7章 not good day to die

  1


「おぉー……すっげぇ景観……。森ん中に街があるみたいだなぁ……」

「私もここに来るのは初めて、かも……。今までのところとは違う不思議な感じだね……」

 メグルはカプリラと一緒にきょろきょろして、周りの景色に圧倒されていた。

 言葉の通り、巨大な森の中にいくつも建物が並んでいる。首を伸ばしてのけぞっても頂点まで見渡せないような大樹に、これまた背の高い建物が寄り添っている形が目立つ。それでいてどれもよく自然の多い景観に馴染んでいる外観なのが不思議な感じだ。東京ほどではないが、それに近しい密度と人の賑わいだった。自然と相反する都会の雰囲気の調和が、メグルには新鮮な感じだ。

「さすが森の都と称されるだけあるな。私でさえ小さくなったような錯覚を覚えるよ。願わくば、もっとゆったりと観光でも出来る状況で来れたらよかったがな」

 また馬車の中に押し込む形になってしまったコーヴェが言う。早く彼女が大手を振ってこの街をゆっくり回ることが出来る状況にしなければ、とメグルは固く決意する。自分達もフードを被ってこそこそしなくていいその足がかりが、この街にある。森の都、フルベクタルには。

 完全に他人任せな方法になってしまうのは申し訳ないが、泥水だって啜るし恥だっていくらだって掻いてやる。仲間と、音楽のためなら。

「……もう二度と戻らないだろうと思ってたけど。こんな形で帰ってくる羽目になるとはね……」

 エナはぼんやりとした眼差しで街ではなくどこか遠くの方を見つめていた。前々からメグルも察していたが、彼女にとってこの帰省は快いものではないようだ。逃亡中の身であるし、彼女は騎士団を突発的に辞めているのもあろうだろうが。何となくそれだけが理由ではないような気がする。

「嫌なら、ここで戻るのはやめてもいいんだよ。別の方法だってきっとあるし、あたしも頑張って考えるからさ」

 エナの肩に、メグルは手を置く。そのよく鍛えられている肩に力が入っているのがよくわかった。緊張しているし、そこに妙な怯えが秘められているのもわかった。

「……今更。腹は括ってきたわよ。絶対逃げない。私は、バンドを続けたいのよ。どんな手だって使わなきゃ、でしょ?」

 真っ直ぐに前を見据えたエナは、そのまま先行して歩き出した。力強い歩みだが、その背中にはまだ迷いがある。彼女の決断だ。ならこちらは全力でその背中を守って支えよう。メグルも腹を括った。

「エナの家、もうすぐ見えそう?」

「敷地ならもうほら、そっちの向こう側にもう見えてるわ」

「え!? この向こう、全部エナの家の敷地なの……⁉︎」

「まあね、無駄に広いから。というか、うちはこの街の領主家だから、ここ全体が敷地と言えば敷地ね。全部管理したがる支配者っぽくて笑えるでしょ」

 驚くカプリラに答えた後、エナは苦いものを噛み締めるように後半の部分を口にした。今歩いている場所の横に柵があって、その向こう側には目を見張るような庭園になっていた。色とりどりの花が並べられ、中にちょっとした川のような水の流れと橋までかけられている。

 庭師らしき人たちが何人か忙しそうに手入れに追われていた。……確かにエナの言う通り、メグルにもこの広い庭園には美しさよりも管理の徹底さが鼻につく印象を受けた。こういうのは自分の実家を思い出させて、メグルまで口の中が苦くなる。

「ここが入り口よ」

 見上げるほど背が高い正門の前に、メグルたちは辿り着く。ここも鉄格子になっていて、整備された庭園の道の先、立派すぎて逆にこの街では不自然な屋敷が見えている。これもどこか見せつけるような構図で、エナには悪いがメグルは唇を噛まずにいられない。ここには領主としての権威でひたすらに圧をかけているような居心地の悪さを感じる。早くも嫌な印象しか抱かなかった。

「……変だな。警備とかも全然いないの? 騎士団とかもこの周りにはいないみたいだし」

「見栄えが悪いからよ。家の周りには許可された者しか置かない主義なの。物々しい武装した連中がいたら、景観が損なわれるから、だってさ」

「確かに。下手に守衛とかがいるより逆に不気味かもね」

「よね。どうせ逆らおうとする人もいないし。バックにはあのハイバルト国が付いてるから。……ほんと最悪」

 メグルが同意したことを、エナは少し嬉しそうにしながら頷いた。おそらく彼女はこういうことを言うのさえ憚れる環境に置かれていたのだろう。その息苦しさは痛いほどわかる。尚更彼女の背中を守りたい気持ちが強まった。

「……ねえ、そこのあなた。兄のケイジュ・フィルドリンに伝えてくれないかしら。妹のエナが帰ってきたって。出来れば、父には絶対知らせないで」

 門の側を通りかかった庭師の一人に、エナは声を掛けてフードを脱ぐ。その顔を見た彼ははっと目を見開き、「仰せのままに」と深く頭を垂れてから慌てて屋敷の方へと向かう。

 エナが眉根を寄せてぎゅっと拳を握っている。緊張、恐れ。そして自分が人に命令して畏怖させたという自己嫌悪。その背中を、メグルはぽんと軽く叩いた。それで少し、こちらを見た彼女の表情は緩んだ気がした。

