメグル。あれ、さっきも言ったっけ?」

 ふっ、と息を吐く音がした。笑い声だとわかったのは、彼女が肩を脱力させて震わせているからだ。緩むとその青い顔は思ったよりずっとキュートで、知性的だった。

「……おかしな奴だな。それを言うためにわざわざ危険を冒して近づいてきたのか。死ぬところだぞ」

「危険? 冒してないよ? あたし会話する時はちゃんと相手の目を見て話すタイプだから。と言っても、だいぶ見上げないといけないか」

 また彼女は笑った。そしてメグルの小さな手を、その大きく分厚い掌で包み込むように握り返してくる。温かくて、ドラムのスティックを持つには良さそうな手だ。

「……名前はコーヴェだ。よろしくな、メグル」


  4


「私の姿を見て逃げ出さないどころか一緒に来いと誘ってきたのはお前が初めてだよ、メグル。度胸があるというより、無鉄砲にもほどがあるな」

「ありがと。よく言われるよ、コーヴェ」

「褒めてないぞ。……カプリラたちはこいつに苦労させられてそうだな。お疲れ様」

「そんなには。でもメグルと一緒にいると楽しいです。音楽のことも教えてくれたし」

 火の魔石を使った簡易コンロのようなものに火を灯し、四人でそれを囲うように座っていた。メグルたちは昔使われていたらしい椅子に座り、コーヴェはそのまま布を敷いた床に直座りする格好だ。コンロには大きな鍋が掛けられており、ビーフシチューのようなものが温められていてコーヴェがそれを混ぜている。いい匂いが周りに漂っていて、メグルの口の中に唾液が溜まってきた。

 雨はまだ止まないまま、しばらく時間が経っていた。話し込んでいるうちに夜も近づいてきたので、コーヴェが夕食を用意してくれると言ってくれたのだ。この前行商人と交換した肉と野菜が余っていて使わなければならないと気を遣ってくれた。コーヴェは自分が狩った魔物の皮などを使い、この辺りを通りかかる行商人と物々交換をしているみたいだった。姿を隠したままの取引だが、応じてはくれるらしい。コンロもその物品だ。

「コーヴェ、気に障ったなら答えなくていいんだけどさ、失礼を承知で聞くね。コーヴェって、魔物なの?」

 メグルが尋ねる。比較的打ち解けてきていたカプリラもぎくっとし、コーヴェから少し距離をとって座っていたエナもあからさまに肩を竦ませた。変な間が空かないように「気にするな。当然誰だって疑問に思う」とコーヴェはすかさず言葉を挟んだ。

「こんな見た目だがな、私はおそらく人間だ。オーク族、と呼ばれていた種族に外見は一番近いように思う」

 言いながらコーヴェは側に持ってきていた本を開き、メグルに差し出した。読み込まれて開き癖が付いているその書物には、確かにコーヴェによく似た巨体で青い肌を持った種族の絵が描かれている。

「それによると、オーク族はとうの昔に滅んだそうだ。生き残りがいたんだろう。だが私は母と父を知らない。物心着く頃から見せ物小屋にいた」

「見せ物小屋……」

 カプリラとエナが苦い顔になる。メグルも何となく察しがついた。

 コーヴェは幼少期からそこで「見せ物」として扱われ、酷い扱いを受けて育った。芸を無理矢理仕込まれ、出来なければ鞭で打たれて食事さえ抜かれ息絶え絶えの中を放置された。過酷な環境で命を落とす者さえいて、コーヴェはその遺体の片付けさえやらされた。

「ある日、人を殺すことを依頼された。見せ物小屋の主人は大金が舞い込むとはしゃいでいたよ。……それで嫌になって暴れて逃げ出した。それ以来、誰かに姿を見られないように各地を転々としている。ここはその一つで、私の唯一のお気に入りだ」

