ねぶくろ

久しぶりに実家に帰った日。

その日は、朝からやけに空模様が怪しげだったことを覚えている。


駅から実家までの山道を、父の車に乗って通り過ぎる間中、私は上ばかり見つめていた。徐々に街から遠ざかり山間に入るにつれ曇り空の様相は色濃くなり、雲の上からは巨大な車輪を転がすような音が聞こえ始めた。

頭上に木々が茂っていることも相まって、昼下がりにも関わらず辺りは奇妙なほどに暗い。上空の風が音もなく遠い山々を揺らしているのは妙に不気味だ。山が風に揺れる音さえも、雷の音に飲み込まれていると言ったほうがいいかもしれない。


父もハンドルを握りながら身を乗り出して、上を見上げて雨が降るかもしれないな、と呟いた。薄く開いている窓から吹き込む風が不愉快で左側の窓を閉める。しかし運転席側の窓から吹く風が変わらず私の頬を撫で続けた。


お盆でも正月でも長期休みでもないのに実家に帰るのは初めてだと思いつつ、私は時計を見た。

実家から遠く離れた大学では今この時間も、平常通りの授業が行われているはずだ。数回休んだところで単位に影響は少ないと言え、要は授業をさぼって実家に帰省したわけである。そうまでしたのは、父から実家に帰ってきて欲しいと改まった電話があったからだ。

理由を聞くと父は適当に誤魔化したが、語調だけは妙にはっきりとしていて、放任主義で普段とぼけた性格の父からそういった頼まれ方をされること自体珍しかったので少し驚いた。まあ、去年の正月には忙しくて帰れなかったので、その分の親孝行と思えば抵抗はない。

こうして迎えに来てくれた父の様子にも、別段おかしなところはなかった。

しかし、電話口で聞いた声が、確かに不吉な予感を孕んでいたことに間違いはない。それを思い出すにつけ、今横にいる父との齟齬を感じて首をかしげるのだった。

もしかすると穏やかな表情の中に、何かが渦巻いているのかもしれない。

それはちょうど雨が降りもしなければ雷も光らせない今の思わせぶりな空模様と同じようではないかと、そんなことを考えていた。


六月の末、梅雨を目前にした山間はありとあらゆる気配に包まれていた。大学周辺の都会めいた街並みと異なり、人々はそうした山や森の間に点々と住んでいる。

私が家に着いた途端、家の裏にそびえる山が私の上に覆いかぶさりに来るような錯覚を覚える。自分の存在がふとした瞬間、揺らぎそうになる。

空が相変わらず唸り続けているせいかもしれない。


車が庭に入ると、音に気付いたのか祖父と祖母が玄関から出てきて私を迎えた。

玄関の扉を閉じると、それまで感じていたすべての音と気配は途切れてしまった。しかし、不吉の影だけは私の足元から引きはがれず、ずっと後ろでひきずられていた。





子どもの頃、祖父と連れ立ってよく蛍を見に行ったことを覚えている。


私の実家は、道路からうねる坂を少し上った所にあった。家の背後には誰が保有しているかもわからない荒れ放題の山があり、その山へと続く道は鉄の柵で区切られて登れないようになっている。

反対に坂を下ると、道路を挟んで川が流れている。

たいして幅のある川でもないが、道半ばの橋から見下ろすと意外な高さがあり、水量も少ないので落ちたらまず大けがだ。川の所々に草が生い茂った足場がある。壁面にタニシが群生している。それ以外は特に語るべきもないが、初夏の夜半――、その川へ祖父と蛍を見に行ったことだけはやけに鮮明に覚えていた。


風呂上り、私が台所でテレビを見ていると祖父は前触れなく「蛍を見に行くぞ」と誘った。それは既に決定事項であり、私は祖父に言われれば、そうするのが当然かのように後を付いていった。


祖父は玄関の鍵を開け、突っ掛けをはいて家の前の坂を下っていく。

今でこそ痛感するが、田舎の夜道は異様に暗く、坂を下りて道路に出れば祖父の白い肌着がかろうじて浮かんで見えるのみだった。

あとは遠くの方で一本の電灯だけ、申し訳程度にちかちかと点滅している。それは、圧倒的な夜の闇に今まさにかき消されようとしている瞬間を見ているようでもあった。


祖父は真っ暗闇の中でも迷う様子もなく道を下って川へ向かう。私はその後ろを懸命に追いかける。そうしなければ、何かにけつまずいてしまうからだ。

何故そんなに暗かったのだろう。祖父が蛍を見に誘うときは必ず月が雲で隠れた夜だった。分厚い雲が空を覆い、星の一個さえも見えない夜にしか私を誘わなかった。だが不思議と怖いという感情を抱いた事はなかったように思う。暗闇に浮かぶ祖父の背中は何も語らずとも私を安心させた。

家から川まで下るのは大した距離ではない。しかし子どもの頃の私にとってそれは、道なき道を切り開く冒険を思わせた。そして静かな冒険の先に、少年は宝物を見つけるのだった。





父は私を家に送り届けた後、仕事へと戻っていった。

祖母は大袈裟すぎるくらいに私の帰りを喜び、急いでお茶を沸かしてくれた。私は台所の椅子に腰かけ、お茶をすすりながら、祖父の部屋がある方向を見る。

祖父は私の到着を見届けてから、何も言わずに自分の部屋へと引き返していった。それは祖母の様子と全く対照的だった。


久しぶりに見た祖父の様子からは、どうしようもなく老いが漂っていた。以前に見た時よりも腰が曲がって、だいぶ痩せたのではないだろうか。元々彫りが深い骨格をしているけれど、眼窩は落ち窪んで、眉の下には黒い影が落ちている。その影の中から見つめる眼差しは、こちらをぎょっとさせる程鋭かった。

先ほど玄関で祖父の無言の眼差しは、私に何を見たのだろうか。


祖母はというと、流しの周りをしばらくうろちょろとしていたが、やがてやる事がなくなったのか、隣に腰かけると私の横顔を見つめて楽しそうにし始めた。物静かな祖父と世話焼きの祖母は長年とてもいいバランスで関係を保っている。


「どうやって帰ってきたの、あなたが運転したの」


頬杖をついた祖母は私に尋ねる。


「父さんが送ってくれたよ。さっき見たでしょ?」


私が言うと、祖母は「ああ、そうだったそうだった。それで仕事に戻ったんだったね」と言って笑った。


祖母の物忘れが日に日に増してきているという話は父から聞いていた。

しかし考えればそれも当然の年齢であり、毎日畑で草ぬきをしたり野菜を植えたりしていることを思えば元気な方だ。

祖母は私のすべてに興味があると言った様子で、大学でのことを尋ね続ける。その中には何度も説明したものもあったが、祖母は初めてのような反応で驚いたりして見せた。その仕草は幼気な少女のようだった。


しばらく祖母と話した後に、自室に荷物を運び入れることにした。

滞在期間は特に定めていないから、しばらく過ごせるだけの衣服と日用品を思いつくまま詰め込んで来ていた。未だに昼夜の寒暖差が激しいので、悩んだ挙句上着も数枚入れてきてある。そのおかげで旅行鞄は限界まで膨らんでいた。

