3章 take a step, catch the moment

 1


「ねぇ支部長ぅ。何であたしらわざわざこんなとこまで来なくちゃいけないのぉ? めんどくさぁい」

「馬の上だとケツがいてぇよ支部長、それにこいつウンコするしさぁ。別にあっしらじゃなくても、ここの傍に別の騎士団支部あるでしょうよぉ。こんな仕事引き受けないでくだせぇよぉ」

「文句言わない! 上から直々の指令なんだから、私たちの仕事でしょ。うまく行けば出世できるかもしれないわよ」

「出世なんかどうでもいー。あたしら楽するために騎士団入ったのにぃ」

 先ほどから絶えず文句しか言わない部下二人に、エナ・フィルドリンは大きくため息をついた。

 部下の男の方はボイル、女の方はドファという名だ。二人とも極度の面倒くさがりでまともに仕事はしないし、ボイルは勤務中に賭け場に行くしドファは男と会っているようだ。騎士団の人材としては最悪だが、それを上司として制することができない自分に、エナは不甲斐なさを感じる。舐められているのだ。自分が女だからか、家柄のせいで世間知らずのお嬢ちゃんとでも思われているのか。

(出世して騎士団で上位の役職につければ、こんな口を聞く奴らもいなくなるはず。今回のがその足がかりになるといいけど……)

 エナは馬の手綱を強く握りしめる。

 久しぶりに届いた騎士団本部からの文書は、謎の楽器と歌でよくわからない音楽を奏でる女と少女の二人組を探し出して調査を行えというものだ。エナもその二人組の噂は耳にしたことがあった。隣のビギング大陸では知らないものはいないというくらい有名人らしい。

 彼らの奏でるロックというよくわからない音楽を聴くと、元気が出るとか勇気が湧いて来るとかそんな話だ。胡散臭いし、目的がよくわからない変な連中のようだ。だからこそ、騎士団も調査したいのだろう。確かに大陸中にその存在が広がっている影響力は無視できないということだ。いずれ世界中にも知られていくかもしれないし。

「町が見えてきた」

 エナは乗っている馬を一度止め、前方の町の存在を確認する。港町、アクアドル。エナの任されている支部の管轄で、ほとんど毎日見回りと買い出しに出向いている見知った場所だ。あちこちで聞き込みを重ねた結果、調査対象の二人組はあの町にいるらしかった。それを突き止めるのに二日ほど費やしてしまった。急がねば。

「支部長ぉ、とっとと町の方行きましょぉ。あたし休憩したーい」

「あっしもうまいビールが昼間っから呑みたいっすよぉ。酒場行きましょ酒場ぁ」

「……あんたたちねぇ。せめて仕事する振りくらいしてよ。仮にも騎士団の人間でしょ?」

「こんな仕事、真面目にやる方が馬鹿を見るんでさぁ。どうせこんな僻地にいるあっしらなんか、誰も目も当ててくれねぇや」

 ボイルの言葉に、エナは唇を噛んだ。正直、何も言い返せない。エナ自身にもその実感があった。

 この地域の治安を管理する、騎士団の支部に配属されてもう三年が経つ。エナはもう十八になっていた。養成所からすぐ支部長の役職に任命され、胸を高鳴らせて向かった配属先に辿り着くとエナは愕然とさせられた。

 大陸の端の僻地、小高い丘の上にぽつんと一つ建っていた騎士団支部とは名ばかりの物置のような建物がエナの配属先だった。しかも配属されているのはエナ一人だけであった。

 長い間使われておらず風化した詰所を自分で補強して掃除しつつ、エナは地道に毎日周りの集落や町をパトロールして回った。エナ一人の支部なのに、請け負う管轄は広く点々と存在する人の拠点をいくつも見て回らなければならなかった。家から馬を連れてきて本当によかった。それでなければこの仕事は成り立たなかっただろう。

 三年目にして、ようやく配属されてきた部下二人はこの始末。いい加減心が折れかけていたエナに、久方ぶりに与えられた騎士団上部から直々の指令。張り切らずにいられない。

(私はさっさと本部に行きたいのよ……。絶対にあいつを、あの家を見返してやるんだから……っ)

 さっさと行くわよ、とエナは馬の足を速めて先行する。ボイルたちがまた文句を言いながらそれに付いてきた。


  2


 アクアドル、港町の中はいつもより妙な活気に溢れているような気がした。どこか町内の住民がわくわくとしているような、そんな空気をエナは察している。

 アクアドルは海沿いの崖を切り開き、そこに階段状に人のための建物を建てたような地形をしている。町へは上から入ったので、エナは上の方から海沿いに向かって二人組を探すことにした。

(……ったく、あいつら……ほんと信じらんない……)

 エナの後ろにボイルもドファも付いてきていなかった。馬を繋ぎ止めた後、彼らは別行動をすると言い出してきたのだ。

『あっしらは酒場で住民の話を聞いてみやすねぇ。支部長は町の中を探してください』

『はぁ? ちょっとあんたたち、サボるつもりでしょっ。これは上層部直々の……っ』

『そんなの適当に報告だけすればいいでしょぉ? どうせ大した仕事じゃないんだしぃ。いい男いるかなぁ、楽しみぃ』

 エナをまったく相手にせずに酒場のある方へ消えていく。苛立ちで地団駄でも踏みたくなったが堪えた。私が本部所属になったらどうなるか、覚えておきなさいよあいつら。

 アクアドルの住民たちに聞き込みをしつつ辺りを捜索する。顔見知りの人を含め、彼らは興奮した面持ちだった。話によると、やはり二人組はここに来ているようだ。

「やあ、エナ。今日もご苦労様。すごいよ、ここにも噂の二人組がきてさ、歌を聴かせてもらったんだ。あんなに心震わせられたのはいつ以来だろう」

「すごいのよ、あたしったら聴かせてもらったあともう涙がボロボロこぼれちゃって……エナもぜひ聴かせてもらった方がいいよ! あの二人組? 今ならまだ砂浜の方にいると思うけど」

 砂浜だ。エナは足早に向かう。

 それにしても、二人組のことを話す住民たちは皆一様に高揚した様子を見せていた。楽しそうだ。最近は結界の魔石のための徴税のせいで首が回らないと浮かない顔を見せた人たちも日差しの下で明るい表情を浮かべていた。

 そんなにすごいものなのだろうか、彼女らの音楽というやつは。どうして各地を回ってそんなものを広めるようにしているのだろう。お金のためならもう少し効率の良いやり方があるだろうし、新手の宗教とか主張運動という感じではない。まるでただ、各地の人たちを楽しませようとしているだけみたいだ。

 目的は未だ不明だけれど。久しぶりにこの町の心からの笑顔を見て、エナはまだ見ぬ二人に対して嫌な印象はあまり受けなかった。

(……聞こえる。歌と、これは楽器の音……?)

