6章 MUSCLE HUSTLE PANIC!!!!!!!

 1


「は? 世界転覆? 悪徳思想集団!? あたしらが? 何言ってんの君たちちょっと!」

 メグルの驚愕を皮切りに、その場にどよめきがひろがっていく。カプリラたちだってもちろん動揺していた。謂れのない容疑を掛けられ、あまつさえお前たちを捕まえるぞと突然宣言されたのだ。その場の混乱を物ともせず、騎士団の連中は身じろぎ一つせず直立していた。

 隊長らしき男が口を開く。

「そうだ。お前たちは音楽を用いて、各地の人々に危険な思想を植え付けている。それはいずれこの世界の平和を転覆しかねないと我々は判断した。投降しろ。それとも我々がそこから引き摺り下ろそうか?」

 手を上げた男の合図で、すぐに周りの部下たちは動けるように構えた。こちらが何をしなくても、彼らは問答無用でメグルたちを連行するつもりだろう。

(どうする、大人しく連れて行かれるか、それとも……)

 この世界の行政のことなどメグルはまったくわからない。日本の警察なら、こちらは完全に無罪なのだからいくらでも言い分を聞き入れてくれはするだろうが、ここならどうだ。メグルの直感は告げている。こいつらはやばい。有無を言わさず顔色も変えず、敵だと認識したものには手を下しそうな危険な匂いがする。エナとはまったく違うタイプだ。メグルたちと同じ人間であるかさえ怪しい。

「どこにそんな証拠があるわけ! あたしたちはあたしたちの音楽を、ただ人に聴いてほしくて活動してただけなんだけど!」

「……逆に問うが、そこに世界を転覆しかねない思想を広めていないという証拠は? 見ろ、お前たちは魔物と疑わしき者も従えているではないか」

 奴らの視線がドラムのコーヴェへと向く。……こいつら。時間稼ぎの質問だったが裏目に出た。

「あ、おいちょっと! 何して……ぐっ!」

「メグル⁉︎」

 部下の一人がステージに上がり込んできた。止めようとしたメグルを突き飛ばし、カプリラの前に立つ。そしてフードをおもむろに取り払った。

「あっ……」

 カプリラのツノが、その瞳が。公衆に晒されてしまう。どよめき。カプリラは慌てて顔を伏せるが隠しようがなかった。隊長格の男の冷たい声が響く。

「ほらな。こいつも化け物だ。それに、騎士団からの脱走者もいる。これで後ろめたくない連中だというのは無理がないか?」

「わ、私は脱走者なんかじゃ……っ」

 エナが反論しようとしたが睨まれて怯んだ。どうやらどう立ち回ろうが奴らはメグルたちを連行するつもりらしい。しかも世界転覆を企てた、などと仰々しい罪状で。連れて行かれたらどうなるものかわかったものじゃない。

「諦めろ。ハイバルト国王から直々の指令だ。お前たちは逃げられない」

「ハイバルト国王が……?」

 エナが隊長格のセリフに引っ掛かりを覚えたようだ。

 ……どうしたらいい。進退極まる状況。メグルでさえ迷っていた。

「……逃げろ」

 不意に。見守っていた聴衆たちの一人が小さく言ったのが聞こえた。かと思えば、誰かが騎士団の隊長格に飛びかかっていく。掴み、そのまま地面に押し倒した。

「逃げろ! 今のうちだ!」

 ライブを見ていた人たちが一斉に動き出した。不意打ちだった騎士団たちはあっという間にその勢いに呑まれていく。掴み合い、怒号、混乱。逃げろ、逃げろとメグルたちに向かって囃し立てている。

「なっ、貴様ら! 何をやってるかわかっているのか! 共謀罪で裁くぞ!」

 騎士団の男の言葉はすぐ猛々しい「逃げろ」という声で打ち消される。ぼんやりしている場合じゃなさそうだった。

「行くよみんな! 逃げるんだ! 全力で逃げろ!」

 メグルは立ち上がり、楽器を抱えたままエナとカプリラの背中を押す。素早くコーヴェもドラムセットを軽く肩に担いで後に続いた。ステージを飛び降り、四人で駆けていく。

 預けられた逃げ道だ。ここで捕まるわけには絶対行かなかった。

「待て! 貴様ら!」

 馬車を預けたところまで向かう。途中、先回りするように建物の影から騎士団の一人が飛び出してきた。

「もう、邪魔ッ!」

 エナが団員の腕を掴みそのまま背負うように投げる。一本背負い。続けてやってきたもう一人には手刀をかまし足払いをかける。彼らが起き上がる前にさっさと退散していた。

「エナ、大丈夫なの?」

「平気。私はもう騎士団じゃないし。脱走者とか言われてムカついたけど、ちょっとすっきりしたわ」

 走りながら心配そうにカプリラが聞くが、エナ本人はどこ吹く風のようだ。もちろん強がりかもしれない。彼女の表情から困惑は抜けてない。いや、今よくわからずに逃げているメグルたち全員そうだ。

「聞いたよ、追われてるんだって? この先の道を通って行きな。迷路みたいに入り組んでるから騎士団たちも出し抜ける」

 厩舎の主からそう言われて地図も渡された。礼を言いつつ教えてもらった道を行き街の外を目指す。馬車の馬にエナが跨り、中にメグルが楽器と共に乗り込んだ。足の方が速いカプリラとコーヴェは外で走る。馬車が通り抜けられる道だが、確かに複雑に入り組んだ裏道だ。気を抜けばこちらの方が迷ってしまいそうだ。

「こっちだ!」

 声が聞こえた。街の住人らしき人がこちらを手招いている。道案内してくれているのだ。メグルたちはそれに従った。

「こっち! 次の角は右よ!」

 また道の先に立っていた女性が道を教えてくれる。あらかじめスタンバイして、リレー形式のようにメグルたちを導いてくれているようだ。心強い。従ってひたすらに進んだ。

「次を左でもう外だ! 急げ!」

 住民たちの言葉に従って飛び出していく。もうどれくらい走り続けただろう。街の外の森に出ても、まだ止まらなかった。少し我に帰って、メグルはずっと自分が息を詰めていたのに気づいた。心臓の音がうるさい。静まり返った場所に馬車が進む音と自分達の足音しか聞こえていない。まだ追われ続けている気がした。

「ここまでくれば、いいんじゃないか。騎士団たちの姿はもうない」

 コーヴェがそう言い馬車を止めた。森を抜けてもただ走り続けて平原に出ていた。ひとまず身を隠せそうな岩と木陰のそばで一息つく。

 馬車から降りたメグルはみんなの顔を見渡す。みなやはり不安そうだ。そして戸惑っている。状況を整理する必要があった。

「何なのよ、どういうこと!? 何で騎士団が私らを連行しようとするわけ!? わけわかんない!」

「落ち着けエナ、いや無理か。私もよくわからんが、どうやら我々は謂れもない疑いを掛けられてるようだな。しかも重罪だ。捕まってたら首を括られてたな」

 荒れるエナを宥めつつ、コーヴェが淡々と言う。いや、彼女も動揺を押し殺しているに過ぎない。メグルが思ってたよりあの状況はやばかったのだ。

「シャンディーの人たち、大丈夫かな……」

 カプリラが心配そうに呟く。誰も確かな答えは返せず、黙り込んだ。

 でも自分たちは、助けてくれた人たちのおかげで今ここにいる。それを無駄にするわけには決して行かなかった。

「……これからどうする、メグル。おそらく騎士団の奴ら、あの様子だと地の果てまで追ってくるぞ」

 コーヴェの問いかけと共に、カプリラとエナもメグルに視線を送ってくる。

 頼られている。この不測の事態、一応バンドのリーダー的な役割を担っている者として冷静な判断を下さなければならない。とりあえず思考をフル回転させるために酸素を求めて思いっきり息を吸い……咽せた。「あんた大丈夫?」とエナに呆れられてしまう。

(……どうする)

 正直なところ、あまり選択肢などない気がした。つまるところ二択だ。止まるか、止まらないか。ここまで勢いで来たのだ。今更堰き止められない。答えは決まっていた。

「……さっき、隊長みたいな奴が言ってたよね。国王から直々に指令を受けたとか」

 メグルは気にかかっていたことを口にする。案の定、エナが間髪入れず反応した。

「騎士団はハイバルト王国に本部があるの。各地の支部にそこから指令が下るし、実質騎士団を指揮しているのはハイバルト国王ね。だから王からの指令は絶対。何が何でも、私達を捕まえる気よ」

「なら、直談判するしかないね。ついでに何であたしたちを捕まえたいのか、理由も聞きにいくか」

 全員がメグルの言葉を呑みこめていないようだった。一瞬遅れて、察したのはカプリラだ。

「……もしかしてメグル、ハイバルト国王に直接会いに行こうとしてる?」

「ん、もち。だってそれしかないじゃん? 捕まえにくる連中は話聞いてくれなさそうだし、なら親玉と向かい合わなきゃね」

「おいおい、それはいくら何でも無茶ってやつじゃないのか。城に入れるかすらわからないし、下手したら国に足を踏み入れる前にお縄だな。ハイバルト国の警備はさっきの比じゃないんじゃないか。騎士団の本部もあるんだろ」

 コーヴェがさすがに口を挟む。だがこんな時、真っ先に正論をぶつけてくるはずのエナが黙り込んでいた。彼女は何か思案した様子で顎に指を当てている。

 やがてエナは意を決したように顔を上げ、その場のみんなの顔を見比べた。

「……実はその直談判、何とかなるかも。あんまり気が進まない案だけど」

「何か策があるの、エナ!?」

 カプリラの目が微かな期待をはらむ。みんなの視線を受け、エナは大変言いにくそうに自分の考えを話していく。

「私の実家、フィルドリン家は代々ハイバルト王国の騎士団の家系でね。私は一回もないけど、一応国王と謁見の機会も何度かあるみたいなの。つまりツテがあるってわけ」

 こんな形で頼りたくなかったんだけどね……とエナは俯いて気が重そうだった。そういえばエナは騎士団を飛び出してからもその実家と連絡はとっていなさそうだった。特殊な家庭なのかもしれない。……名家のようだし、何か確執があるのか。メグルには余るほど身に覚えがあった。