重い鞄を引きずって二階に上がる。

階段を上がり奥まった扉を開けると、前見た時と全く変わらない、匂いまでそのままの私の部屋があった。

窓を開けると、ごろごろという音が突如思い出したように響き始める。

身を乗り出して空の様子を再びうかがうと、先ほどと変わらない印象の平坦な雲がごぼごぼとしながら頭上を包んでいた。なんだか雲の上に太陽が輝いているのだということを忘れてしまいそうで、どうにも胸をむかむかとさせた。

いっそ降らしてくれればいいのに、と思う。雨が降り雷が光れば、このもやもやとした気持ちの悪い予感は溶けてなくなるように思った。


私はしばらく空を睨んだ後、窓を閉じた。

しかし、ごろごろという唸り声が耳に張り付いて、窓を閉じても私の頭から離れない。

目を閉じると終わりのない坂を転がり続けているような錯覚に陥った。

祖母が階下でテレビを見ている音が聞こえる。この家の隅の部屋では祖父が鋭い瞳で何かを見つめている。

私は坂を転がり続け、終わりのない暗闇に落ちていく。





いつの間にか、ベッドで本格的に眠っていたらしかった。

辺りは完全に真っ暗で時間が分からない。

ただ、とにかく長い夢を見ていた気がする。目覚めるほんの手前で夢の記憶を置いてきてしまい、内容は断片的にも思い出せないが、さみしさとか静けさとか、漠然とした印象だけが体に残っていた。


ベッドから立ち上がって首を左右に振ってみると、自分でもびっくりするくらい大きな音が鳴った。電灯のひもを探そうとするが、久しぶりの自室で物の距離感がつかめず、手は虚空を切るばかりである。ポケットに入ったままの携帯をに気づき、時間を見ると夜の8時になっていた。かなり眠っていたらしい。父もすでに帰ってきているはずだ。

階下に耳を澄ますと、テレビの音が聞こえていた。


「あら、今起きたの」


台所の戸を開けると、祖母がちょうど洗い物をしようかというところで、父は満腹そうに椅子に腰かけテレビを鑑賞している。


「タイミング悪かったなあ、母さん夕飯温め直してあげてよ」


「はいはいはい」


祖母は一旦容器に入れたおかずを取り出して温め直し始める。魚と野菜の和え物らしかった。


「結構寝ちゃったらしいね」


父の向かいに腰かけると、木製の古椅子はぎしりと音を立てた。


「疲れてたんだろ、新幹線だってかなりかかるからな」


「新幹線ではさっぱり眠くなかったのに」


「お前は昔からそうだったよ。旅行帰りの車だってみんなが寝てる中お前だけずっと黙って景色を眺めて、帰った途端糸が切れたように寝るんだ」


「そうだったっけ」


特別記憶になかった。新幹線でも無理に寝なかったのではなく、眠れなかっただけだ。しかし確かに、目的地を待つ以外にすることが出来ないあの時間が好きではあった。取り留めのない考えが景色と一緒に流れて行って、また目の前を通り過ぎていくあの時間。


「風呂に入ってくる」


父が立ち上がりながら言う。

祖母は電子レンジの前でずっと中を睨んでいる。


「じいちゃんは」


「もう入ったよ。今は自分の部屋にいる。もう寝たかもしれないなあ」


「え、もう?」


「最近じいちゃんは暗くなったら寝るんだよ。まあ、音がしなくなって電気がついていないから、そうだろうって事なんだけど。だってほら…」


父は洗濯物の山の中から自分の下着を探しながら、背中で言う。


「じいちゃんの部屋には入れないだろ」


下着を抱えて、父が台所の戸を開けたので、奥の廊下が垣間見えた。

戸を開けた先には廊下があり、すぐ左手が風呂場だ。

風呂の戸の前で廊下は直角に折れ曲がり、奥の部屋へと続いている。

電灯をつけなければ廊下の先は真っ暗で、祖父がその先で寝ているかと思えば、その暗さと静寂は無理に押し殺したもののように感じられた。


ちょうど私の横でチーンと電子レンジが鳴り、電子レンジの前で待ち構えていた祖母は再びあわただしく動き回り始めた。





祖父の部屋に入ってはいけないというのは、我が家にとっての不文律、暗黙の了解のようなもので、子どもながらにそれを破ってはいけないということを感覚的に理解していたように思う。祖父以外の家族が、一番大きなテレビのある台所で主に談笑するのに対し、祖父は食事以外に自室を出ることをあまりしなかった。

祖母の談によると、この家を建てた30年前には今の祖父の部屋はなく、ある時思い立ったようにこの家の一番奥に部屋を増設し自室と決めたのだそうだ。


それは祖父が長年働いていた農協を定年退職し、社会とのつながりを絶ったタイミングでもあったので、祖母は特別に違和感を覚えなかったし反対もしなかったという。父も子どもながらにその祖父の気まぐれの工事を遠巻きに見ていたが、不思議なことにその部屋の中を覗く機会は今に至るまでなかったのだそうだ。


祖父はその部屋で寝起きをし、一日の大半を過ごしている。その部屋に入ることが許されるのは唯一祖母のみであり、それも朝にコーヒーを頼まれる一日一度のことである。

それは私が起きるよりも2時間は前の早朝の事なので、その瞬間を見ることはない。ただ、まだ眠りのさなかにある頭の中で、家の隅にある開かずの扉が開かれ、そして閉じられる音が聞こえることがある。祖母がコーヒーを乗せたトレイを持って吸い込まれるようにその部屋に入っていく映像が頭をよぎる。

その中での会話は聞こえない。その部屋の情景を思い浮かべることも出来ない。特別な会話はなく、ありきたりの書斎かもしれない。しかしイメージとしてある祖父の部屋は謎に満ち満ちていた。


家の中に入ってはいけない空間がある。扉の前までは行けるけれどもその扉の鍵を開ける権限を持っていない。そのような境遇の家は他にもいくつかあるかもしれないが、けれどその見えない一室に対する興味というのはいつまで経っても消せないものであるはずだ。

見てはいけないと本能的に悟る一方、パンドラの箱を覗いてみたいという欲求も湧いてくる。それは今もなお私の中にあり続けているのだ。


父が風呂に入り、祖父は寝ている。

今この空間には祖母と私のみである。私は不意に尋ねてみた。


「じいちゃんの部屋はいまどうなってるの」


昔から幾度となく尋ねてきた質問である。

祖母はその度に微笑みの中に答えをうやむやにして、ついにその様子を教えてくれることはなかった。しかし今の祖母ならいろいろなものを忘れていくと共に、この家の暗黙の了解も一瞬忘れてくれるのではないかという、いたずら心が私に沸いたのだった。

しかし答えは意外なものだった。


「最近は入ってないからわからないねえ」


祖母はいつも見る微笑みを浮かべてそう言う。しかし寂し気な印象は隠しようもない。


「入ってないって? コーヒーを毎朝持って行ってるんじゃ?」


「コーヒーには飽きた、ってね。もうだいぶ前に言われて、それから入ってない。一年以上前かもしれない、細かいところは認知症だから忘れてしまったけれど、あの部屋が今どうなってるかはおじいちゃん以外には分からないね」


私は何故だか背筋に寒いものが走るのを感じた。祖父の孤独の城が今まさに空高くに浮かび上がる幻覚を見た。私の知っている祖父の像が思い出とともに零れ落ちるような気がした。


