ファム・ファタルの「誘惑」
ファム・ファタルの「誘惑」(上)
なんとも言えない寒さでゆっくりと目を覚ます。まず、見慣れない格子組の天井が目に入った。そのあと視線を窓のほうへ移すと、深紅のベルベットで作られたカーテンで彩られるのがわかる。魔法使いの家だ。魔法使いは、みんな赤が好きだから。
視線を少しばかり右に動かすと、ロッキングチェアに体を預け脚を上げて眠る、年頃の少女が目に入る。息を呑んだ。ただの少女ではない。ブロンドは絹のように滑らかに流れて肩にかかり、白いワンピースの裾から生えている二本の脚はすらりと長くしなやかだった。絶世の美女といっても過言ではない。外ではしんしんと雪が降っていて寒いだろうに、彼女は薄いワンピースの上にカーディガンを着ないで、そのうえブランケットもかけずに眠っていた。その全てが、僕の上にかかっていたからだ。
僕は柔らかなベッドの上で身動きをした。脚が折れているのか、痛みが走る。しかし添え木がしてあり症状は悪化していなさそうだった。腕は包帯が巻かれていた。
「ん……」
少女は眠そうな声を上げて、目を擦った。それから小さな欠伸と伸びをして、こちらに気付く。
「目を、覚ましたの」
僕に向けられた第一声はそれだった。透き通った聞き心地の良い声だった。それから彼女はゆっくりとチェアから立ち上がった。
「ぁ、あぁ……」
「これ、貴方のジャケットよ。洗っておいたの」彼女は僕の頭の上のベッドボードに手を伸ばし、緑色の軍服を寄越して言った。帽子はなかったのだと言う。僕はジャケットの内ポケットを探った。
「ここに写真が入っていたんだけど、知らないかい?」
「いいえ、何も入ってなかったわ。探してきましょうか?」
「いいんだ。ただの……仲間との写真だよ」
「きっと、どこかで落としたんだ」僕は目を逸らして言った。何もないジャケットのポケットを撫でながら。
「少し待っていて、ジンジャーティーを取ってくるから」
こちらを見た、やわらかに細められた瞳は透き通ったアクアマリンのようで、それがスッと自分を射止めたので胸が高鳴った。そのせいか、ジンジャーティーは味がしなかった。
「名前は?」メアリーと名乗った少女が尋ねた。ルシファーと呼ばれた黒い猫は彼女の膝の上を占領し、彼女はそれを撫でていた。
「ジャック……ジャック・ウィルソン」
僕は咄嗟に答えた。それから、彼女に僕を見つけた時のことを聞いた。
「ルシファーと散歩をしていた時、貴方が川にうつ伏せに浮かんでいるのを見たの」
「きっと雪で足を滑らせたんだ」
「……とにかく、無事でよかった」
彼女はうっすら目を細めて言う。その時、ふさふさに生え揃っている睫毛が彼女の瞳に影を落として、あぁ、やはりこの人はまるで人間でないかのように美しいと思った。
「暖まった?」
「ああ、本当に。ありがとう」
それが、彼女との邂逅であった。
II
それから、怪我はみるみる良くなっていった。一月もすればすっかり足の添木が取れて、腕の傷は痕も残さず綺麗になっていた。
「もう歩けるんじゃあないかしら」
彼女は無邪気に笑ってそう言った。彼女は甲斐甲斐しく僕の世話をし、よく尽くしてくれた。そのおかげもあってか、軽く二月はかかりそうな怪我もすぐに治ったのだ。
それだけではない。彼女は知れば知るほど魅力的に映った。まず、彼女は齢十九で、幼い頃に家族を亡くしそれからルシファーという黒猫と二人きりで暮らしているらしい。それだけでもとても逞しかったが、同時に彼女は純真無垢だった。彼女は戦争を知らず、また人を傷付ける魔法を知らなかった。僕が軍人だと知った時、彼女は初めて「そんなことが起きているの」と尋ねたのだ。森に住む彼女は戦争とは無縁だったらしい。
「学者と魔法使いの戦争さ、醜いんだ」