「父はおそらく取り合わないだろうけど、兄ならもしかしたら……。迷惑かけちゃうけど、もうそんなことを気にかけている余裕はないわね」

 エナが覚悟を決めたように表情を引き締めた。せっかく彼女が提案してくれたことだ。今は甘えさせてもらう以外に手はなさそうだった。

「ありがとう、エナ。……みんな、ごめん。私の起こしたことに巻き込んじゃったね。これからの行動には、きっと危険ばかり付き纏ってくると思う。その中に飛び込むようなものだから。降りたい人は、素直に降りても大丈夫だよ。少なくともどこかに隠れている方が安全ではあるからね。私は一人でも大丈夫。絶対ハイバルトの王に会ってみせるよ」

 みんなに向かって頭を下げる。あまり間を置かず、こんと軽く肩を小突かれた。意外にもカプリラだった。彼女は怒っているような拗ねているような顔でメグルを見ていた。

「……一人でも大丈夫なんて、もう絶対言わないで。私は最後まで一緒にいるから。危険なんて承知の上だよ」

「ま、打開策は私が切り出したからね。可能性は限りなく低いけど。これから行くとこなんてないんだから、しばらく付き合わせてよ」

「右に同じ、だな。どうせ行く当てはないし、私はお前たちに付いていくことにした選択を後悔してない。それに騎士団相手に大暴れするのも面白そうだ。今までの鬱憤晴らしにはなるな」

 エナとコーヴェも思いは同じだ。それはそうか。少しでも遠慮して信じなかった自分をメグルは恥じる。

(あたしはほんと、いい仲間を持てたな。……絶対にこの三人だけは、守らなくちゃいけない。私の命に代えても)

 腹を括った。そしてぐっと握った拳を掲げる。

「じゃあこれから騎士団を警戒しつつ、エナの実家に向かう。みんな、覚悟はいい?」

 おー! と緊張感のないカプリラの声に、呆れたエナと満更でもないコーヴェが続く。


  2


「アロガン国王。例のバンドが逃げ出しました。引き続き同じ隊が全力で追っています」

「……何故逃がした?」

 跪く騎士団の団員に、玉座に頬杖をついたアロガン・ハイバルトは一言尋ねる。まるで巨大な足に踏まれかけてでもいるように相手の顔色がわかりやすく変わる。

「は……それが、奴らの演奏を聴いていた者たちから思わぬ妨害を受けまして……」

「なるほど。やはり小石が岩に化けたか。妨害した者たちを始末しろ。派手にやって見せしめだ。他によからぬ考えを企む奴らが真似をしないようにな」

 アロガンの言葉に団員は動揺した様子を見せる。

「し、しかし彼らはただの一般人です。一時の気の迷いで殺してしまうのはさすがに……」

 アロガンの視線に気づいた彼は、その後を言い淀んだ。

 王の命令は絶対だ。二言はない。誰もが従わなければならない。例外はないのだ。

「お、仰せのままに……」

「他の隊も合流させて、バンドを徹底的に追い詰めろ。殺すなよ。全員生捕りにしてここに連れてこい」

 もう用はないと、アロガンは黙り込んだ。団員は躊躇いを隠せないまま謁見室を出て行く。

「反乱の元は絶たねばならない……」

 アロガンの呟きが広い部屋にただ一つ響く。護衛の兵たちは並んでいるが、誰一人甲冑の音も鳴らさず直立不動。この空間において自由なのは王だけで、後のものは不測の事態以外では命令なく何一つ許されていない。これでいい。強いものだけに権利がある。世界はこうあるべきなのだ。

 アロガンの父、ハイバルト先代王はその秩序が保たれなかったために亡くなった。

 自分の身も守れない世界の民たちのために結界の魔石を集め、無償で配ろうとしたのだ。だがそれが魔石を独占しようとしているという誤解を生み、反乱を起こされてその混乱に乗じて暗殺された。──アロガンの目の前で。

『アロガン、お前は民たちに慕われる王になれ。私のようには絶対なるな』

 血を流し息絶え絶えにそう伝えてきた父の言葉は未だに耳元で鳴り響く。助け起こそうとして、どんどん温度を失っていくその遺体の感触も。

 彼は危険を顧みず国民たちの前に立ちただ真実を伝えようとしただけだった。だが壇上に立った時、騒ぐ国民たちに紛れた曲者に矢で射貫かれた。

 実行犯はわからない。アロガンが王に君臨した後、父親の演説の場に居合わせた奴らは全員始末したからだ。

(父上、必ずや実現して見せます。あなたの求めた世界を)

 秩序の成り立った世界。権威ある強いものだけが支配する世界だ。弱い者は絶対的に従い、統治され自由さえ管理されなければならない。和が公平に保たれた世界。それこそが平和だ。

(石ころ共も群れれば厄介な存在になる。音楽などと小細工を使って弱者を団結させようとする忌々しい洗脳邪教集団め……。さっさと摘んで置かないと、面倒な事態になりかねないな)

 奴らの思惑はわからないが、こちらも全力で潰しにかかる。

 ただし、利用価値はあるかもしれない。その音楽とやらで人を操れると言うなら、逆にこちらが使ってやらない手はない。

(どの道奴らに逃げ場はない。せいぜい足掻け。そして絶望しろ。他に続く者が出ないようにな)

 既に詰まれている獲物が無駄な抵抗をしているのを眺めている時ほど愉悦なことはない。だが笑みなども浮かべずに、王はただ玉座に君臨していた。


  3


「みんなありがとー! 今日はもうこれで終わり! さあ、ぐっすり眠りなー!」

 メグルが手を叩いて促すと、集まっていた人たちは拍手もまばらに三々五々、自分たちのテントの方に戻っていく。メグルたちもそれぞれライブの後片付けを始めた。と言っても、ステージなどない野外、照明はいくつか置かれた小さなランプだけ。楽器や照明道具を馬車にしまうことくらいか。こういう時、アンプやマイクを必要としないメグルの力は便利なものだ。

 手頃な森と岩の傍で、今夜のメグルたちは野宿をしていた。ここなら吹き曝しを避けることができるし、魔物も、騎士団たちの目も多少ごまかせる。これまでのライブでそれなりに収入がプラスになり、キャンプ道具を一通り揃えられたのは本当にでかかった。

 テントはプライバシー配慮でメンバー分用意し、コーヴェが両手を広げて寝られるどでかいのもちゃんとある(カプリラはメグルと一緒に寝るので共用の大型にした)。火の魔石を使ったコンロや鍋などの一通りの調理道具と、テーブルと椅子もセットだ。照明道具もぬかりない。メグルが元いた世界の動画サイトの知識と、致し方ない野宿経験が役に立った。あとは、コーヴェとカプリラの的確なアドバイスのおかげだ。この点の知恵はエナは遅れをとっているようで、少し悔しがっていた。

 だが今のキャンプは、メグルたち四人だけではない。他にもいくつも簡易的なテントが並び連なって、ちょっとした遊牧民の移動集落のような集まりになっている。

 ここ数日、メグルたちと行動を共にしているのは難民たちだ。皆、結界の魔石が効果を失ったことで住まいを捨てて危険な外の世界に出ていかざる得なかった者だった。メグルたちはエナの家のある街を目指す最中に彼らと出会い、魔物たちからの用心棒を無償で請け負った。

 最初は小さな村から出てきた五、六人ほどだったが、他の場所から逃れてきた人たちと、色々な事情があって家を捨てざるえなかった人、別の集団から逸れたり理由があって抜け出してきた人たちなどが合わさって、今や三十人ほどの大所帯。もちろんメグルたちは野宿道具などをありったけ掻き集め、彼らに提供していたが物資はあまり多くない。こちらも追われる身なのだ。限界があった。

「メグルー! 今日もかっこよかったよ! やっぱロックは最高だね!」

「おうよ。すごいっしょ、お姉さんたち。ほら、早くお母さんたちのところに行ってあげて」

「うん! 竜のご加護があらんことを!」

 ライブの片付けの途中、メグルは駆け寄ってきた少年の頭を撫でてやる。その子が言ってくれたこと言葉が気にかかった。

「その竜? のご加護が何とかって何のおまじない?」

「竜のご加護があらんことを、だよメグル! お母さんたちがよく言ってるんだ。竜神様が見守ってくださいますようにってさ」

 竜神様、というのは少年の住んでいた村が祀っている神様のことだろうか。竜、というのはおそらくドラゴンだ。日本で言う仏教のようなものか。初めて聞いたが、なかなか心に残るいい言葉のように思えた。

 それにドラゴンは、カプリラの左目を連想させる。気高く光る縦に割れたあの瞳。やはりいい言葉だ。

「ありがと。そっちにも竜のご加護があらんことをってね。お母さんたちにもよろしく」

「おやすみなさーい!」

 迎えにきた母親の懐に飛び込んでいく少年を見送る。

 難民の中には当然こんな年端もいかない子供も含まれている。この年で住んでいた場所を出て当てのない旅をしなければならない。その心境を想像すると、メグルは胸の奥に苦味が込み上げる。

 だから時折景気付けに、連れ立っている人たち向けにミニライブを行ったりする。一時でも今の辛さを忘れて楽しんでもらいたい。人々の綻んだ表情を見るとこちらも気持ちは軽くなるが、皆心からの笑みではないのはわかっている。辛さは一時癒せても、根本的な解決にはならないのだ。