「最近、同じ夢を見るの」


祖母が部屋の中央につりさげられた電灯を見つめながら訥々と語り出す。電灯の光を通して、自分の不確かな記憶を見つめているように見えた。


「おじいちゃんの部屋に、毎朝コーヒーを届けていたころの夢。そんなに昔じゃないけど、すごく懐かしい気がしてね。毎朝決まった時間に奥の部屋に行く、その時だけ鍵が開いていて入ることが出来て、入るとおじいちゃんが座っていて、コーヒーを手に取ってそれを飲むの。私はそれを見ている」


「どんな部屋?」


「それはもう、覚えてないわ。おじいちゃんが座っているソファだけ、ぼんやりと覚えてる。革の………、そのソファに座ってコーヒーを飲んでた」


祖母の中空を見つめる眼差しは、幼気な少女のものになっている。祖父を思い出し、その横顔に恋する少女だ。

限られた記憶の中、選び抜かれた記憶の断片は淡く輝き、光っては消えているのだろう。それは確かに美しいに違いない。





父が風呂から上がったのを見て私が交代で入ろうとすると、父は私を呼び止め、明かりもついていない廊下へと連れ出した。

私を呼び止める声は電話口で聞いた不吉な予感を孕んだ、あの声だった。


「少し話しておきたいことがある」


私は台所の戸の向こうの祖母を思った。いつ誰が消したのだったか、テレビの声は聞こえなくなっていた。

廊下で話しても多分聞こえることはないだろうが、父は玄関まで移動しようと言った。

玄関の靴箱の上には熱帯魚を数匹泳がせた水槽がある。青白いライトが水槽を照らし、暗い闇の中にぼんやりと浮かびあがっていた。名も知らぬカラフルな魚が水面と水底を行ったり来たりし、透明なエビがはさみで水草をつついている。

テレビの音がしなくなった今、この家の中で音を立てているのは水槽のポンプのみだ。


「話って何。帰省するように言った事と関係があるの」


父は水槽を見下ろしている。

顔が水面から反射した光で揺らいでいた。


「そうだな。関係がある。お前も知っておいたほうがいい」


「電話じゃダメな話ってこと」


「いや、話自体は別に電話でも構わなかった。それでも、いつ何が起きてもいいようにお前も一回帰るべきだと思ったんだ」


「ああ」


私は理解した。


「やっぱり、じいちゃんのこと」


祖父の様子がおかしい。

その傾向はここ最近顕著であり、それは誰の目にも明らかなのらしい。それはそうだ、一瞬確認しただけの私にだって様子がおかしいと思ったのだから。


祖父はいよいよ老いに向かい始めた。病気でこそないようだが肉が削げ落ちるように徐々に痩せていっているらしい。そして自室に、前にも増して籠るようになった。同じ家で過ごしているはずなのに、祖父の姿を見ることが不思議な程減っていっている。理由があって籠城でもしているかのようだと、父は言った。祖母さえも部屋に入れず、何をしているのかわからない。音もたてずに一日のほぼ全てを自室で過ごしている。夕食で家族と同座するにあたっても口数の少なさには拍車がかかり、必要最低限の食事だけ口にするとすぐに自室へと引き戻る。夕食に現れない日もあるらしい。


確かに祖父は昔から無口な質ではあった。必要なことしか喋らず、祖母が際限なく話すところにただただ耳を貸していることが多かった。一方で手先が器用であり、盆栽を長年の趣味としていた。庭先には盆栽の鉢植えを置く台が、ブロックと平板で組まれていた。

子どもの頃の私には盆栽の何が面白いのかは理解しなかったが、祖父が寡黙に鋏を入れる姿を見ているのは好きだった。パチンパチンという一定の音こそが、祖父の声と呼ぶべきものだったように思う。


帰った時にはあまり注意深く見ていなかったのだが、父の談によれば、その唯一の趣味の盆栽さえも、今は荒れ放題になっているということだった。


「でもそれは、単純に年を取ったからじゃないの。ばあちゃんの物忘れが進むみたいに、人との関わりが億劫になっていくのも別に不思議じゃないと思うけど」


私がそう言うと、父は少し考えるようにした。言葉を選んでいるときの顔だなと思う。水槽の中の魚は相変わらず浮いたり潜ったりしていた。


「そうかもしれない。とにかく心配なのは体調の事だった。徐々に痩せていくおじいちゃんに万が一のことがあっても、多分すぐには気づけない。部屋の中で急に倒れて何日もそのままなんてことにはしたくない」


父は難しそうに言う。もちろんその点を心配しているのは本心だろう。だけれどそこが一番の問題点ではないのだろうということも、話し方で分かる。


「でも、それは注意深くしていればある程度分かることだ。今すぐに問題になる事じゃない。知ってるか?今までじいちゃんは一度も病院にかかったことないんだ」


「いや、知らなかった。じゃあ…」


不思議な緊張が感が漂っていた。

父の話はなかなか要領を得ず、私はじれったくなり始めていたが、話は遠回りをしながら、ゆっくりと核心へと迫っていった。父の性格上、改まった話をすることが苦手なのは知っている。

しかし結局、父は起こったことと、その胸の内をすべて私に打ち明けてくれた。

そして話を聞いた私は父が慎重に言葉を選んだこと、実家に呼び戻したことにも納得することになる。

着いたときから背中に感じていた不吉の影が、実体を得た気がした。





それが起こったのは、今月の頭であったらしい。

春の終わりは同時に夏の始まりを予感させて、虫たちが盛んに電灯の周りを飛び回る。

父と祖母はいつものように台所で雑談をしながら、就寝前のひと時を過ごしていた。

日もとうの昔に落ち、時計の短針は10時を回ったことを示している。


その折である。不意に玄関の戸が荒々しく開く音がした。


父はこんな時間に来客かと驚いた。祖母の耳にその音は聞こえなかったが、父が戸が開いたことを言うと鍵は閉めたはずだと言った。しかし数瞬考えた後に、やっぱり閉めなかったかもしれないと思い直し、結局よくわからなかった。


顔を出して玄関を覗いてみる。

玄関は乱暴に開かれたまま、あたりには誰もいない。

玄関の外は真っ暗で何の気配も感じない。


家の中に何かがいる様子はないが、父と祖母は警戒しながらすべての部屋に明かりをつけて回った。しかし結局は、なんの異常もなかった。


二人は顔を見合わせた後、つれだって外に様子を見に行くことにした。月も星も見えない、曇り空の夜だったそうである。

しばらく二人は何か変わったことがないか探して回った。辺りを懐中電灯で照らして見るけれども、やはり何一つおかしなものはない。聞こえるのは虫の声と、遠くで吠える犬の声ばかりだった。しかし戸が自然にあんな開き方をするとは思えないがと、ますます首を傾げる。