僕はただ、若く健康で、他の人と比べたらそこそこ腕の立つ魔法使いだったために戦争に派遣された兵士だった。僕は別に学者を見下したことはなかったし、戦況は学者軍が優勢で、実際魔法軍よりも学者軍の方が環境がずっと良かった。怪我をすれば腕の良い医者がすぐそばにいて、比較的綺麗な環境らしい。さっさと和解すれば、僕だってわざわざ死の危険を晒す必要なんてないのに──死ぬのが怖くて逃げてきたのだが──とそう彼女に愚痴ったら、彼女はくすくすと笑っていた。
「帰らないの?」
「帰れないさ、脱走兵は殺される」
「そうなの?」彼女は尋ねた。「そうさ」僕は答えた。
「なら、ずっとここにいたら良いじゃない」
気の済むまでここにいればいいわと僕を見つめる。
「ここはきっと誰も見つけられないし、貴方は戦地へ赴く必要もないでしょう?」
少し迷ったが、断る理由なんてなかった。それから、彼女にいくつか戦地についての他愛無い質問をされた。例えば「戦地ではどんな魔法を使うのか」「怖いジョウカンはいるか」「食事は美味であったか」などだ。僕はそれらに、ほとんど正直に「人を傷付ける魔法」「怒らせたら魂を吸い取られそうな鬼上官が一人」「食事はマチマチ」と答えた。彼女はそのどれもを終始楽しそうに聞いていて、ころころと移り変わる表情は僕の心を惹きつけて止まなかった。
III
夏がやってきた。彼女の家のすぐそばには蓮が浮き小さな魚が泳ぐ大きな池──ほとんど小さな湖に近い──があって、午前いっぱいそこで泳いで遊んだ。
「メアリー!」
湖の中から彼女を呼ぶ。冬から春、春から夏へと移ろう間に僕たちは想いを通じたのも同然だった。お互いに愛を伝えたりはしないが、彼女の視線は僕が好きだと言っていた。
彼女は、筒状に片付けてあったレジャーシートと、昼食にと用意したオープンサンドのセットが入ったカゴを両手いっぱいに抱えながらウッドデッキから出てくる途中だった。麦わら帽子を被って、シフォンになった袖口から白い肌を晒している。
「なあに?」
彼女は一旦ウッドデッキに設置してあるテーブルに荷物を置いてから聞き返すようにそう大きな声で言った。
「君も泳ごう!」
彼女はそれをそのままに、サンダルのパンプスだけを脱いでこちらへ寄ってきたが、岸で立ち止まった。
「ごめんなさい、泳げないのよ!」
僕は湖のおおよそ真ん中あたりにいて、彼女はそう声を張り上げた。僕は顔を出したまま、平泳ぎをして彼女のところへ戻る。
「泳げないのかい?」
「そう言ったでしょう?」彼女は足だけを水につけて、ワンピースの裾を濡らさないように持ち上げながらしゃがんだ。
「こんなに良い湖がいつもそばにあって?」
「ええ、残念ながら」
ルシファーは彼女の隣へそろそろと寄ってきた。しかし、メアリーの脚に擦り寄ろうと近づいた黒い脚が水についた途端に、ルシファーはぴゃっと飛び上がってウッドデッキの方へ走っていくと、日陰に陣地を張ったようにそこから動かなくなった。
「本当に?」僕が彼女にもう一度尋ねると、彼女は、まあ、とほんの少し言葉を濁した。その瞬間の隙をついて、僕は彼女の手を取って、思い切り水の中に引き摺り込んだ。
麦わら帽子が、宙を舞った。
「あぁっ、ひどいわ、なんてことするの!」
彼女が、ぷは、と息を吐いた、その次の言葉がそれだった。彼女は白く軽やかなワンピースと、絹のような髪を肌に張り付かせながら、僕の手に半ばしがみつくようにして浮いていた。言葉ばかりは僕を責めているようで、声色と表情はむしろ楽しげだった。
「泳げるじゃないか」
「貴方のおかげよ、ジャック。本当に泳げないんですもの、いったい何の魔法をかけたの?」
「何も。君の力だ」
彼女はきょとんとして僕を見た。
しばらくの沈黙。夏の初めの日差しと、前髪から滴る水滴がより一層彼女を美しく魅せる。
「うわ!?」
じゃぷんと音を立てて、体が水中に引き摺り込まれる。顔が水面に沈む瞬間、得意げに笑う彼女を見た。ああ、嵌められた!