 砂浜に差し掛かった。うっすらと聞こえてくるこれが、二人組の音楽だろうか。どうやらここにまだいるみたいだ。一応よからぬことを考えていない連中とは限らないので、エナは腰に携えた剣をいつでも抜けるように構えておく。

 それにしても、不思議な音だ。楽器の音はまるで宙をぴりぴりと走る雷のように鋭いが、どこか耳障りの良い優しさを帯びている気がする。

 そしてそれに寄り添うような歌声。綺麗だ、とエナもうっとりしそうになる。断続的に聞こえる波の音さえもそれに調和するようだ。透明で、自然の奏でる音すらも引き連れて行きそうな声の透き通りだ。

 正反対に聞こえるその二つの音はまるで元から一つだったように合わさり、音楽を響かせている。こんなにも心に訴えかける旋律が作れるものだろうか。もっとちゃんと聴きたいと、無意識にエナの足取りは速まっていた。

(……いた!)

 海のそばに人だかりが出来ている。その熱を帯びた視線を集める先、妙な弦楽器を持った女と、ローブを纏いフードを目深に被った子供らしき背丈の人物が並んでいた。女が楽器から歯切れのいい音を鳴らし、フードを被っている方がそれに合わせて歌っている。歌声からすると、やはり少女のようだ。間違いない、与えられた情報と一致する。探していた二人組だ。

(でもなんか……実際に耳にするとつい聞き入っちゃうわね……。あの噂、誇張されてたわけじゃないんだ)

 今まで耳にしたことがない音楽というのもあるが、この旋律がどんな進行をするか気になってくる。歌と楽器の音、似つかないその二つが並走するとどちらが欠けても不完全な形に感じてくるのが癖になるというか。……いけない。このままだと観衆たちの盛り上がりに乗せられてしまいそうだ。

 気を引き締めないと。そう思いつつも観衆に紛れて気を窺っていたら、エナもいつの間にか聞き入っていて気づけば楽器を持った女が「ありがとー! 今日はこれで終わり!」と締めの挨拶をしていた。拍手喝采の中、撤収の準備をしてさっさと離れて行こうとする二人組を、エナは人の間をすり抜けて追いかけた。

「ちょっ、ちょっと待った! そこの二人、止まりなさい!」

 思ったより人が多くて見失い掛けたが、町へと上がる海辺の坂道でようやく呼び止めることが出来た。人目もなく、結果的にはちょうどよかった。

「ん? どしたの? 何か困り事でもあった、お嬢さん」

「……メグル。ねえ、メグル。この人この町の人じゃないよ。騎士団の人だ」

 楽器のケースを背負った変な格好の女がエナに微笑み掛けてくる。その服の袖を、ローブの少女が引っ張って耳打ちしていた。

「そう、困り事よ。私はお嬢さんじゃなくて、このショウシー地方騎士団支部支部長、エナ・フィルドリン。あんたたち、何か妙な布教活動を行ってるわね?」

「しぶしぶ……何て? まあ騎士団ってことは、警察みたいなもんかな。お巡りさん、あたしら何も悪いことしてないですよ。ただ音楽活動で貧乏ツアーして回ってるだけなんで」

「お巡りさん……? 何それ皮肉? とにかく、あんたたちの怪しい行動を調査しろって上から指令が来てるの。しばらく見張らせてもらうわよ」

「えぇっ、ってことはあたしら容疑者ってことぉ? ライブの後にお捻りはもらったりするけど、任意だしあたしらから求めたことないですよ。無罪潔白! 逮捕しても旨味なしです!」

「メグル、たぶん何言っても無駄だよ。この人たちの権威は絶対だから。変なことしたら本当に連行されちゃうかも。まだ監視くらいっぽいから、しばらく好きにさせとこう」

「聞こえてるけど? とにかくその通りだから。名前、二人とも教えなさい。もし連行するとき番号で呼ばれるのはいやでしょ?」

 渋々名乗った楽器の女の方はメグル、フードの少女はカプリラというらしい。騎士団の人間として久々に優位に立つことが出来て、ちょっとだけエナは調子に乗っている自覚があった。こんなんだからまだまだなのね、私は。この二人は悪い感じはしないけれど、どんな人間かなんて誰にもわからない。支部長としてしっかりしなくては。

「一旦部下と合流するわ。たぶんあいつら、酒場で待機してると思うから。逃げようとしないでね、無駄だから」

「完全に容疑者扱いじゃん……」

 メグルと名乗った女はあくまで不服そうだった。こっちだってもちろん気が乗らないが、指令は指令。それに昇進が掛かっているかもしれないのだ。申し訳ないがしばらく付き合ってもらうことになりそうだ。

「じゃあ、さっさと行きましょう……」

「エナ! エナ! 見つけた! おい! 待ってくれッ!」

 二人を連れて酒場に向かおうとすると、ふと誰かがエナたちのいるところに飛び込んできた。フィングという、ここで漁師を営む男性だ。息を切らし血相を変えて、尋常ではない様子だった。

「フィングさん? どうしたの、何かあった?」

「エナ、ああ、エナ! 大変なんだ。俺の友達のキナイ、知ってるだろ。あいつ今月は徴税のせいで金が足りないって、金目のものを探しにジャデンの森にどんどん入っていっちまって……! 止めたんだけどあいつも切羽詰まってたからよぉ!」