その時である。

懐中電灯の光はこちらに駆け寄ってくる人影を捉えた。父は身構えたが、果たしてそれは我が家から少しばかり下った所に住む老人であった。

老人は息を切らし、彼の家がある方向を指さしている。


「どうされました」


父が老人の肩を取り、さすりつつ尋ねると老人は切れ切れに言った。


「お宅のおじいさんがね、川に降りて、刀を振り回して叫んでます」


父の驚きたるや如何ほどであっただろうか。その情報は、あまりに祖父の人物像とかけ離れていた。しかし知らせてくれた老人の様子から見るにそれは本当らしい。


父は玄関の開け放たれたのを振り返った。

あれは祖父が玄関から飛び出していった音だったのだと、そこで初めて思い至った。遠くから聞こえていた犬の遠吠えのようなものが、突如全く違うものに聞こえだした。

父は一直線に坂を駆け下りた。

川べりに着くと、祖父が川の中で草を踏み分けながら奇声を発しているのがすぐに分かった。日本刀を振り回し、振り回すたびに草が切れて辺りに舞っていた。

暗がりの中ではっきりとは見えないが、途轍もない形相であることが分かる。奇声を聞きつけた人々が少しずつ集まり、そしてその姿を見て言葉を失っていた。

父さえもしばらくは言葉を失い、その姿に見入ってしまったくらいだった。やがてはっと我に返って川の上に架かる橋から「父さん」と声をかけた。祖父はその声を聞くや、ぎゅるんと首を向けて父を睨みつけた。その目は明かりのない暗闇の中にも、獣のように光を持っていたという。

そして祖父は突如、電源のコードを引き抜いたように、もしくは憑き物が落ちたようにして、その場に腹から倒れ伏した。

辺りは再び静寂に包まれ、祖父の周りを少し早い蛍が数匹通り過ぎていった。





私は風呂に顎までつかりながら、父の話を反芻していた。

祖父が起こした事件は私の頭の中で像を得て、暗い夜に祖父が白い肌着で飛び出していく様がありありと浮かぶ。

分からないのはやはり、振り回していたという日本刀である。倒れた祖父から取り上げたそれは紛れもない真剣であり、しかも素人でもわかるほどに切れ味が鋭かったという。私はもちろん、父もそんなものが我が家に保管されていることは知らなかった。


祖母は運ばれてきた祖父を、不思議な目で眺めた。その時祖母の中にどのような感情が浮かんだのかは想像をつかないが、とにかく祖母は今回の件の話を、外国の知らないおとぎ話でも聞くかのように頷きながら聞いて、そしてついに祖父について何も述べることはなかった。しかし父が持て余すようにしている日本刀を指さして一言「懐かしいねえ」と言ったのだそうだ。


風呂に入っていても何故か体の芯が冷えて温もらなかった。お湯を継ぎ足しても、外側に触れるだけで内まで届かず、すぐに水に戻ってしまうような気がした。

取り付けられた丸い電灯は頭上からオレンジ色の光を落としている。その周りを、小さな名もない虫が一匹だけ円を描いて飛んでいた。


日本刀はこの家を建てる前、祖父と祖母が住んでいた家の床の間に長年飾られていた物だそうだ。最近の事は記憶から抜けても過去の記憶はまるで色褪せないらしく、祖母は刀を撫でながら淀みなく語り出した。

祖父の家系は、鎌倉時代から脈々と続く武士の血筋であった。特別に名立たる名将もいなければ、語るべき英雄的談話もない。戦国の世に数多命を散らしていった名もなき雑兵の一人一人だったようだが、それでも、不思議と血は途切れることなくこの私にまでつながっている。私も父も今までそんな話は聞いたこともなく、急に自分の血に名も知らぬ武士の血が混ざっていると言われても実感などなかった。


そして我が家系には血筋と共に受け継がれてきた刀剣がある。それがどの時代の誰が使っていた物か、武功に対して与えられた恩賞なのか、そうでないのか。その細かいところまでは祖母も知らない。


ともかくその由緒も分からぬ日本刀は、祖父と祖母が前に住んでいた家の床の間の刀掛けに長らく飾られていた。そしてそれは引っ越しの機に見えなくなった。祖母はそのことを特別意識しなかったという。どこかに紛れて、物置の奥にでもあるのだろうと、何となく頭の片隅で思っていた。


つまり、その刀は祖父が保管していたという事らしい。

父の談による切れ味が良いというのは、手入れを欠かしていなかったという意味だろう。


この家の隅の開かずの間に日本刀が飾られ、祖父が手入れをしている姿が浮かんだ。祖父はこの家に引っ越して来た時から日本刀を隠し持っていたのだ。何故祖父がそうしたのかは、想像も及ばなかった。


そう言えば、と思う。父はその一件の後、問題の刀をどうしたかを言わなかった。祖父から没収したのだろうか、それとも返したのだろうか。

倒れた祖父が起き上がった時、一体どのような様子だったのだろう。

祖父は自分がした所業を覚えていたのだろうか。

風呂からあがって父に尋ねてみようと思った。


私はいつまで経っても温まる気がしない風呂に入っていてもしょうがないと思い、ようやく立ち上がった。その反動で水面が波立ち、湯気が立ち籠り風呂場をうごめいた。そうして私は戸を開けようと振り返る。


その時、戸の向こうに人影があることに気が付く。


いつからいたのだろうか、その人影は磨りガラスの向こうで真っすぐとに向かって立っている。私はそれを見て固まってしまった。脱衣所の青白い蛍光灯の光が、その人影を温度のないものとして見せていた。しかし恐怖は感じない。


「おい」


人影が口を開く。

それは私にとって久しぶりに聞く声、そして言葉であった。


「蛍を見に行くぞ」





最後に祖父と蛍を見に行ったのはいつだっただろう。

確か中学生の始め頃までだったように思う。私は祖父が気まぐれに声をかけるのを待つだけなので、ある時以来蛍を見に行かなくなったのはつまり、祖父が私を誘わなくなったからだ。

何か特別なきっかけがあったのか。

それとも私が蛍にはしゃぐ歳ではなくなって、自然と立ち消えになったのか。


特別これが最後だと明言してやめになったのではなかったと思う。ある時になってふと私が気付いたのだ。

「ああ、あれはもしかして最後だったのかもしれない」と。

全ての人が成長する過程で気づくことに、私はその時気が付いた。人生で経験する物事の多くは、こうして何も告げずに終わってしまうことに。





玄関には既に鍵が掛けられていた。

祖父は鍵を音を立てて開けると、私が靴紐を結ぶのをちらりと振り返った。そして早く来いという素振りをして、外に抜け出していく。

祖父が明けた引き戸の隙間から、夜の風が流れ込んで私の頬を撫でた。それはやはり雨の気配を含んでいた。


靴紐を結ぶ。祖母と父は台所にいるだろう。私が祖父と出掛けることに、きっと気づいていない。幼い時の小さな冒険を思い起こした。私は昔のように立ち上がり祖父の背中を追う。


戸の音を立てないように外に出た。


外は案の定、曇り空に覆われた明かり一つない闇だった。しかし、ゴロゴロと唸っていた空はいつの間にか押し黙っている。見上げてもそこには何もなく、雲も星も月も一切の存在を隠して、ただ奥行きのない暗闇だけが私と祖父を見下ろしている。


祖父の背中は私の記憶よりも小さくなっていた。背筋が曲がり、骨が浮き出ている。話に聞いた祖父の事件は、どうしてもこの背中とは重ならなかった。目の前にいるのは、あくまでも年老いただけの私の祖父であった。

だからこそ衝動にも駆られる。

何故部屋に籠っているのか、あの夜に何があったのか。私は思い切ってそれを尋ねてしまおうか迷った。

しかし結局、私は尋ねることが出来なかった。

私の中に渦巻く感情は、喉まで出かかっては引っ込んでしまう。

もし今口を開けば、祖父と私の間を為す致命的な何かを失ってしまうような気がした。

祖父は暗闇の中を迷いなくかき分けていく。私は昔と変わらず、それに着いていくだけだった。


うねる坂を下り、広い道に出て、車道を横切り草むらを踏みわけてさらに降りる。水の音が近づくと、同時に川の匂いがした。

川の匂いは雨の匂いと交じり合う。暗闇の中にあるはずの山々が確かにこちらを見ているのだと分かる。私の周りを覆う全てのものが混ざりあってひとつの空気を生み出していた。