「おかえりなさいませ、お嬢様。お連れ様も、どうぞ中へお入りくださいとのことです」

 屋敷の中から使用人らしき女性たちが何人か出てきて、メグルたちを出迎えてくれる。門戸は雷の魔石を使っているのか自動で勝手に開いていく。そこが自然と近しいこの街ではどこか不釣り合いで、それに両脇に並んで頭を下げる人々の間を通り抜けていく気持ち悪さもメグルには胸焼けしそうな事柄だった。簡素な使用人服を纏った人たちは、女性しかいない。……やはりここは、メグルの家を思い出させて居心地が悪かった。

「馬車はこちらの馬小屋にお預けください」

「あ、えと……大事な荷物があるんですけど……」

「お連れ様がもう一人、中におられますね。出てきていただいても結構だと、旦那様はおっしゃられています」

 屋敷脇の馬小屋の前に来て、使用人にそう言われた。メグルはあまり驚かない。この家はハイバルト国と太いパイプがあるらしいから、自分達の情報は知られていても不思議じゃない。

「……やれやれ。ようやく狭いところから解放されたな。礼を言うぞ」

 肩と首を回しながら、コーヴェが馬車から出てきた。とりあえずほっとしたが、コーヴェの姿を見ても眉一つ動かさない使用人たちに逆に違和感を覚えた。もちろんそれが理想ではあるのだけれど、彼女らの場合は我関せずといった機械のような冷たい印象を抱くのだ。……やっぱりここは、好きになれない。

 両開きの玄関を開けてもらって、屋敷の中に招かれた。足を踏み入れたのは既に広すぎるエントランス。吹き抜けになっていて、すぐ目の前に五人くらい並んで登れそうな大きな階段がある。中心に、明らかに必要以上に煌びやかなシャンデリアが吊り下がっている。広いのに、息が詰まる空間だ。広さが逆に圧迫感を生み出している。ここにいたことのあるエナでさえ、肩身が狭そうだった。まあ別の理由があるのだろうが。

「……父には知らせてないわよね? 兄はいるの?」

「もうすぐいらっしゃいます。こちらの応接間にご案内します」

 使用人に連れられ、応接間があるらしき廊下に向かおうとした時だった。

 玄関がすごい勢いで開く。息を切らして立っているのは背の高い男性だった。装備している騎士団のエンブレムが掲げられた鎧は、今まで見た団員たちとは明らかに格が違う豪華な作りだ。同じく騎士団のエンブレムが縫い込まれたマントが背中で翻っていた。

 そんな装備を着けている当の本人は思ったより線が細く、足が長いのでモデル体型というのだろう。端正な顔つきはどこかエナの面影もあるかもしれないが、あまり似てないとメグルは感じた。

「エナ! 良かった戻ったのか! もうお前がどうなったかと思うと兄さんは心配で心配で……っ」

 脇目も振らずに彼はエナに駆け寄ると、その大きな体で包み込むように彼女を抱きしめた。エナはその抱擁を受け入れ、背中に腕を回している。どことなく強張りっぱなしだったその表情に、ようやく安堵の色が差したような気がした。

「ケイジュ兄さん……ごめん、色々心配かけて。……お父様は? 私のこと、何か言ってた?」

「……お父様は。この前亡くなったよ。エナが騎士団に派遣された後から、急に体調を崩されてね。そのまま床に伏せて……最後は苦しまずに逝けたのがせめてもの救いだったかもしれない」

「……死んだ? あいつが……?」

 エナは愕然としていた。それを慰めるように、ケイジュと呼ばれた彼女の兄が肩に手を置いて微笑みかける。

「驚いただろうな。本当に突然のことだったんだ。病状が突然悪化して、誰の手の施しようもなかった。僕もこの家の当主を引き継ぐために色々奔走してね、今まで悲しむ暇もなかった。……お前が帰ってきてくれて本当によかったよ」

 ところで、とケイジュはようやくメグルたちに目を向けた。怪訝そうな眼差しだ。

「この人たちは? そういえば、騎士団の連中に指名手配されているそうじゃないか。手配書で見たことある顔ばかりだ。エナ、もしかしてこいつらに誑かされて……!」

「ち、違うの兄さん! この人たちは私の仲間! その指名手配も、全部誤解なの!」

 腰の剣に手をかけたケイジュとメグルたちの間に、慌ててエナが割って入る。そしてこれまでの経緯を手短に説明し出した。

 話を聞いたケイジュは警戒は解いたものの、解せないというのを表情に表したまま考え込んでいる様子だ。

「──ハイバルト国王に、話を繋いでほしいの。私たちは決して、国家転覆を企むような邪悪な集団じゃない。そのことを王に、私たちが直談判しなきゃ。きっと誤解だってすぐわかってもらえるはず」