「お、落ち着いて。ジャデンの森? キナイさん、あそこに一人で入って行ったの⁉︎」

 エナは動揺する。キナイ、というのはこの町のよろず屋の主人だ。そしてジャデンの森はここから少し離れた場所にある森で、魔物の棲家になっている危険な場所だ。

 この辺りの住人は危険だとわかっているから普段なら誰も近づくことはないが、キナイは金のために自分の身を顧みず何か売り物を求めて中へ入って行ったのだろう。仕方のないことだった。彼は子供が生まれたばかりだし、結界の魔石の徴税は厳しくなる一方だ。ハイバルト国に本部を置く騎士団に所属するエナとしては、心苦しいがどうすることもできない歯痒さを感じる。

「頼む、エナ。騎士団の人なんだよな。こんな時に頼るのはすまないが、今は他に頼れるあてがなくて……」

「そうよね。そうだけど……」

 躊躇ってしまう。あの森に行くなら、絶対魔物との戦闘は避けられないだろう。だが早くしないと、キナイの身に何かあってはいけない。

「わ、私たちも! 一緒に行きます!」

 不意にフードを被ったカプリラという少女が手を挙げて声を上げた。エナは呆気に取られてしまう。だがフィングは声を昂らせた。

「そ、そっか! 君たちも旅の人だから強いんだよな! 頼むよ! キナイの奴を助けてやってくれ!」

「ちょ、ちょっとカプリラさん、だっけ? いきなり何言い出すのよ」

「カプリラがいいなら、あたしは文句なしかな。この子めっちゃ強いから。ちなみにあたしは全然戦力にならないよ。ギターは弾けます!」

「あんたはちょっと黙っててくれるメグル? もう、どうしたらいいのよ……」

 何故か同行するのに乗り気な怪しい二人組と、魔物のいる森の中へ。頭を抱えたくなる事案だけれど、今のエナに選択肢はなさそうだった。


  3


「はぁ……まったくどうしてこんなことになるのかしら……」

 思えばこの地区の支部に配属されてから、ずっと貧乏くじばかり引いている気がする。そんなことを今更思い返したってしょうがないが、愚痴くらい言わせてほしい。いずれは来るだろうと思っていたが、まさか今のタイミングとは。本当に間が悪いが、悪い人は誰もいない。なら責務を果たすしかないのだ。

「緊張してんの、保安官? 大丈夫だって、カプリラがいれば百人力だから。それに君自身だって相当強いんでしょ、騎士団だし」

「何なのホアンカンって。何であんたはそんなにお気楽なのよ。少しは緊張感持ちなさいよ、メグル」

「あたしは基本楽観主義だから。何とかなることは何とかなる精神! まあ、ならないことはならないけどね」

「どういうことよ……」

 馬に乗り平野を進むエナに、同じく一緒の馬に乗ったメグルとカプリラが付いてきている。手綱を握っているのはメグルだ。「乗馬クラブの経験がこんなとこで活きるとはなぁ」とかよくわからないことを言っていたけど、彼女は難なく馬を操っていた。ほんと、何者なのこいつ。ギターとか言う変な楽器も持ってるし。上下赤くて動きやすそうな変な服装だし。

 目的地はキナイが入って行ったというジャデンの森だ。この辺りの魔物の棲家になっている危険な場所。一応部下のボイルたちにも声をかけようと思ったが、どうせ二人とも酔っ払って役には立たなそうだし時間もないので馬だけ一頭借りてきた。道中、エナはずっと気が重く口数も少なくなってきた。目的地が近づくたびプレッシャーが増してくる。何度も腰の剣の位置を手で確認してしまう。

「あっ。ジャデンの森ってあれじゃないですか、エナさん」

 メグルの後ろからひょっこり顔を覗かせたカプリラが声をかけてきた。目を凝らせば木々の密集した不穏な森の入り口が見えてきている。鬱蒼と覆い茂った草葉のせいで暗く、まるでそれ自体が大きな化け物の口に見えた。エナはぞくっと身震いする。

「馬車……」

 森に入るところに、小さな馬車が馬と放り出されていた。間違いなくキナイのだ。仕入れの時に使っていたのを見たことがある。

「急ぎましょう。キナイさんを早く助け出さないと」

「ちょ、ちょっと……!」

 ここから先は馬では入れない。降りて入り口の前で足を止めるエナを追い越し、カプリラとメグルは躊躇なく中へ入っていく。付いていくしかなかった。

 森の中はまだ日が高いにも関わらず一切の光が遮られていて薄暗い。鳥や虫の音さえ聞こえなかった。彼らもこの森に凶暴な捕食者がうようよしているのは知っているのだろう。うるさいのはエナ自身の心臓の音のようだった。

「い、今何か動いた! ま、魔物……!?」

「エナさん落ち着いてください、風で茂みが靡いているだけです。まだ魔物たちの気配はない」

 明らかに子供のような背丈のカプリラの方がずっと冷静のようだ。フードもずっと被っているから顔もわからないけど、この子も何者なんだろう。

「大丈夫、エナ? さっきから顔色悪いけど」

「エナって呼び捨てにしないで。平気よ、ちょっと緊張してるだけ。逆にあんたたちは落ち着きすぎでしょ」

「まあ、カプリラを信頼してるから。エナも町の人たちから信頼厚そうだったじゃん。早くキナイさんを連れて帰って、あの期待に応えてあげなきゃね」

 元気付けるつもりなのか、メグルがエナの背中を軽く叩いて微笑みかけてくる。確かにアクアドルの町の人たちもフィングから事情を聞いたのか、エナを見かけるなり心配してくれたり傷薬や水などを受け渡したりしてくれた。あの人たちはみんな顔見知りで、馴染んでくれたエナにも優しく接してくれている。確かにそれには応えなくてはいけないだろう。あの人たちの接し方のおかげで、メグルたちも騎士団であるエナに対する警戒を解いてくれたみたいだ。ちょっと親しみすぎだけれど。