「……あだっ」

 ギターをケースに収め、しゃがみ込んで頭を回らせていたらデコピンを食らった。エナだ。

「また難しい顔してる。あんたらしくもない。考えてもしょうがないことだってあるのよ。あまりのめり込むのはあんたの体にも毒だわ」

 そっけない口調と呆れた風を装っているが、彼女がメグルを心配してくれているのは明らかだった。メグルはぎゅっと彼女を抱き寄せる。

「そうだよねぇ、うじうじ考えてるのはあたしらしくないね。ありがとさんっ、エナぁー!」

「ちょっ、ひっつくなちょっと汗臭い……っ。早く浄化の魔石使いなさいよあんたはっ」

 素直じゃないエナには振り払われてフラれてしまった。……いやそんな汗臭いかなあたし。一応レディなんだけど。とりあえず速攻で浄化の魔石は使うことにして、エナのおかげで少しは考えが定まってきた。


 夜も深まって、キャンプ簡易村はどこも寝静まり返っている。虫も鳴かない音が消え失せたような夜だった。

 みんなが眠っている場所から少し離れた見渡しが効く場所に、メグルは焚き火を起こして座っている。今夜の見張り当番だ。他の者たちはなれぬ旅で疲れ果てている。なのでメグルたち四人が積極的に夜の見張りを申し出ていた。メグルに戦闘力は皆無だが、魔物や騎士団を見かけたらみんなに知らせるくらいは出来る。

(静かだな……)

 今夜は少し肌寒く、どこか寂しさが体に染みつきそうな日だった。寒さのせいで星がよく見えていて、遮るものもないせいで空が広い。でもそれが広大な空間に一人取り残されたような心細さを感じさせるのだ。

 焚き火にかけていたお湯をカップに注ぎ、粉末を溶かしてココアに似たホットドリンクを作る。ほっこりとした甘みが温かみを与えてくれる。

「よう。お疲れ。ちょっと付き合わせてもらってもいいか」

 声がして、振り返るとコーヴェがいた。携えている彼女の用の鍋みたいな大きなカップから湯気が上がっている。その後ろで同じく小さなカップを手に持ったカプリラが控えていた。メグルは笑みを浮かべて出迎えた。

「二人とも、寝なくていいの? いいんだよあたしに気なんか使わなくて」

「別に気なんて使ってないさ。ただ寝付けなかっただけだ。今夜はやけに静かだしな」

「私は、メグルと一緒じゃないと眠くならないから。だから見張り番、一緒にする」

 わざわざ持参してくれたらしい椅子に二人は座り、焚き火を三人で囲む形になる。……正直言えば、寂しかった。だから二人の心遣いが嬉しい。

 ちなみにエナは騎士団時代の習性か、寝つきが爆速だから今は眠っているのだろう。まあ、明日仲間外れにしたと怒られることにしよう。

「……それで、何を考えてる? 一人で抱えるのもいいが、たまには明かすのもいいものだぞ」

「えっ、コーヴェなんの話、かなぁ……?」

「メグル、とぼけるの下手くそ。私だって気づくよ。最近のメグル、浮かない顔ばっかりしてたから」

 コーヴェはもちろんカプリラにもしっかりバレていたようだ。思えばメンバー内でメグルの隠し事が通用したことなど一度もない気がする。察してくれる。あたしは本当にいい仲間を持った。

「別に難しいこと考えてたわけじゃないよ。でも、思っていた以上にこの世界って結界の魔石って大事なもので、そのせいで苦しめられている人も大勢いるんだなって」

 メグルはキャンプ村の方を眺めながら打ち明ける。この世界に来た初っ端、メグルはオオカミのような魔物に追いかけられたのを思い出した。結界の魔石のおかげで命拾いしたことも。魔物の脅威に晒され続けるのは、災害レベルで生活が成り立たないことなのだ。だから人々は今までの住まいを、これまでの生活を捨てざる得ない。それがどれほど大変なことか、計り知れないがメグルは察していた。

「結界の魔石って、ハイバルト国が独占して管理してるんだったよね。私たちの誤解を直談判して解くのも目的だけど、今のこの世界の状況のことも話して何とかならないか頼むのもありなんじゃないかなって、ちょっと考えてた」

 思っていた以上に結界の魔石の問題は深刻なようだ。希少な存在で、そのせいで高値で取引せざる得ないことも知っている。でも自分達に出来ることは全てやりたかった。どうせハイバルトの王とは会わなければならないなら、ちょっと説得してみよう。誤解はされているが、案外話がわかるやつかもしれない。

「私たちがこういった人たちを救えたら、もはや救世主だろうな。バンド活動にもますます箔がつくかもしれない。少なくともマイナスにはならないんじゃないか」

 ホットドリンクに息を吹きかけて呑んだコーヴェもそう言ってくれる。深く根付いた世界の深刻な問題を自分達で何とかしようなんて、傲慢なのかもしれない。でも頭から否定しない仲間のおかげで、もしかしたら、なんていうパワーが湧いてくる。

「この世界の人々は、あたしに音楽を改めてやらせてくれる機会をくれたからさ。少しでも恩返ししたいんだ。だからあたしに出来ることは、何だってやるつもり」

「……そういえば、メグルはどうして音楽をやってるの? あんまりそんな話、したことないと思って」

 ふとカプリラが焚き火に手をかざしながら聞いてくる。何気なく、を装っていたがずっと気にかけてくれていたのかもしれない。確かに自分のことを、メグルは彼女たちにあまり話していなかったかもしれない。これもまた、いい機会か。幸い、二人とも既に聴く姿勢を見せてくれている。

「……あたしの家ってさ、まあ古臭い名家みたいなとこでめちゃくちゃ親が厳しかったんだよね。小さい頃からいいところのお嫁さんになれるようにって習い事ばっかさせられて、友達とかも全然出来なかったわけ。あん時はたぶん今までで一番辛かったかもなぁ」

 そんな縛り付けられた生活に嫌気が差し、小さい頃のメグルは初めて習い事をサボって反対側の電車に乗った。あてもなく歩いてたどり着いた神社で、ひとりぼっちで心細くしゃがみこんでいた。その時だった。

「どっかから歌が聴こえてきたんだよ。断片的にしか覚えてないんだけど、めちゃくちゃロックだったのはずっと忘れない。何か青い光が周りに差しててさ、歌ってる人も楽器演奏してる人の姿も見えないんだけど、めっちゃ綺麗だったよ」

「青い、光……」

 カプリラがそのワードに反応を見せたが、尋ねてみても「何でもない」とかぶりを振った。気になることでもあるのだろうか。

「いつの間にか曲も聴こえなくなって、青い光もなくなってたんだけど、あたしの涙もすっかり引いてさ。すっげー元気になってた。それからの人生はもう、自分の好きな音楽に猪突猛進! って感じ」

 高校までは親の言いなりを我慢して、反対を押し切ってそのまま家を飛び出した。それ以来、もう両親の顔は見ていない。密かにバイトして買った初めてのギターが、全ての荷物といっても過言じゃない状況だった。

 当時のバンド仲間、ライブハウスで知り合った友人や恋人などの家を転々とさせてもらってずっと音楽に打ち込んできた。バイトをいくらでも掛け持ちしたし、ホームレス同然の生活だってしたこともある。でも音楽さえあれば、全部どうでもいいと思えた。

 だがその音楽さえも失った時、メグルはここに来た。だからこれは、与えてもらったチャンス。もう一度音を楽しませてくれたこの世界に、少しでも報いたいのだ。それがメグルの、新たに生まれた目標だった。

「お前もなかなか苦労しているみたいだな。一筋縄じゃ行かない人生だ」

「あたしたち四人ともそうだよ。いや、ここにいる人たちみんな一筋縄じゃない人生。でも最後には絶対ハッピーエンド、でしょ?」

 言い切ってメグルが笑いかけると、コーヴェもカプリラも吹き出すように笑い出した。静かな夜に、楽しげな笑い声が響く瞬間がどんな温かさよりもメグルの胸を満たしていく。

「……きっと私たちの今の状況も、この世界の問題も。きっと何とかなる。そうだよね」

「ん。何とかなる。何とかならなくても、何とかすればいいってことで」

 カプリラの小さな呟きに、メグルは深く頷いた。もちろん根拠はない。でもそう言葉にしたら、自分でも不思議とそうなるような気がしてくるのだった。


  4


 また、青い世界にいた。

 視界を閉ざす深い霧と、どこまで歩いても果てに着かない空間。いや、空間と言っていいのかさえわからない途方もなく広いところ。何故自分はこんなところにいるのか。何を探して歩いているのか。カプリラは何もわからずにただ彷徨い続けている。

 ただ歌が聴こえていた。この世界でずっと耳にし続けていて、追い続けている歌が。反響して、どの方向から聴こえているのかは判断できない。でも追わずにはいられない。だってこの歌の主は、きっとカプリラのことを知っている。失った記憶を取り戻せるかもしれない。そんな期待が足を動かすのだ。

(え……?)

 歌が止んだ。かと思えば、別の音が聞こえてくる。いや、音じゃない。これは囁きだ。囁くような声が、言葉を紡ぎ続けている。カプリラは必死に耳をすませた。

(私に何か伝えようとしている……? 何? 何て言ってるの……?)

 焦燥感に駆られて走り出した。ついに歌じゃなく、意味を捉えられそうな言葉で伝えようとしてきている。正体もまったくわからない相手が。

 もう少しで聞き取れそうなのに聞き取れない。聞かせて、ちゃんと。私は誰なの。

『……の……は……い』

「何? 私に何を伝えたいの⁉︎」

 叫ぶ。走る。勢い余ってつんのめり、そのまま前に倒れ込みそうになった時だった。

『目覚めの時は近い。歌に従いなさい』

 霧の中に、巨大な影が浮かび上がる。山のような、目の前全部を覆ってしまう存在。呑み込まれる。

 息を呑んで目が覚めた。夢だ。

「おはよ。どしたの? 怖い夢だった?」

「あ……メグル……?」

 メグルが笑いかけてきて、カプリラの髪を優しく撫でる。カプリラは彼女の肩に寄り添うようにして寝入ってしまっていたようだ。二人でも余裕な大きめの椅子に一緒に座って話をしていたのは覚えている。空は白み始め、朝特有の爽やかな空気が漂い始めていた。遠くで鳥が鳴き出している。

「ご、ごめん。私寝ちゃってて……ツノとか刺さってないよね、大丈夫?」

「平気、ツノは刺さってないよ。疲れてたんだよ。ぐっすり寝られて偉い」

 まだ早いからもうちょっと寝てていいよ、とメグルはカプリラの肩に腕を回し自分に寄り添わせる。いつの間にか毛布も掛けてくれていたみたいだ。眠気が一瞬でぶり返してきて、お言葉に甘えてカプリラはまた目を閉じる。

 メグルの匂いは安心する。ふんわりと柔らかで、優しい香り。おかげですっかり彼女が傍にいないと気を抜いて寝入ることもできなくなってきた。

(さっきの夢、何だったんだろう……)

 ふと考える。目覚める瞬間、囁くような声からはっきりとした言葉を聞き取れた。『目覚めの時は近い。歌に従いなさい』……。どう言う意味なのか、見当もつかない。

(目覚めの時……。記憶を取り戻すってこと……?)