 兄さんを、こんな時ばかり頼って申し訳ないけど。エナはすまなそうに目を伏せる。思わずメグルも、ケイジュの前に踏み出して九十度頭を下げた。

「エナさんのバンド仲間のメグルと言います。エナさんをこんな騒動に巻き込んだのは私に責任があります。なのでこんなおこがましいことをお願いする立場にないのですが……私からもお願いします。私達は決して危険な思想で活動している集団ではありません。王様に直談判させてください」

「……兄さん。私からもお願いします」

 それを見たエナも頭を深く下げた。カプリラもコーヴェも倣ってくれたみたいだ。

 緊張の沈黙は、ほんの一瞬だったように思える。やがてケイジュが、吹き出すように笑い出したのが聞こえた。

「……まず先程の非礼を詫びさせてくれ。君たちに妹が世話になったみたいだ。わかったよ、何とか王に取り次げないか確認してみよう」

「兄さん……! ありがとう……!」

 ケイジュはこちらの一方的な要望を快く聞き入れてくれたように見えた。メグルたちも改めて礼をした。

「……ごめんね。兄さんに勧めてもらって騎士団に入ったのに、勝手にやめた上にこんな迷惑かける形になっちゃって……」

「いいんだよ。お前もこの家の娘じゃないか。僕らは手を取り合って生きていくべきだろう?」

「そう、だね……。本当にありがとう。兄さんも困ったことがあったら、私にいつでも言ってね」

 ケイジュから差し出された手を、エナは固く握り返していた。メグルはケイジュが浮かべている笑顔をじっと見つめる。その視線に気付いたのか、ケイジュがメグルたちの方を向いた。

「とりあえず、明日の朝ハイバルト王国に向かえるよう手配しよう。君たちも今夜はこの家で休んでいって構わないよ」

「……そんなにすぐに交渉できるんですか?」

「ああ。僕はこの街の騎士団、フルベクタル支部の支部長だ。それに王とは親交もあるし、何たって今はこの家の当主だからね。こういったことには、権力とパイプがものを言うのさ」

 口の端で彼はこちらに笑いかけてくる。思えば先ほどから彼の表情は笑顔しか見ていないような気がした。「……ありがとうございます」とメグルはケイジュから目を離さないまま礼を伝えた。


  2


 メグルたちは使用人に案内され、客室へと通される。最初はそれぞれ個別の部屋が用意されていたが、四人が一つの空間で寝られる広い場所をあてがってもらった。ちょっとしたホールくらいあり、ここでライブを出来そうなくらいの空間だった。六つ置かれているベッドは全てキングサイズで、コーヴェも二つそれをくっ付ければ横たわってリラックスできそうだ。とは言っても室内にごてごてと置かれている装飾以上の効果がなさそうな豪華なインテリアのせいで、妙に圧迫感がある。どうにもこの屋敷には、権威を見せつけるような雰囲気がある。みんながいてくれなかったら、メグルはその圧で胃もたれを起こしていたかもしれない。

「お前はここに自分の部屋があるんだろう? こんなむさ苦しい空間でいいのか? お嬢様」

「からかわないでよ。今更ここに一人でいても落ち着かなくて気が変になりそうになるの。ここでみんなと一緒に寝るから」

「寂しがり屋だな。まあ気持ちはわかる。ここは広過ぎて、逆に肩身が狭い」

 エナをからかいつつも、コーヴェは彼女を気遣うように肩に手を置いていた。みんな、メグルと同じ心境なのかもしれない。

「……そういえば、お父さん亡くなったって言ってたね。お悔やみを。平気、エナ?」

 ふとベッドに座ったカプリラが、エナにそう言う。エナ自身は悲しみを堪えているというよりは、複雑そうな面持ちをしている。彼女はためらいながらも、重そうな口を開いた。

「……正直、どんな想いを抱けばいいのかわからない。死んでショックだと思う自分もいるし、ざまぁみろって感情もある。ほんと、大嫌いなクソ父親だったから」

 エナ曰くその父親は、というかこの家は典型的な男尊女卑な環境だったという。男の子供は出世頭として騎士団に入り、優遇される。しかし女は違う。他の貴族と結婚させ、人脈作りの道具として扱われるのだ。

 エナも幼少期から、兄とは明らかに待遇の差があったのを感じていたという。兄は騎士団に入るための鍛錬、エナはやりたくもない礼儀作法や一般知識の詰め込み、舞踏会用のダンスの練習などを厳しく叩き込まれた。兄は家族に褒められていたが、エナは出来て当然といった感じで相手にされなかった。兄のケイジュ以外には。