「……待って。何か来る」

 不意に先にいたカプリラがエナたちを止めた。エナが反応する前に、木の間から大きな影が突然飛び出してくる。

「ひゃあっ! な、何なの⁉︎」

 獣の腕が翼に変化したような魔物だった。両腕を羽ばたかせて飛び上がり、足の鋭い爪でこちらの肉を抉ろうと迫ってくる。メグルに引っ張られてエナは何とかそれをかわせた。

「大丈夫エナ⁉︎」

「あ、ありがと……で、でも魔物が……!」

 魔物は吠えながらまた舞い上がる。この場所は開けているから木々が飛行の邪魔をせず、こいつにとっては絶好の狩場なのだろう。待ち伏せていたのだ。

 エナは腰の剣を掴む。柄を握り込むも、手が震えて引き抜けない。魔物はまた迫ってこようとしているのに、足がすくんでその場から動くこともできなかった。

「カプリラ!」

 メグルがいつの間にか取り出していたギターという楽器を掻き鳴らしながら叫ぶ。魔物の注意を自分に向けさせるつもりか。魔物がメグル目掛けて飛びかかろうとした時だった。

 小さな影が飛び出した。魔物が来ようとしたルートに先回りして真横からぶつかるように。カプリラだ、と思った時には彼女は地面に着地していて、血飛沫を上げた魔物が落ちてきた。

 倒してくれたのか。安堵から、エナはヘナヘナとその場に尻餅をつく。完全に腰が抜けてしまっていた。

「え、エナ、平気? 怪我はない?」

 メグルが駆け寄ってくる。こんな無様な姿は見せておけないと手を借りないで立ちあがろうとするも足腰はがくがくで、仕方なく彼女の手を借りて木に支えられながら立ち上がることが出来た。

「……エナさん、もしかして。魔物と戦ったこと、ないんですか……?」

 カプリラが二本の短剣を納めつつ遠慮がちに尋ねてくる。もう観念するしかなさそうだった。言い出す声さえ、情けなく震えて上擦っている。

「そ、そうよ。みっともなくて悪かったわね。今までだって魔物の気配を感じただけで全速力で逃げてたわよ。戦うなんてもっての外って感じだったわ。今だって、いつ襲われるかと思ったら怖くてたまらない……」

 養成所では戦闘訓練もあったし今だって鍛錬は毎日欠かしたことがない。だが魔物と実際に戦ったことは一度もなかった。この辺りの地域は比較的魔物は少なく、エナが配属されるまで騎士団の管理はたまにある遠征派遣以外はほとんどなかったくらいだ。それに魔物が活発化する夜の時間帯や暗い場所をエナは避けて行動していたので、その姿を確認するのも稀だったのだ。逃げるだけで事足りた。今までは。

「エナ。今の自分のこと、不甲斐ないと思う?」

「……は?」

 唐突にメグルが聞いてくる。馬鹿にしているのかと憤りそうになったが、彼女がこちらを見つめてくる眼差しは真剣すぎるくらいに真っ直ぐだった。

「まあ、仮にも騎士団の人間として魔物一匹にビビっちゃってるのはそう思うけど……」

「なら、克服しよう。自分を乗り越えるんだ。今日、たった今」

「はぁ!? そんなの、どうすればいいのよ……?」

「魔物を倒して、キナイさんを助けよう。エナがその剣で戦って勝てばいいんだ」

「私が……」

 腰に差した剣の柄を右手で握り込んで確かめる。騎士団の養成所に入ることが決まり家を出ることになった朝、兄のケイジュからもらった剣。「これは僕の代わりだ。お前を必ず守ってくれる」と言って手渡してくれたあの笑顔は、今でも鮮明に思い出せる。あのクソみたいな家で、彼だけがエナの心からの味方だった。

 はっとなった。私、よく知りもしない変な奴に何アドバイスなんか受けてるのよ。背筋を直し、メグルとすれ違うように歩き始める。

「……ふん、私を誰だと思ってんの。ショウシー地方騎士団支部支部長なんだから。これくらいの壁、簡単に乗り越えてみせるわ」

「うんうん、その意気だ。ロックだねぇ」

 満足げに笑っているメグルに、すっかりエナは毒気が抜かれていた。変だけれど、悪い奴ではないのかもしれない。早くもエナは、この謎の二人組に好感を覚え始めていた。

「みんな、こっち来て! 誰かのカバンが落ちてる」

 カプリラの呼びかけで集合する。地面にカバンが転がっていた。薬草やら飲み水の入れ物やらの中身がぶちまけられて、布地自体も大きく避けてしまっている。血の跡がないのが不幸中の幸いのようだ。魔物と遭遇して慌てて逃げ出したのか。間違いなくキナイのもののようだ。

「あれ……」

 メグルが指を差した先。切り崩された岩壁に大きく裂け目が出来ていて、洞窟になっている。その付近にハンカチが落ちていて、キナイはそこに逃げ込んだらしい。ハンカチは妻から贈られたものだと前に話していたのを聞いたことがある。拾っておく。

 暗い森の中に、更に深い闇に閉ざされた洞窟。どう考えても危険な匂いしかしなくて、エナはまた喉を鳴らした。


  4


「行くしか、ないのよね……」

「大丈夫。あたしらがサポートするよ。主にカプリラが。どんと構えてこ」

「はいはい……」

 肩を優しく叩いてくるメグルのお気楽さに呆れるが、少し緊張感は紛れたかもしれない。早く行かないと、手遅れになるかもしれない。深呼吸をして、エナが先行し洞窟へと踏み込む。

 横幅は広く、先の方はどこまでも暗闇が続いていて思ったよりも先は長そうだ。携帯していた松明に火をつけ、エナは進む。隣には短剣を既に構えて警戒しているカプリラが、後ろを見ているのはメグルだった。武器の代わりにギターを装備している。それ、何の役に立つのよ。さっきは敵の注意を引いて助けられたけれど。