 今までこの世界の色々な場所を巡っても、一切手がかりが見つからなかった自分の記憶。あの夢はやっぱり、それを示唆しているのだろうか。だとすれば歌に従えというのは、何を意味しているのか。……わからない。

(……私が何者でも、メグルは受け入れてくれるのかな)

 それだけが、カプリラの心からの不安だった。今までは一人だったから、ただ自分の記憶のことだけ考えていられればそれでよかった。

 でも今は他の仲間たちと、そしてメグルと離れたくなかった。自分の本当の姿を知られて嫌われたくない。それが怖い。

「……おやすみ」

 でもそんな不安を、メグルの優しい声が晴らしてくれる。ふっと体の力を抜いて、カプリラはまた少し眠りの中に意識を委ねた。


  5


「君たちと出会えて、本当に良かった。どうか旅の無事を。竜のご加護があらんことを!」

 受け入れ先の街の近くで別れた時、難民の人たちは必ずメグルたちとの別れを惜しみ、この先の未来を願ってくれた。

 メグルたちがお尋ね者であることはみんなわかっていただろう。それなのに彼らは快く接してくれて、騎士団とすれ違ったときも積極的に匿ってくれたのだ。あの人たちのためにも、メグルたちは絶対に捕まるわけにはいかないのだ。

 最後の人たちを送り届けた後、改めてエナの故郷に進路を向ける。大陸が違うので、辿り着くには船に乗らなければならない。だが今の自分たちではそれも簡単には行かない。

 港町、ジプス。敢えて都会から船を利用する手を選んだ。考えたのはエナで、下手にコソコソするよりも人に紛れたほうが身を隠しやすいらしい。

「……オッケー。ここは大丈夫そう。まだ騎士団に大々的に警備されてない。船の船員ともお金で話つけてきたから、すぐ乗れるわ」

 エナはローブのフードを脱ぎながら言う。彼女は一足先にジプスの街に潜入し、様子見がてら経路の確保をしてきたのだ。騎士団の経験で隠密行動には慣れているという。本当に頼りになる。

「よし、じゃあ行こう。めっちゃ普通な感じで、観光客みたいな風を心がけるんだよ、みんな」

「メグル、何忍び足やってんの。あんたが一番挙動不審なんだけど」

 エナに突っ込まれてしまったが、ひとまずメグルたちは帽子やフードなどで簡単な変装をしつつジプスの街に入っていった。貿易盛んな港町という印象で人通りも多い。隠密にはうってつけだ。こんな状況でなければこの賑わいに混じれたというのに。

「……狭い。船はまだか」

「もうちょい我慢して、コーヴェ。港が見えてきた」

 馬車に隠れているコーヴェが不満を漏らす。元々そんなに大きくない馬車な上に楽器やらキャンプ道具やら積んでいるから尚更窮屈だろうから、先を急ぐ。

 港にはいくつも船が停まっていて、エナに案内されたのはその中では並くらいの客船のようだ。それでも見上げるほど大きく、魔石をエンジンにしているのか帆などもないメグルの世界の船に近い造形だ。乗客もある程度いるらしく、これならメグルたちが紛れるのも不自然ではなさそうだ。

「船員には交渉してあるから、乗客用とは別の乗務員用の入口から乗るわよ。馬車を置ける貨物室もある。部屋も空いてる乗務員用だから、快適な旅は期待しないでよ」

 手を回すのが速いのはさすがエナだった。ちゃんと人目につきにくいルートを確保してくれている。乗務員用の搭乗口なら騎士団が乗客に目を光らせていても見つかることはないだろう。メグルたちは馬車を引き連れ、エナが交渉した船員の先導で難なく船に乗り込むことに成功した。

「よし。ここまでくれば大丈夫。コーヴェ、出てもいいよ」

「やっとちゃんと息が吸える。乗務員室ってのはもちろん広くはないんだよな、エナ?」

「さっき覗いてきたけど、私たち四人で肩寄せあってようやくって感じね。まああんたは両手を広げられないと思う」

「こりゃあいい船旅になりそうだ。船酔いする奴は先に言ってくれ。吐かれちゃ敵わん」

 貨物室はかなりの広さがあって天井も高い。荷物を運ぶ貨物船としての役割もこの船は兼ねているのかもしれない。コーヴェはここに居たがったが、ここだといつ誰が入ってくるかわからないので渋面の彼女と共に廊下を通って乗務員室へ向かう。廊下がそれなりに幅があって助かった。

 たどり着いた乗務員室は、お世辞にも綺麗とは言えなかった。天井は配管剥き出しで、ベッドは壁埋め込み型の二段ベッドが二つ。当然コーヴェは床冷え対策して寝袋で我慢してもらうしかなさそうだ。広さも確かに、メグルたち四人でもういっぱいいっぱいだった。確かに快適な船旅は諦める他なさそうだ。半規管が強くてよかった、とメグルは思う。

「すまん。私のせいで苦労をかける」

「コーヴェ、そういうのは言いっこなし。地獄へ道連れ世は鬼まみれってやつ」

「何かよくわからないけど、それ多分違う言葉じゃないかなメグル」

 カプリラのツッコミはありつつ、メグルたちは狭い部屋で一息ついた。なんだかんだでここ最近は騎士団の動向を警戒して気が抜けなかったし、この密室ならではの安心感があった。

「船が出たみたいね」

 小さな円型の窓から、船が港を離れていくのが確認できた。エナがほっと息を吐いた。とりあえずこれで陸地に渡るまでは何もないと信じたい。

「食べ物とか浄化の魔石はあるからそれはいいとして。あったかい飲み物でももらえないか、厨房の方に聞いてみるわ。リクエストはある? 言っとくけど通る保証はないわよ」

 みんなを労るようにエナが提案してくれる。今回はずっと彼女が動いているのでメグルは代わりを買って出たが、「いいの。何かしてないと落ち着かない損な性分だから」と彼女は笑う。気を遣ってくれているのは明らかだったが、そう言われると甘えざるえなかった。後でエナの肩でも揉んでやろう。絶対嫌がると思うけど。

「色々あったが、ようやく大陸は渡れそうだ。この先の大陸にはハイバルト王国もある。騎士団の警戒もより強くなるだろうから気を引き締めないとな」

 床に簡易マットのようなものを敷き、横たわったコーヴェが言う。とりあえず彼女が寝転がれる空間は確保できてよかったとメグルは思う。

「……あんまりこんなこと、言いたくないんだけど。ごめん、ちょっと嫌な予感がする、かも」

 ふとカプリラが浮かない顔で言い出した。メグルとコーヴェは顔を見合わせ、深く頷く。お互いまったく同感だった。

「……だよねー。何かここまでの流れが順調すぎてさ、ちょっと出来すぎてるって感じはするよね。頑張ってくれたエナには悪いけど」

「まあ状況が状況だ。楽観的にはなかなかなれないな。一応何が起こるか、心構えくらいはしておいた方がいいだろう。すぐ行動できるように準備しておこう」

 そんな話を、三人でしていた時だった。

 外を誰かが駆けてくる音がする。エナだ、と足音でメグルが察すると案の定彼女が勢いよく部屋の中に入ってきた。急いで閉めた扉にもたれる彼女は、息を乱し顔色も悪い。明らかに深刻な事態が起こったのだ。

「き、騎士団が乗り込んでた。今客室の方をしらみつぶしに探してて、たぶんもうすぐ乗務員のとこにも来るわ」

「えっ、でも船はもう出航してるのに……?」

「乗り込むところを見られたのかも。やられたわ。逃げ場がない」

 思ったよりずっとやばい状況だ。騎士団がこの船に乗り込んでいて、メグルたちを探して回っている。しかも船は陸地を離れているから、ここから逃げることはできない。

 つまり、この上なくピンチだ。


  6


「ど、ど、どうする? もうすぐ騎士団の奴ら、ここ探しに来るわよ」

「に、に、逃げないと! でもどこに? いっそ海に飛び込んじゃうとかも……」

 エナとカプリラがわたわたと部屋の中を歩き回っている。一方メグルは、コーヴェと一緒に黙考していた。

 追い詰められた、こんな時こそ落ち着かなければならない。ここまで来たのだ。絶対に次の陸地を踏み締めてみせる。簡単に諦めるつもりはなかった。

 時間はない。メグルはとりあえずみんなを落ち着かせる意味を含めて、思いついたことを口にする。

「とりあえず、ここを探しに来るだろう連中をやり過ごそう。馬車のある貨物室ならある程度広いから身動きもしやすいし、上手く隠れられるかも」

「でもやりすごすって、どうすんのよ。騎士団の奴ら、もうすぐそばまで迫って……」

 エナの言葉の途中で、廊下から声といくつかの足音が聞こえてきた。そっちを探せ、こっちを探せと微かに聞き取れる言葉は、もう騎士団の手がこちらに及びそうなのを伝えていた。

