ファム・ファタルの「誘惑」(下)

V

 町へ出ると、民間を巻き込むような戦争じゃなかったからか、戦争推奨ポスターは路地裏に追いやられ、パンフレットは打ち捨てられて、町は至って普通の営みを続けていた。森から出てきた僕を見て、人々はぎょっとして尋ねた。


「お前さん、帰らずの森を通って来たのか?」

「そうさ、帰らずの森っていうのは知らなかったけどね」

「あの森に行くのはやめた方がいい、魔女がいるのさ。とんでもなく恐ろしい、人間を喰う魔女」


 男は頭を抱えて、体をぶるぶると震わせた。全く、子供でもないのに何故そんなことをいうのやら、少し大袈裟すぎやしないだろうか。


「恋人に贈り物がしたいんだ、靴屋へ案内してくれるかい?」

「あぁ、ああ、いくらでも案内していくから、今夜は泊まって行きなさい。森へ帰ってはいけない」


 僕は気味悪く思って、靴屋を一軒紹介してもらったばかり、逃げるように姿をくらました。


VI

「駄目よ。いただけないわ、こんなの」


 靴を見た途端、彼女は嬉しさと困惑をない混ぜにしながら言った。白くて、高すぎないヒールのついたパンプスだったが、真ん中には上等な装飾がされていて、靴屋の中で一番高かったのだ。


「気に入らない?」


 わざとそう聞いた。彼女は首を振った。


「とても素敵よ。でも、私には上等すぎるわ、履いて行く場所もないのに」

「まだ驚くのは早いんだ、落ち着いて。そんなの序の口だ、大丈夫」

「まだ何かあるの?」


 彼女は首を傾げてこちらを見た。

 僕はポケットから小さな箱を取り出して見せた。


「誕生日おめでとう、メアリー。君と僕のためのプレゼントだ。どうか受け取って」


 彼女は、箱の中の指輪を見て、それから僕を見た。


「これは?」

「婚約指輪だ、分かるだろ? 本当はもっと早くに申し込みたかったんだ、でも君が成人するまで待たなきゃならないと思って」


 彼女は、しなやかな指がついた両手で顔を覆った。喜んでいるのかと思ったが、そうではない。彼女は顔を覆ったまま、肩を振るわせて言った。


「ひどい人ね」


 メアリーは一枚の写真を取り出した。破けてはいるものの、何が写ってるか確認できないほどではない。写っているのは、僕とその妻、そしてまだ生まれたばかりの小さな子。裏には「神の御加護を。愛しいへ」と書いてあった。いや、書いてあるのが確認できるかは知らないが、そう書いてあるのを覚えていた。なくなったはずの写真──軍服の内ポケットに入れていたはずの写真だ。


「最初は善意だったのよ。きっとなにか事情があると思ったの。貴方が逃げた事が知れれば、貴方、兵隊さんたちに殺されてしまうでしょう? だから、内緒で毎月の最後の日曜日、奥様とお茶をしていたの。近況報告を兼ねて」


 「でも、貴方ったらこんなに愚かだとは思わなかった」彼女はくすくすと笑う。僕は何が起こったのかわからないまま、呆然と話を聞いていた。


「奥様はずうっと貴方の帰りを待っていらしたのよ。可哀想な奥様。それなのに貴方ったら二度と帰ってきやしないわ」


 あぁ、そうか、解ったぞ。

 椅子が後ろにガタンと大きな音を立てて倒れた。僕はずんずんと彼女に歩み寄ってその白い腕を掴んだ。

 ガラス片の散る音が響く。何が落ちたのかすら確認するのも億劫だ。軍部での特訓が少しは役に立ったようで、床に臥した彼女は僕をじっと見つめた。僕の心臓は高くなっていて、手が震え、息が上がった。とても何かしらの魔術詠唱を行うには困難だった。しかし方法ならいくらでもあるから無問題なのだ。

 彼女は僕に乗られて動けないままに言った。


「何をする気?」

「あんな女なんかどうだっていい。お前は俺の物だ……恥をかかせやがって、今謝れば許してやるよ。おれは、優しいから」


 僕の歯がカチカチと鳴った。興奮しているのか、それとも今から行うことに対しての恐怖か。

 しかし彼女は反対に酷く落ち着いていた。

 その白い首元に手をかけた。僕と彼女は少しばかり身長差があったし、僕の方が筋肉だってあった。


「苦しいわ、離して。離しなさい」


 僕を制すように主人たらしく彼女が言った。

 ぐっと締め付ければ彼女の血が滞留し顔が赤くなって行くのが分かる。少しばかり失敗したと思った。しかしもう遅い。僕はそれを続けるしかなかった。そして、思い切り力を込めた時。