 本がいくらでも読み放題だからな、とコーヴェは山積みになった本たちを眺めて言う。その視線は、本当に愛おしいものを見るようだった。

「だから私はもう二度と人前に出ることはない。わかっただろう? 誘うのは無駄だ」

 彼女の言葉に、メグルはしばし考える。考えて考えて、「……うん」と一人頷いた。

「それでもやっぱり、あたしはコーヴェを誘うよ。一緒にバンドやって、世界を回ろう。見せ物じゃなくて、人として。あたしたちの仲間としてさ」

「わからない奴だな。私のような見た目をしているのが人前に出るとどうなるかわかるか? 嘲笑、混乱。酷い時は攻撃だ」

「ならあたしたちがコーヴェを守るよ。笑われようが何言われようが堂々としてればいい。そう言う人たちはやがて思い知るだろうし。コーヴェっていう人間の偉大さをね」

 コーヴェは鍋を掻き回す手をぴたりと止める。横から見た彼女の表情は、何とも形容し難い複雑そうな感情を表しているようだ。鍋から皿に、シチューを盛り付けていく。

「……できたぞ。お前の言葉には確かに力はあるが、所詮は言葉だ。口では誰でも何とでも言える。現実はそう単純じゃないぞ」

「わかってる。散々苦汁は舐めさせられたさ。でもだから言わせてもらう。──やってみなきゃ、結果はわからない」

 うぉっ、これ美味いっ。コーヴェから手渡されたシチューを一口食べてメグルは目を輝かせた。カプリラも食べて顔を綻ばせ、エナはスプーンで掬ったシチューをためらい気味に眺めていた。

「エナっていったな。大丈夫、人の肉は使ってないぞ。……今はな」

 コーヴェのからかいを間に受けてエナはまた飛び上がっている。こぼしそうなシチューの器をカプリラが慌ててキャッチしていた。

「ま、言葉で説得できないなら、あたしらのやり方を試してもらうしかないね。音楽、とりあえずやってみようぜ!」

 シチューを掻き込んでご馳走様したメグルは立ち上がって拳を突き上げる。ようやく一口シチューを含んだエナが怪訝そうな顔をした。

「音楽って、どうすんのよ」

「決まってるでしょ。ドラム、馬車にしまったままだよね。コーヴェにも演奏体験してもらうのっ」

 言い切ったメグルに呆れたため息をついたエナが、「食べ終わってからでいい? ……おかわりもするかも」と呟いた。


  5


 夜の廃墟の図書館内に、体の内側まで揺さぶるようなビート音が響いている。

 コーヴェがドラムを叩いているのだ。メグルの数時間のレクチャーだけで、彼女はコツを掴んでもう一定のリズムをキープしながら叩き刻むことが出来るようになった。更にはアレンジも加え、自分なりのフィルインまで打ち込んでさえいる。ドラムは一定のリズムだけを刻むだけじゃなく、時々パターンを変えた音を飾りとして入れることがある。すぐ出来る芸当ではないのだが、コーヴェは筋がいいみたいだ。

「コーヴェ、めっちゃいいじゃん! やっぱあたしの目に狂いはなかったみたいだねぇっ」

「こういう楽器の使い方は、見世物小屋時代にいくらでも叩き込まれたからな。まさかこんな形で役に立つとは思わなかったが」

 コーヴェは自嘲気味に言ったが、下地があるのはいいことだ。それに手に入れたドラムのサイズは、どうしてかコーヴェにぴったりだった。やっぱり運命だ。

「よっしゃ! じゃあちょっと曲、みんなで合わせてみよっか!」

 景気付けにメグルが構えたギターの弦を弾いて鳴らす。メグルの音の力は、カプリラのマイク代わりにも、エナのベースのアンプとしても同時に展開できる。音の加工も、エフェクターを踏むみたいに楽器を使っている者の意思で自由に出来る。これで力強いコーヴェのドラムにも負けない音で一緒に奏でられる。

「カプリラとエナは準備いいね。コーヴェ、行ける?」

「いつでもいいぞ。……ちょっと楽しくなってきた」

 口を歪めて笑うコーヴェに、メグルは親指を立てた。いい笑顔じゃん。初めて見せる表情が、彼女が言葉通りに感じてくれていることを伝えていた。

 始まりはメグルから。弾き慣れたフレーズを最初に掻き鳴らす。初っ端からクライマックスで行く。コーヴェには予め自分達の曲を聴いてもらっていたので予習はばっちりだ。

 続けてエナが重低音で入ってくる。二つの弦楽器が誘うように挑発的なメロディを紡ぐ。そして、カプリラの歌。これから来る曲の盛り上がりを予感させてくれるプレリュードの声の旋律。

 三人の音が止むと同時に、一番目立つタイミングでドラムが激しくフィルインして加勢する。力強いビートなのに、ギターとベース、そしてカプリラの歌に沿うようにしっかりとしたリズムを刻んでいる。