「キナイさん? いるの?」

 敵を呼び寄せてしまうかもしれないが、呼びかけてみる。反響しているのでそれなりに聞こえそうだが返事らしいものは返ってこない。いよいよ嫌な予感がしてきたが、血の跡はやはりない。無事なはずだ、大丈夫。竦んでしまいそうな足を進めた。

「ここは……」

 突然開けた場所に出た。松明の明かりが周りまで行き通らないほどで、円状に広がった空間のようだ。天井も高い。光が届かない陰に、何が潜んでいるかわからない。心臓がいよいようるさくなってきた。

「エナさん! あの人……!」

 カプリラが前の方を見ながら言ったが、エナには暗すぎて見えなかった。この漆黒の中で彼女だけ見えたのか? 予備の松明を奥に投げ込んでみる。

「いた!」

 岩壁のところ、洞穴のようにぽっかり開いた小さな隙間に誰かが倒れていた。キナイに違いなかった。動かないが気を失っているだけかもしれない。駆け寄ろうとする。

「待って!」

 カプリラがエナの腕を引いた。途端、獣の咆哮が轟き渡る。上だ。

 松明を掲げると、天井付近に無数の光る目があった。さっき森で遭遇した翼の魔物だ。足の鉤爪で天井を掴み、ぶら下がっていたのだ。そいつらが一斉に翼を開き、牙をぎらつかせていた。

「きゃあぁっ!?」

 群れの一匹がエナ目掛けて飛びかかってきた。そのおぞましい形相に悲鳴を上げる。体が固まっている。動けない。

「こんにゃろーが!!」

 メグルが飛んできた奴に向かって松明をぶん投げた。当たって大きく燃え上がった。周りの奴らにも火が燃え移り、辺りは水でもひっくり返したような騒ぎになる。翼の獣たちが一斉に飛び回り始めた。

「気をつけて! 数が多い! エナさんもお願い手伝って!」

 カプリラが複数用意していたらしい松明を周りにばら撒く。その明かりで大分周辺を見渡せるようになった。感心している暇はない。飛び回る魔物たちがいつ鉤爪を振り下ろしてきても不思議じゃなかった。

(こ、こんなのどうすれば……っ。無理よ、どうにもならないっ。逃げなきゃ……っ)

 全身が恐怖で震え出している。噛み締めようとした歯がかちかちと鳴った。死にたくない、とはっきり感じた。ここで死ぬくらいなら逃げ出して、無様な姿を晒し続けてこの場所で生きる方がよっぽどマシだ。嫌だ、逃げよう、ダメだ足が竦んでいる。思考がまとまらない。

「エナさん! しっかり! 剣を抜いてっ。このままじゃやられちゃう!」

 カプリラが叫んでいる。彼女は敵が飛びかかってくるのに合わせて跳躍し、短剣で素早く斬りつけ返していた。一匹倒しても犇くぎらついた目は一向に減っている気配がない。

 絶望だ。どうせ剣を抜いたって、私には彼女のような戦闘力も立ち向かう勇気だってない。完全に心が折れていた。足から力が抜け、すぐにでもその場にうずくまりそうになった。

「エナ! 頑張れぇ! 自分に負けんな! 大丈夫! 絶対勝てるぅ!」

 メグルのでかい声が轟いた。同時に、ギュォオーンッという稲妻めいた小気味のいい音が辺りの空間に伝播する。

 エナはメグルを振り返る。彼女はギターを構え、まっすぐこちらに向かって熱気さえ感じられるような眼差しを送ってきていた。更に右手を大きく振り上げると、音を隙間なく次々重ね合わせるようにギターを掻き鳴らし始める。魔物たちでさえ呆気に取られて動きを止めていた。

(何してんのあいつ……? あれ、震えが止まった……?)

 歯の根が合わないほどだった体の怯えが治まっていた。嵐の後に日差しが雲間から溢れてくるように、メグルのギターの音を聴いていると強張りが解けていく。剣を握り直せた。勢いよく引き抜く。

(抜けた……! いける……!?)

 構える。心なしか、魔物の群れもエナの剣の刃が露わになったことで怯んだような気がする。なけなしの勇気が、一気に湧いてきた。

「エナさん!」

 メグルのギターに合わせて、カプリラも歌い出す。綺麗な響きなのに、メグルの音と合わさるだけで馬の蹄が鳴るような力強さを帯びていくみたいだ。聴いてる者を内側から奮わせてくれる。

 魔物の咆哮はもう聞こえない。代わりにエナの勇気を讃える音楽が心を満たす。エナはそれに同調するように叫び、剣を振り上げながら敵の群れに突っ込んだ。

「うおぉおおおおっ!」

 力が溢れてくる。噛みつこうと牙を剥き出しにした魔物の口に刃をぶつけた。頭が裂け、どっと巨躰が地面に倒れ込む。エナは肩で息をしながら、ぴくぴくと震える魔物が動かなくなるのを見ていた。

「や、やった……?」

 気を抜く暇はなかった。まだ大勢いる敵が一斉に叫び出し威嚇する。一瞬竦んだが、まだメグルのギターの音は鳴り止んでない。カプリラも歌を口ずさみながら隣に並んでくれた。大丈夫、いける。彼女たちの音楽がエナに勇気をくれた。

「かかってこい! クソ野郎どもッ!」

 カプリラと一緒にエナは襲いかかってくる魔物たちに正面から立ち向かっていく。メグルのギターの音が後押ししてくれている。夢中で剣の刃を振るった。

『どうせこんな僻地にいるあっしらなんか、誰も目も当ててくれねぇや』

 ボイルの声が頭の中でした。それごと魔物を刃で斬り飛ばす。

『支部長に配属おめでとう、フィルドリン君。よかったじゃないか、危険がなさそうなところで。女の君が活躍するにはうってつけの地区だろう? フィルドリン家の人間として誇りを持って行動したまえ』

 この地区に配属されるのが決まり、抗議しに行った時の騎士団長の言葉が蘇った。あの時は何も言い返せなかった。今は好きなだけ暴言を吐いてやる。複数の敵を、素早く剣で捌いて斬り倒した。