 慌てて口を塞いだエナが、メグルに視線を送ってくる。もちろん策は、たった今考え着いたところだ。メグルが顔を向けた先に倣って、三人の目がはっと見開かれる。どうやら意図は伝わったようだが、あくまで三人は不安そうだった。まあ何とかなる。というか、何とかしなくちゃいけない。からやる。

 三人で部屋を出ていく。車輪のついた台車のようなものを扉から出すのにやや苦労しつつ、廊下を進んだ。内心メグルでさえ緊張していたが、あくまで平然を装って歩く。

「おい、そこの三人。止まれ」

 案の定、背後から声を掛けられた。エナとカプリラの肩がビクッと竦む。振り返れば、騎士団の鎧を付けた兵の二人組の男がこちらを見ている。

「この船の乗務員だな。何を運び出そうとしているんだ?」

 一人がこちらに尋ねてくる。メグルたちは部屋にあった乗務員用の制服を、帽子を目深に被って着用し変装していた。台車に乗り、布を被せられているのはコーヴェだ。また彼女には狭い場所を我慢してもらわなくてはならなくなった。

「あ、どもっす。いやぁ、お客さんの要望で。部屋に置いといたけど邪魔だっつうもんで、貨物室に運んでるんですよ、像を」

「像? 何だそりゃ。ちょっと布取って見せてもらっていいか?」

「いいっすけど。お手は触れないでくださいよ。壊れたらそっちの責任っすからね」

 メグルは受け応えて、布を捲って二人組に見せる。中には膝を抱えて座るコーヴェが、目を閉じて微動だもせずに固まっている。二人組はぎょっとして飛び退いた。

「なんじゃあこの青い肌のバケモンは!? やべぇぞおいっ」

「だから像だって言ってるでしょ。芸術家のお客さんの作品っすよ。何か問題でも?」

「そ、そうか像か。作りもんだもんな……。まるで生きてるみたいに生々しいな。なんだってこんな悪趣味でどでかいもん、船に運び込んでるんだその客って奴は」

「さあ。個展でもあるんじゃないっすか。あたしら、もう行っていいっすか。早く運ばないと怒られちゃうんで」

「ああ、はいはい。さっさとそんなもの運び出してくれ。マジで心臓飛び出るかと思ったぜ……」

 手で払われて通される。思いの他上手く行ったみたいだ。とりあえずこれで、目先の危機は回避できた。三人で目配せして密かに安堵し、そのまま貨物室に向かおうとした。

「……待て。さっきの像、手配書に載ってた魔物みたいな奴に似てなかったか?」

 ふとさっき質問してきた方とは別の男が、そう呟いてメグルたちを呼び止める。今度ばかりはメグルもぎくっとした。被っている帽子の鍔を握りながら、メグルは口を開く。

「手配書? 魔物? 何のことっすか?」

「ほら、今どこでも話題に上がってるだろ。バンドとかいう怪しい連中の集まりだよ。俺らもそいつらがこの船に乗り込んだのを見たっつうことで捜索なんかさせられてるわけだ」

「……ああー、何か見たことあるっすわその手配書。そういえばこの像も、作ったお客さんがそのバンド? みたいなのに影響受けて作ったって話してましたよ。似てたのはそのせいじゃないっすか?」

「……へえ、そうだったのか。まあいいや、行っていいぞ。仕事中に呼び止めて悪かったな」

 二人組は警戒を解いて背を向ける。服の内側に冷や汗を掻いていたが、どうやら乗り切ったみたいだ。メグルたちは不自然ではない程度に足早にその場を去った。

「しかし、本当にお嬢はバンドの奴らが乗り込むとこなんて見たのかねぇ。普通お尋ね者なんて変装とかしてて一見わからないんじゃないのか」

「でも、あの人こういう時の勘はすげー鋭いからな。バカだけど」

「まあだから従わざる得ないんだよな。そういうとこは鼻が効くんだよ、お嬢。バカだけど」

 ふとそんな二人の会話がメグルの耳に入った。お嬢、というのは彼らの上司のことだろうか。気になったがここから離れるのが先決だった。

「ふぃー……っ。やばかったぁ……けど何とかごまかしきれたみたいだね……」

「いやほんっとうにやばかったわよ! 心臓止まるかと思った……。でもメグルの演技力で何とか凌ぎききったわね。あんたのこんな時の胆力さすがだわ……」

「さすがに手配書の時は気づかれちゃったかと思ったね……。よかった……」

「……おい、もう出ていいか? 息が詰まって死ぬ」

 何とか貨物室にやってくることが出来た。騎士団二人組は反対の廊下に向かっていたのでここはもう捜索済みなのだろう。幸いここには見張りもなく誰もいない。コーヴェの布も剥がしてやった。

「オスカル、無事でよかった……」

 エナが馬車の脇に繋いでいた自分の馬に駆け寄って撫でてやる。馬車の中の荷物も無事だ。検閲はされたかもしれないが、楽器類はカモフラージュをして隠してあるので見つからずに済んだらしい。荷物も全て無事だった。

「……この後はどうしよう。同じ船に騎士団の人たち乗ってるし、いつ見つかるかわからないよね。ここにしばらく隠れていた方がいいのかな」

「とりあえず、それしかないな。見つからなければ、向こうも船にいなかったと思ってくれるかもしれないし」

 カプリラの言葉にメグルは頷く。とにかく逃げ場がない。どこか一箇所に身を隠しているしかなさそうだった。

「あー、この乗務員服、埃臭かったぁ……。いつから洗濯してないのよ、ポケットにビスケットのカス入ってるし……。騎士団の連中は、とりあえずここから離れてくれたかしら?」

 文句を言いながら着ていた乗務員服を畳んだエナが、入り口の方へ向かう。メグルもそれに続き、二人で扉を薄く開けて外の様子を窺おうとした。

「ん……?」

 ずらり、と廊下の端まで騎士団の紋章のある鎧が並んでいる。全員にやりとして、悪そうな笑みを浮かべていた。

 エナがそっと扉を閉じる。

「……気のせいかしら。何か騎士団の連中が集まってるように見えたけど……」

 扉が吹き飛ぶ勢いで開いて慌ててメグルたちは飛び退く。騎士団の連中がなだれ込んできた。だがすぐメグルたちに飛びかかるわけではなく、入口を塞ぐように目の前に整列し始めた。目の前が物々しい紋章で埋められる。

「くっくっくっ……ここはネズミ一匹通さんぞ。まさに袋のネズミだなぁ、忌まわしきバンドどもよ。あの程度の変装で俺たち騎士団をたぶらかせると思ったかぁっ。浅はか浅はかぁっ」

 先ほど廊下で話した二人組が前に躍り出てきた。メグルは舌打つ。どうやらバレていたらしい。奴らが仲間を呼んで戻ってきたのだ。

「ちっ、間抜けそうな二人だったから騙せたと思ったのに。仲間呼んで囲うとか下手に小賢しい真似してんじゃないわよ」

「おい今間抜けっつったか。こいつはともかく最初にお前らの下手な変装に気づいたのは俺だぞっ。それに俺はこの隊の副隊長だっ。偉いんだぞ!」

「おい、お前今俺のことだけ間抜けってことにしただろっ。俺だって気づいてたっつーのっ。それに副隊長は俺もだっ」

「どっちでもいいわよっ。どうせ見分けつかないんだから二人ともっ」

 エナと二人組の会話中も、じりじりと騎士団たちは距離を詰めてきていた。何とか時間を稼がないと。

「もう逃げ場はねえぞっ。かかれお前らっ。捕まえて手柄を上げるぜぃ!」

 二人組の号令を合図に、トンファーのようなものを抜いた団員たちが一斉に飛びかかってくる。あくまで生きての捕獲が目的なのか剣は抜かないようだ。

「まあ実力行使の方がこっちも手っ取り早いわ。恨まないでよ? 同じ騎士団のよしみで峰打ちで許してあげる」

「ご、ごめんなさい。捕まるわけには行かないので、全力で抵抗します……!」

 向かってくる団員たちをエナは鞘に収めたままの剣を振り回して蹴散らす。カプリラも拳と足だけで軽快に動き回り翻弄していた。

「死なない程度に加減はするが、多少の怪我とブラックアウトくらいは覚悟してもらうぞ。狭いところにぶち込まれて少々イラついてるんでな」

 長い腕を振り回すのはコーヴェだ。いとも容易く団員の男たちが吹っ飛ばされる。囲まれはしたが、自分達も劣勢というわけでもなさそうだ。このまま全員をのして、船が無事に陸地に着くまで大人しくしてもらう手もいけるかもしれない。

「よっしゃ! みんな頑張れっ。ギター拳三倍だぁっ!」

 さりげなくギターを持ってきていたメグルは掻き鳴らして音を反響させる。カプリラたちの動きが鋭くなり、コーヴェの力強さが増したのが何となく肌でわかる。このメグルのパワーアップさせる能力は、鍛えられた人間相手でも通用することがわかった。敵なしだ。

 自分達が有利だと思っていた騎士団たちはあからさまに動揺した様子を見せていた。

「な、何だこいつら……っ。めっちゃくちゃ強いぞ……! バケモンかよっ」

「ええいっ、怯むな怯むな! 全員で一斉にかかればひとたまりもないはずだ!」

 二人組が焦った声を飛ばす。だがカプリラたちの強さを目の当たりにして、周りの団員たちはためらい気味だった。しばらく硬直した睨み合いが続く。

「おい、何で誰も突っ込んでいかないんだ! さっさと行け! 一捻りにしろ!」

「だってこいつら、めっちゃ強いんですよ! それなら副隊長たちが先に行ってくださいよ! 強いんでしょ!?」

「そ、そんなこと出来るわけないだろっ。死んだらどうすんだよ!」

「お、俺も急に腹の調子が……いたたた……」

 何やら内輪揉めが起こっているようだ。思ったより愉快な連中で、メグルはちょっと彼らに好感を抱き始めている。まあ、時間を稼いでくれるのはありがたい。その分船が陸地に近づいてくれるのだ。

