第13話 天秤の傾き。
「サムから大事な話があると言われて付いて来たんだけど――」
べリックの妻エナ――いや、エマが余裕の笑みを浮かべて言った。
「――何で、聖女様がいるんだい?」
売春宿仕込みの
成功者になったとはいえ、犯罪者上がりのべリックなどには丁度良い女に思えた。
「二人の想い出が詰まった納屋ですものね」
良くこんな所で逢引きできるものだと、薄汚い屋内を見回した。
「あ、あの――俺は――帰っても?」
「駄目よ」
私は微笑みながら、サムを手招いた。
黒鞭で失った罪悪感の代わりに、彼にはグスタフが骨の髄まで恐怖を叩き込んである。その甲斐あって、もはやサムは私の言いなり――つまりは忠実な犬となった。
「グスタフの傍へ」
「は、はい――」
納屋の端でうっそりと立つグスタフの許へ、肩を落としたサムが歩み寄っていく。
「飼い犬に手を噛まれたってわけかしらねぇ」
髪を触るエマは、少しばかり眼差しを鋭くした。
「町を嗅ぎまわってるとは聞いていたけど――べリックが小部屋でおかしな事でも口走ったのかねぇ」
「べリック殿については、後にしましょうか」
物事には順序がある。
「それより――ジョンの事を話しませんか?」
「ハッ、色惚け司祭が何だってのさ」
エマのために人殺しとなったサムは、その罪悪感から司祭だったジョンに告解をしたのである。
危険に感じたエマは、ジョンの信用を棄損しようと考えた。その為に彼の不道徳な行為を訴えて排斥にまで追い込んでいく。
だが――、
「落ちぶれたジョンは成り振り構わなくなってしまった。町に戻って、あなたを脅迫してきたでしょう」
「あんな野郎の言う事なんて誰も真に受けないよ」
「いいえ。彼はこう脅したのではなくって――」
排斥司祭となった男が触れ回っても、確かに誰も信じないだろう。
だが、彼には悪友がおり、その悪友は町では
「町長のモーガンか、べリックに言うと」
「――」
エマが唇を噛んだ。
「モーガンはギャンブル狂の駄目人間ですけれど、体面を取り繕うのが上手いから信用されています」
「うちのお陰だよ。べリックがどれだけ金を融通してやったと思ってるんだい」
紳士協定は今も有効なのだ。
それを良い事に、未だにモーガンはギャンブルにうつつを抜かしており、べリックの助力が無ければ家業もとうに失っているだろう。
「そうです――。だから、彼の妻ミリアもあなたに協力したのですね?」
苦味のある匂いの籠る部屋だと感じたが、あれはベラドンナを使っていたのだろう。幻覚作用が強く、人を狂わせていく事も出来る。
「あなたは、ミリアを
だが、ジョンにはもうひとりの悪友が居た。
「何と説得したのかは分かりませんけれど、べリックに私の許を訪れるよう言ったのではなくて?」
私に告解すると罪を忘れるという噂は、大いに流布されている。事実その通りなのだから当然だった。
罪を忘れさせてしまえば、ジョンが何を言おうとも夫のべリックは真に受けないだろう。
エナがエマである訳が無いし、ならばサムが人を殺す理由も無くなる。
グスタフが聞いた話によれば、実際に彼は行動に移していた。
だが、相手にされないどころか、大人しくしないと町から追い出すと言われ、日々やけ酒を飲んで過ごしている。
金づるが消えたとギャリングが知れば、半殺しの目に遇うと怯えながら――。
「――何度も言うけどさ、色惚け司祭の話なんざ何の意味も無い」
「別にあなたを責めようというわけではありません」
「はあ?」
「私は知りたいのです。あなたが――」
十年前に始まった罪の連鎖は、天秤の傾きを元に戻しつつある。
真に
「――なぜ、べリック殿を許したのかを」
サムとの不逞は、彼に冒させた罪へのエマなりの代償に過ぎない。
エマは、べリックと別れるつもりなど無いし、ジョンへの対策の為とはいえ、罪の記憶が消えても良いと考えたのだ。
むしろ、愛しているのではないか?
「彼は、あなたの祖父母を――」
「ひとつ教えといてやろうか」
話は終わりだとばかりに、彼女は背を向けてから告げた。
「金に困った奴ってのは、どうにも悪党になる」
「あ――」
べリックが買い取ろうとしたのは、町の寂れた宿屋だった――。
世間体もあって宿は手放したくないが金も無い。
「遠くの町に飛び出し仲違いした息子夫婦が勝手にくたばった。で、その子供が押し掛けてきたらどうするだろうね?」
べリックの記憶によれば、少なくとも祖母には孫を想う気持ちがあったようだが、祖父の方は分からない。
あっさりと義眼のジャックに殺されたからだ。
「どこぞへ売っちまおうって考える悪党もいただろうさ」
それだけ言って、エマは形の良い尻を振って納屋を出て行った。
◇
――ひと月が過ぎた。
シルミオネの町は、今日も平和である。
何より、地下倉に義眼のジャックが居ないと思うと、礼拝堂で祈りを捧げる振りをするのも苦にならなかった。
ジャックは沼地の傍で
「アドラ様」
背後からグスタフの声がする。
礼拝堂に二人の人間が入って来た事には気付いていたのだが、熱心な聖女を装うために素知らぬ様子でいたのだ。
「あら」
楚々とした声音で振り返ると、グスタフの隣に中年の女が立っていた。
「お目に掛かれて光栄に存じます、アドラ様」
女は堅い仕草でカテーシーをしてみせる。
「私はモーブ・エバンスと申します。領主様の御子息の家庭教師をさせて頂いておりますが――その――」
私は罪の匂いに、既に高揚感を感じ始めていた。
「モーブ様、話の続きは――」
黒鞭の待つ告解室を手で指し示す。
「――あちらで伺いますわ」
次こそは、天秤の大きな傾きを願いながら――。
――了――
黒ムチの断罪 黒鞭聖女 砂嶋真三 @tetsu_mousou
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