「ジャック、お昼にしましょう?」
水面から顔を上げた時、もう岸に上がったメアリーがワンピースの裾を搾りながら言った。彼女はそのあと岸辺に放りっぱなしのサンダルを履き直し、少し遠くで浮かんでいた麦わら帽子を魔法でこちらへ手繰り寄せた。ふよふよと浮かんだそれは、彼女の生み出した柔らかい風によって簡単に乾き、彼女の頭に落ち着いた。
僕と違ってどこもかしこもすっかり乾いた彼女は、濡れた僕の隣でオープンサンドを手を使いながらもとても上品に口に運ぶ。
「午後は何をするの?」
「特に何も。寝るかな」
「まあ! それじゃあまるでルシファーとおんなじね」
彼女はくすくすと笑う。ルシファーは抗議をするように、日陰から出てきて彼女の隣に座った。
「なあにルシファー? おまえ、今更抗議するつもり?」
ルシファーはなぁんと鳴くだけだ。その
「寝てても良いけれど、3時にはお客様が来る予定なの。それまでに部屋に上がっておいてちょうだいね」
彼女は時々、家に人を呼んだ。僕は客人を見たことはなかったが、客人が帰った後の彼女はとても上機嫌で、豪華な肉料理が出ることが多かった。商人か何かだと思う。何度か、客人を見てみたいと頼んだことがあったが、あっけなく却下された。ひと月のうちの四週目の日曜日は、特に。入れるのは長年寄り添っているルシファーだけらしく、「仕事だから」とか「レディだけで楽しむのよ」とか適当な理由をつけては断られてしまうので、居候している身としては甘んじてそれを認めざるを得なかった。だから、彼女が客人をもてなしている間は、二階に移った自分の使っている客室のベッドの上で惰眠を謳歌したり、今日はどんな客人だろうかと物思いに耽るのだ。
2時半過ぎ、僕は昼寝を終えてのろのろと起き上がり、紅茶の香りがするリビングを素通りして二階へ上がった。部屋へ入ると、リビングと同じ香りがして、いつ淹れたか分からないが氷の溶けていないアイスティーが客室用テーブルの上に乗せてあった。
僕はクローゼットを開けて、適当な縒れたシャツを引っ張り出して着替えた。ボトムスを履こうとしたら、足首が赤くなっているのに気がついた。さっき、引き摺り込まれた時についたものだろう。水草で擦ったのかもしれないなと思ったが、少し違う。それは小さな手型をしていたのだ。気味が悪いと思いながら、湿布をもらいに下に降りようにも客人がくるといけないので何もせず、ベッドの上に寝転がった。ラジオのダイヤルを回し適当な音楽をかけて、適当な本を手に取って特に意味もなく目を通していた。
IV
「誕生日プレゼント?」彼女は聞き返した。夕食でのことだ。彼女は柔らかいステーキを食べながら、こちらをきょとんとして見つめた。
「来週、君の誕生日だと言ってただろ? 欲しいもの、ないかなって」
「あぁ……」
「何でも良いんだ、ここに来てから使ってないし、お金はある」
町は朝早くに行けば夕方には戻って来られるし、王都なら一週間足らずで行って帰ってこられなくはなかった。彼女が成人する節目の年であったし、何より"計画"のためには何としてでも森の外へ出る必要があったのだ。
「でも、その、戦地から逃げているのでしょう? 見つかったら……」
「大丈夫。変化術をかけて行くし、森を出てすぐの町なら魔法使いも少ない。何かあるかい?」
彼女はしばらく悩んでから言った。
「靴が欲しいわ。貴方が選ぶ、私に一番似合いそうな靴」
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