それは脳裏にある、一度忘れた記憶を揺り起こそうとしている気がした。

何かを思い出しそうなもどかしさが胸に沸いている。

坂をゆっくり下る私と祖父の横を、蛍が一匹二匹通り過ぎるのを見た。淡い光が祖父の横顔を時折浮かび上がらせた。そして何もなかったように暗闇が舞い戻る。


刹那に見たその顔は、次の瞬間には果たして本当に祖父のものだったのか分からない。

再び闇に姿をうずめ黙々と歩く祖父は、私が見た横顔を今もしているのだろうか。蛍が通り過ぎる。光って消え、消えては光って何かを求めて飛んでいく。祖父の顔がその一瞬の光に当てられて、像を得て、そして失う。


川べりに着き、祖父が立ち止まった。

続いて私が横に並ぶ。

私たちが見た光景は、幼き日の冒険の果てに見た光景と全く変わりがないものだった。


まるで、うねる一つの生き物のようであった。蛍の光は暗闇の中で無数に点滅し、あるはずの川の姿を私たちに教えていた。それは遥か遠くまで続いている。

それぞれが不規則に飛び、お互いに着きも離れもしない間隔を保つ蛍たちは、しかしゆっくりとどこかへ向かうように見えた。この川に元々住む大蛇が夜に目を覚まし、身をよじりながら水路をさかのぼっているかのようだ。

美しい光の点滅は今も昔も変わらずそこにある。かつて少年は目を輝かせてこの光景を見ていたはずである。その時の私は憂いも知らぬ無垢の塊だったはずだ。

10年の時を隔てて私は今、かつてそうしたように祖父を横目で見る。


私は不意に、ある記憶を取り戻した。


祖父と最後にこの場所に来た日の事だ。

そうだ、私はその日、珍しく祖父が私に語り出したのを不思議な目で見つめていたのではなかったか。





「この土地はかつて源平合戦があった折、兵士たちが敗走した末、行き着いた場所だ」


祖父は唐突に子どもの私に語り出した。

当時の私に源平合戦などと言われてもピンとくるはずもない。しかし祖父は私の反応を待っている様子はなく、ただ語るべきことを語るべきままに語っているという風だった。なので私も、横顔を見つめたまま何も言わなかった。


源平合戦とは6年間にわたって起きた古代最後の内乱である。以仁王の挙兵をきっかけとし、源氏と平家の二大勢力は日本各地に舞台を移しながら戦を行った。時に平家が橋を挟んだ大合戦に打ち勝ったかと思えば、ある時は源氏が平家の背後をついて敗走せしめた。

まさしく一進一退の攻防の果て、かの有名な壇ノ浦の合戦で海上戦を制した源氏が、長きにわたった戦に終止符を打つことになる。長い合戦の中にどれだけの命がぶつかり合い、どのように散っていったのかは分からない。

歴史とは常に勝者が結果を記すのみである。 


しかしその夜の祖父は、まるで今まさに合戦を目の当たりにしているかのように語っていた。話の内容をその当時の私は半分も理解しなかったが、祖父の話しぶりが次第に熱を帯びてくる事には気づいていた。

寡黙な祖父は段々と鼻息を荒げ、興奮し、怒りに震えてさえいる。語る弁に合わせて橋の欄干には祖父が固く握りしめた拳が叩きつけられ、ともすれば勢い余って飛び込むのではないかとさえ思われた。

 

源平合戦には本来、今なお語り継がれる多くの武将智将が登場するはずだ。その登場人物は戦いという非日常の中で劇的な死を遂げて、歴史に名を刻んだ。


平氏追討に立ち上がった僧兵たちを見て、後白河法皇を政務に置き東大寺や興福寺などを焼き払った平清盛は、権威維持のため奮闘するさなかに高熱を発して死んだ。その死は仏罰であるという噂が流れた。

壇ノ浦の戦いでは八艘飛びと称されたほどの大立ち回りを船上で演じて見せた源義経も、数々の奇襲戦法や船の漕ぎ手を弓で射させた戦い方が合戦の作法にあるまじきものだとして、味方によって失脚させられた。


しかし、そのように歴史に彩られた死の裏には、名もなき兵士何万人の命がある。一人では歴史を動かし得ない些細な力は数を得て時代の奔流に乗り、そして同じように散っていった。


戦いの果てに勝ち残った者が生き残る。それは当然である。しかし反対に、負けて死にきれずに逃げ延びた者もいるはずであった。

祖父が語るのはそうして逃げ延びた者たちの事であるらしかった。


激しい戦場から落ち延びた者たちは、野とも山とも知らぬ道を駆け抜けた。ある者は道半ばで死に、ある者は背中を切られながら、命一つだけを抱えて武士たちは各地へ散り散りになった。祖父の話を信じるならばこの場所もまた、傷ついた兵士が辿り着いた名もなき土地のひとつなのらしい。


「平家の落人」と呼ばれる人々が存在したことは、確かに各地の伝承に残っている。

私はその存在を歴史小説の中で一度目にしたことがある。これは今の今まで忘れてしまっていた事だ。


平家の落人とは、主に敗け方、平家一門及びその郎党、平家に与した者たちが源平合戦から敗残した者の内、僻地に隠遁した者達を指す。世間から隔絶された状態で集落を形成し、俗世の全てを捨てて隠れ住んだ。その集落は時代の移り変わりとともに村となり、町となった。

しかしそれらの伝承は、信憑性のない不確かなものである。時代を経て脚色や誤伝が繰り返され、その存在が半ば伝説的に伝わるのみで、真実は時代という大いなる闇の中だ。


祖父はどうして時代に飲み込まれたはずの敗者の歴史を知っていたのだろう。

どうしてその目で見たかのように語ることが出来たのだろうか。

分かることは、その日を境に祖父が私を誘わなくなったという事だ。

今思えば敗者の物語を熱を込めて語るその姿こそ、祖父が初めて見せた祖父らしからぬ一面だったように思う。


祖父は今自室に隠れ住むようにしている。密かに刀を手入れして、夜半に抜け出して奇行に及ぶ事件が起こった。

私には急にそれらの突拍子のない情報が、繋がりある事のように思われ始めた。

そして今夜、祖父は私を再び蛍を見に誘った。

蛍は私と祖父の前に無数の光を見せている。

光を灯し、揺らぎ、消えてゆく。





祖父が突如、音を立てたのに私は驚いた。

記憶がずるずると引きずり出され、それに辻褄をつけるために、私の思考はこの場から離れていた。それがふっと体に戻った気がした。記憶の中の光景と同じように、蛍は不規則に宙に光の線を描き続ける。その光景は思考と現実とを、過去と未来とをないまぜにして、今目の前に同時に見せているようだった。


祖父は欄干に異常に身を乗り出していた。

身を乗り出して、川の中を漂う光の中にある何かを見つめていた。


「じ、じいちゃん」


私は落ちてしまいそうな祖父の肩を掴んで、驚いた。

掴んだ肩に入っている力は、老人のそれではない。筋肉が盛り上がり、私の手の下でうごめいているような感触がある。欄干は固い爪にひっかかれて嫌な音がする。窪んだ眼は見開かれ、私には見えない何かを見ている。いつからかまた、頭上で雷の音が鳴り出したことに気が付いた。一体いつから鳴っていたのだろう。