 メグルはエナ、カプリラと目を合わせ合う。お互いふてぶてしい顔をしていたと思う。初めてのセッション、完璧とは言わないだろうが、心が打ち震えるような協奏には違いない。コーヴェのドラムの打音が、心臓の高まる鼓動とリンクしていくみたいだ。

 曲はサビに向かって盛り上がっていく。そしてサビ、絶頂。少し走ったコーヴェのドラムが元より激しい曲に更なる疾走感を与えてくれる。サビの高揚感は完璧だ。メグルには見えた。目の前に両手を振り上げて歓声を振り絞る観客たちの姿が。

 二番目のAメロ、Bメロ、サビ。駆け抜ける。メグルがギターの音をドラムの前に合わせに行ったら、彼女も無我夢中でスティックを振るっていた。目が合う。その目が笑って、教えてくれていた。楽しい。間違いなく、全員の気持ちが今一つになっていた。やっぱりこれだ。バンドって、やっぱり面白ぇ。これを一度味わったら、もうやめられるわけがなかった。

 曲が終わる。最後のキメまでバッチリで、全ての音がピッタリと止まって綺麗にシメた。

 一曲だけだったのに全力を出しすぎて、メグルは肩で息をしていた。他の三人も同様で、汗を拭うのさえ忘れていた。メグルは惚けているコーヴェを振り返った。

「どう? これでもまだあたしらのバンドに入らないっていうの?」

 メグルがドヤ顔で言うと、コーヴェが「くっ、くくっ……」と吹き出したように笑い出した。心からの笑みなのだろう。こうして見ると屈託なくて、彼女が邪気がない人間であることがよくわかった。

「……確かに、悪くないかもな」


  6


「……ねえ、マジで行かないの? 絶対コーヴェはウチでドラムやるべきだってぇ。この出会いは絶対意味があるってぇ」

「メグル、しつこいわよ。コーヴェが決めたことなんだから、私たちにどうこう言う権利はないの。諦めなさい」

 コーヴェに追い縋るメグルは、エナに首根っこを掴まれてずるずると引きずられていく。

 朝になった。一晩コーヴェの図書館でお世話になって、翌日。出発にはふさわしい晴れ渡った青空が広がっていた。

 図書館を出たが、コーヴェはやはり行かないと言った。ずっとメグルが説得し続けたが、彼女の意思は固すぎるみたいだ。馬車を出して旅の支度を整えたメグルたちを、図書館の入り口の側で見送る形になっている。

「一応一晩は考えたよ。お前の勧誘は確かに魅力的だが、私は人前に出ない方がいいと思う。混乱を招くだけだろうし、私ももうそういうのはごめんなんだ。悪いな」

「でも、コーヴェさん。このままずっとこうやって隠れているわけにはいかないでしょう。……いいんですか?」

 カプリラが心配そうに声を掛ける。そして彼女は自分のフードを下ろした。彼女の角と左のトカゲのような目を見て、コーヴェが驚いたように眉を持ち上げる。

「……私もこういう姿なんです。でもメグルのおかげで、少し自分に自信が持てた。だから今は隠しているけれど、いつかはこの姿をみんなの前に見せたいと思ってます。コーヴェさんも、良かったら一緒に……」

 カプリラの言葉を、コーヴェは手を前に出して止めた。その顔は優しげに綻んでいる。

「ありがとう。その言葉を聞けただけで満足だ。いつかお前の姿も、みんなに受け入れてもらえるといいな。だが私は、そのみんなにとっては魔物にしか見えないだろう。……頑張れよ。旅の無事を祈ってる」

 カプリラはまだ何か言いかけたが、肩を落として呑み込んでしまう。自分達の言葉では彼女の心を解きほぐすことが出来なかったみたいだ。メグルも諦めて、何度もコーヴェを振り返りながら図書館を後にしようとする。

「コーヴェ! 心変わりがあったらすぐ連絡してよ! 何でもいいから合図ちょうだい! 絶対どこに居ても迎えに行くから……」

 何度目かにメグルが振り返った時だった。村の入り口の方から人の悲鳴の後に、獣の咆哮が空気を震わせたのだ。

「な、なんだぁ……!?」

 馬車はその場に残してメグルたちは声の聞こえた方へ向かう。崩壊した建物を抜けて、曲がり角を折れた先。遠くの入り口の傍で熊のような魔物が両手を広げて仁王立ちしていた。

 その先には、人だ。尻餅をついた男性が熊を前にして怯えていた。今にも襲い掛かられそうだった。

(やばい! 間に合わな──)