「おやおや、はしたないですわねぇ……。一体何の騒ぎですの、野郎ども」

 この場の雰囲気に似つかわしくない淑やかな声が聞こえてきた。団員たちが一斉に脇によけて道を開ける。

 その中心を優雅に歩いてきたのは、ちんまりとした少女だった。光を跳ね返しそうな金色の髪をツインテールにしてくるくるとこの上なく巻いている。どこか楽しげな笑みを浮かべた表情は幼げではあるが、上品さが滲み出ていた。メグルのイメージするお嬢様、という雰囲気がぴったり合った子だ。

「お、お嬢……いや隊長っ。いえちょっと手こずってまして……。でもすぐこいつら捕まえてやりますんで!」

「その割にはボコボコにされてらしたんじゃなくて? 鍛錬が足りねぇですわよ、後で全員筋トレ地獄行きコース確定。ユッケ、ビビン。オメェらもですわ」

「げぇっ……。て、ていうか見てたんなら助けてくださいよ! こいつら鬼みたいに強いんすからよぉ!」

「こてんぱんに負けた方が、鍛錬する理由になるでしょう? こやつらに、あなた方を殺生する気はないみたいですから。明らかに手加減されてましたわよ」

 副隊長たちと隊長と呼ばれた少女のやりとりもやけに小気味がいい。というか、副隊長二人はユッケとビビンというのか。メグルは一人で笑いを堪えなければならなかった。

「さて、ここからは余興ではありませんわ。随分とわたくしの隊を可愛がってくれたみたいですわね。これでもこいつらは優秀な方でしてね。それがまったく歯が立たないとなると、久々にわたくしも血が沸いてまいりましたわ。それはもう豪々と」

 一歩踏み出した彼女は、履いていた小さなヒール靴を壁の端の方に蹴り飛ばすように脱いだ。その凜とした視線に鋭さが増す。

 ……やばい。何故かメグルは背筋がぞくっとするのを感じた。この子はやばい。よくわからないけど。

「申し遅れました。わたくし、メイベル・カタリジーナと申します。そちらの自己紹介は結構ですわ、有名人さん」

「そりゃどうもよろしく。で、お嬢さん。次はお前が相手なのか? こいつら一纏めにしてかからせた方がまだマシじゃないのか」

 コーヴェが威嚇するように言う。少しでも戦意を失わせて戦わないようにしようとする彼女の優しさか。確かにメグルも、少女のようなメイベルを傷つけるのは抵抗がある。

「しゃらくせぇご忠告どうも。人は見かけによらないと、そんなことは身に染みてわかっているでしょう、コーヴェさん。わたくしよりもあなた方の心配をなさった方がよろしいですわ」

 メイベルが付けていた騎士団の紋章付きのマントを放り投げ、ユッケかビビンのどちらかがそれをキャッチする。

「……マッスルリミット、レリーズ」

 ぼそりと彼女が呟いた言葉。それを合図に彼女の体に変化が起きた。まるで萎んだ風船に空気が一気に注入されるように彼女の体が筋肉で膨らみ、みるみるうちに逞しい肉体に様変わりしていく。全ての変化が終わった時は、腕、足、身体全てが筋肉という鎧を纏っていた。身長もコーヴェと並ぶ。服が破れない伸縮性を纏っているのはお嬢様の嗜みか。それも隆起した肉体でぱつんぱつんだ。

「な、な、何なのよそれぇ!? あんたさっきまでちっこかったのに何なのその体!?」

「いかがかしら、美しいでしょう? 能ある鷹は爪を隠す……普段は目立ちすぎるので本来の姿は隠しておりますわ。これも筋肉で抑えて出来ること。筋肉は最強ですわ」

「き、筋肉にそんな力が……? 知らなかった……」

「いやカプリラ、そんな力普通ないから。こいつがおかしいだけ!」

 カプリラもエナも、メイベルの突然の変異に動揺していた。

「トランスフォームじゃん……かっけー……」

 一方メグルは、わくわくを抑えられていなかった。すごいもんを目の当たりに出来た感じだ。

「さあ、どうぞご自由にかかっていらして? 他の部下には手を出させませんわ。それくらいハンデは必要ですわね?」

「この……っ。見た目が派手だからって、舐めてんじゃないわよ! 行くわよカプリラ!」

 剣を携えたエナとカプリラがメイベルに躍りかかる。だが二人の同時の打撃は、その鉄骨のようなメイベルの腕一本で塞がれていた。

「嘘でしょ……ぐっ……!」

「カプリラ! エナ!」

 振るわれたもう一方の腕が二人を鞭のようにしなり二人を吹き飛ばす。力強いのに素早さも兼ねている。メグルの目ではまったくメイベルの動きが追えなかった。

「っ……! この……っ!」

 すかさず身を翻して地面に着地したカプリラが再び向かっていく。だがフェイントを含んで繰り出した蹴りも、メイベルの分厚い掌で防がれてしまった。

「無駄、無駄、無駄ァ! ですわぁ!」

 怯まず何度も放った足も全て受け止められる。カプリラの攻撃がここまで通用しないのは初めてだ。

「うぁっ……!」

「この世でもっとも最強であるもの……ご存じ? それは筋肉ッ、筋肉ッ、もう一つ筋肉ッ! 筋肉に勝るもの、この世の森羅万象にあらず必要なしッ。筋肉イズマッスル、筋力イズパワー、ですわ!」

 お返しとばかりにメイベルがカプリラの首を掴んでそのまま軽々しく持ち上げた。カプリラはじたばたと足掻くがびくともしない。

「カプリラ! その手ェ離せこいつ……!」

 思わず飛び出しかけたメグルを止めたのは、コーヴェの腕だった。視線でこちらに合図をしてきたと思ったら、彼女はもうメイベルに向かって突進している。

「ぐぅ……!?」

 素早いコーヴェのタックルに今度はメイベルが吹き飛び尻餅をつかされた。船底が抜けるんじゃないかと思うくらい大きく船が振動した。空中に投げ出されたカプリラをコーヴェはナイスキャッチし、床に下ろしてやる。全員が呆気に取られていて、この場で平然としているのはコーヴェただ一人だった。

「……確かに、人は見かけによらないな。見た目より大したことない。お前の力はそんなものか? 力比べでもしたいなら僭越ながら私が相手になるぞ、お嬢さん」

 コーヴェの挑発にメイベルは歯を剥き出して笑い、ゆっくりと立ち上がった。そしてまるで虎が獲物に飛びかかる溜めのように身を低く前傾姿勢になった。太ももの筋肉が布地を押し上げるくらいにパンパンに膨れたのが見てとれる。

「お嬢さんはてめぇに向けたわたくしのセリフですわ。その下品なクソ筋肉が詰まった体をけちょんけちょんに絞って、今日の夕食のランチョンマットにして差し上げましょうか」

「口を回しても勝ったことにはならないぞ。自信がないなら今すぐ引っ込むか?」

「笑止、木っ端微塵にしてあげますわァッ!」

 メイベルが一気に突っ込んできた。溜め込んで解放された脚力。素早く撃ち出される巨体は大砲の球のようだ。それをコーヴェは真正面から受け止める。踏ん張った足がズズズ……と地面を擦れたが何とか持ち堪えたようだ。両腕で掴み合う二人の様は、まるで相撲のようだ。

「わたくしの本気ぶっちぎりのぶつかりを受け止めるとは……やりますわね……」

「ぎりぎり堪えられただけだ。お前こそいいタックルだったぞ?」

 間近で睨む視線を交わした彼女たち。その緊張感とお互いを認め合う一瞬のシンパシー。離れたところから見ているメグルも手に汗握った。

「これが筋肉と筋肉のハーモニー……熱いっ、熱い戦いだ……!」

「メグル、あんた何言ってんの……? どういう空気、これ?」

 傍に来たエナがやや冷ややかな声で言う。確かにその場は妙な熱気を感じさせ始めていた。周りのメイベルの部下たちがわいわいと声援やら野次やらを飛ばし始めているからかもしれない。まるでスポーツ観戦だ。メグルはその空気が嫌いじゃなかった。

「やっちまえ隊長! そこだ! 負けるな!」

「向こうの青いやつもすごいぞ! 頑張れ!」

「おいっ、敵の応援してどうすんだよ! 隊長が負けるわけないだろ!」

 囃し立てる声さえ弾き飛ばすように二人の取っ組みは白熱していく。そこには二人だけの世界がある。純粋な鍛えられた肉体と肉体のぶつかり合いは、どこまでも美しかった。

 振るわれた拳を避け、受け、やり返す。コーヴェは顔に拳を一発もらったが、すぐさま一発メイベルの頬にも同じのを見舞った。

 お互い不敵な笑みを浮かべて、両手と両手を突き出し指を絡ませて取っ組み合いになる。全身の力を込めたぶつかり合い。どちらも一歩も譲らず、拮抗した鍔迫り合いだ。

「わたくしの……っ、筋肉こそが……! 最強……! ぜってぇ、負けるわけにはいかねぇんですわ……!」

「こっちだって仲間の無事も、自分のプライドも全部賭けてる……! こっちの負けはありえない……!」

 こんなに歯を食いしばって熱くなったコーヴェは初めて見たかもしれない。でもメグルは負けないと確信していた。

 ギターのサポートはしない。これは賭けている彼女のプライドのためだ。そういうの、大好物。

「うらぁっ!」

 突き飛ばし合い、飛び退いた二人の距離が開く。次の瞬間に備えてパワーを溜めているのがわかる。ひりつく空気、誰も彼もが息を呑む。誰かが喉を鳴らした途端、それが合図になり二人が同時に駆け出した。