「離せ」


祖父は唸るように言う。それは記憶の中の声でも、風呂場で聞いた声でもない、獣のような声だった。私はその声にひるんで、つい肩を抑える力を解いてしまう。


「お前に分かるかこの無念が。それが武士の精神に反しても、恐ろしくて戦場で死ぬことが出来ない。逃げ傷を負っても生き延びてしまう。死にたくないと怯えて、誰にも見つからぬように隠れ住む。しかし夢の中でだけは戦場を思い、奴らを切り伏せて勝鬨を上げる夢を見る。恐怖と憧れが心と体の間で相反して、矛盾の中で生き、そして死ぬ」


まるで自分の事のように祖父は語るそれは、私の頭に上手く入ってこない。まるで呪いの呪文でも聞いているように意味が通り過ぎて、負の感情だけが伝わってくる。


突然、祖父は私の腕を振りほどいて、弾いたように走り出した。

しかしそれは川ではなく、家の方向だ。

私は間抜けにもその背中をしばらく眺めていた。そしてその背中が闇に消えてから、ようやく思い出したように追いかけなければと気づいた。

掛けていく祖父の足音は凄まじい速さで離れていく。私は全速力で追いかけた。それでも不思議なことに足音は離れて行って、やがて雷の音に紛れて聞こえなくなった。


しかし、私は頭のどこかで大丈夫だと思っていた。

祖父が一直線に駆け上がり、向かっている先は我が家である。家には父と祖母もいるし、すぐに様子がおかしいことに気が付くだろう。私は足を緩め、乱れた息を吐きだした。

そして家のある方向を見る。

家の明かりが見える。しかし未だ祖父の部屋には明かりも動きもない。頭では大丈夫と思っても、私の背に降る不吉の影だけは振りほどきようがない。

直感は私に走るように急かした。


私はまた駆け始める。しかしもう追うべき背中は見えない。足元も見えず、今どこを走っているのかわからなくなる。宙を蹴っているように実感がない。しまいには今上がっているのか下っているのかさえ分からなくなる。雷の音が頭上で聞こえていて、私は昼に眠りに落ちる前に見た幻影をまた見ていた。終わりのない坂を転がり落ちる。その先には何もない。





家に着くと私の顔を照らす光がある。父が玄関の戸口に立って、顔を真っ青にしながら懐中電灯を左右に振っていた。

父は私の姿を確認すると、駆け寄ってきて「じいちゃん見なかったか!」と言った。


「え、今、帰って来たんじゃあ」


私は息を整えながら玄関を見た。

玄関の戸は開け放たれたままだ。


「なに? そうか、じゃああれは玄関の中に入る音か」


父は振り返りそう言って、家の中に引き戻した。

すると、入れ替わるように祖母が玄関から顔を出した。


「どこに行ってたの、夜に出歩いたら危ないわよ」


眉をひそめて言う顔は、偏に私を心配していた。


「じいちゃんと蛍を見に行ってたんだよ、そしたら急にじいちゃんが」


祖母はそこまで聞くと納得したように頷いた。

そして気の抜けた質問をする。


「そう、蛍がもう出てるんだね。どうだった? いっぱいいたの?」


「いっぱいいたよ、綺麗だった」


「それはよかったね」


祖母は場違いな微笑みを浮かべた。


「おじいちゃんは昔から蛍が好きだったからねえ。飽きずにいつまでも眺めてたの」


私は祖母の肩に手を置き、頷いた。でも、心の中では違うと思っていた。

祖父は蛍が好きだったんじゃない。蛍の光の中にある別のものを見つめていたのだ。祖母は見た事がないのかもしれない。祖父の、祖父ではない一面を。


「そう、おじいちゃんは?」


祖母は聞いた。そして首だけ玄関から出したまま、辺りを見渡した。


「あらあら、雷が鳴ってる。雨でも降るのかしら。外に出てたら心配ねえ」


「いや、家に戻ってると思うよ。先に帰ったから」


「へえ」


祖母は不思議そうに私を見た。「先に帰ったの」と私の言ったことを繰り返し呟きながら、家の中にゆっくりと引き戻していった。

祖母と話してすっかり気が抜けてしまったが、玄関を開けた音がしたという事は、祖父はやはり家に帰って来たという事だ。明らかい様子はおかしかったが、父から聞いていた範疇だと言えばそこまでなのかもしれない。

そう言えば家を抜け出してから帰るまでにどのくらいの時間が経ったのだろう。時計が見たいなと思いながら家に入る。すると、見計らったように大きな音を立てて父が廊下を引き返してきた。


「おい」と私に叫んだ。それは父の普段の様子とは違う。明らかな異常事態が起こったことをその表情は物語っていた。


「来てみろ」


そう言うと父は祖父の部屋の方にまた引き返していく。私はその後を追った。

祖母だけが不思議そうな顔を浮かべている。


玄関から廊下を進み、風呂場の前で直角に曲がる。

オレンジ色の電灯が頭上にぶら下がり、両方の廊下を照らしている。

そして廊下の奥で父が手招きした。廊下の奥にはもちろん、祖父の部屋がある。

と――、私の足が止まる。


父が指し示す先の、祖父の部屋の扉。

その扉が開け放たれている。


「鍵が開いてた。でもじいちゃんはいない」


父はそう言う。

奥の間の扉が開かれてるのを見るのは、父も初めてのことだろう。さすがに戸惑いを隠せない様子だった。

それまで長らく錠が掛けられて開くことのなかった扉は、今や容易く口を開けて手招きをしている。

これが一体何を意味するのか、私には分からなかった。

しかし、この部屋に入れば我が家の禁忌は侵されてしまうことになる。誰もが黙って明言しなかった暗黙の了解は、今終わりを告げているのだ。

私は不思議と妙な高揚感を持っていた。


「入るぞ」


「うん」


足を同時に踏み出した。ギシリ、と床が鳴る。


「これが、じいちゃんの部屋……」


私はしばらく、突如現れたまるで見慣れない部屋を眺めていた。

それはごく普通の書斎だった。窓とカーテンが閉められ、全てのものは整然と並んで沈黙していた。赤色の絨毯が敷かれ、部屋の四方を囲む書架には題名もかすれた本が並んでいる。

ふと廊下の向こうから祖母の声がした。


「やっぱり雨が降ってきたみたい」


この部屋の扉が開かれていることに気付いていないのだろうか、間の抜けた調子で独り言を言っている。私はカーテンの奥を見つめた。言われてみれば確かに雨音が聞こえる。その音はにわかに強くなってきているようだ。溜め込んでいた雨が、ついに堰を切ったように地に流れ落ちたのだ。

祖父はいったいどこに行ったのだろうか、川からここに戻ってきた祖父はこの部屋に戻ってきて、それから?

またこの部屋から外に出て行ったのだろうか?それはまたあの川に向かってだろうか?