 熊が今にも鋭い爪を振り下ろさんとばかりの姿勢には入る。不意に風圧を感じた。高く舞った土埃。

 上を見上げる。大きく跳躍して太陽を隠した影が一つ。コーヴェだ。そのまま熊の目の前に着地し、地面を揺さぶる。それで熊はバランスを崩したようだ。

 グオォッ、とコーヴェは魔物に負けない勢いで威嚇して体当たりを仕掛ける。まともに食らって熊は吹き飛び、崩れた家の跡に転がり突っ込む。すかさず立ち上がってきたそいつが向こうから突っ込んできた。コーヴェは掴み合いになる。

 力比べは互角かと思われた。だが抑え込むコーヴェの腕が雄叫びと共に隆起する。そのまま力任せに熊を地面へと叩きつけた。熊は怯み、そのまま身を翻して逃げ去って行った。

 肩で息をするコーヴェは、襲われた人間が無事なのを目で確認する。そして距離をとったまま、図書館の方へ去ろうとする。

「あ、あのっ! 待ってください!」

 立ち上がった人がコーヴェの後ろ姿に必死に声を掛けた。それでもコーヴェは足を止めなかった。

「助けていただいてありがとうございます! ……あなたですよね。図書館の傍に、お墓を作ってくれたのは」

 その言葉がぴくりとコーヴェの歩みを止めさせた。彼女は振り返らず答える。

「……ああ、確かに私が墓を作ったかもな。迷惑だったか?」

「いえ、とんでもない! 私の村の人たちを、家族を、弔っていただいてありがとうございます……」

 男性はそう言うと指で溢れ出た自分の涙を拭った。

 彼はこの村の出身者だったようだ。幼い頃、ついに村を守る結界の魔石が切れて、ここから出ていかざるえなくなった。だが年老い過ぎた者、重い病気を患ってしまいとても長く当てのない旅に耐えられない者は連れて行けなかったのだ。それに付き添う者たちも、安全を失った村に残った。住む場所を失った難民を受け入れてくれる余裕がある居住地は少ない。村人たちは苦渋の選択をする他なかった。

「幸い私は、すぐにとは行きませんでしたがとりあえず住む場所を見つけられて、新しい家族を作ることが出来ました。でも、ずっとこの村のことが頭から離れなかったのです。母が、残ったこの村のことを」

 彼の母親は病気を患い、ベッドから起き上がることも困難だった。涙を堪える父に手を引かれ、彼は母親に最後の別れをした瞬間を今でも鮮明に覚えているという。

 その面影が夢の中によぎって、彼はついに耐えきれなくなり危険を承知でこの村をこの村を訪れていたのだ。その時に、図書館の窓に微かな灯りが灯っているのを、その傍に村の人たちのための墓が丁寧に作られて並べられているのも見た。全ての墓の前に丁寧に、花が添えられ飾られているのも。

 ちらりと窓に映った巨大な影に驚いてその時は逃げ帰ってしまったが、今回また足を運んだ。そしてようやく出会えた。コーヴェに。

「改めて、ありがとうございました。あなたのおかげで母と、村の人たちの無念も報われた気がします。……私も救われました。これでようやく、前に進めます」

「……お前も、私が恐くないのか。こんな見た目だ。村の人間を手にかけて図書館に勝手に住み着いていると考えないのか」

「考えませんよ。だってそんな人はお墓を作ったり、そこに花を手向けたりしないでしょう。それに今も、私のことを助けてくれた。疑う余地はありますか?」

 穏やかな笑みを男性に差し向けられて、メグルの方を向いているコーヴェは密かに口元を緩めるのが見えた。

「あなたはこれからどうなさるのですか? もちろんこのままここに住み続けていただいて構いません。もうこの村は、誰のものでもありませんから」

 男性の言葉に、コーヴェは振り返る。その表情はメグルからは見えないけれど、後ろ姿はどこか憑き物が落ちたようにすっきりしているように感じた。

「いや、もう出ていくよ。ここは私の居場所じゃない。ここはやっぱり、この村の人たちのための場所だ」

 ──それに私も、行かなきゃいけない理由が増えた。言ってコーヴェはメグルたちの方に向き直る。

「悪いが、これから世話になるぞ? いいな、みんな?」

 エナはやや驚いた表情を見せていたが、メグルとカプリラは目を輝かせて頷いた。

「もちろん! 大歓迎だぜぃ!」

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