 ケイジュはエナを、家族には内緒で鍛錬に連れ出してくれた。それでエナは、花嫁になるためのつまらない習い事より、自らを鍛え誰かのために剣を取る道を志したのだ。

 もちろん父は徹底的に反対したが、兄はエナが騎士団に入るのを後押ししてくれた。父は渋々承諾したが、こう言い放ったのだ。

『お遊びはほどほどに切り上げて、早く帰ってこい。その頃にはお前が嫁に行くのにふさわしい家を選んでおいてやる』

 ……その瞬間のエナの憤りが、メグルの額にも青筋を浮かせた。

 エナの境遇はメグルのそれとよく似ていた。メグルの家も、女は男と結婚して尽くすことが最上の幸せだと信じ切っている金があるだけのところだった。父親に、似たようなセリフを言われたのも昨日のことのように覚えている。

「絶対にこのクソ親父を、騎士団の中で出世して見返してやるって思ってたんだけどね……結果は知っての通り。死んで悲しいなんて気持ちは微塵も湧かないけど、やっぱり悔しいわね。結果的に向こうの勝ち逃げみたいなものだから……」

 俯いたエナはぎゅっと拳を握り締めた。力を込め過ぎて震えそうなその手を、メグルはとってやる。強張ったそれを解いて、ぎゅっと両手で包み込んだ。鍛えられているけれど、彼女の手は思ったより華奢だ。この手で一体どれくらい色んなものを守ろうとしてきたのだろう。いっぱいマメを作り、傷を帯び続けてきたこの小さな手は。

「私もそういうクソ親父いたことあるからわかるわ。……これだけは言わせて。エナは誰が何と言おうと、立派な人だよ。これは同情とか慰めとか、単純な仲間意識とかじゃなくて、あたしっていう一人の人間の心から感じたことだから。自分を誇りに思って、いいと思う」

「わ、私たちも! エナのこと大好きだよ! エナと出会えて、本当に良かった!」

「お前がいないと、正直このバンドは成り立っていないからな。私もお前の人間性は目を見張ってるよ。……これでも大分、素直な方だ。すまん」

 カプリラもぎゅっとエナに抱きつき、コーヴェはまた彼女の肩に手を置く。

「……もぉ、みんなでくっついて暑いってば。私がどれだけ立派な人間かなんて、よくわかってるわよ。だからみんな離れて離れてほらほら」

 そっけなさを装った彼女の声は微かに震えていた。メグルたちに顔が見えないように踵を返したエナは、そのまま部屋を出て行こうとする。

「ちょっと気分転換に庭に出てくる。大丈夫、外からは見えないとこだから。あんたたちはここで休んでなさい」

 扉を閉める直前、彼女が服の袖で目元を拭ったのは見逃さなかった。メグルたち三人は顔を見合わせ、やれやれと肩をすくませた。

「素直じゃない奴だな。泣きたい時は泣いたって私たちは何とも思わないのに」

「それ、コーヴェには言われたくないと思うよ」

「おっ、カプリラ言うようになったねぇ。ま、エナはそういう人だからさ。あたしたちはあたしたちなりに、あの子のこと、見守ってあげようよ」

 言ったメグルは、肩の力が抜けるような和やかな空気を感じていた。言われてみればこれまでずっと追われている身を意識して、一息つく暇などほとんどなかったように思える。

 ……だが、まだだ。気にかかることがある。メグルは密かに、また気を引き締め直すのだった。


  3


 いつもの青い世界の夢だ。どこなのかわからないのに懐かしい矛盾したこの世界に、カプリラはもはや馴染んでしまっていた。もうどこかを、誰かを探し歩くことはない。ただその場に立って、じっと探っていた。もうその誰かは、向こうからやってきてくれるだろう。それがこの前の夢からわかった。

「……そこにいるの?」

 微か、カプリラの頭上のツノが疼いた気がした。魔物の気配を探る時も、こうやってツノが何かの存在を掴んでくれる。でも今までにない感覚だ。敵意はなく、逆に安心してしまうような気配。メグルや他の仲間たちとはまた違う。でも、少し似ているかもしれない。

『お前は、真の姿を取り戻しつつある』

 声がした。広い空間に響き渡っているのか、それとも頭の中に直接聴こえているのか。距離がまったく掴めない、広がっていく籠った声だ。そこにはどこか威厳のようなものを感じるが、決して威圧的ではない。

「真の姿って……この羽のこと? これって何なの? あなたも私と似たような姿をしているの?」

 カプリラは背中の翼を広げる。船での一件から、突如自分の体に現れた人ならざる象徴。空を舞うことも容易い。最初の時はローブが破けてしまったが、メグルが裁縫で自由に翼を出せるようにローブに縫い合わせのボタンで開く背中の穴を作ってくれた。あの人は本当に器用だ。

『それはお前が真の姿に近づきつつある証。今のお前は、我々が与えた仮初の姿に過ぎない』

「仮初……? 私のこの姿が……?」

 自分の左目に触れる。黄金の光を帯びた人とは違うこの目も、その真の姿の表れなのだろうか。そしてこのツノも。今のこの姿がずっとコンプレックスではあったものの、仮初の姿だと聞くと少しだけ怖くなった。

(私が今のとは違う姿になったら。メグルは怖がらないかな。嫌われ、ないかな……)