私にはどうもそうは思えなかった。窓の鍵は閉められて、カーテンも閉じている。

祖父は全く以て消え失せたと言う方が、事実に即しているように思えた。





祖父の部屋は埃の匂いのする、しかし整頓された部屋だった。

部屋は二面を書架に囲まれて、部屋の中央には祖母の言っていた緑色の革のソファが置いてある。床に敷かれた赤い絨毯はところどころ日に焼けた跡や染みがついていて、確かに祖父がこの場所で時を過ごしていたことを物語っている。開かずの間も鍵を開けてみれば、何のことはなかった。


変わった点があるとすれば、書架に入っている本はどれも出版されたものではなく如何にも時代がかった書物であったという事だ。紙を触ればそれだけで破れ落ちてしまいそうな古い本。それらは全て、私には読めない難解な文字で記されている。

全てを開いて読むわけにはいかなかったが、この部屋に並ぶすべての本が同じようなものらしかった。


そしてもう一つ、扉から見て対角の位置に大きな箪笥があった。それは人一人なら問題なく入ってしまえるくらいの物で、私はもしかしてと思いそれを開いた。

しかしその中には何もない。ろくに衣服すら入っていなかった。

だが衣服の代わりに、見慣れない木と板が組まれたものがある。それは本来箪笥に入れるような物には見えず、私はそれを見て首をかしげる。

隣で父が唸りながら、顎をさすった。どうやら父にはそれが何か分かるらしかった。


「刀掛けだ、これは…」


「刀掛け?」


「その名の通りさ、刀を掛けるための物。ここにこうしてほら、上段と下段」


「刀って言うと…」


祖父が先日川べりで叫んで振り回した刀は、ここに納められていたという事か。先祖から受け継がれたという由緒不明の刀。


「あの日祖父が振り回した刀は私が預かったんだ。もう一度あんなことがあったら、次は怪我人が出るかもしれないから」


「ああ、ならいいのか」

私がそう言うと、父は眉を顰める。


「いや、違う。これは二段掛けだ。一本だけ置くなら一段掛けだろ。ここには二本の刀があったんだよ」


私はそこでようやく父が言いたいことを理解する。祖父は刀を二本持っていたのだ。先日振り回したのはそのうちの一本で、今は父が持っている。しかし、刀はもう一本あった。そしてあったはずのその一本は無くなっている。


「やっぱりどこかに行ったんだ。この部屋にいないなら、探し出さないと」


私はそう言った。

父はしばらく刀掛けを見つめていたが、やがて強く頷いて再び玄関へと向かう。

だけれど考えてみれば心当たりはあの川しかない。我々は祖父が行きそうな場所を他に知らなかった。もし川べりにいなければ、その後我々は一体どうすればいいのだろう。

その不安は口にはしなかった。言っても意味がないと知っていたからだ。


再び引き返してきた私たちを見て驚くをぼを横目に、私と父は駆け出して、履くものもとりあえず玄関の扉を開く。


しかし、私と父を押し戻したのは轟音であった。

轟音と、そして閃光である。

勢い余った我々は危うく転びそうになり、なんとか玄関の縁にしがみついた。その轟音の正体が雷の音であることに気が付いたのは、耳に残った強烈な余韻が消えてからだった。





警官たちがこの家にやってきて、そして立ち去った後、父は自らの部屋から日本刀を携えてきた。雷雨の中訪れた熱心な警官たちには、存在を語らなかった物である。


実際警官たちの事情聴取はごくわずかなものだった。心当たりのある場所、ここ最近の様子を聞いた後に彼らはこう言った。


「この雷雨の中、しかも真夜中に本格的な捜索は出来ません。唯一おっしゃっていた川べり付近にだけ人員を少し向かわせましたが、おじいさんらしき姿はないと報告がありました。今日、これ以上我々にできることはありません。明日雷が止み次第捜索を行います」


そして何事かを無線に伝える。必要事項のみを簡潔に伝える警官の様子は頼もしく、彼ら以上に私たちが何かを出来るとは思えなかった。

そして玄関を出かかる警官は「くれぐれも勝手なことはしないように。心配なのは分かりますが」と、念を押して帰って行った。

言われなくてもこの雷雨の中飛び出していく勇気は私にはなかった。雷と雨は弱まる気配を見せず、繰り返し轟音と共に地面を揺さぶった。雨は雷と共に滝のように降り注ぎ、地面を打つ音は止む気配を一切感じさせなかった。


父が刀をテーブルの上に置くと、ごとりと言う無機質な音がする。

黒塗りの光る鞘に納められ、抜く前から異様な雰囲気を纏っている。時代がかった日本刀が台所テーブルに乗っている様子は如何にも不釣り合いだ。

祖母はと言えば、警察を遠巻きに眺め彼らが帰ったのを確認すると、二階の自室へと静かに引き返していった。きっと、もう寝てしまっているだろう。


私は日本刀を手で持ってみる。私が日本刀の柄を持つと鋼が軋んでミシリと言う。それは思っていたよりはるかに重かった。これを祖父は振り回していたのかと思うと、まったく信じがたい。橋の上で私の腕を振りほどいた姿を思い起こした。


「抜いていいの?」


私が聞くと父は静かに頷いた。同時に雷光が迸り、わずかに遅れて家ごと揺れる雷鳴が響く。吊るされた電灯は揺れながら、時折点滅した。


蛇が鳴くような音をさせながら、真夜中の台所でその刀は刃を見せる。蛍光灯の光が露わになった刃に反射してぬらぬらと光った。とてもその刃先を触ってみる気にはなれない。それほどにその刀の刃は綺麗に研がれていた。

私は宙で小さく振ってみる。

その後に引かれる切っ先の光の残像が、祖父と見た蛍の光と重なった。


「じいちゃんと蛍見に行ってたのか」


父はコーヒーを啜りながら、剣の切っ先をぼんやりと眺めていた。

私は頷く。


「久しぶりじゃないのか。小学生のころまではよく行ってたのを知ってるけどな」


「そうだね。10年ぶりだった。何で今日突然誘ったのかは分からないけど」


「なんか話してたか」


父は私より前に、祖父の様子がおかしいことに気付いていた。しかし結局、祖父本人からは何も語られずじまいだった。

刀の存在もついこの前まで知らなかったし、この土地が平家落人の村落を発端とするらしいという祖父の談もまだ知らない。


父は祖父が部屋に籠る背中を見て何を思っていたのだろう。祖父の知らない素顔を見たい、と思っていたのではないか。長く溜め込まれたそれは私の思いよりもはるかに強いはずではないか。物静かな父は穏やかな表情の中に、今何を思って、私を見つめているのだろうか。


「話してたよ。様子は明らかにおかしかった」


私がそう言うと、父は分かり切っている様子で頷いた。

祖父の話をしなければならない。しかし祖父の様子をどう話したものかが分からず、しばし逡巡した。危なっかしく刃を光らせる刀。その刃は鏡のように私の姿を映し出す。時折、はるか昔のこの土地の姿も映し出しているようにも見えた。

雷雨の夜に台所で父と二人話している状況は、なかなかの非日常と言っていい。二人の間の日本刀がその非日常を象徴しているように思えた。

電灯が雷のために点滅する。電灯の光は父と私の姿を照らしたり隠したりした。


ふと、雨から逃れたように一匹の蛍が部屋に舞い込んできた。この雷雨でどの戸も閉め切られているにもかかわらずである。どこから来たのだろう。蛍は私の持つ刀の切っ先に、しがみつくように止まった。


