花麻呂、立つ虹の

加須 千花

オレ、少志になれたぜ!(つまり昇進)

 伊香保いかほろの  八尺やさかのゐでに


 立つにじの  あらはろまでも


 さをさてば




 伊香保呂能いかほろの  夜左可能為堤尓やさかのゐでに


 多都努自能たつにじの  安良波路萬代母あらはろまでも


 佐袮乎佐袮弖婆さねをさねてば




 伊香保の山の  高い井堰いせき(川の水をき止める所)に


 虹があらわれてくるまで


 一緒にさ寝したら、さ寝にさ寝を重ねたら、どんなに楽しいだろう。



 ※さ寝……素晴らしい共寝ともね




       万葉集 作者未詳




 

     *   *   *



 奈良時代。

 陽の光差す、こじんまりとした家の居間にて。


「あああっ、く、もう無理だ。」


 オレは花麻呂はなまろ、二十五歳だ。

 まだ作られて新しい、の香り漂う倚子に座り、の机に突っ伏している。手には筆。


「わかんねえ。」


 机の上には、適当に木をまっすぐに割ったお勉強の木がある。

上毛野かみつけの」までは書けた。でも、その下は木の断面が白々しく、何も書けていない、馬鹿め、と主張をしている。


花麻呂はなまろ。頑張って。」


 愛する妻──オレのいも(運命の女)の、優しい声が隣から耳に届く。

 愛する妻に、オレは文字を教わっているというわけ。

 いや、文字なんて、書けなくても生きていける。

 喉までぐっと出かかった言葉を飲み込む。

 文字を教えてほしい、と言ったのはオレだ。

 だって、やっと上毛野衛士卯団かみつけののえじうのだんにニ人しかいない少志しょうしになれたんだ。

 この上、文字の読み書きができれば、さらに上の、大志たいしだって狙える。

 逆を言えば、文字が書けなければ、大志にはなれない。まあ、何年も先の話だけどさ。

 大志になれるかもって、夢があるよな!

 ろくだって増える。愛する妻を、今よりもっと喜ばせてやれる。

 うん、夢がある。


「ほら。にじ。一昨日教えたわよね。」

「そうでしたっけえぇぇ?」


 あ、ダメだ。存外ぞんがい情けない声がでてる。


「ふふ。」


 柔らかく、愛おしい妻が笑う。

 オレは格好悪い。くそぅ。格好良くありたいのにな。


「こうよ。」


 妻が絹が滑るように近づいてきて、花麻呂の筆を持った手に、右手を添えた。


 努自


 とさらさら流麗に木の断面に文字を書いた。


「これで、虹、よ。には、つとめる、頑張る、って意味もあるのよ。自は、自分。ね?」


 最高に美しい妻が、澄んだ微笑みを花麻呂にむけてくれた。

 ふわっと女性らしい花の香りが鼻をかすめる。


(うは───い!)


 ここには二人しか住んでいない。

 もう堪りません。

 花麻呂は、電光石火、すべすべの頬にちょんと唇を寄せた。


「あっ!」


 小さく妻が困った声をあげて、身じろぎする。


(待って。)


 墨で汚れていない左手で、妻の右手をさっと捕らえる。


「もう、今は文字を。」


 妻は想像通りの言葉を口にするが、花麻呂は身をよじって、花のような唇をいただきます、する。


「んん。」


 妻の声がもれる。

 ゆっくり、包むように、味わうように、唇を重ねる。顔を離すと、


「今は昼間でしょ。」


 めっ、と叱るような目で妻が見る。

 しゅん、と花麻呂はうなだれてみせる。


「オレだって、昼間したい。」


 ぽそっとごくごく小さな声でオレはもらし、唇を瞬時とがらせ、視線を机の上に落とす。


 ───努自にじ(虹)か。


「あ〜、あ〜。今日は夜番よるばん(寝ずの番)だからな。オレは、残念だっ。オレのいもを満足させられない。」


 軽い風を装い、きらりとおみなを誘う瞳で、甘えた笑みで、オレのいもを見る。

 美しい妻は目を伏せ、手を花麻呂からそっとほどいた。そして指先をじっと見て、


「手も、髪も。あたし、随分油っけが抜けてしまったわ。もう、あたし、以前ほど、綺麗ではないのではないかと、思うことがあるの。花麻呂。」


 と寂しそうな声で言った。


「何を言うんだ。」


 思いもしない言葉に、オレは非難するような声がでる。


「だって、あたしは。」


 それは、聞く必要がない言葉だ。

 すっと左手で、妻の頬を撫で、黙らせる。


「オレは、いもを得ることができて、幸せだ。今も、昔も、ずっと、綺麗だ。オレは独り占めしたい。ずっと一緒にいたい。未来だって、綺麗だ。たとえこの先、髪に白髪がまじろうとも。」


 オレは妻の名を呼び、


「夜番の週が終わったら、もう、ずっとさ寝してほしい。明け方、虹が見えるまで。」


 虹が見える。それは、夜が明ける、って意味だよ。

 さっきよりも、優しく、愛おしさを込めて、長い時間をかけて、どんな不安も拭う口づけをして、


「そしたら、雲に乗って、虹の橋を渡る処まで、連れてってあげる。約束だよ。」


 もう昼間っから、二人きりなのを良いことに、オレは心をこめて、こんな事を口にする。


「ふふふ、花麻呂。約束ね。」


 花のように美しい妻は、優しく笑い、妻の方から口づけを返してくれた。

 これだけで、身体の隅々に力が沸き起こる気がする。


「さ、今は、勉強の続きをしましょう。いかほろ。書いてみて。これは三日前に教えたわ。」


 優しい微笑みのまま、愛しい妻は言う。

 わは───い! 逃げられる気がしねえな!

 でも、頭の中も空っぽだぜ!

 何だっけ、何だっけ。


 オレはその後、四半時しはんとき(30分)も、勉強の為に唸り続けたぜ!





    ───完───





↓挿し絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16817330662482735049

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