雨桜に結う

七雨ゆう葉

第1話 開花

 ほの暗い布と布の境界。そこから差す放射線が角度をつけ、徐々にベッドの方へと迫って来る。その後一分と経たずして、容赦ない光が渇いたまぶたの表面をギラギラと揺らし続けていた。


「ああ、先生。どうも」


 突如、玄関から飛び出した甲高い声。直後、「いつもすみません」とびる母の言葉に、僕のまどろみは一瞬にして消え失せた。即座にベッドから立ち上がり、埃臭ほこりくさい藍色のカーテンの間に指を差し込む。そして除いた窓の隙間から見えた二人の姿を見て、僕はぐったりと言葉無きセリフを吐露した。


 三月、春めく季節。こうして僕は一度も学校へ行くことなく、中学二年生を終えた。自ら選んだ自宅籠城ろうじょうはすっかり板につき、この薄暗い六畳一間でかれこれ1年半近く生息を続けている。その間、定期的に学校の先生が自宅に訪れては、母が応対し何度も頭を下げる。今日もそれが繰り広げられていた。

 何度も目にしてきた光景。聞こえてくる母の謝罪の数々。その度にドクっと痛む心の臓。目に見えない鉛の塊が体内に沈殿していくような感触を、僕はこの日もまた感じていた。


「ユウ」

 その後自宅に戻った母は支度を済ますと、階段の下からアフタヌンコールを放つ。それに呼応し、ゆっくり扉を開ける。ルーティンワークとは言えない、ルーティンの始まり。部屋を出るのは食事と風呂、それとトイレの時だけ。父親は単身赴任で家を空けており、一方母は在宅で仕事をしながら日々の家事をこなしてくれていた。

 きっと母は、毎日毎日昼食を準備することにうんざりしているだろう。一人ならチャチャッと適当に済ませれたのに、と。


 ダイニングに並ぶ色彩カラー。白い皿から湯気を上げるオムライスに、隣にはシーザードレッシングのかかった緑鮮やかなサラダ。以前「カップラーメンでいい」と僕が言ったら、「ダメよ。ちゃんと食べないと」と即刻母に却下された。

 でも、その努力も結局は水の泡と化すんだ。今日だって手間暇かけて完成させたこの彩色を、僕はものの数分で胃の中に流し込み消し去ってしまう。費やした時間と労力は、何にも還元されることはないのに。僕はどこまでも最低だ……。


「ほら、冷めちゃうわ」

 静止する僕を、キッチンでひと段落した母が優しく急かす。

「……うん」

 たんを絡ませながら小さく返事をし、ゆっくりと銀のスプーンを手に取る。そうして口に含んだ母の味は、幼少期からずっと変わらない。素直な食欲に身を任せ、「カンカン、カン」と次第に早まるリズム。そうやって僕は、空腹を罪悪で満たしてゆく。

 正面に座る母。無慈悲な我が子を、母はどんな顔で見ているだろうか。伸びた髪、血色の悪い肌。こんな腑抜ふぬけた生物を。気づけばまた、負のループ思考の渦にまれていた。最悪だ。

 僕は意識だけでも逃避させようと、リビングで流れるテレビへ視線を流した。


『本日3月14日、桜の開花を発表します――』


 中継先の公園。統計開始以来、最も早い観測記録というテロップと共に、拍手と歓声が沸き起こっている。単なる開花宣言に、ここまで集まるものなのか。桜って、特別なんだな。


『じつは今日、ちょうど卒業式があったとのことで、今年卒業された学生や親御さんたちがたくさんいらっしゃってて、大変な賑わいを見せております!』


 レポーターの言葉通り、カメラ越しには満開の桜を背景に、卒業証書の筒を持った多くの学生、そして綺麗におめかしをした保護者の人たちでひしめき合っていた。

 友だち同士、親子並んでと、各々おのおのに写真を撮る姿。春風をまとう画面越しの人々は、誰しもが生き生きと豊かな表情。僕の視線は同世代の少年少女たちよりか、傍で祝福する母親たちの方へと向いていた。


 僕はその時。

 一年後の自分の未来を想像し、ただ絶望していた。


(……ごめん)


 言葉には出していない。

 なのに。母は反応したように、僕を見た……そんな気がした。


「ン、ウウッ」

 むせそうになるのを必死にこらえ、喉奥で黙殺する。その後あわてて昼食をかきこむと、僕はそそくさとリビングを後にした。

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