『騎士団にいくなどと……お遊びはほどほどにしろよエナ。二十歳になるまでに戻ってこい。その間に名家の婚約者を見つけておいてやる。フィルドリンの女として生を受けたからには、お前もわかっているだろう』

 家を出ると伝えた時、父親の別れの挨拶がそれだった。あの家の価値観はそれでしかない。フィルドリン家のために。クソ食らえだった。

「私は私でいたいのよ! その権利が私にはある!」

 溜まり込んでいた思いが奮いの叫びとなって喉を迸る。周りを覆い囲もうとした魔物たちを、体を回転させて振り回した刃で斬り刻んだ。

 まだギターは弾き響いている。カプリラも歌いながら戦ってくれている。どんな訓練の時よりも体が軽い。彼女らの音楽には不思議な力がある。エナはそれを実感していた。

 向かってくる敵を、斬る、斬る、斬る。過去に浴びせられた言葉も、幻影も一緒に振り払う。勇気だ。大丈夫、乗り越えられる。メグルの声とギターが上書きしてくれる。

(えっ……?)

 不意に世界が、青く暗転したような気がした。暗い空間に青い霧のようなものが立ち込めている。何故かカプリラの歌声が先ほどよりもはっきり聞こえた。

 よくわからないが、魔物の動きがゆっくりになって見えた。極度の昂りで集中力が増し、時間の感覚を遅く感じさせているのか。よくわからないがチャンスだった。

「畳み掛ける!」

 上段に剣を構えて敵を撃退する。ラストスパートだ。一気に斬り進んで魔物の群れを一掃していく。

 身軽に跳び上がったカプリラが魔物を蹴り飛ばす。エナはすかさずその首に刃の切っ先を突き込む。彼女と一緒に前後で敵を挟み、同時に剣撃を叩きつける。

 メグルのギターを聞き自身も歌を口ずさみ始めてから、明らかにカプリラの動きもキレが増していた。連携も完璧だ。楽しい。命懸けの状況は変わらずだが、もう恐れはない。誰かと一緒に戦えるというのはこんなにも心強いことなのだ。

「……終わった?」

 急に静かになった。魔物の気配は消え失せ、広い空間に響いているのは自分達の荒い息遣いだけだ。地面には事切れた魔物の死骸が山積みになっていたが、もう闇に蠢く翼も鋭い眼光もない。どうやら倒し切ったようだ。信じられない。私が魔物と戦って、切り抜けられたなんて。

「キナイさん!」

 カプリラが隙間の中で倒れているキナイに駆け寄った。しゃがみこんで確かめた後、彼女はこちらを振り返って親指を立てた。大丈夫のサインのようだ。エナも近くまで行ったが怪我もなく無事にここへ逃げ込んでくれたらしい。ようやくほっと息をつけたような気がした。

「あれ……メグルは……?」

 カプリラが呆然とした様子で周りを見渡す。やけに静かだと思ったら、メグルの姿がない。松明を手に探し回るが見つからなかった。

 魔物にやられたわけではない。でも突然彼女は消えた。

「メグル! メグルッ! 返事して!」

 カプリラの声が暗闇にこだました。


  5


 気づけば何もかも青い世界に迷い込んでいた。

「カプリラ? エナ? どこなのここ……」

 メグルの呟く声も反響せずどこまでも続く空間に吸い込まれていく。青い霧が濃く立ち込め、果てがあるとも知れない。先ほどから歩き続けているのに一向にどこにも辿り着けなかった。

 さっきまでいた洞窟とは似ても似つかない場所だ。カプリラたちの戦闘を応援していたら、いつの間にかメグルはここにいた。

(もしかして、元いた世界に戻るのか……?)

 何となく、この雰囲気に覚えがあった。この世界に来る前、この青い霧に包まれたことを今思い出した。帰ることができるのだろうか。だがメグルは複雑な気持ちだった。まだあの世界でやり残したことがある。こんな中途半端に投げ出したくなかった。

「……なんだ? 歌……?」

 どこか遠くから、歌声のようなものが聞こえてくる。不明瞭だが、どこか耳にしたことがあるような気がする。カプリラのそれに妙に似ていた。音の方角を探って進んでみる。

「これは……」

 導かれた先、霧はその空間だけ切り取るように開かれていた。そこに置かれているものを目にして、メグルは驚かずにはいられなかった。


  6


「メグルッ! どこにいるの⁉︎ 返事して!」

 カプリラが洞窟内のあちこちに呼びかけ、辺りを探し回っている。だがここまでは一本道だったし、メグルがわざわざこちらに黙って外に出ていくことなどありえるだろうか。後は騒ぎに乗じて魔物が連れ去った可能性だが、そんな形跡もない。どういうことだろう。

「私、入口の方を探してくるわ。カプリラ、キナイさんをお願い」

 エナはいてもたってもいられずそう言って洞窟の外に向かおうとした。その時だ。

「あっ! ……メグル?」

 カプリラが大きな声を上げたので振り返る。いつの前にかメグルがこの空間の中央に立っていた。ぽかんとしたまま固まっているのが何だか間抜けで、一気に肩の力が抜けた。特に変わった様子もなく、無事そうだ。だが。

「メグル、どこ行ってたのよ。手に持ってるそれ、何……? 傍にあるそれも……」

 エナが声をかけると、メグルも今自分が手に持っているものに初めて気付いたように目を落とした。

 おそらく楽器だ。メグルのギターと形状は似ているが、高さが結構あり槍のようにも見える。弦も太いものが四本しか張っていないようだ。

 そして足元に置かれている、複数の丸い筒のようなもの。皮の膜のようなものが貼られていて、三つに分かれている。膜が張られている面が横になった一際大きな筒の上には、更に二つほど筒がセットされている。それと、金属でできた小さな盾にも似たものが四つ周りに配置されている。一つは二枚皿が合わさり、まるで貝殻のようになっていた。これも楽器だろうか。

「これ、ベース。こっちにあるのはドラムだね、ドラムはちょっとデカいけど。どっちも楽器だよ、フルメンバーのバンドで使うやつ」

「どういうことメグル? それ、どこで見つけてきたの?」

「いや何か気づいたら青白いとこにいてさ、そんでももって歌が聴こえてきて。それを辿った先にこれがあってさ……んでまた何故かここに戻ってきてた」

「はぁ? 訳わかんないんだけど? そうはならないでしょ」

「あたしもよくわかんないけど、とにかくこうなったんだってばぁ!」

 メグルに開き直られて、エナはカプリラと顔を見合わせた。状況が呑み込めないが、彼女の説明力も絶望的すぎて理解はできなさそうだ。

「エナ、ちょっとこのベース持ってみてくれる。んで、弾いてみて」

「はぁっ!? あんたいきなり何言い出すのよ。いくらなんでも急すぎない?」

「ぴんと来たんだ。これ、多分エナのだと思う。弾いてみて。適当でいいから」

 ベースと呼ばれた楽器を差し出してくるメグルは真剣な面持ちだった。こいつのこんな視線に弱い。結局エナは受け取り、ストラップと呼ばれているらしいものを肩に掛けてベースを前に構えてみる。メグルに教えてもらったネックと呼ばれる細い胴の部分を握ってみたら、何だろう。妙にエナの手に馴染んできた気がした。

「言っとくけど、期待しないでよ。こんなの一回も弾いたことないん……!?」

 メグルがすかさず自分のギターを鳴らし始める。すると、エナの手が勝手に動いた。扱い方などまったく知らない。なのに勝手に指が弦を抑え、左手がボディの部分にかけられて指が弦を弾き始めている。

 ちゃんとギターに沿った音を奏でていた。メグルを見る。彼女は楽しそうにはにかんで、更にギターを昂らせる。エナも訳がわからないままそれに続いた。

(どうなってんの……? ……でも)

 もちろん弾き方なんて知らないから、単調な音の繰り返しになる。でもちゃんとメグルのギターに沿うような演奏にちゃんとなっていた。

 わからない。けど楽しい。不思議な感覚だった。カプリラも目を輝かせ、二人の合奏に歌で入ってくる。完璧とは言えない、傍目から見たら聞き苦しい演奏の掛け合わせだったかもしれない。でもちゃんと、一つの音楽になっていた。一つの音楽がちゃんとその場に響いていた。それがエナの心を満たし、震わせる。

 曲が終わった。再び静寂と、今度は満足げな三人の息遣い。お互いの顔を見合わせて、照れたように笑い合った。

 そして思い出す。ここはまだ魔物の巣窟の洞窟で、足元には死臭を漂わせた魔物の死骸が転がりまくっているのを。あとキナイの存在も。

「……とりあえず、帰ろっか」

 カプリラが言った。


  7


「じゃあ二人とも、元気でね。騎士団には悪くないように報告しとくから」

 アクアドルの町の入り口で、エナはメグルとカプリラを見送ろうとしていた。二人とも明らかに物寂しそうな表情をしていて、悪い気はしない。でもエナも、どこか離れ難いような気持ちを覚えていた。今日会ったばかりだというのに。それだけ関わった時間が濃かったということか。

「……本当に来ないの? エナくらいうちのベーシストに適任な人いないのに。来てほしいなぁ」

「あのねぇ、私は騎士団の人間なんだってば。付いていける訳ないでしょ。あんたたちの旅は祈ってるから、ほらさっさと行く行く」

「えと、エナさんもその、お元気で……」

 別れが惜しくて二人の背中をぐいぐいと押す。カプリラまで挨拶が辿々しく、明らかに未練が滲んでいた。そんなわかりやすい反応を二人ともしないでほしい。こっちまで釣られそうになる。

 キナイをアクアドルに送り届けた後、ひとしきり彼の家族やフィングからも感謝を受けた。メグルたちは次の場所に旅立つことにしたようだ。洞窟での即興セッションがあったからか、メグルたちはしきりにエナと一緒にいたがってくれたが、エナは固辞することにした。

 行ける訳がない。自分は騎士団だ。僻地の厄介払い的な支部長に配属されていても、それは事実なのだ。

 だが仮にそうじゃなかったとしたら、自分は彼女たちに付いていくのだろうか。ずっとそんな迷いがぐるぐるしていて離れない。だから彼女たちと早く別れなくては。

「んー……じゃあ行くけど。一緒に来たくなったらいつでも連絡ちょうだいね。どこにいても絶対迎えにくるから。マジでお願い、ほんと」

「はいはい。って、どうやって連絡なんかとるのよ。あんたたち常に色んなとこ動き回ってるんでしょ。いい加減諦めなさいって」

「むぅ、とにかくテレパシー的なものを感じたらすぐ来るから! じゃあまたね! 絶対また会おうっ」

 メグルは最後までエナが来る可能性を諦めきれないみたいだった。だが最終的には旅立とうとする。そういえば彼女たちはキナイからお礼として馬車を受け取っていて、洞窟で手に入れた楽器類などはそこに仕舞い込んでいるみたいだ。馬はさすがにダメだったみたいで、小さいけどやけに怪力なカプリラがそれを引いて移動するみたいだった。……私の馬なら、それくらい訳なく引けそうだけど。そう考えてエナはぶんぶんと首を振るった。

「……ばいばい。ほんと、愉快な連中だったわ」

 何度もこちらを振り返るメグルたちを見送る。多分ここで彼女らと別れたら、もう会う機会はないだろう。……それでいいの? 何度も浮かぶ自問を、エナは聞こえないふりをしようとした。

 無理矢理踵を返し、ひとまず酒場でしこたま酔いしれているであろうボイルたちを迎えに行くことにする。それから、それからどうするのだろう。またいつものように、この僻地で同じような日々を繰り返すのか。それに何の意味がある。誰もどうせ評価などしてくれないのに。自然と足取りは重くなる。メグルたちが向かった方角をまた振り返りそうになった。

「エナ・フィルドリンだな」

 不意に声が掛かった。顔を上げると馬に乗って自分を見下ろしている男が立っていた。着ている鎧の方には、エナの鎧のと同じ騎士団の紋章が刻まれている。慌てて姿勢を正した。

「は、はい! そうです! あなたは……?」

「名乗る必要はない。二人組の調査を頼まれていただろう。報告しろ。そのためにわざわざ来た」

 高圧的な態度だった。不快だがおそらく上司だ。姿勢は崩さず報告する。約束通り、メグルたちが不利益被らないようにいい印象を伝えた。

「なるほど。やはり取るに足らない連中というわけか。我が国の王の心配性にはかなわん、まったくの無駄足だったな」

 男は馬ごと踵を返す。労いもなしか。エナは呼び止める。

「あの! この件で私はハイバルト国に戻れますか。もう三年も、この地で勤めております。そろそろ他の場所で経験も積みたいのですが」

 エナの言葉に男は振り返る。鼻で笑われた。

「それはないだろうな。いいじゃないか、この地でのんびり過ごしているだけで一生安泰だ、羨ましいくらいだよ。フィルドリン家の甘ったれお嬢ちゃんにはそれがふさわしいだろう? わかったらさっさとここでの勤務に戻るんだな」

 男は罵倒と皮肉を浴びせると、馬鹿にするように馬を走らせてとっとと帰っていく。後には唖然としたエナ一人が取り残されていた。

(私は、何のために騎士団にいるの……?)

 燃え燻った気持ちが胸に溜まっていく。ボイルの言った通りだった。ここでいくら勤勉に働こうが、誰も見てなどくれない。やはり自分は厄介払いされたのだ。はっきりそう自覚させられた。

 それなら。自分のいる場所も選ぶ権利もないと言うのなら。私自身で進む場所を見つけて、選んでやる。とりあえず向かう場所は、もうわかっていた。

「あれぇ? 支部長ぉ、お早いお帰りでぇ。もう調査は済んだんっすかぁ?」

 酒場に行くと、既に出来上がったボイルがいた。ドファはカウンターに突っ伏して酔っ払ったまま寝入っているみたいだ。もうこいつらのお守りもごめんだ。

「ええ、済んだわ。私、騎士団やめるから。上に伝えておいてくれる?」

 騎士団の鎧を脱ぎ捨ててその場に置く。爽やかな気持ちになった。与えられた家にあるものは置いていっていいだろう。どうせ自分のものはない。剣と馬は持っていく。元よりエナのものだった。

「あれぇ? あっし酔っ払ってるんですかねぇ。支部長ぉ? どこ行くんすかぁ?」

 そんな調子のボイルたちは捨て置いて、エナはもう酒場を出ている。走った。今までこんなに必死になったことがあるかというくらいの全速力で。

「エナ、そうか行くのか! これ、持ってきな!」

「エナ! これを! 旅の無事を祈ってるよ!」

「今日行くんだね。これ、あげる! 体大事にね!」

 すれ違う町の人々はエナの様子を察してくれたみたいで、みんな差し入れを手渡してくれた。ちゃんと別れの挨拶が出来なかったのが名残惜しい。ちゃんと自分のことをこの人たちは大事に思ってくれていたのだ。だからいつか、絶対返しにくる。ここでの三年間が無駄ではなかったという恩返しに。

 馬に跨り、町の外へ。あれだけ出ていくのを怖がっていた広い世界を、今はかっ飛ばす。魔物はもう怖くない。怖いのはこの機会を逃してしまうこと。間に合う。絶対間に合う。信じてひた走る。

 思ったより長くなかった平野の途中、見覚えのある後ろ姿を小さく見つけた。変な赤い上下の服に、ギターケースを背負った冴えない後ろ姿。その横、まだ馬の代わりに馬車を引いてる怪力少女がいる。しょうがないわね、私の馬を貸してあげる。

「ちょっ、ちょっと待った! そこの二人、止まりなさい!」

 大声で呼び止める。とりあえず、掛ける一言は決まっていた。

「ねえ! まだベースのポジション、空いてるわよね⁉︎」

 振り返った満面の笑顔が、両腕で大きく丸を作った。


  8


 また、あの青い世界だった。カプリラは深い霧の中を歩き続けている。相変わらずどこか落ち着くが、同時に物寂しさも覚えさせる空間。どこまで続くのか。きっと果てはないのだろうと何となく思った。どうせこれは夢なのだ。

(歌……)

 あの歌が聴こえた。カプリラの記憶の唯一の手がかり。だが前の夢の時よりも、それは近くに感じられた。夢を見るたびに距離が縮まっているのか。聴こえている方角がわかる。進んだ。

(誰かが呼んでる……? 誰? 私を知っている人?)

 歌声はどこか自分のものに似ているような気がする。血の繋がりがある相手なのか。深い霧の中なので距離感は掴めないが、確実に歌の主に近づけてきている予感がした。

「え……?」

 不意に歌が止んだ。耳に痛いくらいの静寂に立ちすくむ。

 目の前で何かが動いたような気がした。深く青い霧の中、目を凝らす。

 大きなものが動く気配がした。そして。巨大な影がぶわりとカプリラの目の前に浮かび上がった。

「っ……!?」

 声を上げる前に目が覚めた。テントの広くはない天井が視線の先にある。身を起こそうとして、肘に柔らかな感触が当たるのがわかった。

 メグルだ。前回夢を見た時以来、彼女がカプリラと寄り添うように眠るのは恒例になっていた。隣で静かに眠っているエナにからかわれたものだ。でも彼女がいてくれないと、カプリラは安心して寝入ることが出来なくなっていた。

(あの夢は、私の記憶の手がかり……)

 続けて同じような夢を見たことで、確信めいた想いを抱かざるえない。今まで旅をしてきて、まったく手がかりもなかったのに。メグルと会ってから急にあの夢を見るようになった。

「……傍にいてね」

 起きないメグルの髪を、そっと撫でて囁く。例え記憶を取り戻した私が何者でも。

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