蛍のか弱い光は、蛍光灯の光に容易くかき消される。父はその蛍をうつろな目で眺めていた。しばらく二人の沈黙が部屋を支配する。

父がふと思い出したように呟いた。


「ヘイケボタルだな」


思わず、父の顔を見る。

私の思考に一本の線を引く言葉だと、何故か確信していたのだ。


「なんて言った?」


「それ、良く見るやつより一回り小さいだろ。それに背中の模様がちょっとだけ違うんだ。ゲンジボタルじゃなくてそれは、ヘイケボタル」


「………」


「この辺りはさ、ちょうどゲンジボタルとヘイケボタルが入り混じって飛んでる地域なんだよ。まあ、どっちも似たようなものだから、光って飛んでるのを見たら違いなんて分かりはしないけど」


父は私が深刻そうに眉間にしわを寄せだしたのに気づいて、椅子から少し体を起こした。


「どうした?」


私は沈黙の末に言う。


「ごめん、一晩考えさせて欲しい。まだ上手くまとめられないんだ」





私は窓を打つ激しい雨の音を聞きながら、眠れないままにベッドに横になっていた。

目を閉じると外の暗闇が瞼の裏に映し出され、時折引き裂くような雷光が上から下へと貫かれる。その暗闇の中に、ついさっきまで祖父と並んで立っていた橋の欄干が浮かび上がり、下を川が流れていることを感じる。


そう言えば、あのうねるように光っていた無数の蛍はどこへ行ったのだろう。

雷雨に怯えて、葉の下に隠れたのだろうか。

あんなに飛んでいたのに、蛍の気配は私にはもう感じられない。


ゲンジボタルとヘイケボタル、よく似たそれらは混ざりあい、ひとつの光の渦を生み出していた。私はそれを知らずに眺めていたけれど、祖父はきっと知っていたに違いない。

そして、その中に人々の魂を見ていたのではないか。

光っては消え、消えては光るそれはまさしく、源氏と平家が入り乱れ命を散らしていった合戦だ。逃げ延びた人々の魂は夢の中で戦場を思い描いた。行き場のないその思いはか弱い光となって彷徨い、そしてこれからも彷徨い続けるに違いない。


ドオン、とひときわ大きな地鳴りが響いた。私が寝ているこの家も頼りなく軋み、いつ崩れ落ちてもおかしくないような不確かなものという気になる。


開かずの間の光景が浮かぶ。祖父がこの家に移り住んだ後にほとんどを過ごし、他の物事から隔絶し、隠れ住んでいたあの部屋。あの部屋に鍵がかかることは、もうない。

戦場へと戻っていったのだ。そして決して帰ってこない。

この土地に逃げ延びた兵士たちの戦場を夢見て諦めきれない思いは、1000年と言う長すぎる時間を経ても血の中を流れ続けた。溜め込まれた矛盾した情念はついに耐え切れずに堰を切り、流れだした。


寝返りを打つ。


体を漠然とした疲れが支配するものの、頭はなかなか私を寝付かせてくれなかった。半日で知った多すぎる物事が、ようやく一本の糸の上に並んだ。

祖父が刀を振りかぶり叫びながら、無数の魂の一つとなって何かに向かっていく姿が見える。その魂は光って消えることを望んでいるのだ。祖父が蛍の光の中に見ていた光景が、今私にも見えていることを確信していた。


胸をある種の憧れがよぎる。

私はその戦場で命を散らす姿を見て、心のどこかで羨ましいと思っていた。そして高揚していた。その輝きは私が望んでも得ることの出来ないものだ。


寝返りを打つ。


窓の外の雨音は途切れることがない。瞼の向こうで強烈な光が輝き、轟音がする。

私はもはや祖父の無事を願ってはいなかった。

祖父の宿願はもはや達成せしめられたのだ。この先はもうない。祖父はもう帰ってこない。

警察は明日から捜索を行うだろう。しかしもはや祖父はどこにもいない。

父には明日全てを話そう。父はすべてを知ったのちに、静かに頷くのだろう。

祖母は祖父が帰らないと知ってどう思うのだろう。いや、祖母はとうの昔に知っているのかもしれなかった。何故だかそんな気がした。


そこまで考えてようやく眠りに着けそうな気がした。

眠る直前で色々な事が思い浮かび、蛍の光のように行き場を探しながら通り過ぎていった。

そして私は再び、長い夢を見る。





次の日の夜、私は父と並んで橋の上に立っていた。

昨日まであれだけ飛んでいた蛍は、今日は一匹も姿を現さなかった。私たちの目の前にはただただ際限なく続く暗闇がある。その代わりと言うように、頭上には星空があった。


あれほどひどかった雷雨は、私が起きた時には全てが嘘のように上がっていた。朝早くから我が家を尋ねてきた警察は、家の中や祖父の部屋を少しばかり調べていたが、何かの手がかりを見つけたとは思えなかった。

父は祖父が川べりで刀を振り回した日の事を警察に話したが、よくある老人の深夜徘徊の中の一つとしか捉えられなかったようだ。そうではないと知っているのは今や、私と父、そして祖母だけだ。


警察は周辺の民家にもいささかの聞き込みをしたようである。しかしあのひどい雷雨の中、不審な音を聞いた者などあるはずもなく、また激しく地面を打った雨は足跡を含んだすべての痕跡を流し去ってしまっただろう。

警察は眉を顰め、最悪の事態を想定したほうがいいと断じた。

最悪の事態とは、祖父の死だろう。しかし私は、祖父の遺体が見つかることなど永遠にないと知っている。

祖父の魂は蛍になったのだから。


「呼び戻してくれてありがとう、もし昨日この家に着いてなかったら、何も知らないままだったと思う」


「こうなると思って呼び戻したわけじゃない。礼を言うなら俺の方だ。お前が帰らなければじいちゃんの素顔は多分、分からないままだった。じいちゃんは昔からお前が好きだったからな」


「そうだったっけ」


心当たりがない。

祖父はいつだって寡黙に私を見つめていただけだ。


「そうさ、さすがのあの人にとっても孫は可愛かったらしい。俺は昔からあの人の事がよく分からなかったよ。喋らないからなにも伝わらない、通じ合えないと思ってた」


父がどんな顔をして話しているのかは分からない。

星空も表情までは照らすことは出来なかった。


「お前が羨ましかった、というのが本心だ。お前は何も喋らずともじいちゃんと繋がり合ってる気がした。親子の俺たちよりもその絆は深く見えたんだ」


「………」


否定はしなかった。事実そうだと思ったからだ。

しかし今や二人の間に僻みも優越もない。全ては終わったことだった。


父は右手にずっと携えていた例の日本刀を掲げた。

暗闇の中でそれがかちゃりと音を立てる。


「警察はこの川は何往復も調べたはずだな」


父は確認するように言う。


「だって他に心当たりの場所を言わなかったからね。でもこの付近にはいないと結論付けたみたい。明日からは山に痕跡がないか調べるって」


「じゃあいいか」


「いいと思う」


父は振りかぶって、刀を川に投げ入れた。それは高く育った川の草むらの中に着地し、刃がこすれる音を立てて身を隠した。それは父なりの、祖父への手向け、そして祖先への手向けだった。


その刀が人目に触れることのないように願う。

暗闇に刀が溶けて、銀色の淡い光の粒に変わる様を思い描いた。

それはきっと音もなく浮かび上がり、無数の光のひとつとなる。


私と父はそれ以上の会話をすることなく、足元を流れる静かな暗闇を、いつまでも眺めていた。


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