 彼女の頭部が破裂した。それは決してグロテスクなどではなかった。風船が破れた時のように軽く、そして中身は薔薇の花弁だった。

 「レディに手を出そうだなんて、酷いわジャック」それは僕の背後から聞こえた。彼女の声だ。

 今度は彼女が上から僕を見下ろしていた。こいつはいけないと警告が脳内に巡ったが、体は思うように動かなかった。フローリングを割いて生えてきた薔薇が、その蔦が、僕の両手足を締め付けていたからだ。彼女がぽんと肩口を押すと、制御を失ったかのように力が抜けて、後ろへ倒れ込んだ。


「ねえジャック、私って貴方にとってそんなに価値があるかしら? そう、奥様と小さな子を捨てて婚約しようとするほどに」


 彼女は尋ねた。その様は決して自分を卑下しているものではなく、むしろ彼女の全ての自信を持って「私を殺すほどの価値は貴方にないのよ」と僕に言っているような堂々ささえ孕んでいた。


「ね、町へ行った時、こんな噂を聞かなかった? 帰らずの森には魔女がいる、って」


 「今まで沢山の人が訪れたわ。小さな女の子と男の子、おばあさん、愚かな一家……えぇ、軍人は今回が初めてだったけれど、みんなお家には帰れなかったわね」彼女はまるで誇るように指を折りながら数えてみせた。


「初めは思うようにいかなかった。でもね、私、しばらくしてコツを掴んだの」


 ミシミシと締め付ける蔓のせいで、手足は悲鳴をあげていた。


「女の子より男の子を殺める方がずっとずっと簡単だし、それに美味しいって気付いたのよ。だってほら、恋愛感情ほど憎しみを抱きやすいものはないでしょう?」


 そんなわけないと言いながら、僕は心の中で彼女の思ったその通りになっていた。彼女が僕を騙したのだ、その美しさをもって。僕の心をまるでおもちゃのように弄び、もう飽きたと言わんばかりにその命ごと放り投げて捨てる気なのだ。


「私を憎んで蔑んで、怒り狂って泣き叫んでくれた方が、私には好都合なの。もちろん、私の相棒にもね」


 黒猫が不気味に鳴いた。影は異様なほどに伸びていた。


「善意なんて大ウソ。おかしな話よ、笑っちゃうわ! 貴方が私にそうしたように、みんな私の美しさに溺れるの。ある者は羨んで嫉妬に狂い、またある者は恋に堕ち拒まれて逆上する。そうして私は望むものを手に入れるのよ、永遠の美しさをね」


 彼女は僕のことを哀れそうに見た。


「どう? 私、綺麗? えぇ、きっと綺麗なのね。貴方が我を忘れて我が物にしようとするほどに。あぁ良かった。私の両手──いえ、この体の隅々まで、もうとっくの昔に血に塗れたものと思っていたの。貴方の目にはまだ私は穢れていないように映るのね」


 さて、と彼女は立ち上がり、僕を再び見下ろした。


「貴方をどうしようかしら。随分長くここにいたもの、ほんのちょっとだけ愛着が湧いてしまったのよ。だから、少し凝ったお別れがしたいのよね」


 何かあるかしら、と彼女は黒猫を見た。黒猫はドロリと影に身を溶かすと、人型をして立ち上がってそれはそれは悔しいほど彼女に相応しいような整い方をした青年の姿に変わった。髪は黒く、琥珀色の瞳。スラリとした体躯は、少女のように儚く美しく、青年らしく逞しい。それは口元に趣味の悪い愉悦の笑みを浮かべながらコツコツと革靴で地面を叩いた。

 あぁ、メアリー、お前が魔女だったのか!! 悪魔と手を結んだから美しいのか、なるほど納得が行く。ならば、その美しさは偽りに違いない。ああ本当に非道い奴だ、この化け物め!


「僕が思うにね、メアリー。嬲るのは確かに楽しいけど、掃除するのは大変だし、残りはハンバーグにする他無いでしょ? それに相手は軍人だから、馴染みあるもので殺してあげなきゃ」


 「素敵ね」二人はまるで世間話でもしているようだった。彼女は流れるようにいつの間にテーブルにあった銃を手に取った。弾を空にして、それから一つだけ込める。


「チャンスをあげる。六分の一よ、優しいでしょう?」


 魔女などに屈してなるものか。僕は魔女を睨みつけた。彼女はそれに構うことなく僕の頭の横にしゃがんで、銃口を思い切り僕の口へ突っ込んだ。


「でもどうかしら。私、とっても運がいいの」


 彼女は確信めいた声色で言い、それから「あぁ思い出した」とばかりに一言告げた。


「終わったら、手紙を書かなくちゃ。ミセス・ウィルソン──ジャック、貴方の奥様に」


 『残念ながら、旦那様ミスタ・ウィルソンはもう帰りません、永遠に!』ってね。


 魔女は無情に引金を弾く。

 跳ねた身体は主人のいうことを聞かず横たわり、メアリーは満足そうに微笑んだ。

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Talking About Her【彼女について】 白紙しろ @Siro_shirakami

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