一過

生津直

一過



 ようやく気が付いた。私、これから一人暮らしするんだ。しかも、生まれて初めて。


「何かあったら、いつでも連絡くださいね」


 めいにそう気遣われるまで、意識しそびれていた。考えてみれば、私が実家を離れたのは結婚中の四年間だけ。


 骨壺におさまった母を抱いたまま、姪とLINEを交換する。それとなく探ったが、姉が手を回したわけではないらしい。、家が一番近いのは自分だし、一番身軽なのも自分だから、という姪自身の親切心か。それはありがたいが……。


「何もないわよ、沙英さえちゃんの手をわずらわすようなことは。心配しないで」


 よくできた母親を持つ沙英の目に、叔母の私はどう映っているのだろう。離婚して出戻り、子無しのまま還暦をひかえ、親まで亡くした気の毒な人? あるいは、母親の妹だから一応案じるべきお荷物?


 いや、そんな冷たい子じゃない。でも、ところで、大した人生経験も生活力もない三十代の若者の世話になるほど、私も落ちぶれていないつもりだ。


 沙英がよほど裕福ならお小遣いぐらいくれてもいいし、パソコンやスマホにでも詳しいならあれこれ相談もできるが、実際は美容師。髪を切るのに、わざわざ姪っ子に頼むほど私も老害じゃない。


 遺品の片付いた実家は、妙に広かった。寂しいというより、だまされたような気分だ。母は旅行にでも出ているだけで、そのうち両手に一杯のお土産を持って帰ってくる。そんな気がしてならない。


 勤めにさえ出れば、職場は普段通りだ。が、家の中は違和だらけ。定年後は再雇用で働きながら、母の面倒を見るはずだった。母こそが、私の老後の予定だった。こんなに早くぽっくりってしまうなんて反則じゃないか。安らかに眠ってんじゃないわよ、と、苦情を込めてしつこくおりんを鳴らす。


 正直、頼れる相手より、何もなくても気付けばそこにいる誰かが欲しい。その「誰か」に、日頃ほぼ交流のない姉など含めようもないし、いわんや姉の娘をや。よっぽどうまい口実でもあれば話は別だが。



         *



 が起こるのは、いつだって突然だ。私が全身ずぶ濡れで沙英のマンションに駆け込んだのも、もちろん青天の霹靂へきれき。待ち構えていた沙英が、すかさずバスタオルを渡してくれた。


「さっすが! 用意がいい。ありがと」


 そつのない気配りに、姉の血を感じる。


 招かれざるは、南方の海上で密かに生まれ、じわじわと北上して、ついに日本列島を直撃した。その名も、台風二十号。


 昼間、沙英から〈そっち、レベル三、出てますよね? 大丈夫?〉とLINEをもらった時点では、まさかそんな大事になるとは思っていなかった。


 警戒レベル三とは、《高齢者等避難》のこと。私には関係ないとたかくくっていたら、夕方にはレベル四の《避難指示》が出た。慌ててホテルを探すも、軒並み満室。仕方ない、避難所に身を寄せようと荷造りしているところに、今度は通話の着信音。


「よかったら、うち来てください。警戒出てないし、ちょうどカレー作ってるとこだし」


 じゃあお言葉に甘えて、と答えるまでに数秒かかった。やはり姉の姿がちらつくせいか、はたまた、姪という関係性への遠慮か。




 失敗しなさそうなのがこれしかなくて、と沙英は謙遜けんそんしたが、なかなか上出来なビーフカレーだった。副菜は、私が持ってきた残り物のサラダ。カブとキュウリの梅じそ風味。