 ぶつかる。そう思ったときだった。

 船が揺れた。立っていられないほどの激しい揺れだ。異常事態であることはその場の全員が理解しただろう。

「ユッケ、ビビン! 上に行って状況確認。他の者は乗客の安全確保、必要なら避難誘導。急ぎなさい!」

「し、しかしこいつらは……」

「わたくしが引き受けますわ」

 メイベルが部下たちに指示を出す。部下たちは慌ただしく貨物室を飛び出していった。

「……いいのか? 逃げようと思えば逃げ出せちまうぞ」

「ですから、わたくしが引き受けました。逃すわけねぇですわ。全員お束になっておかかりあそばせても結構。さあ、どうぞ?」

 メイベルはあくまで敵対を解くつもりはないようだ。身を低くしたメイベルにコーヴェも構えたが、今度はその間にメグルが両手を広げて割り込む。

「まだ揺れが続いてる。何か起こってるんじゃない? この船にはあたしら以外にも一般の人いるし、人手が足りないならこっちも助太刀するよ」

「……おめぇ、何を言ってるんですの。善人ヅラしてこの場をごまかそうったってこのメイベルの目はごまかせねぇわよ?」

「そんなつもりないし。何ならメイベルがずっとあたしらにつきっきりでもいいからさ。手伝わせてよ。おかしなことしたらすぐ捕まえてくれて構わないからさ」

「……何なんですのこいつ。ひょっとしてわたくしとは違うところがイカれてる……?」

「自分がイカれてる自覚はあるんだな。安心しろ、その通りだ。そしてこいつは本気でお前らのこと手伝おうとしてるぞ」

 ぽんと、コーヴェがメグルの肩に手を載せる。「まあ簡単に捕まる気ないけどね」とむくれた様子のエナと、きりっとしたカプリラも周りに集まってくる。

 メイベルは少し考え込んでいる様子だった。妙な沈黙が漂い始めた中、入り口の扉を開けて飛び込んできたのはユッケかビビンのどちらかだった。

「お嬢……隊長! 大変です! 船のすぐ傍に超デカい魔物が出現しました! めっちゃヤバいです! 俺ら死にましたこれ多分!」

 メイベルがメグルたちに目を戻す。腹筋を膨らませて突風のようなため息をついた後、心底渋々と言ったような様子で言った。

「……悪いけど、少々手伝っていただけます? クソ厄介なことになったらしいですわ」

 よし来た、とメグルが自分の胸をぺちんと叩いた。


  7


 メイベルたちに付き添われながら、メグルたちは甲板へと上ってきた。

 いつの間にか海が荒れていて、雨まで絶え間なく降り注いでいる。ついさっき乗務員室の窓から見た時はこの上なく晴れていたはずだ。こんなにすぐ天気など豹変するものだろうか。異常だ。

「た、隊長っ。いいんすかそいつら連れてきちゃって! こんな時に逃げられたら手に負えないっすよ!」

 ユッケかビビンかどっちかの副隊長が言う。メイベルは平然と腕を組んでいた。

「捕まる前にタダ働きしたい、イカれた連中ですわ。責任はわたくしが持つ。それで、状況は?」

「は、はぁ……。乗客は全員広くて安全な場所に避難させましたっす。周りの海に、巨大な魔物の影を発見。マジでデカいです。魚型ですが、下手したらこんな船一噛みで大穴開けて沈められそうなほどヤバいっす。死にました俺ら」

「弱音ぶっこむのは死んでからになさい。どうしてこんなところに魔物が? 全ての客船には結界の魔石装備が義務付けられているでしょう」

「それが……魔石の交換をする金がなかったらしくて、ここのところは魔物と遭遇することもなかったみたいでそのまま放置してたらしいんですよぉ。最悪っすよぉ……もう絶対死んだこれ……」

「死なねぇんですわ、わたくしがいる限り」

「あたしらも、ここで海のもずくになるわけにはいかないなぁ」

 あくまで冷静なメイベルに対抗して、メグルもジャージをはためかせながら腕を組んで並べる。「……藻屑じゃないかな、メグル」とカプリラに突っ込まれたのは受け流した。

「で、肝心の魔物の姿は……」

 メイベルが口を開いた途端、何かが少し離れた海面から飛び出してきた。

 クジラ、とメグルは思った。めちゃくちゃデカい図体は視界に収まりきらず、突然目の前に海を突き破って山が出現したのかと思った。大きく跳ね上がったその体には背ビレがある。クジラじゃない、サメだ。メガロドン級にデカいサメなのだ。

「うわっぷぇ!?」

 メグルは叫ぶ。メガロドンが着水して潜った反動で波が船に覆いかぶさってくる。大きく船体が揺らぎ、ひっくり返らなかったのがむしろ不思議なくらいだ。これじゃあ育ち盛りの幼児とお風呂を共にしたおもちゃの船同然だった。遅かれ早かれこの船は沈められる。このままでは。

「……思った五倍くらいはやべぇですわね、この獲物は。この船、護身用の武器とは積んでないんですの?」

「一応デカい銛とそれを打ち出す発射機は備えてあるみたいっすけど、こんなのあいつにとっちゃおもちゃも同然っすよ……」

「とにかく打ち込んでみますわよ。わたくしたちにはそれくらいしか攻撃手段がありませんから」

 全員でその銛の発射機がある船首へと向かう。確かに台座に固定された大きなボウガンのような発射機が備えてあったが、傍に積んである銛の大きさと言い、先ほどのメガロドン相手では少々どころか心もとないすぎた。

 だがやるしかない。団員の一人が銛をセットし、照準を先ほどサメが浮かび上がってきたところに定める。次に上がってきた時が勝負だ。

「今ですわ!」

 海面がぶわりと撓み、メガロドンの体が現れた。すかさず銛が放たれる。が、かわされた。思ったより素早い。すぐにまた潜ってしまう。この発射機だと外してしまえば新しい銛をセットしなければ次を撃てないのだ。

「くそ! 速すぎて狙いを定められない……!」

「ああああ! 背ビレが! 隊長ッ! あいつこっち向かってきてますよこっちィ!」

 再び姿を見せた大きな背ビレは、明らかにこちらに狙いを定めてまっすぐ突進してくる。さっそく絶体絶命だ。

「くっ……! うぉおおおおっ!」

 不意にコーヴェがその場にあった銛を束で一気に掴んだ。さすがに重量があるのか掲げる二の腕が大きく膨れ上がる

 メガロドンが姿を見せ、こちらの船にぶつかろうと大きく口を開く。そこにコーヴェは大きく振りかぶって銛を投げ放った。

 何本か口の中とその周りに刺さったようだ。海に盛大な波紋が浮かぶほどの咆哮。進路が逸れて船にぶつからないまま奴は再び海中に隠れた。

「あっぶぇっ! コーヴェナイス! 危うく全員死ぬとこだった!」

「まだだぞ、メグル。一時凌ぎだ。このままじゃどっちみちあいつの起こす波で船がひっくり返るか、ぶつかられて大穴開けられる。何とかあいつを引き摺り出して動き封じないと」

「それならいい案がありますわ。今のを見て思いつきました。ぶち上げて行きますわよ!」

 メイベルが残っていた銛を同じく束で持ち上げた。団員が括ったのか、いつの間にかその後ろにはロープが付けられている。

「不撓! 不屈! 日進月歩! 喰らいやがれぇ! ですわァ!」

 少し離れた場所に、メガロドンの横腹が現れる。そこにすかさずメイベルが縄付き銛を放った。何本か外れたが、五本以上は根元まで奴の傷だらけの体に突き刺さったようだ。捉えた銛の先のロープは、メイベルの部下総動員で掴んでいた。

「野郎どもぉ! 全身全霊精いっぱい引きやがれィ! ですわ!」

「隊長ぉ、無茶ですってばぁっ。こんなんであいつ止められるわきゃあ、ないっすよぉ!」

「やってみんきゃわっかんねぇんですわぁ! ふごおおおっ‼︎」

 綱引きの要領で団員たちが必死に縄を引く。メイベルも一人で複数の縄を全力で引いた。メグルたちも参戦して、全員で音頭を取りながら引っ張りまくる。

「くおぉっ! やっぱあいつデカすぎる……! このままじゃ船が持ちませんよ隊長!」

「くっ……別の船があれば違う方向から引っ張って動きを止めれますのに……っ」

 確かに奴の動きは鈍くなっていたが、このままだと船ごと海に引き摺り込まれてしまいそうだ。

(どうすればいい。どうすれば……)

 縄を引きつつメグルは必死に考える。だが何も打開策は浮かばない。諦めない。どうしたら乗り切れる。方法はあるはずだ。

「歌に従いなさい……」

 ふと前にいたカプリラがそう呟くのがメグルに聞こえた。「ごめん、ちょっと待ってて」と彼女は縄を離し、みんなから距離を取る。

「カプリラ? 何を……」

 思わず手を伸ばしたメグルの前で、カプリラは歌い始めた。

 海の荒れ、土砂降りの雨さえノイズ除去したみたいに聴こえなくなり、彼女の歌だけが聴覚を満たす。あの歌だ。彼女の記憶に唯一残っていた、メグルとの出会いの歌。

 その場にいる全員が顔を向け、その歌に聴き入っていた。サメの魔物さえ、じっと耳を澄ますように動きを止めていた。時を止めたように、その場には歌だけが響いていた。

 そして。最後の言葉にならないワードを歌い上げた途端。カプリラのローブを割いて、彼女の背中に翼が現れた。広げた翼は彼女自身も包み込めそうなほど大きく、灰色でどこか爬虫類めいている。

 まるでドラゴンだ、とメグルは感じた。

「カプリラ……その羽、何……?」

「……わかんない、けど。これが私の本当の姿、なのかも……」

 フードが脱げて露わになった彼女の左目。黄金色の輝きが増しているようにメグルには思えた。

「あいつの動きを止めてくる」

 カプリラは言うと、今現れたばかりの翼で空へと飛び上がった。まるでロケットだ。素早い。彼女はロープ付きの銛を手にすると、そのままメガロドンの方へ突っ込んでいく。

「何なんですのあのヘンテコ娘、翼生えましたわよ!? 何する気ですの?」

「……わかんないけど。たぶん、こっちの優勢になるよ。カプリラを信じて」

 怪訝な顔をするメイベルとその部下たちに、メグルは言い切る。彼女の飛行には迷いがない。

「あっ!」

 メガロドンの頭上に辿り着いたカプリラがそこから銛を放った。杭を打ち付けるように深く奴の背中に食い込む。そこに繋がったいくつもの縄を束にして、彼女は後ろ向きになり背負うようにして引っ張り始めた。

「ちょ、ちょっとちょっと。さすがにカプリラ一人であいつを引っ張り上げるには無理が……」

 エナは言葉の途中で息を呑んだ。一瞬、メガロドンがものともせずに海面に自分から浮かび上がってきたように見えた。

 違う。カプリラが奴の体を海面に持ち上げているのだ。あの小さな彼女が、今メグルたちが乗っている船の何倍も大きな潜水艦みたいなあいつを。

「うぉっしゃあっ! わたくしたちも負けてられませんわよ! さあ野郎ども、引きやがれ、手足千切れるまで引きやがれィ! ですわッ!」

「はいッ! でもそこまでしません隊長! そこそこにしますッ!」

「何人か! 船に予備で備えてある銛、ありったけここに運んできなさいッ! 大至急! 即失敬!」

「あいあいさ! 運べる分だけありったけ持ってきます!」

 メイベルの声で皆一気に縄引きに戻る。活力がぶり返した。カプリラも船から反対方向にメガロドンを引っ張っているおかげで拮抗状態になり、奴も無防備な体を海面に全体出したまま動けないようだ。勝機。雨間に日が差し、活路が見えた。

「隊長! 銛ありったけ持ってきました! これで全部です!」

「ナイスですわ! さあ、行きますわよッ!」

 団員たちが数えきれないほど銛を運び込んできた。声を張ったメイベルはコーヴェに目配せする。すぐ彼女も察して、二人はありったけの銛を抱え上げ始めた。

「どっちが一番当てたか競争だな。もちろん私が勝つ」

「はぁ? 事実は一つ! 筋肉最強! わたくしの勝利! ぶっ勝ちますわよッ!」

「メグル! ギターだ。めちゃくちゃアガる音掻き鳴らしてくれ。この場にいる全員ブチ上げ頼む」

「よっしゃあっ! 任せろィ!」

 コーヴェからご指名承った。メグルはギターを取り出し、既に頭を駆け巡っていたフレーズを全て吐き尽くす勢いで弦を弾き飛ばす。稲妻が連続で地面を抉るような高揚がこの土砂降りに響き渡る。

 縄を引く団員たちが雄叫びを上げる。きっとカプリラにもこの演奏は聴こえているだろう。全員の力強さが増したような気がした。

「うぉらぁッ‼︎」

「どぅらっしゃいッ! ですわァ‼︎」

 コーヴェとメイベルが同時に銛の束をぶん投げた。明らかにギターの音を聴いて投げる力が上がっている。メガロドンの巨体にいくつも降り注ぎ、突き立てられていく。痛みに悶える咆哮が海も空気も揺さぶる。でもこっちのギターの音も負けてない。こっちでも音と音の合戦だ。絶対勝つ。

「なかなかッ! やりますわねッ! でも銛捌きはさえも! わたくしの方が上ですわ!」

「確かによく捌けてるな。だが息が上がってるぞ。私の銛の方があいつにはよく効いてる」

 軽口を叩きながら二人の銛の投げ合いは続いている。メイベルは一本一本を隙なく投げまくり、コーヴェは束にしたのを槍投げみたいに振りかぶって投げている。もうサメの体にはいくつも銛が突き立てられ、剣山のようになっていた。もう終わりも近いだろう。

「あっ!」

 魔物が吠えた。身を捩り海の上で暴れて、ロープを持つ団員たちの手を振り解いた。「危ないッ!」とエナが叫んで、鞭のようにしなった縄をみんなに回避させる。

 身を乗り出して見るとカプリラもロープを離してしまったみたいだ。体の向きを変えたメガロドンが正面に向き直る。再び突進してくる気だ。奴も必死だ。口を大きく開き、今までにないスピードで船に迫る。

「隊長ぉ! またあいつぶつかってくる気です! 速い! 今度こそ終わりだァ……!」

 ユッケかビビンのどちらかが言った時。もう甲板で助走をつけている二人がいた。コーヴェとメイベル。向かってくるメガロドンに迎え撃とうとしていた。

 もう距離がない。鋭い牙の絶望的な並びが見てとれる。甲板を踏み締めて、コーヴェとメイベルが一気に飛び上がった。上へ、上へ。果てしなく高く。

「筋肉! 最強! 喰らいやがれッ! ですわァ!」

「うぉおおおおおうっ!」

 二人の咆哮が空気をつん裂く。同時に手にしていた銛がメガロドンの頭に深く深く突き刺さった。

 船の汽笛のような鈍い音が轟いた。奴の悲鳴だ。大きく空を見上げて吠えたメガロドンは、そのまま海面に倒れ込むように横倒しになった。起こった波で船が揺れる。全員近くにあるものに掴まって耐えた。

 やがて揺れも収まる。いつの間にか雨も止み、空も晴れてきて暖かい日差しが雲間から差してきた。あの嵐も奴の能力だったのかもしれない。戻ってきた静けさに、その場のみんなぽかんとしていた。

「やったのか……?」

 メグルは船体から身を乗り出して海を見る。メガロドンは横倒れのままぷかぷかと海面に浮かんでまったく動かない。ようやくほっと息をつくことができた。

「コーヴェとメイベルは……!?」

「隊長ォ! 生きてますかぁ! いやあの人サメに喰われても絶対死なないな」

 飛び出していった二人をみんなで探す。巨大な死体の横、浮かび上がってきた。コーヴェとメイベルだ。

「おーい、ロープか何か下ろしてくれ。流石に上るには疲れた」

「あの最後の一撃、わたくしのほうが早かったですわよね? わたくしの勝利ですわね!」

「は? どう考えても私だろう。絶対一瞬早かった」

 海の上でも元気に言い合っている。もう仲良くなれたみたいだ。それに怪我もなさそうで無事でよかった。こちらも皆無傷で、あの状況から全員生き延びられた。この上ない結果じゃないだろうか。

「よっしゃ、野郎ども! 船の損傷と、乗客の安否確認! 締まっていくぞぉ!」

「いやお前が命令すんなっ。確認はするけど!」

「じゃあ私たちも、手伝いに行こっか」

「……こいつら、私らを捕まえに来たんじゃなかったっけ。まあいいか、どうせここじゃ逃げらんないしね」

 メグルの号令に団員たちが突っ込み、カプリラとエナが確認作業の手伝いを買って出る。もちろん、コーヴェたちに救助用の浮き輪を二つ投げるのも忘れなかったが、重量の関係で二人を船に持ち上げるのに結構苦労するのだった。


  8


「……本当にいいの? あたしたち行っちゃっても」

「女に二言はありませんわ。わたくしから逃れられるなんて千載一遇のチャンス、逃さない方がいいですわよ」

 船が無事港に着いて。その直前からメグルたちは逃走の密談をしていたのだけれど、察していたのかメイベルが言いに来たのだ。「どうせ逃げようと思ってるでしょうけれど、必要ないですわ。仕方ないから、今回は見逃してやります」と。

 ちなみに今の彼女は筋肉の制限をかけて、最初に会った時のちっこい少女のような姿に戻っていた。カプリラとほぼ同じくらいの背丈で、華奢に見える。本当に不思議な人だった。

「えぇ……隊長マジでいいんっすか。こんなん知られたらやばいっすよ。隊長だけじゃなくて、俺ら全員処刑されるかも」

「おめぇらもわたくしの部下なら腹括んなさいな。こやつらがいなかったら、わたくしたちは今頃あの魔物の腹の中か海のもずくですわ」

「藻屑っすよ、隊長。というか、そもそもこいつらがいなかったら俺らもあんな災難に遭わなかったと思うんすけど……」

「でもそれだとあの船の乗客も救えなかったでしょう。今回は一番いい結果で終わったんですわ。……それに、それより重大な理由がたった一つだけありますわ。わたくし、こやつらのこと気に入ってしまいましたの」

 ユッケとビビンが同時にため息をついて、もはや何も言うまいと肩を竦めた。他の部下たちもそもそも口を挟もうと言う気もないらしく、何となく彼女がこういうことの常習であるのが窺い知れた。うん、あたしのこの人めっちゃ気に入った。メグルは密かに思う。

「私に勝てなかったからって、何かと理由をつけてそっちが逃げようとしてるんじゃないだろうな」

 コーヴェがからかうような声で言う。彼女にはまた馬車の中に隠れてもらっているので、狭い場所に押し込まれて不満なのだろう。案の定、メイベルはその挑発に乗る。

「あぁ? 負け犬が吠えるのを聞くのはクソ愉快ですわねぇ? 見逃してやる、と言ったでしょう? 勝者はわたくし! 最強はわたくし! 筋肉のように揺るぎない真実!」

「わかったわかった。五億歩譲って、引き分けってことにしといてやる。次会う時までにちゃんと鍛えておけよ」

「もちろんですわ。忘れるんじゃねぇですわよ? 次会った時は絶対に引っ捕えて差し上げますから。そっちこそ吠え面かかねぇようにしっかり鍛錬することですわねぇ?」

 ふっと気の抜けた笑い声をもらしたコーヴェが、馬車の正面からぬっと腕を突き出してくる。メイベルはすぐ気付き、差し出された拳に自分の拳をあてがった。ぶつかり合う拳と拳。小気味のいい音が響いた。

「達者でな。王様にバレて処刑されるんじゃないぞ」

「そちらこそ。わたくしに会うまで、くたばるんじゃねぇですわよ」

「熱い友情……めっちゃいいじゃん……」

「メグル? あんた何泣いてんのよ? 変な物でも拾って食べた?」

 二人の交わした会話に感動して目をジャージの袖で拭っているメグルに、エナが呆れている。カプリラにも変なものを食べたのかと勘違いして本気で心配されてしまうのだった。

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