2章 marching band

  1


「はぁあっ、すごぉ……っ。これめちゃくちゃ便利だよねぇ!」

 メグルがカプリラから手渡された「魔石」を握りしめると、石が鈍く光り効果が発動する。

 水飛沫のようなものが一瞬石から広がり、メグルを包み込む。すると体はシャワーを浴びた後のようにすっきりとし、着ていた服も洗濯したみたいに清潔になる。メグルはテンションが上がって飛び跳ねた。

「浄化の魔石ですから。これ自体は水の魔石に改良を重ねたものですね……って最初に説明しましたか。メグルさんが毎回新鮮な反応するんですもん。子供みたいなんですから」

 カプリラが焚き火の後始末をしながら、おかしそうに笑う。屈託ないその表情に、メグルも笑い返した。

 浄化の魔石。その効果は一日中続き、体の中まで効果があるので排泄さえ必要なくなるという。旅をする人には必需品だと彼女は話してくれた。ただあくまで一時的なもの。人が暮らす場所にはちゃんとトイレや入浴設備があるようだ。

 そういったものにも、火の魔石や水の魔石が活用されているのだと言う。大きな国では雷の魔石が街の明かりなどに使われているらしい。一つ一つの石は消耗品らしくそれなりに維持費が掛かってしまう。なので人の住んでいる場所の規模によっては技術の発展にかなり違いがあるようだ。

 魔石自体は火なら活発な火山、水なら海辺、雷は一日中雷が鳴り響く谷などで原石が手に入る。それを使いやすく加工する工場なども世界各地にあり、盛んに稼働しているとのこと。そう考えればメグルのいる世界とそう変わらないのかもしれない。いや、むしろもっと便利なのか。自然界の魔力が込められた石が生活に溶け込んだ世界。わくわくせずにはいられない。

「でさでさ! 街にはもうどれくらいで着くの? 何てったっけ、コペルニクス?」

「コルクスです。今日頑張って歩けば、お昼過ぎには着けるかもしれませんね」

 荷物を纏め直して忘れ物がないか確認してから、メグルはカプリラ先導で歩き出す。昨日の夜は野営をして過ごした。毎回キャンプのような新鮮な気持ちで楽しんでいるし、外で寝るのは初日で慣れた。元々、バンドワゴンで貧乏ツアーをやっていたこともあるからどこででも雑魚寝できる体質なのだ。

 次にメグルたちが向かうのは、コルクスという街。そう街だ。この世界に来てから、初めて発展していて人の多く集まる都会。

 最初にいたイチニム村を出てから、メグルたちはいくつかの村や集落などを経由した。その都度路上ライブならぬ野外ライブをやってみたのだが、皆娯楽に飢えていたのか思ったより食いつきがよくどこでも好評だった。旅芸人と思われたのか、おひねりを少々貰えたくらいだ。

 最初は乗り気ではなかったカプリラもメグルに引っ張られるにつれて歌声も堂々としていき、本来の響きを取り戻してきたようだ。メグルのギターとの調和もどんどん取れていき、息もぴったりだ。

 カプリラの歌声はまるで透き通る水だ。穏やかな川の流れのように心地よくもなれるし、激しく吹き荒れる激流のようにこちらを昂らせてもくれる。どんな形にもなれるその声はただ綺麗なだけじゃなく、ちゃんと自分を通す力強さがある。だからメグルも惹かれるのだ。

 そしてこれから向かう先は初めての都会。そんなところでやることといえば、メグルには一つしかない。昨日ははやる気持ちが抑えられずになかなか寝付けなかった……こともなく爆睡した。どんな状況でも五秒で寝られるのでカプリラにも驚かれたのだった。

(でも、この世界にもちゃんと人が集まる場所があるんだなぁ。魔物とかいて大変そうなのに……ん?)

 ふと疑問が湧いて、メグルは前方のカプリラに声を掛ける。思いついたことはひとまず行動するタチだ。

「カプリラ、そういえばさ。魔物って村とか町の中に入ってこないの? 結構その辺の獣害? みたいなのひどそうだけど」

「結界の魔石、というのが人の住む場所には設置されているんです。その大きさによって範囲は違うんですけど、一定距離魔物を退けてくれます」

 それで最初にオオカミのような魔物に襲われた時、イチニム村の近くで奴らは退散したのかとメグルは思い出す。間一髪だったわけだ。

「でも結界の魔石にも寿命があります。他の石たちと同じように。でも結界の魔石は希少なので、どこも金策には苦労しているみたいですね。栄える都市も、そのせいでなかなか増やすことができないらしいです」

「そんな大事な魔石も金が掛かるんだなぁ。人が住むとこには絶対必要なわけでしょそれって。何とかすればいいのに」

「結界の魔石はハイバルト王国というこの世界で一番大きな国が管理しているみたいです。ですが魔石を使えるように加工するにはどうしてもお金が掛かってしまうらしく、高価にせざるえない状況のようですね。結界は他の魔石と違って構造が色々複雑ということですから」

「ふぅん。どの世界もやっぱり金には苦労すんのかぁ。世知辛いなぁ」

 世の中は所詮金だなどと言いたくはないが、何をやるにもどうしても金銭が掛かる。ずっとバンド関係で金策に振り回された挙句解散に追い込まれたメグルにとっては、何だか他人事で片付けられないような気がした。

 一応、野宿をする時は魔物が嫌う香料を混ぜた焚き火をすることで朝まで遠ざけられるが、一時的のものだ。魔物はすぐその匂いに慣れてしまうから、定期的に改良しなければならないらしい。少なくとも人が住まう範囲では使い物にならないだろう。結局その結界の魔石というのがいるのだ。

 メグルが苦い顔をしたのに気づいたのか、カプリラは肩越しに振り返ってフードに隠れてない口元で笑いかけてくれる。

「結界の魔石がないと、人は暮らしていけません。それだけ魔物がいる外は危険なんです。そのせいで世界はピリピリしているような気がしますが──メグルさんと一緒にいたこの数日、私ほんとに久しぶりに人の笑顔を見たような気がします。私たちのやっている音楽活動、というものですか。それってきっと、意味があることだと思うんです。……失礼」

 ふと、カプリラが足を止める。彼女はメグルの方に手を突き出して、横の茂みの方に顔を向けた。なるべく安全にと人の往来があるらしき道になったところを通っていたが、カプリラが見た方向には深そうな森がある。メグルもそちらに視線をやると、がさがさと茂みと木々の葉が揺れたような気がした。

「わっ!」

 突然影が飛び出す。カプリラめがけて。素早く目に留まらない。だが彼女もいつの間にか短刀を二本抜いている。両手に持ったそれで影の動きを受け流し弾き飛ばした。

「邪魔が入りましたね」

 カプリラの目が鋭く絞られ標的を見定める。その先、虎のような四足の魔物がいた。デカい。全身は灰を被ったようなグレーで、顔には蜘蛛のように複数の目が蠢いていた。猪のような突き出した二本の牙、刃の先みたいな鋭い爪。今までメグルが見た中で一番ヤバそうな相手だった。だがカプリラは一切動揺した様子を見せない。自分よりも何十倍も大きな魔物なのに。