「あ、梅、平気だっけ?」


「うん、好き。兄貴が苦手」


「そっか、誰かダメだったよなあって」


「よく覚えてますね。わ、おいしい!」


「チューブの梅でえただけよ。お母さんならけるとこからやるでしょ」


「やってたけど……今はどうだろ。お父さんと二人だけだから手抜いてそう。この間ビデオ通話したとき、シンクにお皿たまってたし」


 そうなの? 食べ終えたら間髪かんぱつ入れずに洗う人だったのに。寄る年波ってやつは、あのカンペキな姉をも丸めるものなのか。


「今日、店閉めてよかったあ」


「あ、店長さんだもんね。大変ねえ」


 沙英が美容院の店長に昇格したことは、母の葬儀のときに聞いた。あれから一年。事態は次の局面を迎えていた。


 今は雇われの身だが、いずれ独立すべきか迷っている。子ども産むならそっちが先かなあ、とも。しかし、彼氏が煮え切らない。


 三十二歳。悩みは尽きない。それは同時に、選択肢がある証拠でもある。呑気に懐かしさなど覚えるのは、叔母と姪という関係が十分に他人だからだろうか。


 この世は嵐。捕まらぬタクシーを、風雨に打たれて探し回るのか。なけなしの金でわずかな時間を買い、カラオケやファミレスでせめて夜を明かすのか。のきを貸さぬ友に背を向け、思ってもみなかった相手に頭を下げるのか。


 誠心誠意迷え。すべてを叶える魔法はない。


 過去の選択に何ら悔いのない私でさえ、最近ふと考える。


 あのとき……。


 元夫の気まぐれにこたえて子作りに踏み切ったら、どうなっていたか。こちら側とはまったく違う人生だったろう、ということしかわからない。いつだって、あちらではない道を歩んだ結果が今なのだ。


 窓ガラスが暴風に鳴き、その向こうでは、空き缶か何か、固いものが転がる音がした。野良猫も小鳥たちも、物陰に身をひそめているだろう。明日には、それぞれのなぎが訪れる。




 鏡の中に二つ並んだ顔には、やはり血縁がうかがえた。商売道具を持ち帰っていた沙英は、という便利な一言で私を洗面所に座らせ、鮮やかに髪を裁き始めた。


 自信に満ちた手先が、それでいて繊細に、胡麻塩ごましおの猫っ毛を分けては留める。シャキンシャキン、と小気味よくはさみが歌い、すっかりせた毛束が小綺麗な洗面所を舞う。


 立派に手に職をつけて、頼もしいこと。お互い口には出さないが、私たちは高卒同士。姉から見れば一族の恥かもしれないけれど、私たちなりに仕事を持って自立している。そんな暗黙の親近感が、沙英の優しい指と、私のくたびれた髪の間に通う。


「結べる範囲で短く、かつ更年期過ぎの毛量ダウンをカバー」というわがままは、またたく間に叶えられた。


 極めつけは頭のマッサージ。華奢きゃしゃな割に力強い手が、絶妙にツボを押す。


「ああ、気持ちいい。極楽ねえ」


「痛かったら言ってくださいね」


 慣れない心地よさに、うっとりと身を任せる。ああっ、うーん、と思わず破廉恥はれんちな声を漏らし、沙英にケラケラ笑われた。


「ちょっと、変な声出さないで! よっ……酔っ払いじゃあるまいし」


「あ、今、欲求不満って言おうとしたでしょ」


「してないしてない」


「変な間があったもん」


「ないから。ほら、前向いてくださいお客様」


 こいつめ、とこぶしを固めてみせながらも、つい頬が緩んだ。


 かわいいなあ。若いなあ。姪だと思えば気も張るが、実は職場の若い人たちと同じ年頃じゃないか。


 姉の娘、という事実は不変だが、私の潜在意識にいびつな波紋を描いていたその肩書きは、今夜の嵐とともに海の彼方へ遠ざかりそうな予感がした。


 姉本人にも、特に恨みがあるわけじゃない。価値観が合わず、生活様式が違いすぎる。それだけのことに数十年の時が加わり、家族は他人になる。……いや、本当にそうだろうか。


 沙英の凜々りりしい横顔を眺めながら思う。他人になれないからこそ、そびえる壁があるのではないか。


 いっそ、もう一度出会い直したらどうだろう? 今夜の私たちみたいに。


 は明けたことだし、年賀状ぐらい出そうか。それとも、カットしたての髪の写真でも送るか。そうだ、どうせなら……。


「ね、写真撮らない?」


と、口にした声は上ずってしまったけれど、不自然な早口になってしまったけれど、「撮ろう、撮ろう」と手を叩いてはしゃぐ沙英の姿に、たちまち気分は晴れ渡った。


、ね」


 ちゃっかり沙英から盗んだ、春風のような言い訳。


 自撮りすべく構えられたスマホの画面では、老若二人の女が転げんばかりに笑っていた。





                 (了)


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一過 生津直 @nao-namaz

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