 それだけが、ただ怖い。メグルと一緒にいられるなら、自分が何者かなんて知らなくていいとさえ思い始めていたのだ。ずっと探していた記憶のかけらを、見つけ出せなくてもそれでよかった。

 メグルはきっと、どんな姿でも迎え入れてくれるだろう。笑いかけてくれるはず。でももし、嫌われたら。僅かなその可能性が、カプリラが一歩踏み出すのを躊躇させる。

「あ……」

 青い霧の中。前の夢の時に見た山のように巨大な影が現れた。これが語りかけてきた声の主なのだろう。

 ということは、自分の姿も元はこんなに大きなものなのだろうか。どんな姿なのだろう。また恐れが、カプリラを竦ませる。

『真の姿を取り戻したいと強く願えるようになった時、全てをお前に話そう』

「ま、待って! 私は……!」

『歌に従いなさい。歌がお前を導く』

 影が奥の方へ引いていく。思わずカプリラが追いかけそうになった時だった。

 周りの霧の中に、何かがちらついた。そして目にする。

 他にも大きな影がいくつも浮かび上がっていた。同じように視界をいっぱい覆いそうな生き物の影が、数えきれないほど。

 そしてそのうちの一つが。霧を吹き飛ばすように何かを目一杯広げた。翼だ、とわかった。自分のそれとよく似ているけれど、あまりに規格外の大きさのそれ。まるで共鳴するように周りの影も徐々に翼を広げ始めた。

 風が起き、霧をカプリラの方に吹き飛ばしてくる。目を開けておられず、その場に留まろうとするのさえ困難だった。すぐ踏ん張りが効かなくなる。

「うわっ……!」

 足が地面を離れて後ろに飛ばされそうになった瞬間。優しく背中から受け止められるような感触があった。別の風を起こし、カプリラの衝撃を抑えてくれたのかもしれないい。

 そこで目を覚ました。薄暗い中でも豪華な装飾がわかる天井が広がっていた。一瞬どこかわからなかったが、ここはエナの家の客間だ。

「メグル……?」

 何か物寂しいと思ったら、一緒にベッドに入ったはずのメグルの場所がもぬけの殻だった。エナとコーヴェは別のベッドで寝ているが、彼女の姿は部屋にない。寝付けなくて外に出たのだろうか。探しに行こうと、カプリラもそっとベッドを降りて部屋を抜け出した。

 広い廊下を迷いそうになりながらも、メグルを探してエントランスの方にやってこられた。照明は落とされていたが、大きな暖炉が脇の方にありそこには火が付いていた。薪を使っているのかと思ったが、火の魔石を使っているようだ。この大きさなら一晩中どころか数日は誰も見ていなくても火を灯していられる。足元の明かり代わりだろうか。どちらにしても贅沢な使い方だ。

 そしてその暖炉の傍で、誰かがしゃがみ込んでごそごそと何か探っていた。泥棒かと思ったが、カプリラの暗闇でも効く左目はその馴染んだ後ろ姿をすぐ認識した。

「メグル? 何してるの?」

 カプリラが呼びかけると、びくっとその背中が竦んで振り向いた。じっとカプリラの姿を確認してから、メグルはほっとしたように息を吐いた。

「カプリラかぁ……びっくりしたぁ。眠れなかったの? 大丈夫?」

「ううん、平気。ちょっと起きたらメグルがいなかったから……」

「ごめんごめん、あたしもちょっと目が冴えちゃって。ちょっとここで気晴らししてたんだ」

 メグルはぎこちなく笑ってそう言っていたが、たぶん嘘だろうとカプリラはすぐわかった。彼女はこちらを気遣って嘘をつく時、わかりやすく鼻がぴくぴくする。それに明らかに態度に出るのだ。

「メグル、何かあったの? 私に話せることだったら、話してほしいな……?」

 尋ねてみる。みんなが寝ている時に起き出して、ここで何かしていた彼女。そして今見ているその表情は、どことなく深刻そうに感じた。彼女はこう言う場合、あまりカプリラたちに余計な心配をかけまいと一人で背負い込むことがある。

 でも、何かあるなら話してほしかった。メグルは私にとって、大切な人だから。無理なんかしないでほしいのだ。

「カプリラにも話しておいた方がいいか……」

 少し悩んだ様子を見せた末、メグルは話してくれた。考えていたこと。ここで何を準備していたのか。

「エナには言わないでね。ただの杞憂かもしれないし。でも一応、念には念を入れた方がいいって思ったんだ」

 さあ、明日に備えて早く寝よう、とメグルは手を差し出してくる。カプリラはおずおずとその手を繋いで、引かれるままに歩き出した。

 メグルの手は、どこかいつもより力が入っているように感じた。思えば彼女はこの時から、思うことがあったのかもしれなかった。それに気づいていたら、何か変わっただろうか。カプリラにはわからなかった。


  4


 朝。誰からともなくカプリラたちは目を覚ました。

 客間で待機中、どことなく張り詰めた空気が漂っていて誰も口を開かなかった。

 これからハイバルト王国に向かうのだ。緊張しないわけがなかった。けど。

 メグルは、とカプリラは彼女に目を向ける。どんな時でもあっけらかんとしているはずなのに、今日の彼女はどこか険しい顔を崩さない。昨日、話していた件だろう。考え過ぎであればいいけれど、カプリラも何となく嫌な予感がしていた。このままではきっと済まないような。

(エナに言わなくて大丈夫なんだろうか……)

 エナも背筋良くベッドに腰掛けたままあらぬ方を見ている。その表情は強張っていた。コーヴェの方を見れば、彼女は目配せして首を降る。彼女も知っていて、言わないほうがいいと伝えているのだ。

 でも、やっぱり一応、警告はしたほうがいいような。カプリラは顔を上げてエナに声をかけようとする。

「あの、エナ……」

「失礼します。準備が整ったようです。皆様、エントランスにお集まりください」

 扉がノックされた。使用人だろう。メグルが全員に目配せして頷き、立ち上がる。カプリラたちもそれに続いて部屋を出た。

 予定通りなら。このまま何事もなくハイバルト国に行けて、王に謁見できる、はず。約束してくれたのはエナが信頼を置く兄だから大丈夫な、はず。でも胸騒ぎがする。きっと何かが起こる。そんな予感がするのだ。

 エントランスにたどり着くと、階段の下のホールにケイジュが立っていた。騎士団の鎧もマントも付けて準備万端だ。階段の上にカプリラたちの姿を認めると、にこりと笑いかけて手を上げた。

「エナ、皆さん、おはよう。いい朝だ。昨日はよく寝られたかな? すぐハイバルトに発てるぞ」

「ありがとう、兄さん。……でも本当に、すぐハイバルトに行けるの? 私たち誤解だけど、指名手配されてたのに。しかも直々に命を下していた王が、それを簡単に覆してくれるのかしら」

 階段を降り、兄の傍に行ったエナが不安げな表情を隠さずに尋ねた。ケイジュはそんな彼女に歩み寄ると、そっと髪を撫でて微笑みかける。

「ああ、大丈夫だ。迎えももう来ている。それに指名手配されることももうない。君たちの追跡は、今日で終わりさ」

「……え? それってどういう意味……?」

 ケイジュの声色が低く変わった。エナが聞き返した時だ。

 入り口の両開きの扉が乱暴に開け放たれた。入ってきたのは騎士団の大群だ。あっという間にカプリラたちを取り囲み、隙間なく並び立った。一斉に剣を抜き、切っ先をこちらに向ける。逃げる隙も一切なさそうだ。

「兄さん……!? 何なのこいつら……!?」

「もちろん私が呼んだ。彼らがハイバルトに連れて行ってくれるよ。と言っても手錠と足枷付きで、行き先は牢獄だがね」

 騎士団の輪の外で悠々とした表情で笑っているケイジュが、困惑したエナに告げる。やっぱり彼は裏切っていたのだ、とカプリラはすぐ察した。メグルもコーヴェも同じ心境だっただろう。

「……何でなの。どうして兄さん、こんな……っ!」

「何だ、自分が僕に特別扱いされているとでも思っていたのか。自惚れるなよ、女のくせに。お前はこの家の繁栄のために使われる存在。それ以上の感情など、最初から僕は抱いていなかったよ。今までのは、お前を駒として使うための僕なりの情けさ」

 言い切ったケイジュが浮かべている笑み。ずっと変わっていないはずの表情なのに、ひどく冷たく陰が差しているように見えた。

「てめぇ……何て言い草だよ。実の妹なんだろッ……!」

 メグルが思わず口を挟むが、彼はまったく取り合わなかった。

「部外者は黙っていてくれるかな。まったくお前には苦労させられたよ、エナ。騎士団に入りたいなどと言うものだから、裏から色々手を回させられたしな。でもおかげで、お父様……あのクソ親父のこともお前がいなかったおかげで楽に説得できたよ」

「説得……? もしかして父親を手に掛けた……?」

「おっと話し過ぎたな。説得だよ、説得。僕がこの家の当主になるためのね。あいつも本望だったろうな、僕を当主に指名して逝けたんだから」

 カプリラの問いに、彼は答えているも同然の受け答えをする。思った以上に邪悪な人間だと感じて、カプリラは背筋が冷たくなった。

「……私があんな僻地に飛ばされたのも、兄さんが手を回したせいなの?」

 エナの声はもう震えていなかった。ただ俯き、拳を痛そうなほど握り締めている。対する兄の返答は、あっけないほど乾いていて、慈悲も何もなかった。

「ああ、もちろん。お前が何かやらかしてうちの家の名に傷が付いたら僕が困る。……もしかして、自分が出世できるとでも思っていたのか? ははっ、傑作だな。お前は自分が選ばれた者だとでも思っていたのか。僕が考えていた以上に、馬鹿な奴だな。恥を知れ、痴れ者が」

「ふざけんなこのクソボケ兄野郎! エナがどんな思いで頑張ってたと思ってんだッ! お前こそ恥を知れドアホ!」

「悪いが興味ないな。……長話が過ぎたか。さあ、お前ら。さっさとこの犯罪者どもを連行しろ」

 メグルの怒鳴りにもケイジュは眉一つ動かさず命令を下す。周りを囲む騎士団は剣を構えたまま、じわじわと輪を縮めてくる。カプリラたちは背中合わせで対抗しようとするが、この前のメイベルたちの部下とは訳が違いそうだ。どの団員もオーラが違う。カプリラも思わず怯んでしまうほど。

「エナ。お前だけは僕の権限で特別、助けてやらんことはないぞ? ただし、これからは勝手はもう許さない。元々お前はこの家のものだ。それでいいな?」

 ケイジュは笑いかけたまま、エナにそう言い放つ。カプリラまではらわたが煮えくり返るような言葉。耳を貸す必要はないと思うが、エナを伺った。彼女は俯いている。まだショックから立ち直れていないのか。

「……仲間は――この人たちはどうするつもり?」

「もちろん連行、即処刑だ。王直々の指名だぞ、さすがの僕の力を持ってしても覆せないだろ? それにわざわざ僕が王に掛け合う義理もメリットもない。下手に王に悪い印象を与えたら出世に悪影響が出る」

「……そう。嘘でも仲間は助けてやるって言うべきだったわね。信じなかったけど」

 エナが小さく呟いた。途端、彼女が消えた。違う、高く跳躍したのだ。取り囲んでいた団員の兜を踏みつけて更に跳び、ケイジュの前に着地した。

「なっ……へぶぇっ!? ぐぉおっ!? げぇあああっ!」

 エナが足蹴りを放つ。まずケイジュの股間。前のめりになった瞬間に背中を引っ張って土手っ腹に膝。そして最後に横っ面をグーパンチで思いっきりぶっ飛ばした。ちゃんと腰が入った拳に、ケイジュは簡単に吹っ飛んで床に転がった。

「私はこの家のものじゃない! 私は私! それを教えてくれた仲間のことを見捨てるなんて、絶対にしないッ!」

 エナは剣を抜き、カプリラたちを囲む騎士団たちに向ける。その眼差しにもう迷いはない。真っ直ぐに今を見つめ貫いていた。

「かかってきなさいよ。言っておくけど大人しく捕まる気はないわよ。私も、そこの三人もね」

「お、お前たち! 何してる! 早くこの不届き者を拘束しろォ!」

 ケイジュが尻餅を着きながら無様に叫ぶ。それでカプリラも覚悟が決まった。

 逃げられる可能性はゼロに等しいかも知れない。それでも、ゼロじゃない。それなら全力で抗ってやる。例え無駄だろうと、みっともなくても。最後まで。

「よっしゃあッ! エナ、よく言った! キメるぜ! 最高の逃走劇ッ!」

 ──みんな、目ぇ閉じて! そう叫んでギターを構えたメグルが、一気に弦を弾いた。鋭い歪みが爆ぜる。

 カプリラたちが目を閉じた瞬間、瞼の向こう側で眩い閃光が巻き起こったのを感じた。視界を戻せば、周りにいる団員たちが目を押さえてもがいていた。メグルがドヤ顔で胸を張った。

「こんなこともあろうかと、雷の魔石いっぱい仕込んどいたっ。あたしのギターの音で魔力出力めっちゃ上げてやったぜぃ!」

 そういえば以前メグルが、焚き火を手っ取り早く起こそうと火の魔石にギターの音を聴かせたことがある。彼女の音を操る能力は、聴いたものの力を増幅させる効果もあるが、それは魔石の魔力も対象なのだ。その時は小爆発が起こってエナにしこたま怒られていたものの、こんな時に役に立つとは。

「行くぞッ! こいつらに構うな! さっさと逃げるぞ!」

 コーヴェが長い腕を振るい、周りの団員たちを吹っ飛ばしながら叫ぶ。カプリラはメグルと目を合わせて頷くと入り口に向かって駆け出した。

「奴らが逃げるぞ! 絶対に阻止し、ごふぇっ!?」

 唾を飛ばすケイジュの背中を、エナが踏みつける。ここにいる団員たちはやはり精鋭なのか、目の眩みにも怯まずカプリラに剣を振るってこようとする。だが視界がない分当てずっぽうだ。せめて怪我をしないように転ばせながら、カプリラはメグルと一緒に走り出す。

「メグル、離れないで!」

「ああ、もちろん! エスコートよろしく!」

 いつの間にかメグルと手を繋いでいた。絶対に離さないようにぎゅっと握りしめて、入口へ。既にエナが扉を開けてくれていた。外に別の部隊が待ち伏せしていることはなさそうだ。ケイジュはここで捕まえる気だったらしい。そう簡単には行かなかったみたいだけど。外に向かって全力で走り出す。

「逃すかぁッ!」

「うわっ!」

 不意に後ろのメグルの足が止まった。倒れた団員が足を掴んだのだ。

「おい! みんなこっちだ! 奴らの一人を捕まえているぞ!」

「メグル! この、離せ!」

 カプリラは咄嗟に後ろに回ってメグルの足を掴む手を蹴る。だが向こうも必死なのか頑なに離そうとしなかった。

 そうしている間に声で他の団員も集まってくる。腕が何本もメグルの足を絡みとり、がっちりと捕まえてくる。蹴っても蹴っても彼らは諦めない。

「くそっ、やめろ! メグルを離せ……!」

「……カプリラ。行って。あたしはここまでみたいだ」

「メグル? 何言って……」

 彼女の手が離れる。と、同時にカプリラは突き飛ばされていた。いつの間にかメグルのギターを手渡されていて、カプリラはそれを壊さないように尻餅をついた。

「そのギター、次のギタリストのために大事にしてあげてね。あたしの相棒だったから。弾き心地は保証する」

「メグル、ダメだよ! ダメだッ!」

 慌てて立ち上がろうとしたが、メグルは後ろから団員のタックルを食らってそのままうつ伏せに押し倒された。こちらを必死に見上げるメグルの表情は──なんて穏やかなのだろう。ぞっとした。彼女はカプリラたちだけを逃がそうとしている。自分を置いて。

「逃さんぞ! 絶対逃さん! この阿呆どもがァ!」

 エナの注意が逸れた隙によろよろとケイジュが駆け出す。そして壁際のスイッチをぶつかるように押し込む。途端、入り口の上からゆっくり鉄の扉が降り始めた。

「カプリラ! 閉まるぞ! 早く出るんだ!」

「でも、メグルが……!」

「一緒に助け出すわよカプリラ! 捕まえてるやつ全員ぶっ飛ばせばいいんでしょ!?」

 カプリラは躊躇する。エナは勇ましく剣を振るい上げて捕まっているメグルに向かおうとする。だがそれをメグルは必死に手を突き出して止めた。

「あたしはいいから! 早く逃げて! あたしがいなくてもバンドは続けられる! でしょ?」

「やだッ! メグルがいないと、私は……!」

 掠れたカプリラの叫びは最後まで言葉にならなかった。コーヴェがカプリラとエナを両手に抱えて走り出したからだ。鉄格子が閉まりかけた入口が迫る。

「ちょっとコーヴェ! 何やってるのよ!?」

「コーヴェ! メグルを助けないと!」

「うるさい! ここは退くんだ!」

 カプリラたちを抱えたまま、コーヴェは滑り込むように降り行く鉄の扉をくぐり抜けた。ぎりぎり彼女の頭をくぐれる高さ。

「メグルッ!」

 コーヴェの背中から後ろに手を伸ばしたカプリラは見た。メグルが多数の団員たちに抑えつけられながらも、心配をかけまいとこちらに笑いかけて、親指を立てたのを。すぐ鉄の扉が遮って見えなくなった。

「メグル! メグル!」

 カプリラは駆け寄って鉄の扉を殴る。が、びくともしない。扉というよりもはや分厚い壁のようだ。それなら窓を、と思うも入り口と同様に鉄の壁が降りていた。完全に檻だ。中の音さえ通さない鉄の檻。元々見張りなどいない分、外壁なども頑丈に作ってあるのだろう。カプリラの力で壁を蹴ってもヒビすら入らない。

「カプリラ。今の騒ぎで人が集まってきてる。早く逃げないと新手が来るぞ」

「でも……! メグルがまだ中にいるんだよ!?」

「……コーヴェの言う通りかも。ひとまずここは一旦退いたほうがいいわ」

「エナまで! もういい、私一人でも助けに行くから! メグル、待っててすぐ……っ」

「いい加減にしろ!」

 頬に軽い衝撃。コーヴェが手加減して自分に平手打ちしたのだと気づいた。

「メグルがどんな想いで、私たちを逃したのか。よく考えろ。それを無駄にするなよ。ここで全員捕まるわけにはいかないんだ」

「カプリラ。私もめちゃくちゃ辛いけど……そうしなきゃきっとダメよ」

 切実そうなコーヴェとエナの眼差しに、カプリラの頭の熱が引いていく。滲んだ涙をぐっと手の甲で拭った。

 わかっていた。わかっている。この場でどうするのかが最善なんて。それが例えどんなに、苦しい選択でも。腕の中にあるメグルのギターをぎゅっと抱き寄せる。

「……行こう」

 噛み締めるように、震える声で言った。頷いてくれたコーヴェとエナの表情は、どこまでも優しくカプリラを気遣ってくれていた。

 門の前には既に人が集まり始めていた。もうすぐ別の騎士団たちもやってくるだろう。

 馬小屋から取り返した馬車。エナとコーヴェにはそれに乗ってもらって、カプリラは馬のオスカルごと抱え込んで翼で空へと飛び立った。

 最後に振り返ったメグルが残されているフィルドリン邸は、もう地上で小さくなって、やがてすぐ見えなくなった。

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