「メグルさん、下がっていてください」

 言い切る前に、カプリラは飛び立つように蜘蛛虎に向かっている。すかさず向こうも飛び掛かりぶつかり合う。吹っ飛んだのは蜘蛛虎の方だった。地面を転がり体勢を立て直そうとしている時にはもうカプリラは目の前に迫っている。すかさず蜘蛛虎は爪で応戦しようとするが、カプリラの左手で弾かれ右手の刃を胴体に食う。咆哮が轟いて、メグルは慌てて耳を塞いだ。

 私は強い、と彼女から事前には聞かされていたけれど、こんな相手とも渡り合えるとは思っていなかった。生身で虎と戦える人間はメグルのいた世界でもそんなにいないかもしれない。

「カプリラ! 後ろ!」

 その時メグルの耳が他の茂みのざわつきを捉えた。叫んだ後に見れば、カプリラの背中目掛けて別の虎が突進していくところだった。

 一瞬カプリラの反応が速い。飛び退り噛みつこうとした牙を回避している。しかし体勢を立て直した蜘蛛虎二匹と顔を突き合わせる形になってしまった。二対一。体格差もあってかなり不利に見える。

(くそっ、こうなったら……!)

 メグルはすさかず背負っていたギターケースを下ろし、ギターを取り出した。

 でも自分は加勢できない。魔物との戦いの素人である自分は却ってカプリラの足手まといになってしまうだろう。

 ならば、手段は一つ。自分の扱える武器を活用するのだ。

「カプリラ! 頑張れぇえっ!」

 ギターを掻き鳴らした。音が増幅され、エフェクターの歪みを再現しながら響き渡る。アンプに接続していないのによくわからない効果だが利用しない手はない。

 突然の大きな音に虎たちは一瞬こちらに気を取られたようだ。その隙にカプリラが短刀の刃を一匹に叩き込むが分厚い毛皮には浅かった。カウンターで放たれた爪を紙一重で避ける。まだ劣勢。二匹とも戦えそうだ。

「うぉおおおっ、届けっ。あたしのエール! あたしの魂のフレーズぅ!」

 即興のギターソロを確かな旋律にして辺りの空間に叩き込んでいく。もう虎たちは見向きもしなかった。こんなことで援護にはならないのはわかっていた。

 だが参戦できない自分はどうしたらいいか。数日考えたメグルがたどり着いたのは、応援だった。ギターに少しでも気分のアガる音色を乗せて。

 虎たちは前後に分かれてカプリラを挟み撃ちにする陣形をとった。同時に中心の彼女に向かって飛びかかる。彼女は構えたまま動かなかった。

「カプリラ!」

 メグルの声とギターの旋律が重なる。瞬間、どうしてかカプリラのいる場所に青いオーラが見えたような気がした。

 彼女が一瞬消えた。そして虎たちは交互に着地した瞬間、血を噴き出して崩れ落ちるように倒れた。カプリラは体勢を低くして短刀を構えたままだった。刃に血がついているから、きっと彼女がやったのだろう。メグルは慌てて駆け寄っていく。

「カプリラ、大丈夫? 今のどうやったの? 全然見えなかったんだけど……」

「あ、はい無事です。……何でしょう。今メグルさんのギターを聴いていたら、体の中がぶわわってなって、それで体がしゅばばって感じで……止まった世界で自分だけが動けたみたいな感覚になりました」

 カプリラはぼんやりと短刀を握った自分の手を見ている。確かに一瞬姿が消えるほど素早い彼女を、メグルも初めて見た。

「アンプとエフェクターもいらなくなったのと、別の力に目覚めちまったかな……」

 メグルも自分のギターを見下ろす。特に思い浮かぶこともなく言ってみたかったセリフを言ってみただけだが、もしかしたら的を射ているかもしれない。ずばり、ギターを聴かせた人をパワーアップさせる能力だ。推定だけど。

「ま、考えてもしょうがないか! 無事で何より! さぁ、さっさと街に行こうよ、いざコーラハウス! だっけ街の名前」

「メグルさん、コルクスです。あ、待ってください。この魔物の毛皮は高く買い取ってくれるところがあるので剥ぎ取って行きますね」

 改めて都会の街コルクスへ向かう。ギターの力のことはよくわからないが、役に立ちそうなら最高だ。物事を五秒以上深く考えられないのがメグルだった。


  2


 まさしく、都会と言って遜色ない景色だった。

「うひゃあー! 広い! 建物の数も高さも違う! 人もめっちゃ多い!」

 メグルは思わず叫んでしまう。交流都市、コルクス。今までは木造の建物がまばらに建っていた村や集落ばかりだったが、煉瓦造りの丈夫そうな建物が密集していた。道もちゃんと人の手によって整備されていて、途中の川に掛かった橋は幅広くこちらも石造りで叩いて渡る必要はなさそうだった。雷の魔石を施した街灯もところどころに立てられている。明らかに技術が発展している。

 そして何より、人、人、人。見渡す限りの人。東京中心地生まれ中心地育ちのメグルには馴染んだ風景で、何だか安心してしまう。

「メ、メグルさん。声落としてください……っ。見られてますから」

 カプリラがメグルのジャージの袖を引いて必死に小さい声で訴えてくる。はっとなると確かに道ゆく人の視線を受けているようだった。確かに赤ジャージのメグルと、すっぽりフードを被ったローブ姿のカプリラの格好は目立つ。でもまぁ、悪いことじゃない。手を振りかえすが、目を逸らされてしまった。

「ごめんごめん、カプリラ。だってこんな景色見て、テンション上がらずにいられなくない? 都会だよ、都会!」

「もう、メグルさんってば……。私はとりあえず道具の調達と、今晩の宿の確保をしてきますが、メグルさんはどうします?」

 メグルがわくわくしてあちこち見て回りたそうにしているのを汲み取ってくれたのだろう。カプリラがそう尋ねてきてくれる。

「ちょっとその辺り散歩してくるよ。街灯が点き始めたら、この橋のとこで待ち合わせよっか」

「わかりました。知らない人に付いて行ったり、治安の悪いところに一人で行ったりしないでくださいね? あと、迷子にならないように」

「だいじょーぶ。あたしも大人だからっ」

 これでも地形把握には自信がある。やや心配そうなカプリラと一旦別れて、メグルはコルクスの中心地に向かう。

 ちゃんと街の地図もカプリラから受け取っていた。だが目的は観光じゃない。メグルの足取りは迷わずに広い街の中を進んでいく。人のいるこの賑やかな空気は、やっぱり体に馴染む。いっぱいに吸い込んで、メグルは「よしっ」と気合を入れる。また人に白い目で見られてしまった。

