一過
生津直
一過
ようやく気が付いた。私、これから一人暮らしするんだ。しかも、生まれて初めて。
「何かあったら、いつでも連絡くださいね」
骨壺に
「何もないわよ、
よくできた母親を持つ沙英の目に、叔母の私はどう映っているのだろう。離婚して出戻り、子無しのまま還暦を
いや、そんな冷たい子じゃない。でも、何かあったところで、大した人生経験も生活力もない三十代の若者の世話になるほど、私も落ちぶれていないつもりだ。
沙英がよほど裕福ならお小遣いぐらいくれてもいいし、パソコンやスマホにでも詳しいならあれこれ相談もできるが、実際は美容師。髪を切るのに、わざわざ姪っ子に頼むほど私も老害じゃない。
遺品の片付いた実家は、妙に広かった。寂しいというより、
勤めにさえ出れば、職場は普段通りだ。が、家の中は違和だらけ。定年後は再雇用で働きながら、母の面倒を見るはずだった。母こそが、私の老後の予定だった。こんなに早くぽっくり
正直、何かあったら頼れる相手より、何もなくても気付けばそこにいる誰かが欲しい。その「誰か」に、日頃ほぼ交流のない姉など含めようもないし、いわんや姉の娘をや。よっぽどうまい口実でもあれば話は別だが。
*
何かが起こるのは、いつだって突然だ。私が全身ずぶ濡れで沙英のマンションに駆け込んだのも、もちろん青天の
「さっすが! 用意がいい。ありがと」
そつのない気配りに、姉の血を感じる。
招かれざる何かは、南方の海上で密かに生まれ、じわじわと北上して、ついに日本列島を直撃した。その名も、台風二十号。
昼間、沙英から〈そっち、レベル三、出てますよね? 大丈夫?〉とLINEをもらった時点では、まさかそんな大事になるとは思っていなかった。
警戒レベル三とは、《高齢者等避難》のこと。私には関係ないと
「よかったら、うち来てください。警戒出てないし、ちょうどカレー作ってるとこだし」
じゃあお言葉に甘えて、と答えるまでに数秒かかった。やはり姉の姿がちらつくせいか、はたまた、姪という関係性への遠慮か。
失敗しなさそうなのがこれしかなくて、と沙英は
「あ、梅、平気だっけ?」
「うん、好き。兄貴が苦手」
「そっか、誰かダメだったよなあって」
「よく覚えてますね。わ、おいしい!」
「チューブの梅で
「やってたけど……今はどうだろ。お父さんと二人だけだから手抜いてそう。この間ビデオ通話したとき、シンクにお皿たまってたし」
そうなの? 食べ終えたら
「今日、店閉めてよかったあ」
「あ、店長さんだもんね。大変ねえ」
沙英が美容院の店長に昇格したことは、母の葬儀のときに聞いた。あれから一年。事態は次の局面を迎えていた。
今は雇われの身だが、いずれ独立すべきか迷っている。子ども産むならそっちが先かなあ、とも。しかし、彼氏が煮え切らない。
三十二歳。悩みは尽きない。それは同時に、選択肢がある証拠でもある。呑気に懐かしさなど覚えるのは、叔母と姪という関係が十分に他人だからだろうか。
この世は嵐。捕まらぬタクシーを、風雨に打たれて探し回るのか。なけなしの金でわずかな時間を買い、カラオケやファミレスでせめて夜を明かすのか。
誠心誠意迷え。すべてを叶える魔法はない。
過去の選択に何ら悔いのない私でさえ、最近ふと考える。
あのとき……。
元夫の気まぐれに
窓ガラスが暴風に鳴き、その向こうでは、空き缶か何か、固いものが転がる音がした。野良猫も小鳥たちも、物陰に身を
鏡の中に二つ並んだ顔には、やはり血縁が
自信に満ちた手先が、それでいて繊細に、
立派に手に職をつけて、頼もしいこと。お互い口には出さないが、私たちは高卒同士。姉から見れば一族の恥かもしれないけれど、私たちなりに仕事を持って自立している。そんな暗黙の親近感が、沙英の優しい指と、私のくたびれた髪の間に通う。
「結べる範囲で短く、かつ更年期過ぎの毛量ダウンをカバー」というわがままは、
極めつけは頭のマッサージ。
「ああ、気持ちいい。極楽ねえ」
「痛かったら言ってくださいね」
慣れない心地よさに、うっとりと身を任せる。ああっ、うーん、と思わず
「ちょっと、変な声出さないで! よっ……酔っ払いじゃあるまいし」
「あ、今、欲求不満って言おうとしたでしょ」
「してないしてない」
「変な間があったもん」
「ないから。ほら、前向いてくださいお客様」
こいつめ、と
かわいいなあ。若いなあ。姪だと思えば気も張るが、実は職場の若い人たちと同じ年頃じゃないか。
姉の娘、という事実は不変だが、私の潜在意識に
姉本人にも、特に恨みがあるわけじゃない。価値観が合わず、生活様式が違いすぎる。それだけのことに数十年の時が加わり、家族は他人になる。……いや、本当にそうだろうか。
沙英の
いっそ、もう一度出会い直したらどうだろう? 今夜の私たちみたいに。
「ね、写真撮らない?」
と、口にした声は上ずってしまったけれど、不自然な早口になってしまったけれど、「撮ろう、撮ろう」と手を叩いてはしゃぐ沙英の姿に、たちまち気分は晴れ渡った。
「せっかくだから、ね」
ちゃっかり沙英から盗んだ、春風のような言い訳。
自撮りすべく構えられたスマホの画面では、老若二人の女が転げんばかりに笑っていた。
(了)
一過 生津直 @nao-namaz
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます