黒いすずらん 後篇


 終戦の直前に日本の敵となって満州に下ってきたソ連軍には囚人兵が多かった。白旗を掲げている開拓団を面白半分に戦車で引き倒しては斬殺してまわり、逃げきれぬとみた開拓団の多くは追い詰められると集団で自決した。ソ連軍からは逃げおおせても、軍隊に男手を取られて老人と女子供だけになっていた避難民には満人からの報復の暴力と略奪が何度も襲い掛かった。そこに飢餓と病と極寒が加わった。満州で命を落とした日本人の数は、東京大空襲、広島長崎、沖縄戦の各犠牲者よりも多い。

 芙美たちあいだでは時折、街で別れたきりの友人たちのことが話に出た。無事に家族と日本に着いていたらいいな。わたしたちのことを想い出して誰かに帰国させるように頼んでくれているといいな。そんな宛てのない期待を口にしたりした。

「ニシオカ。西岡芙美はいるか」

 予感があった。

 呼び出された芙美は父親の死を告げられた。別の収容所に抑留されていた父親は衰弱していくなかで娘が陸軍の看護婦になっていると看護婦に告げ、「芙美は何処にいるのか。無事なのか。それだけを知りたい」何度かうわごとのように口にして、床を這いずって探しに行こうとし、やがて心労に折れるようにして半年以上前に病没していた。

「お気の毒です」

 芙美の父親はシベリアの冬を越えることが出来なかった。

 礼を云って室を出た。医療関係者はあちこちに転属を命じられている。人から人へと伝えられてきた伝言が芙美の許に届いたのは奇跡のようなものだった。

 通路を歩き、曲がり角を曲がり、やがて床が浮き上がってくるような気がした。眩暈を休めるために手近な窓に芙美は半身を寄せた。

 冷たい風が窓の隙間から吹いていた。

 わたしは自由だ。

 



 耳を近づけると、誰もが同じことを云っていた。

 おかあさん。

 死んでいく若い兵士はみんな母を呼ぶ。抱き上げてくれる母を彼らは求めた。歳が少し上になるとそれが恋人の名に変わり、家庭を持った男になると妻や子どもの名となった。

 看護婦の速水と山口がまず手本をみせた。

 連れて行けない傷病兵に毒薬を注射して回った。衛生兵ではなく芙美たちがそれをした。軍医の命令だった。

 惨たらしく敵に殺されるよりは、娘や妹のような君たちの手で殺してあげなさい。

 今から日本に帰ります。これで元気になります。

 眼が潤んでいては手許が狂う。芙美たちは唇を引き結んで注射を続けた。



 逃亡が失敗して処刑され、日蔭に放置されたままの少年たちの遺体は半解凍になったかとおもえば夜の寒さにまた凍り、腐りながら徐々に縮まってきていた。うつ伏せにされていたが、足で蹴られて表に返されている日もあった。

 芙美はその横を通り抜けた。門衛のソ連兵はいつものように看護婦見習いの少女には無警戒で、芙美は簡単に営門を通過できた。

 町に逃げ込んでも探し出されて見つかるに決まっていた。遠くに逃げても舟がなければ渡河できず、いずれ凍死するに決まっていた。青酸カリを飲んで悶え苦しみながら死ぬよりはこっちの方がずっといい。

 日本というのは父母やきょうだいがいる国のことだ。

 労働作業から昼食に戻ってくる敗残日本兵の隊列とすれ違った。石材を運んでいたのか彼らの身体からは白墨のような匂いがした。監視役の歩哨が芙美に挨拶の声をかけた。プリヴェッ(やあ)。芙美はそれを無視した。

 すれ違った少女の様子に不審を抱いた兵士が立ち止まった。行き過ぎようとしたが、やはりもう一度芙美の背中に声をかけてきた。外出許可証はあるのか。芙美は歩いていく。「とまれ」兵士は肩にかけた自動小銃を手に持ち替えた。

「とまれ。待て」

「逃げろ」

 縦列に並んでいた元日本兵がわざと大きく列を乱して芙美の姿を隠した。何が起こっているのか彼らは分からなかったが、銃を構えた兵士と芙美の姿を見てそうした。

「とまれ」

「逃げろ」

 日本に帰りたいよう。

 日本に帰るんだ。

 収容者の逃亡を告げる笛が鳴った。監視役の歩哨が応援を呼んだ。門に詰めている兵士が日本人を押しのけながら芙美を追ってきた。それを合図に、芙美は走りだした。

 釣りをした河がこの先にある。きれいな水の流れる青い河。木橋の向こうには芍薬や野薔薇の咲き乱れる森がある。少年たちが逃げ込んだ蒼い森だ。森には花が咲いている。短い夏。極楽浄土のようにそこは彩られている。

 芙美は北国の太陽に向かって走った。太陽のするどい光が瞼を灼いた。背後でソ連兵が口々に喚いている。威嚇の一発がそばを過ぎる。運動会では一等か二等には入った。だから逃げ切れる。ううん、逃げ切れなくてもいい。

 橋を渡って芙美は駈けた。夢の中のようだった。走るのが大事。両腕を広げて飛び立つのが大事。

 仰いだ空には耀く雲を射して放射状の光が青く広がっていた。透明な孔雀のようだ。

 兵士たちは芙美を撃つことを躊躇っていた。銃弾は芙美を外して飛んできた。太陽の門の向こうを目指して芙美は走った。弾が風が切る。逃げるのが大事、最期まで生きようとすることが。

 生きるために塀をこえて遠くに逃げることが大事。

 たとえ撃たれても走るんだ。足が動くあいだはまだもう少し。逃げ続ければその先にはわたしの家族が笑って待っているはずだ。お父さんとお母さんもそこにいる。

 さあ撃って。

 背中が孔だらけになったわたしの死体からわたしは飛び出すだろう。春になればわたしの骨の隙間から花が咲く。

 森の中で大きな獣がすごい速さで芙美に並んできた。

「フミ」

 釣りに連れて行ってくれた若い兵士のニコライだった。ニコライは芙美を掴んだ。

「フミ」

 背後では女の叫び声がしていた。悲鳴を上げているように聴こえた。山口看護婦の声だ。いつも沈着冷静で陰気な女にみえていた山口だったが、今はソ連兵の前に立ちふさがり両腕を広げてかん高い声を上げていた。

 撃ってみろ、スイスの本部に伝わりますよ。そうなったら国際問題です!

 ニコライに抱え上げられて向きを変えられた。森の入り口が見えた。その芙美の片腕を反対側から女の手がとった。

「歩いて」

 速水だった。走ってきた速水は苦し気に息を切らしていたが、芙美の腕を強く掴んで離さなかった。芙美は二人に引きずられるようにして来た道を戻って行った。

「ゆっくりでいいわ。大丈夫よ。わたしに任せて」

 軍用犬が狼のように走ってきた。ニコライが怒鳴りつけて犬を追い払う。ニコライと速水は芙美の身体をほとんど持ち上げるようにして運んでいた。

「あなたは何も云わないで。いいわね」

 自動小銃を構えた兵士たちが見えてきた。その前面に山口が立ち、大声でまだ何か云っている。看護婦を殺したら処罰されるのはあなた方ですよ。

 山口さんはああ云うが、わたしは赤十字の看護婦ではない。

 向けられた銃口は芙美に狙いを定めていた。ニコライが芙美を後ろに隠すようにした。

 赤十字の看護婦ならば国際協定でその身の安全を保証されるが、わたしはそうではない。逃亡者は処刑される。兵士はわたしを射殺するだろう。

「みんなで日本に帰るのよ」

 速水が芙美に何か云っていた。

 帰る。日本に帰っても故郷には何も残っていない。父も死んだ。全てが吹き飛んだ。

「誰かひとりでも取り零れたら、わたしは日本には帰れないわ」

 神風が吹くはずだった。上空でくるくると敵機は渦巻きに巻き取られて、海に叩き落とされるはずだった。日本は神の国なのだ。アジアの人を苦しめる鬼畜米英など一等国の皇軍が出て行って退治してやるはずだった。

 前を見つめながら速水は芙美に語りかけていた。

「一人でも失ったらわたしは自分が許せない。山口看護婦も同じ気持ちよ。雑誌を見たわ。山口の出身地はあなたと同じ」

 その意味が分かると芙美は眼をつぶった。

 速水は銃口の並んでいる前方を向いたまま歩みを止めなかった。わたしたちは仲間の日赤看護婦を失った。ソ連兵に攫われたの。

 日赤の看護婦たちの結束は固く、縦にも横にもその絆は肉親の血よりも濃いと云われていた。

「天幕の中で固まって夜を明かしていた。隙間から腕が伸びてきてアッという間だった。取り戻そうとして外に走り出たところで軍医どのが飛び出して来てわたしたちを押し止めた。お前たちまで連れ去られたら患者はどうなるのか。軍医どのは怒鳴ったわ。お前たちは患者を見棄てるのか。職務を忘れるのか。わたしたちは悲鳴を上げていた。それでも追いかけて行こうとした看護婦を彼は殴って止めた。わたしたちを護るために軍医どのはそうしたの」

 助けて。助けて。

 トラックで連れ去られていく仲間の叫び声は闇に消えた。

「いつも想うわ。それでも追いかけるべきだったのではないか。手が届けば、声が届けば、なんとしてでも彼女を取り返すことが出来たのではないか」

 命を救うはずの看護婦が仲間の命を犠牲にして生きながらえた。

「彼女は見つかった。惨たらしい死体だった。わたしはそれを見たわ。声のきれいな人だった。誰もが胸に埋まらない空洞を抱えているの。もうこれ以上は失いたくないの」

 芙美は速水の手からロシア兵に引き渡された。フミ、大丈夫だからね。ニコライが芙美の耳に囁いた。



 気が狂ったふりをしろと速水に云われたとおり、精一杯、芙美はきちがいの真似をした。病院では毎日のように狂った兵士を間近に見ていたので難しくはなかった。狂った者は笑うのだ。

 一秒遅れても、落ち度がなくともあら探しをされては鉄拳が飛んでくる軍隊生活は人間の脳を壊してしまう。「名誉の戦死」として銃殺されていきながら、異常な緊張感のなかで狂ってしまった兵士たちはみんな笑いながら墓穴に落ちていった。えへへ、えへへ。

「幇間のようね。あの薄笑いは媚をうっているようにも見えるわ」

 患者たちの姿は確かにそう見えることもあった。

 えへえへ、てまえどもは無能で無力な阿呆でございます。どうかご勘弁ご容赦を。えへえへへ。

 おかしな人間を演じているうちに本当に調子が悪くなり、芙美は心が塞いで落ち込んでいった。食事も喉を摂らなくなり、独房の壁際で膝を抱えて座っていた。その様子をみてようやくロシア側は心の病を信じてくれた。

「計画的な逃亡など企てるわけがありません」

 ロシア人の医者も収容所所長に抗議してくれた。

「あんな子どもが戦禍を過ぎて来たのです。家族と引き離されてシベリアに連れて来られたのです。平常心でいられると想いますか」

 宿舎に戻る許可が出た。

「芙美ちゃん、よかったね」

 菊水隊の少女たちに手を引かれて芙美は独房から外に出てきた。久しぶりの収容所の広場はがらんとして見えた。弱い日差しが一面にあたっており、芙美が卒業した小学校の校庭のようにみえた。

 日本は桜 満州は蘭よ 支那は牡丹の 花の国

 満州でも声を合わせて唄った。あの唄が芙美は好きだった。


 花の中から 朝日は昇る 亜細亜良い処 楽しい処


 花の中から朝日が昇る。それはなんと美しい眺めだろう。

 少女たちが収容所の裏手にある林を芙美に指し示した。

「芙美ちゃんが云ってくれたから、男の子たちをあそこに埋葬できたのよ」

 取り調べのあいだ、芙美は射殺された少年の遺体を眼にしているのが辛かったと訴えた。彼らの遺体を見ているうちにわたしもあのように殺されるのだと想いました。毎日そのことを考えているうちに逃げなくてはいけないと想いました。わたしもいずれ殺されて彼らと同じように遺体が晒されたままになるのだと想いました。逃げたら殺されることは分かっていました。次第に今にも殺されるような気持ちになっていきました。最後にひとめ、すずらんの花が見たかったのです。

「すずらん?」

 すずらんは暮らしていた街の想い出の花です。野原や公園に咲くのです。街で暮らしていた頃は楽しかった。屋台の肉饅頭やあんずの砂糖漬けがおやつでした。すずらんは音がするのです。リンリンリン。おもちゃの橇の鈴のように耳もとで鳴ります。その音を聴きたくなったのです。どうしても。だから森に行ったのです。

 聴取を終えて独房に戻される前には、同じことを毎回訊かれた。

 七三一部隊が何をしていたか知っていることを答えろ。



 立錐の余地もないほど満載された船だった。日本の島影が見えてくると夫や子どもの遺品を抱いたまま船の手すりを乗り越えて海に入水する女たちが出た。

 速水と山口の二人とは帰国した港で別れた。彼女たちはこれから引揚者の為にGHQが管理する検疫所ではたらくのだ。

 日本に戻った芙美は他県の親戚の家に引き取られて、三年後そこから嫁に行った。子どもに恵まれて、孫ができ、さらにひ孫もできた。

 芙美は自宅の庭にたくさんの花を植えた。満州の想い出がある花が多かった。すずらんも植えた。

 すずらんは毎年、春になると庭の片隅で花を咲かせた。白いはずなのに芙美の眼にはすずらんは黒かった。なぜ黒いのかは分からない。白だと眼が認識しているのに脳がそれを拒む感じだった。

 リンリンリン。

 すずらんが鳴る。収容所の塀の向こうに黒いすずらんが咲いている。厭な黒ではない。静かな喪の色だ。誰も彼らの墓を知らない。青みを帯びた大自然とその地中に埋められた少年たち。世界が終わるまで少年たちはそこで凍りついている。望郷の念を抱きながらシベリアで死んだ六万人以上の兵士たち。その上に喪の色の花が咲く。

 夕方が終わらない。また白夜の時期がきた。

 芙美ちゃん。

 フミ。

 凍土の国に芙美は確かにいた。幻のように。少女時代の最後が染まるほどに。あまりにも懐かしい日々で、読み終えた本のように名残り惜しく寂しく遠い。哀しみが大きくて、夜がいつまでも終わらない。一面に小さな花が揺れている。

 芙美の棺にはすずらんが入れられた。

 看護婦たちを乗せたトラックをその先も抑留の続く旧日本兵たちは見送った。収容所からいつまでも手を振っていた。森で摘んできた花束をニコライは別れる芙美にくれた。倖せになるんだよ。

 小さな子、人形のようにかわいい。

 そこにあった幾つかの優しさが音色になって耳にまだ残る。

 沈まぬ太陽と檸檬色のふしぎな空。轟音とともに氷が割れていく大河の雪解け。人々の消えた野原に蝶が舞う。

 誰もわたしたちのことを知らない。その音がいつまでも夜に鳴る。



[了]

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黒いすずらん 朝吹 @asabuki

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