「……ここだ」

 地図を見ながら目的地に辿り着いたメグルは、その建物を見上げる。

 市民ホール、とメグルの世界では言い換えてもいいだろう。この街では最大だ。ライブを行う「箱」としては、この上なくぴったりな場所。

 不審は承知で周りにいた市民たちに聞き縋ったのだが、ここは市長の演説や街のちょっとした会見などに使われているようだ。つまり建てられているのはいいが、ほとんど使われていない。聞いた人たちの中にはここの用途や存在さえ知らない人もいた。音楽イベントやその他娯楽などでは一切使われていないのだ。

 丁度いい、と思った。あたしがこの場所を、ライブハウスとしてこの街に馴染ませてやろう。

「ごめんくださーい!」

 メグルはその建物の中に入っていく。幸いにも鍵はかかっておらず、ちゃんと雇われている管理人もいた。年はいっているがいいおじいさんで、話に飢えていたのか部外者のメグルの話をちゃんと聞いてくれる。会見に使う、「ステージ」も好意でちらっと確認させてもらった。

 階段状に高くなる試聴席が並べられており、その先の低い位置。ちゃんと演者が立つステージがある。七百人は入るだろう。広さも丁度いい。

(絶対ここを、ライブハウスとして使う……!)

 決めた。拳を握りしめる。

 これまで通り路上ライブでもいいのかもしれない。ギターも一本、歌一本だけのユニット状態だからだ。

 でもせっかく都会に来たからには、ちゃんとした「箱」でライブをやってみることに意味がある気がしたのだ。思い立ったからには、こんなぴったりな場所を見つけたからには居ても立っても居られない。

(これはたぶん、誰かがくれたあたしへのセカンドチャンスなんだ)

 この世界に来たこと。わからないことだらけだが、それなら自分に都合のいい解釈をすることにしたのだ。音を自由に奏でられる力も、ギターの音色でパワーアップさせる力も。ここで音楽をやれと誰かが言っている。

 ならデカいことを企てないと、面白くない。失敗しても構わない。泥水ならこれまでいくらでも啜ったし、今度は腹一杯呑み込んでやる。当たって耐えろの精神、そこに音楽の神は宿る。

「ここを使いたいなら、役所に行ってみたらどうかな。ここは街のものだからね。そこの職員さんなら相談に乗ってもらえると思うよ」

 管理人のおじいさんがそうアドバイスしてくれた。善は熱いうちに打てだ。メグルは礼を言うと、さっそくその役所に向かって飛び出して行き、少々道に迷ってしまった。


  3


 その日。いつもと同じようにコルクスの役所へと出勤し、いつものように自分のデスクへ着き、いつものように山のように積まれた紙の書類をチェックし時折自分の名前を責任者として書類の端に書き込んでいく。

 毎日緩やかに流れていく川のように決まったスケジュール。ハヴィル・コウェインはうんざりしながらもこの川から逃れられないだろうと半ば諦めていた。

 家族は妻と娘が二人。しかし一家が集う夕食の席でさえ会話はほとんどない。娘たちに父さんと呼ばれたのはいつだったのかも覚えていない。

 理由はわかっていた。この仕事のせいだ。安定した生活を求め何とか今の職に就いたものの、思った以上の薄給だった。あいつらめ、俺を金を運ぶ鳥か何かとでも思い込んでいるのだろうか。そんな苛立ちすら抱くのも面倒になってきている。

 コルクス市民生活課。その課長がコヴィルだ。主な仕事はこのコルクスの街全体の管理。市民や労働団体の意見を書類としてまとめてそれに適した別の部署に振り分けたり、街中のあらゆる設備の管理も行う。道の一部や街灯の一つが壊れていると聞かされたら、予算次第で業者に補強を依頼する書類を作成しサインをする。作った書類を右から左へ。あるいは下から上へ。まさしく落ち葉を運ぶ川の一定の流れのような仕事だ。役所でもこの部署は楽な仕事だと勝手に思われて常に肩身が狭い。判断をするのも立派な職務だというのに。

 最近は削減された予算のせいでその判断さえままならず、叶えられない市民たちの不満はたまる一方だ。それもこれも、法外な値段で結界の魔石を売りつけてくるハイバルト王国のせいだった。人が暮らす場所には必需品だと思い足元を見てやがる。おかげでますます市税で賄っているコヴィルの薄給に拍車が掛かる。

「ちっ……」

 署名をするペンに力が入りすぎて先がへし折れた。コヴィルは部署内に聞こえないように小さく舌打ちする。最近は同じ部署の部下たちの視線も冷たい気がする。何なんだ、どいつもこいつも。

「課長。お客さまです。この街の方、ではないと思うんですけど……」

 声をかけられた。部下はやや困惑したような表情で伝えてくる。こういう時は大抵クレームだ。しかも街外の旅人か行商人だろうか。どう考えても面倒な案件に違いなかった。

「どういう要件だ? どんな感じの奴だった?」

「上下赤い変わった服を着ている女性です。何でも演説会館を使わせてほしいらしくて……」

 演説会館? あそこは市長の気まぐれな演説や大規模な事柄の会見で使う、ようするにまったく使われてないいわば死に体の公共施設だ。街のシンボルとして、市民が集いやすく使いやすい建物を作りたい。そんな市長のエゴと見栄で建造した建物だが壊すわけにもいかず、それでいて老朽化にも気を配らないといけないという厄介な抱えものだった。

 それを使いたいなどとは、どんなイカれた奴だとコヴィルはうんざりしながら腰を上げた。

「いやぁ、突然申し訳ないです。あそこの管理人さんに、使いたいならここに行って聞いてみたらって教えてもらったので」

 頭に手をやってへらへらと笑う女は、メグルと名乗った。変わった名前の女だ。明らかにこの街の住民ではない変わった雰囲気がある。厄介だ、とコヴィルはため息を何とか呑み込んだ。

 応接室に女を通したものの、彼女は開口一番「演説会館を使わせてほしい」と頼み込んできた。

 コヴィルは眉毛が痙攣しそうになるのを堪えて聞き返す。

「はぁ。失礼ですがどういったご用途でしょうか。あの場所は一応コルクスの公共施設でして、その辺りを明確にしておかないと」

「ライブやりたいんです! えと、この世界で伝わるかわかんないんですけど、音楽です。この街の人たちに、あたしたちの音楽を聴いてもらいたくて!」

 ただ一日だけあの場所を借りたい。極力街に面倒が掛からないようにするし、使用料金も支払うと女は言った。頭の下げ方に熱意と勢いを感じる。ただならぬ迫力に、思わずコヴィルも気圧されそうになった。

(音楽? 何を言っているんだこの女……?)

 コヴィルは考え込む。正直、あんなくたびれた建物など誰が何に使おうが気にも留めないだろう。だが、この街の人間ではない者に使用許可を出すのはさすがによくはない。「コルクスの住人でない者には貸すことができない」。そう断るだけでいいはずだった。

 だが、この女。気に入らなかった。目だ。めらめらと滾る炎が灯ったような、光が差すその眼差し。たとえこちらが断っても、彼女は別の方法でそのライブとやらをやり遂げるのではないか。そんな凄みがあった。

 ……腹立たしい。たかが女に。見下されているような気がして苛立ちを思い出した。

「……いいですよ。ご自由に使っていただいて」

 コヴィルは好意的に見えるよう意識してメグルに微笑みかける。「本当ですか!?」と女は更に目を輝かせた。ああ、嘘ではない。だが俺は、一体何を言い出そうとしているのか。

「ただ、あの場所はこの街のシンボルですからねぇ。使用料として、十万ヘイル。あと三日でご用意していただきます。予約が詰まってますから」

「じゅ、じゅ、十万ヘイル!? 三日で!?」

 女は大袈裟に驚く。それはそうだろう。コヴィルにとっても大金だ。この女がそんなものを今目の前で気前良く払うことができるとは思えない。三日という短い期間で用意できるとも考えられない。

 体よく断ることもできるし、この女に自分の無力感を植え付けさせてその鼻っぱしもへし折ることができる。我ながらいいアイディアだ、とコヴィルは内心ほくそ笑む。

「……わかりました。今から三日で十万ヘイル掻き集めてきたら、貸してもらえるんっすよね?」

 コヴィルは予想外の返答に唖然とした。この女、今何て言ったんだ……? それも一切ブレない声で、眼差しでこちらをまっすぐ見つめながら。

「え、ええ。もちろんです。用意できれば、の話ですが。何なら誓約書でも一筆書きましょうか」

「ええ、ぜひ。絶対持ってくるんで」

 女はこちらを後退りさせるような快活な笑みを浮かべた。何なんだ、こいつの迷いのなさは。ついコヴィルの方もムキになってしまい、言葉通り誓約書まで制作してその下に自分の署名までした。それを女に突き出す。

「三日で、十万です。金額は一切値引かないし、期間の延長もしません。よろしいですね」

「もちろんです。じゃあ三日後、よろしくお願いしますね」

 女は確かな足取りで誓約書を持って応接室を出ていく。数秒後、コヴィルは大きくため息をついてソファに大きくもたれかかった。首のジャボタイを指で引っ張って緩める。

「……何をやっているんだ、私は」

 あんな女にあんな大金が用意できるわけがない。それは頭ではわかっている。しかしまさか、もしかしたら。そんな焦りを振り払えない自分に、コヴィルは驚いていた。


  4


「えっ、み、三日で十万ヘイルですか……?」

 カプリラはさすがに驚きを隠せない様子だった。当然だろう。今冷静に振り返ると、なかなか無茶な交渉条件だとメグル自身も思っていた。

 夜になってカプリラと合流し、メグルたちは宿にやってきた。部屋でメグルはこの街でのライブ計画や、先ほど市庁舎であった職員とのやりとりなどを余すことなく報告した。

「結構大きなお金ですし、期限も短いですね……。どうやって工面しましょうか」

 絶対に呆れられると思っていたが、カプリラは一緒に考える姿勢を当たり前のようにしてくれる。少し驚いた。

「えとカプリラ、そんなの無茶だ、とかは思わないの? あたしが言うのもあれだけど」

「無茶は無茶ですけど、せっかくメグルさんが考えてくれたことですから。それに仮にお金を用意できなくても私たちにリスクもないですし、メグルさんなら他の方法も考えているのでしょう?」

 それなら、やれるだけやってみましょう。彼女はぎゅっと両手を握って笑いかけてくれる。

 ……何だろう。たぶん無意識なのだろうけれど彼女のその優しさが。メグルの胸の内側にめちゃくちゃ沁みた。思えばメグルの突拍子もない考えは、いつもバンドのメンバーにも周りの人たちにも話半分、もしくは否定され続けていた気がする。だから真っ直ぐに受け止めてくれるカプリラの反応が心から嬉しかったし──申し訳なくなく感じた。

「……ありがと、カプリラ。でも今回のことは、全部あたしが責任持つよ。何たって、あたしが言い出しっぺだしね。金は何とかしてみせる」

「えっ、でもメグルさん……」

「あ、金策なら大丈夫。さっき街の中色々と見て回ってきて、あたしでも働けそうなとこ一通りピックアップしてきたんだ。酒場とか、街の補修作業とか。片っ端から面接受けてきて、いくつかはすぐ来ていいってさ。三日間がむしゃらで働きまくれば、何とかなるでしょ。というわけで、さっそく今日から酒場の給仕のバイトあるから!」

「えっ、今からですか!?」

 メグルは話しながら準備を終えて、部屋を出て行こうとする。制服などは向こうで貸し出してくれるらしいし、世界が違うとはいえ居酒屋のノウハウと勝手は同じだろう。バンドの運営のためにあちこちでアルバイトに精を出した経験がここで生きるとは、人生ってのは不思議な巡り合わせだ。

「ここで三日間足止め食っちゃうけど、事後報告でほんとごめんねカプリラ。カプリラは観光とかして休んでてよ。三日間の宿代も食事代もあたしが持つから。待ってて。めっちゃ稼いでくる!」

 戸惑うカプリラに言い残して、行ってきますとメグルは出掛ける。何が何でも、三日間で十万ヘイル稼いでやる。決意でメラメラと燃えていた。


  5


「新人! 三番テーブル、五番テーブルに樽ジョッキ全部持ってって!」

「はい!」

「おい新人! この石素材は向こうの舗装場所に運べ! 絶対落とすなよ! あと向こうの道も地均ししとけ!」

「はい! はい!」

「おーい新人、客人が新製品の斧を見せてくれってさ! 三番カウンターまで運んでくれ!」

「はい! はい! はい!」

 三日間。メグルはコルクスのあらゆる現場で働きに働きまくった。酒場、街のあらゆる設備の修理や設置、建設。前の世界では馴染みのない武器屋、旅の一式が揃った道具屋などまでも網羅した。

 過酷な肉体労働にも臨んだ。選り好みなどしていられない。三日で十万も稼がねばならないのだ。日本円と比較は出来ないけれど、ヘイルというお金の単位は高めではあるのかあちこち駆けずり回ってもなかなか溜まっていく実感がない。宿屋に戻って休むのも二時間がいいところで、ベッドに飛び込むとすぐ起き上がってまた出掛けた。

 カプリラも出掛けているのか、宿で顔を合わせることはなかった。丁度よかった。きっと彼女は心配してこちらを止めていただろうから。余計な心配は掛けたくなかった。いやもう遅いけれど。

 とにかく我が身を顧みずにがむしゃらに労働へと打ち込みまくって、早くも最終期限である三日目。

「……ぜんっぜん足りねぇ……」

 酒場の給仕、道路の整備、武器屋の接客からへろへろになって宿屋へと帰ってきたメグルは、ベッドの上に広げたこの三日間の収穫を見て絶望的な気持ちで呟く。

 紙幣と金貨、ヘイルの数え方はカプリラに習っていたが、どう考えても約束の十万ヘイルまでは五万ヘイルも足りない。あれだけ頑張ったのに、稼げたのはようやく半分くらいということだ。

(あんな大見得切ったのに、結局ダメだったか……。カプリラにも説明しなきゃな)

 疲れからの眩暈と自分の不甲斐なさにその場でしゃがみ込んでしまう。約束の時間は役所が閉まる夕刻まで。もう目の前に迫っていて、これから働きに出る余裕もないだろう。

 事実上の敗北。結局この世界でも、あたしは金に負けるのか。全然ロックじゃない。でも結果は受け止めなければ。メグルはひとまずカプリラを探そうと何とか立ち上がる。

「あ、メグルさん! 探しました、ここにいたんですね」

 丁度いいタイミングでカプリラが部屋に入ってきた。どうしてか彼女にしては珍しく昂った様子だ。だからこれから報告しないといけないことに、メグルは気が滅入る。

「……カプリラ。ごめん、ホール借りる話なんだけど……」

「これ、お金の足しにならないでしょうか! メグルさんも頑張ってましたし、これでもしかしたらって思って……」

 フードを脱いだ彼女はローブの懐から布袋を取り出す。ベッドの上に広げたそれには、たくさんの紙幣と金貨が入っていた。驚く。

「カプリラ……!? どこでこんなにお金……」

「街で魔物の討伐のお仕事を受けたり、魔物の毛皮とかを売ったりして作りました。私は働けないですけど、そういうことは今までずっとやってましたから。それよりどうです? 足りますか?」

 ここまで体の内側から溢れる感謝という想いを、今まで感じたことがあるだろうか。お礼を言いつつ、メグルは急いで二人で合わせたお金を数えていく。急げ、時間がない。でも正確に。

「これで七万……これで九万……これで……十万!」

 正確にはカプリラが稼いだ方がメグルよりも多かったが、約束の金額に届いた。打ち震える。メグルはカプリラに勢いよく頭を下げた。

「カプリラ! 何てお礼を言ったらいいか……っ。この恩、マジで一生忘れないよ……!」

「……メグルさん。私たちって、今はチームですよね?」

「えっ。カプリラがそう思ってくれるなら、そうだとあたしは願いたいけど……」

「なら、一緒にやりたいことに一緒に臨むのは当たり前ではないですか。私、誰かと一緒に行動したことはないですけど、そういうものだとは知ってます。……私のこと、もっと信頼してもいいんですよ?」

 カプリラが得意げに笑う。それは彼女がメグルの前で見せた中では、一番無防備で子供らしい表情だった。信頼の証。そう受け取っていいのだろうか。メグルは親指を立てる。

「そうだね……! でも、この恩はマジでとっといて。いつか絶対でかくして返すから」

「はい、期待してます。それより時間! 急がないと」

「ぬわぁん! そうだった!」

 お金を集め、カプリラと一緒に市庁舎へと走る。時間はないが絶対間に合う。そんな確証のない確証が、メグルを突き動かしてくれた。


  6


「……よし。ざっとこんなもんかな」

 出来上がった舞台を客席の方から眺めながら、メグルは両手をぱんぱんと払い満足の笑みを浮かべる。

 市民ホール、もとい演説会館というらしい建物を借りることができて、その広い舞台の設営をカプリラと一緒に行っていた。とは言っても管理はしっかりしているらしく掃除は行き届いていたので、ステージ上を軽く飾り付けする程度でよかった。

 メグルの音の力のおかげで、カプリラの声もギターの音も通るし加工もできるので、PAやミキサーなどの準備がいらないのが本当に楽だ。ただ、音がどのように聞こえるか入念にチェックし、どの客席にいようが満足のいく音楽が届けられそうだ。メグルも感覚で、音の大きさなどの設定を覚えていられた。本当に便利な力を手にしたものだ。ギフトだ、と思うことにした。

「メグルさん、看板の位置こんな感じでいいですか?」

 ステージの背景に看板を吊り下げていたカプリラが聞いてくる。家作りをしている現場でもアルバイトをしたので、いらない木材をもらってメグルが作ったのだ。「1stライブ!」と掲げた文字の下に、ドラゴンとギターをモチーフにしたシンプルなバンドシンボルも塗料で簡単に描いてみた。ドラゴンはカプリラから着想を得たのだ。悪くない、最高だ。

「OK! カプリラ、お疲れ様。後は、お客さんが来るのを待つだけだね」

 メグルが客席から親指を掲げると、カプリラもそれを真似てくれる。

 街の方でちゃんとあの市庁舎の職員に許可を取ってビラ張りをあちこちにさせてもらった。街の住民たちにも手渡しでビラを配って全部渡した。このホールをあの三日間の次の日、つまり今日一日いっぱい借りられることになったのでその時間はあったのだ。ビラの内容はもちろん、これから行うライブの告知と開始時間だ。手渡した感じ、そういったことがこの街でも珍しいのか興味を持ってくれたようないい感触だった。三日間、色んなところでバイトしたおかげで顔見知りも出来た。思ったより客も来てくれるんじゃないか。そんな予感があった。

(いやぁ、こんないいデカ箱を使えるなんて。最初のライブは上等だなぁ……)

「三日間で10万ヘイル用意しろ」。そう突きつけてきた市庁舎の職員に、提示されたままのお金をしっかり持って行った時のあの表情。痛快だった。誓約書もあるので彼もなかったことには出来なかったようだ。

 これも何もかも、カプリラがいてくれたからだ。彼女がいなかったらきっとどうにもならなかったし、それ以前に魔物に襲われてその辺りでとっくに野垂れ死んでいたかもしれない。感謝してもしきれない。

「わっ……! メグル、さん……?」

 看板の位置を見上げていたカプリラを、メグルはステージに上がって後ろからそっと抱き寄せた。角の位置にしっかり配慮して、優しくその頭を撫でてやる。

「カプリラ、ありがとう。何回だって言わせて。ありがと、ありがとう、ありがとっ」

「も、もうっ……。恥ずかしいですよ。……私もメグルさんに、お礼言わせてください」

「えっ、あたしに? 何で? 助けられてばっかなのに」

 そんなことないです、とカプリラは抱きつかれたままメグルを見上げてくる。子供のようにキラキラした目も、ドラゴンのような黄金の輝きを帯びた左目も。こうして見ると本当に綺麗だ。

「誰かの前で歌うこと、今でもやっぱり恥ずかしいし怖いですけど。……楽しいって、初めて感じたんです。メグルさんのおかげです」

 前に回したメグルの手を、彼女は小さな手でぎゅっと握ってくれた。メグルもしっかり握り返す。

「きっとこれから、もっと楽しくなるよ。今日お披露目の曲もいくつかあるしね。初めてのホールライブ、楽しんでねカプリラ」

「はい……! お客さん、いっぱい来てくれるでしょうか?」

「来るよ。絶対来る。楽しみだね」

 ここに辿り着くまでの旅路で、いくつかカプリラと合奏しながら曲を作った。メグルは作詞できないし、カプリラはメグルのギターの音色に言葉にはなってない声のメロディを合わせているだけなのだけれど、それだけで気持ちが盛り上がったり感慨に浸れたりいい曲ばかりだ。いつか、ちゃんとした詩をつけよう。でも今はこれでいい。魂に伝わればそれでいい。

 開場時間だ。メグルたちは準備を万全にして客が来るのを待つ。せっかくなので色々な人に聞いて欲しくて、入場料は一切とらない方針だった。さあ、今か今か。そわそわとステージの袖でカプリラと一緒に待った。

 ……だが、来ない。待てど暮らせど開いた入口から一切人が入ってこない。もう開演時間に差し掛かっているというのに、ホールの中は誰一人いない静けさで痛いくらいにしんと静まり返っていた。

「誰も来ない……」

 カプリラが呆然とステージの上から空っぽの客席を眺めている。予定の開演時間が来た。やはり一人も客は来ることなかった。おかしい。少なからず誰か興味本位で覗きに来ても良さそうだけど。それとも、思っていた以上にメグルは人の心を掴むことが出来なかったのだろうか。いい感触だと直感したのも気のせいか。

「……まぁ、こんなもんなのかもね……」

 つい呟いてしまい、はっと口を押さえた。メグルの元のバンドも初めてのライブの集客は惨憺たる有様だった。客ゼロのライブだって少なくない。その経験が口走らせたのだ。

「そ、そうですよね……誰も来ませんし、片付けましょうか」

 聞こえてしまっていたのだろう。カプリラが取り繕うように笑みを浮かべた。メグルの胸の内側が軋む。落胆を表情に表すよりも、こちらに心配かけまいと強がる彼女を見る方が何百倍も辛かった。

(……考えろメグル。お前のためじゃなく、カプリラのために)

 集客ゼロでもライブは実行する。それがメグルにとっても鉄則ではあったが、カプリラにとって今夜は初めてのライブだ。自分と同じような苦い記憶になってほしくない。頑張ってくれたのだ、きっと何か方法があるはず。いっそのこと今から夜の街に飛び出して片っ端から声を掛けていくか。

 ……夜の街に飛び出す? はっとなった。

「メグルさん?」

 不思議そうにこちらを見ていたカプリラの手を、メグルは両手で握った。興奮でついつい早口になってしまう。

「そうだよ……! 誰もお客さんが来ないなら、こっちから行ってやればいいんだ。カプリラ、心の準備はいい?」

「……はいっ」

 熱意が伝わったのか、彼女の返事と表情は凛としていて勇ましい。それでこそバンドの顔、ボーカルの意気だ。

「よっしゃあっ! どでかいライブ決めちゃうぜぇっ!!」

 ギターを身につけたメグルは、景気付けに一発勇気の湧くようなフレーズを弦で奏でた。めらめらと闘志が燃える。やってやる。


  7


「おい、そっちのチラシもだ! 急いで剥がせ! 街内にあるもの全部だぞっ」

 コヴィルは同じ課内の部下たちにそう叫んで急かしている。あのメグルとかいう怪しい女がビラを貼っているのは後を付けて剥がしていたが、他にも同じことをしていた連れ合いがいたらしい。街中を回って全部処分しなければ気が済まなかった。なので部下を総動員している。もちろん勤務外でだ。

(くそ、上司に知られる前に事を収束させないと……。これが市長の耳にでも入ったら最悪だ)

 街の人間でもない奴にあの会館を貸し出したなど。役目は果たしていないが、あの場所は街のシンボルであると市長はいたく気に入っているのだ。だからこそほとんど使われていないとも言える。

 あの会館の入り口も、女たちが中に入って出てこないのを確認するとすぐ目に入るように大きな張り紙をしておいた。

「本日館内補修日。誰も中に立ち寄らないでください」。素直で馬鹿な住民たちは黙ってそれに従うだろう。会館の管理人は何故か反対していたが、クビにするぞと脅したら渋々と従った。ついでに部下たちに街のあちこちで今日は補修工事で危険なので会館には近づかないでくださいと呼びかけさせれば完璧だ。これで誰も、少なくとも会館の中に足を踏み入れることはないだろう。

(バカな女だ……。貸し出すとは確かに言ったが、誰かを入れる許可を出すとは約束していない。ざまぁみろ。よそ者のくせに、女のくせにでしゃばった真似をするからだ……)

 建物の外壁に寄りかかり、コヴィルは乱れた息を整える。普段デスクにいることが多いからか、こんなに外を駆けずり回ったのは久々だ。これも全部あの女のせいなのだ。だがこれでようやく、奴の鼻っぱしは完全にへし折れただろう。せいぜい誰もいない壇上で、勝手にライブでも何でもやればいい。

「ん……? なんだ……?」

 ふと今いる裏路地の向こう側、表通りの方がざわざわと賑やかなのに気づいた。不穏な感じではない。むしろ年に一度の街の中で行われるフェスティバルの時のような煌びやかな声がいくつも折り重なって、増幅しているようだ。

 それを中心にして、取り囲まれるように大きくはっきりと聞こえる音。これは何だろう。楽器の音か。しかしその稲妻のようにしっかりと通るその音色をコヴィルは知らない。まるで心地いい雷光が全身を貫いていくような、胸の内側を昂らせていく確かな音。

 そして、歌だ。その雷鳴に添われ、前に一歩踏み出すようにして歌が聞こえる。こちらは対照的に川の流れのように透きとっている。ただし激流だ。周りを巻き込み押し流していくような力強さがそこにあった。

 その二つの協奏は。まったく事情を呑み込めないコヴィルも思わず耳を研ぎ澄まそうとするほど惹きつけられた。何なんだ、これは。知りたい。こんな綺麗な旋律がどこから誰が奏でているのか。知りたい。知りたい。知りたい。渇きに似た衝動に、思わず足が動く。

「はっ……!?」

 表通りに出た。おびただしい人だかりに驚く。広い道が人、人、人で埋め尽くされ、波を掻い潜るように進まなければ足の踏み場もないほど混み合っていた。

 違う。その場に溜まっているのではない。彼らは流れている。どこかに向かっているのだ。あの音色と歌の聞こえる先だ。皆同じように表情を綻ばせ、興味と興奮で顔を紅潮させている。コヴィルでさえ顔が熱かった。

 一体何が起こっている。まるで街中の人間があの音に惹きつけられて出てきたみたいな騒ぎだ。

「課長ーッ! 大変です! 変な格好をして変な楽器を持った女と、フードを被った子供が歌って演奏しながら街中を練り歩いてます! 街の人たちがそれに付いて行っている! すごい行列になってます!」

「な、何ィィィ⁉︎」

 すぐコヴィルは直感した。あの女だ。やはり連れ合いがいて、結託してこの騒ぎを起こしたのだ。

(くそっ。くそっ、くそぉッ! 止めなくては……っ! この乱痴気騒ぎを止めなくては、クビどころでは済まないィ……ッ!)

 何を企んでいるのかわからないが、危機だ。まさかあんな意地を張った口約束のせいでこんなことになるとは。コヴィルは今までの人生の中で、一番早くがむしゃらに走った。表通りは群衆に塞がれてまともに進めないから裏路地を。だがそこにも普段とは比べ物にならないくらい人がいて、コヴィルは水の中をもがくようにして進むしかなかった。思ったように行けない。足の先は攣り掛けているし、ふくらはぎが痙攣を起こしている。それでも走った。

「はぁッ……はぁ……ッ」

 よろよろと壁に手をつきながら、何とか会館前の通りに飛び出すことが出来た。そして目を見張る。

 これまでとは比べものにならないほど、人が会館前に群がっていた。堰き止められているみたいにその場所を覆い囲んでいる。おそらく中に入りきれなかった人の群れだ。間違いない。女たちはここに既に辿り着いてしまった。

 そしておそらくここで女の言っていたライブとやらは、始まってしまったのだろう。いや既に街を練り歩いている段階で始まっていたのか。

「止める……止めなくては……ッ」

 ぱんぱんに張った足を引きずり息を整える暇もなく会館に向かう。しかし人だかりがそれを阻んでいた。もうほとんど壁のようにみっちりと引き詰められ、みな同様に一瞬も聞き逃すまいと会館の方に顔を向けている。だめだ、進めそうになかった。

 それでも進もうとするコヴィルの肩を、誰かが掴んだ。振り返る。心臓が止まるかと思った。

「し、市長……!」

 よりにもよって。恰幅のいい歳の割には白い髪が生え揃ったコルクス市市長がそこに立っていた。コヴィルは頭が真っ白になっていくのを感じた。

「どういうことかね、コヴィル君。これは君が許可を出したことだと、先ほど君の部下から聞いたが」

「し、市長……違うんです……っ」

「こんなにも街が賑わうとは! フェスティバル以上の熱狂だ! この街のシンボルに住民たちがこんなにも集まっている! 最高じゃないか!」

「は……?」

 市長は興奮した様子でまくしたてる。どうやら怒り狂っている様子ではないとかろうじて思考停止していたコヴィルは認識できた。それどころか、喜んでいるぞこのオヤジ……?

 先ほどからこの騒ぎなのに街の治安を守る騎士団たちが見当たらないのが理解できた。市長の彼がこの行進を止めないように言ったのだろう。自分が建てたこの街のシンボルの未曾有の賑わいのために。

「ありがとう、コヴィル君。君には色々と席と機会を与えてやらねばならんな。これは君が企画したのだろう? 私にも前もって話しておいてくれればいいのに、サプライズとは君もやるなぁ」

「……は、はいっ。そうです! 私が企画しましたァ!」

 ほとんどヤケクソでコヴィルは叫ぶように返事をしていた。


  8


 ギターを掻き鳴らす。ピックで弾いたその音の粒一つ一つまでもが、カプリラの歌声と混じり合い重なり一つの音への昇華されていく。メグルはその心地よさに頬を緩めた。バラバラなはずの歌とギターがここまで調和されていくなんて。長年音楽をやっていたはずなのにこんな感覚をメグルも初めて味わい、そして酔いしれていた。

 ホールのステージにメグルとカプリラが着いた時、客席いっぱいに溢れた人たちが轟かんばかりに叫び拍手をし熱狂していた。街中から掻き集めた観客たちは壇上前までぎっちりと詰まるほどにここまで付いてきてくれた。入りきれなかった人々はこの会館前まで集まってくれているみたいだ。思った以上の反響。昂る。

 最初は誰もいなかったこの場所を飛び出し、メグルたちはゲリラ的に外の路上でライブを行った。すると興味を惹かれた人々が予想より多く集まってきて、そのまま彼らを先導するようにギターと歌を続けながらここまできたのだ。その結果が、空っぽだったこのホールが、むせかえるほどの熱気に包まれている。最高だ。この場所でギターが弾ける喜び。これに勝る至高なんて、絶対にない。

 曲が終わる。間髪入れずにメグルはギターで別の曲を叩き奏でる。勢いで突き進む曲だ。ベースもドラムもないが、カプリラの歌がある。

 激しいメグルのメロディにドンピシャのタイミングでカプリラの歌が乗っかってきた。やばい。今までよりずっと彼女の声は力強さが増している。その氷のように凛として響く声があらゆるものを砕かんするばかりに轟くのだ。

 これはメグルの音を増幅させる力のせいだけじゃない。明らかに彼女の歌声の芯が、より深化された。メグルの荒々しいギターに並走するだけで、聞こえる旋律はまるで白馬が美しいフォームで走り出すような気高い雄々しい調べになる。彼女の歌には、間違いなくそんな力があった。

 カプリラがこちらを見る。フードで目は見えないけれど通じ合った。彼女は笑いかけてくれている。大丈夫、そのまま行こう。そう伝えるようにメグルも笑った。

 彼女は頷いて前を向き、観客たちへと言葉にならない歌声を余すことなく届けていく。詩もない音楽の魂は確実にこの場の全員の心を揺さぶっている。誰かがリズムに乗って体をくゆらし、誰かが手を何度も突き上げ、誰かが一緒に知らないはずのメロディを口ずさむ。メグルたちと聴衆たちが一体化していた。それを確かに感じる。この場だけじゃない、おそらく外、いや街中にこの音楽は確かに届いているのだ。

(……誰かに届いて、ようやく音を楽しむ音楽は完成するんだ)

 カプリラ、誰にも伝わらなかったその最高の音楽、今はみんなに伝えてやれ。みんなそれを望んでる。音楽ってマジで最高でしょ?

 最後の曲が終わった。一瞬の沈黙。メグルとカプリラの荒い息遣いだけが聞こえていた。額から汗が滑り落ちる。

 最初は、誰かが鳴らした手の音。そうして拍手はいくつも人から人へと伝わって、歓声と一緒にホール内を満たしていく。この賞賛は、全部あたしたちに向けられたもの。

「カプリラ」

 傍に寄って、呆然としているカプリラの肩を抱く。はっとした彼女と、メグルは一緒に来てくれた観衆たちに頭を下げた。

「ありがとうございましたァ!」

 叫ぶ。歓声と拍手は留まることなく鳴り続けていた。熱にまだ浮かされている。足りないと渇望している。

 ならば、曲のストックはもうないけれど。メグルは声を張る。

「もう一回今の流れ行くぞぉおおッ!」

 歓喜の叫びが一気にその場を再び湧かせた。


  9


 見渡す限り、どこまでも青い世界だった。何もないただ青さだけが広がっていて先が見えない。立ち込めた霧もその色を吸っていて、濃く漂っている。

 カプリラはその中を歩いていた。どこに向かっているのだろう。自分でもわからない。でも不思議と不安も恐れもない。青色も目に優しい淡さで柔らかくカプリラを包み込んでいて、まるで海の中に浮かんでいるみたいだ。

(……歌? この歌、は……)

 うっすらとどこか遠くから声が聞こえてくる。歌っているのだ。それにこれは、カプリラもよく知っている歌だった。

 たった一つだけ、記憶に残っていた歌。気づけば自然と口ずさんでいた、唯一の過去との繋がり。

(……誰? 誰なの。歌っているのは誰……?)

 歌声が聞こえる方向を探して走り出す。でも反響しているそれがどこから聞こえているのかまったくわからなかった。はやる気持ちに急かされて、足は止められない。

 この歌を知っている人なら、きっと私のことを知っているはず。知りたい。自分が何者で、どこから来たのか。縋るように声を探す。伸ばした手も青い霧に呑まれるばかりで何も掴めない。

「私は誰なの! 教えてッ!」

 叫ぶ自分の声で、目が覚めた。暗闇の中、カプリラは天井に向かって手を伸ばしていた。

「……夢……」

 自分の乱れた息がうるさい。汗をびっしょり寝間着のローブの下に掻いていた。

 ここはコルクスの一等の宿屋だ。あの演説会館でのライブの後、何故かいたく感心しているこの街の市長に無償で泊まっていっていいと案内された。寝心地は良かったけれど、夢見はあんまりだったみたいだ。

 あんな夢は、初めて見た。長い間旅をしてきたけれど、初めて自分の記憶に通じる何かを掴んだ気がした。

(これもメグルさんと、会ったから……?)

 隣のベッドで眠る彼女を見る。同じ寝間着を着た彼女は掛け布を蹴飛ばして床に落とし、両手両足を広げて自由な格好で眠っていた。

 それを見ると何だか毒気が抜かれたような気がして、思わず笑う。彼女の掛け布を直してやろうと立ち上がって拾ってあげた。

「……んん、カプリラぁ? 寝れないのぉ……?」

 掛け布を掛けたら、起こしてしまったのかメグルが声をかけてくる。

「あ、ごめんなさい。起こしちゃいました……? その、ちょっと怖い夢を見て……」

「それなら、一緒に寝る?」

「えっ、わっ……!?」

 ぐっと腕を引かれて、彼女の胸の中で受け止められている。そのまま彼女は優しくカプリラを抱き寄せたまま隣に寝かしつけてくれた。

「怖い夢見た後ってさ、こうやってくっついて寝ると安心しない? おまじないってやつ」

「は、はい……安心、します……」

「じゃあおやすみ。夜は寝るものだからね」

 髪を撫でてくれる手つきにそっと肩の力が抜けて、そのまま瞼が降りていく。初めて間近で感じる、他の誰かの体温と感触。戸惑うけれど、その温かさに安らいでいくのがわかった。

(メグルさん、柔らかい……いい香り……)

 カプリラは自分から彼女に身を添わせて、今度は穏やかな眠りへと落ちていくのだった。


  10


「国王、ご報告が。身分不明の二人組がビギング大陸各地を回り、謎の布教活動を行なっているようです。片方の女は楽器のような音を奏でるものを使い、もう片方の少女はそれに合わせて歌い『ロック』というものを広めているとのことで。既にこの国でも名前が上がるほど、話題になっているようなのです」

 傅いた配下からの言葉に、アロガン・ハイバルトは一切表情を動かさなかった。座る玉座に肘を付き顎を乗せている。アロガンが黙っている間、配下は口を開かないし顔を伏せたまま姿勢を崩さない。当然だ、許可を出していないのだから。

 国王を讃えるこの謁見の間では、誰もアロガンの許可なしでは何をすることも許されず沈黙を守ることになる。玉座の左右に並ぶ城兵たちも背筋を伸ばしたまま直立し、「息をするな」と命ずればそれに従うだろう。

 世界最大の王国、ハイバルト。君臨する国王アロガンはこの国、ないしは世界でもっとも権威のある存在なのだ。

「……そんなちんけな二人組を、どうしてわざわざ報告などするのだ」

 配下は話そうとしたが、アロガンはそれを手で制した。

「いや、説明するな。その二人が、やがて良くない影響をこの国にもたらすのではないかと危惧しているのだな。転がり続けた石ころが鋭利になり、やがて転んだ人間を刺し殺すかのように、危険な思想を人々にもたらすではないかと」

「はい。二人組の目的は不明で、その評判も今は微々たるものですが。存在の噂が広がるスピードが尋常ではないのです。何でも今まで耳にしたことのないような珍妙な音楽をしているらしく。いずれ全大陸に影響が及べば、思わぬ結果を産むかもしれません」

「仮にそやつらがもし我が国に反乱を目論んでいたとしたら、まあ厄介なことにはなるだろうな」

 取るに足らない石ころがいずれ人を殺すかもしれない。それならば足元のものは全て取り払えばいい。その権限と責任が、国王の務めだ。

「その二人組が最後に目撃されたのはどこだ?」

「ネスト大陸のフェイル平原の集落辺りでございます。どうやらビギング大陸を船で渡ってきたようです」

「騎士団から誰かをそやつらの元へ行かせて調査させろ。あくまでただの石ころ探し、赤子でもできる。上位の者ではなく下級の騎士でいい。……その場所なら適材がいるだろう」

 アロガンが差し向けると、配下は頷く。意図は伝わったようだ。

「もしその石ころが尖ることがあるとするなら、処理しろ。石は石らしく、な。人様の手で砕かれるのがお似合いだ」

 配下が再び深く頭を垂れると、そのまま立ち上がって謁見の間を出ていく。アロガンは入口の扉が閉まるのを待つと、並んでいた城兵のうち一人を指で呼び寄せる。

「おい、アレの準備は順調だろうな」

「はい。ですが担当している魔術師は結界の魔石に術式を組み込むのに苦戦しているらしく、三月以上は掛かると報告しております」

「一月でやれと伝えろ。さもなければお前もお前の家族も苦しめた末殺すとな」

 兵は固唾を飲んで頷き、去って行った。

(ハイバルト国はこの世の高みに君臨し続ける。……結界の魔石を握っていれるうちは)

 人の暮らす場所から、湧いて溢れる魔物たちを遠ざける特殊な魔石。それが人々にとって必須なのだ。だからこの国は、この国でいられる。国王は俺だ。

 アロガンは口をわずかに歪め、笑みを堪えた。

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